2話 「邂逅」
啖呵を切って飛び出してきたのはいいものの、なんせ数年ぶりの外だ。行くあてはない。
雨は無情に降り続ける。思えば病室で履いていたスリッパのままここまで走ってきたので、足下が泥まみれになってしまっていることに気付いた。これだけ雨の日に土の上を走ったのだからやむを得ないことだが、少々不快感がある。
これからどうしよう、と溜め息を漏らす。誰かの家に泊めてもらうわけにもいかないし、かといってこの大雨の中で野宿するというのは風邪を引こうとしているも同然。
そういえば……あの日もこんな激しい雨の日だったなぁ、と十年前のことを思い出す。あの事件は、今考えても本当に謎に満ちていた。
水晶玉のネックレスを探して溺れたはずだったのに、母は私を湖畔で発見したと言った。丁寧に横たえられていたのだと。だがそれはおかしいのだ。生還することを半ば諦めていたあの時の私が、自力で湖から出てこれたはずがない。
溺れているのを発見した誰かが助けてくれた?……ということもあり得るかもしれないが、あの夜遅い時間だ。あんな暗い時間に人がいるだろうか……。昼間でも人通りのない場所だったというのに。
そんなことを脳内で考えているうちに、真相を知りたくて仕方なくなってきた。あの場所へもう一度行けば何か少しでもヒントがあるかもしれない……。根拠はないが、そんな気がしてくる。
そして導かれるように、あの湖へと向かった。
やがて辿り着いた湖畔は人の気配が全くなく、雨音以外の音は何も聞こえない。私は恐る恐る辺りを見回す。もしかしたら水晶玉のネックレスが落ちていたりするかもしれない、と思ったからだ。しかし、特別な物は何も見当たらない。
やっぱり私がおかしいだけなのかな……、とそう思った時、私は驚くべきものを見た。湖のほとりの二メートル近くありそうな大岩の上に、一人の青年が座っていたのだ。こんな遅い時間、しかも雨の中。これは明らかに不自然。ちょっとした好奇心から、近付いてみることにした。ゆっくりと歩み寄っていくが彼が私に気付く様子はない。
私の足が彼の背後二メートル程に迫った時、青年は突如言葉を発した。
「また喧嘩でもしたのかい」
初対面とは思えない、ずっと昔から私を知っているような言い方。
「貴方は……もしかして私を知っているの?」
「さぁね、そんなのはどうでもいいことだよ。今は関係ない」
青年は振り返った。片側の口角を微かに上げる。
彼の容姿を目にした瞬間、私は思わず唾を飲み込む。あまりに現実離れした神がかり的な美しさだったから。短く表すとすれば「この世の人間ではない」という感じだ。
男性にしてはやや長めと思われる顎くらいまでの丈の金髪は雨に濡れているはずなのにふんわりと柔らかさを保っている。色白で丸みを帯びた顔だが、青緑色をした瞳は凛々しく吸い込まれそう。
服装もまた独特。膝くらいまで丈がある詰め襟の中華風な衣装をまとっている。金の糸や飾りで華やかに装飾されており全身が金色に見えるぐらいの密度である。それでいて豪奢さを感じさせず、落ち着いた雰囲気なのが不思議だ。
「それより、どうしてここに来たんだい」
私は、伯母の本心を聞いてしまって腹が立ち勢いでついつい飛び出てきてしまったことを話した。
「ふぅん、そうなんだ」
彼はどうでも良さそうに続ける。
「あと一年で死ぬんだったら、伯母さんが楽になるっていうのも本当のことなんじゃない」
「そんな!酷いわ。あと一年しか生きられないのよ。少しくらい同情してくれても……」
私がショックで思わずきつく言ってしまうと、彼は鋭い視線をこちらへ向けた。
「同情したら君の寿命が伸びるの?」
もっともなことだ。
「いいえ……。でも少しくらい可哀想って思ってほしかったのよ。余命一年なんて……」
「何それ、変なの。人間なんてみんないつか死ぬじゃん」
目の前の彼は飄々とした顔できっぱりと言いきる。
「僕は永遠に死ねない。だから死ねるのを羨ましく思うよ。ずっと生き続けるなんて、退屈で死にそうなんだ」
永遠に死ねないなど、普通の人が言うなら信じられなかっただろう。くだらない冗談だと呆れたはずだ。だがこの不思議な彼が言うものだから、真実のように思える。
「不死ってことね。いいじゃない。羨ましいわ」
「そんないいものじゃないよ。つまらない毎日さ」
本当につまらなさそうな顔をしている。
「贅沢ね。私は生きたくても生きられないのに」
「うん、知ってる」
「……ねぇ。貴方の命、私に分けてくれない?」
「はぁ?」
呆れと驚きが混ざったような表情をする。綺麗な顔立ちなのにどこか可愛らしく見える。
「人間じゃないなら、そういうことも可能なんじゃない?」
「僕が人間じゃないって、どうしてそう思うんだい」
彼の姿を見詰めていると、雨に濡れていることすら忘れてしまう程に引き込まれる。
「人間はいつか死ぬ。貴方がさっきそう言ってたじゃない」
「ふぅん。そう」
少し間があってから。
「まぁ不可能ではないね。僕、何でも出来るから」
彼は私の瞳を射るように見据え、また口角を微かに上げる。
「出来るのね。なら、お願い。十年分ちょうだい」
「いや、無理」
「じゃあ一年でいいわ!お願いします!」
「絶対ヤダ」
きっぱりと断られた。私は期待していただけに肩を落とす。
「……そんな顔しないでよ。話くらいは聞いてもいい。僕の時間は無限だからさ。雨の日なら僕は必ずここにいるから」
「晴れの日はいないの?」
「さぁね。気が向いた時にはいるんじゃないかな」
ちょうどその時。
「アイネちゃんっ……!」
後ろから人が走ってくる音と伯母が私を呼ぶ声が聞こえてきた。
「それじゃ、またね」
金色の青年は小さく手を振りそう言う。
「待って。貴方の名前……」
言いかけた瞬間、彼の身体は金粉のようになり消えた。
「アイネちゃん!びしょ濡れじゃないの!」
伯母が駆け寄ってきて、持っている傘に私を入れる。
「こんな雨の中、傘もなしに……。可哀想に。アイネちゃん、あれは誤解なの。私、あんなこと思っていなかったわ。貴女は大切な姉の子だもの」
必死に弁解しようとするのが滑稽だ。
「……ふ、ふふ……」
なぜか笑いが込み上げる。
「アイネちゃん?大丈夫?私と一緒に帰りましょう。お医者様も心配されてると思うわ」
なんてバカバカしいの。この女は。
「一人で帰ります。伯母さんが変な目で見られると……お気の毒ですから」
「ごめんなさい。でも言ったはずよ。あれは誤解なの」
話を聞く価値もない。偽りの言葉をいくら聞いても、ただ時間の無駄遣い。
だから私は何も答えることなく、病院へ帰るのだった。