SCENE 4――悪運(ハードラック)――
――18分経過。
銀色の防火服が、ぜいぜいと肩で息をしていた。
――何なんだ……こいつは……?――
消防官として、あらゆる悲惨な火災現場・悲惨な焼死体を見てきた眼。それにすら、この光景は異様に映った。
石床の先、数mに直立する、巨漢の男――丸々太った身体は、しかし肥満体というわけではなく、例えば日本の力士の様に引き締まっている。長髪の隙間から覗く瞳は、薄い青。一見して、ロシア系と分かる風貌だ。
その顔がゆっくりと歪み、嗤う――赤黒い血で、べったり染まった顔が。
「どうした……」不気味な掠れ声。思わず悪寒が走った。
上半身は裸。黒いカーゴパンツのみを纏った姿は、凶暴な悪役レスラーを思わせる。
その身体の至る所に、鮮血を流す裂傷が刻まれていた。
――何の為に……こんな――
理解不能。防火服――ジョン・ドレイクは混乱していた。
――こいつはわざわざ、自分から切り刻まれている。
彼の振るう消防斧――これでどれだけの手柄を立てたか――そのぶ厚い刃は、もう幾度となく男の身体に叩きつけられ、その血に濡れ光っていた。
延々10分以上。男は阿呆の様に、ただ漫然と凶刃を受け続け――。
挙句に今、嗤っている。
――理解不能。
ドレイクの背筋を、冷たいものが流れた。
――19分経過。
「もっと来いよ……」
巨漢の男――トレスト・ミハエルコフは、全身の痛みを感じながら、なおも相手を挑発する。
――まだだ……――
“能力”を、識る為には。
――まだ、足りねえ――
“死”を感じる程でなければ――俺の能力は発動しない。
今まで、ずっとそうだった――ガキの頃から。絶望的な状況を、あり得ない偶然が何度もひっくり返した。
あれは三度目の強盗だったか――いや。癇に障るあの銀行員の首をへし折ってやったのは、四度目の時だ。その直後に、なだれ込んだ特殊部隊に包囲された。
360°銃口――壮観。さすがに、観念した瞬間。
世界がカクテルシェイカーの様に、突然振動した。ひび割れ、崩れる建造物。
次々と、俺を害する奴らは瓦礫に潰されていった。
強烈な直下型地震――俺を銃殺刑から救ったのは、あり得ない偶然。
――いつだってそうだ――
どんなくだらない邪魔が入ろうが。
――結局は、俺の思い通りになる――
嗤いながら、男は一歩足を踏み出した。
――20分経過。
――“神に愛された魔物”
――“brute(人でなしの)トレスト”
気押され、蒼白な顔で後ずさりながら――ドレイクは、目の前の男に冠せられた数々の異名を思い出す。
娑婆でのこいつは、結構な有名人だった――センセーショナルな凶悪犯として。
五度に亘る強盗殺人。その全てにおいて、被害者達を安物の玩具の様に解体した男。
建物ごと、人間を焼く事を何とも思わなかった俺ですら、戦慄を感じた男。
――それが今、ゆっくりとこちらに向かって来る。
嗤いながら。
混乱の累乗――恐慌。名状し難い恐怖が、その身体を駆け巡った。
――殺らなければ――
奥の方で、命が警鐘を鳴らす。臆した身体を、本能が突き動かす。
――殺られる……!――
強張った腕を――無手の方を――意志の力で無理矢理持ち上げ――。
その指を、弾いた。
――ゴォウ!
唸りを上げて、指先から出現する炎――それは彼の腕に纏わりつき、まるで小動物の様にその身をくねらせる。
その煌きが、一瞬にして麻薬の様な陶酔と安堵をもたらした。
――美しい――
炎を目にする時――彼は、女を見る時と同じ表情になる。
能力:<FLAMEY>――連続放火魔、ジョン・ドレイクの歪んだ心。それは<GIGA>において、全てを焼き尽くす火炎として具現化する。
――俺の……力――
眼球だけ動かし、それを見つめる。それだけで、尽きかけた自信と戦闘意欲が再び湧き上がった。
近付いてくるトレスト――ドレイクの行動を、さも可笑しそうに眺めている。
「愛撫してやるぜ――」
炎の腕が、動いた。
――21分経過。
トレストの視界を、紅い光が覆った。
全身を襲う、別種の痛み。焦げた臭い――血が皮膚の上で一瞬にローストされ、固まるのが分かる。
やがてそれは、薄皮と共に炭化し、周囲の床に散っていった。
筋肉が侵食されていく――凄まじい熱量。断末魔の感触。
だが彼は――歓喜を感じていた。
――これだ……この感覚――
“絶望”の淵で、今まさに、崩れ堕ちるかの様な危うさ――これこそ、彼の望んでいたもの。
――ドクン。
呼応する様に、闘技場全体の空気が変異していく。
――さあ――
重く、湿っていく様な――ドレイクが訝しげに、虚空を見回した。
――……来い!――
咆哮――炎に包まれた男が、天を仰ぐ。
その瞬間――。
「――!!」
――閃光が、全てを押し潰した。