ふたつめの試練
泣くような、懇願するような声に起こされた。曰く、血がどうのと。女であるのだから、生理が来るのは当たり前である。そんなことを譫言のように言った気がした。
寝ぼけ眼で声の主を見ると、今にも泣き出しそうに眉根を寄せた彼の姿があった。 どうしたのだろうと思って、よくよく観察してみると、彼のパジャマの股の所が赤茶けた染みになっている。
これを見越して、何着かパジャマを買って置いた。いつかくるだろうとは思っていたけれど、予想よりはるかに早かった。
ただそれは目をそらせない事実なのである。
彼の女としての体は、身長は低いながらも成熟したそれで、黒猫に確認を取ったところ、しっかりと二次性徴を迎えた後の姿と言うことだ。
それは早い人もいれば遅い人もいるくらいのもの、彼の姿を見る限り、あの姿では既に初潮は迎えた後であろう事は容易に想像がつく。
慌てる彼を宥めて、色々と必要な物を用意してあげて。
どうせ、連休前と言うことで休ませることにした。
心配ではあるけれど、私も一緒に休むことで彼に余計な迷惑はかけたくなかった。落ち着かせるために、おめでとう、なんて言ってみたけれど、彼がどんどん女の子になっていく姿は余り考えたくない。できる事なら男の子として、心を癒やして欲しいと思う。
私のその思いが打ち砕かれたのは六月に入って少しした日の事だった。
協定が破られた。正確には効力を徐々に失っていた。
注目されたくないという彼の意思を尊重して、暫く刺激のあることはやめてくれと触れ回っていたのにもかかわらず、手紙が下駄箱に入っていた。
冷や汗が背中を伝う。平静を装って、それがなんなのか教えてあげた。
きっと、放課後、誰もいなくなったことを確認した上で、朝、私と彼が一緒に登校してくることを見越して入れられた物。半ば確信的な行為に、辟易とする。
用意周到というか、ねちっこいというか。
私が、彼宛にくるラブレターの類いを全て処分している事は彼以外にはバレていた。それは別にいい。隠す気はなかったし。
いつしか、放課後の抜け駆け行為はタブーというのが暗黙の了解になっており、学内生活中に私の目をかいくぐって手紙を渡す行為をするという遊びまで出来てたほどだ。流石にそれは看過出来なかったから、発案者をとっちめたけれど。
貰ったラブレターを不思議そうに眺めた彼の姿が印象的だった。
好意を寄せられたことがあまりないのだろう、きょとんとして、みんなに相談している様は見ていて、心が痛かった。その行為がどれだけの人を傷つける事なのか理解していない姿だったから。
案の定、その日は荒れた。
友人Aが露骨なまでに嫉妬していた。みっともないのだけれども、その気持ちはよくわかる。気付いてはいたけれど、友人Aが彼のことを女として好きというのが決定的だった。知らぬは本人のみ。そのまま知らないままでいて欲しかったけれど、無理な話だった。
そのラブレターは悪意に満ちた物だったと、聞かされたときは差出人を殺そうかと思った。でもその気持ちは一瞬で冷めて、私の心は酷く傷つくことになった。
先に帰った私。そして事を済ませて帰ってきたのは友人Aに背負われた彼の姿だった。弱々しく、決定的に違ったのはその瞳に映る色。
不安に揺れながらも、恋をした色だった。
更に言えば、彼が友人Aの服の裾を掴み、帰って欲しく無さそうな態度を取ったことだ。
私だって、彼のことを守ってあげられるのに、彼は私に頼らず、友人Aに頼った。嫉妬の炎に胸を焦がされそうになるのを、押しとどめて彼のために、友人Aの滞在を許可した。
その日、初めて私は、彼が甘く啼く声を聞いた。
そして、多分、私のこの想いは実らないのだろうと言う事感じ取った。
不安と嫉妬に押しつぶされそうになりながらも、何とか表面上の体裁は取り繕って生活を続ける内に、夏休みが近づいてきた。
みんなで遊びに行く。それ自体はいいのだけれど、なんでプール。暑いからっていうのも分かるんだけれど。
彼の素肌を衆人に見せるのは嫌だった。
綺麗だから。それに絶対言い寄られるのは分かっていたから。
もう、彼は一生私の物にしておきたくて、抜け駆けをした。
夜、いつものように二人でいるときに。
女の子になって三ヶ月だというのに、見られるための意識をし始めた彼。
どこか遠くに感じるその姿。とてもじゃないけれど見ていたくない。
女の子に順応せずに、ずっと戸惑っていて欲しかった。
叶わぬ望みだと分かっていても、ネイルが綺麗に塗れたと嬉しそうに見せてくる姿が辛い。
心のどこかで、私は感じている。
彼はもう、女の子なんだ。男の子の彼はきっともう死んでしまった。
あの日、私が巻き込んだ日に。巻き込んで女の子にしてしまった日に。
男のまま過ごせばいずれにしろ、儚くも散っていた命。
それが今生きて、心も体も無茶をせずに動いていることが、奇跡なのだ。
頭で分かっていても、心が女の子になっていく彼を見たくないと、拒絶をする。
だから、私は彼が男の子に戻って欲しいと願って、勇気を出した。
気を利かせてくれて、お茶にお菓子にと用意してくれる彼が、どうしようもなく愛おしくて、愛おしさが募れば募るほどに、去来するやるせなさが積み重なっていく。酷く、心を重くしていくそれは、彼の笑顔を見る度、強くより重くなっていく。
それでも、彼に心配をかけないために、気丈に振る舞っている。
自分で撒いた種。味方は誰もいない。
唯一の味方は、最大の敵で。私には倒せない絶対的な存在。
彼の顔を見たくなくて、子供扱いをするように、私の足の間に彼を座らせて、彼の体の温もりを体全体で感じながら、泣いた。
小さな背中が、細い腕が、ささやかに膨らんだ胸が、括れた腰が、丸みを帯びた尻が、私の体にダイレクトに伝えてくる今の彼の存在が、どうしようもなく女の子で、それがとても辛くて、自然と涙が出てしまった。
吐露する胸の内。
榊燈佳という人物が好き。
榊燈佳という人物が、例え男であろうと女であろうと、私は好きだろう。
それは、好意のベクトルが私の方へと向いていてくれたらとても嬉しい。
燈佳が好きで、好きで、好きで。幸せになって欲しくて、燈佳が屈託なく笑っている姿好きで、苦笑しながら私に手を差し伸べてくれている姿が好きで、困ったように眉根を寄せてどうしようって言う姿が好きで、無理に笑みを浮かべようとして少し歪んだ笑い顔を作る姿が好きで。
でも、私以外の人を恋する瞳で見つめる姿がどうしようもなく嫌いで。
好きな人に嫌いな部分がいつの間にかできていた、自分自身にとても腹が立つ。
彼が好き。彼に好きだと何度も言う。
彼と体を重ねたい。例え、それが女の子同士の生産性のないものに成り下がっていたとしても、夜、同じベッドの中で、甘く啼く彼の声をこの耳で直に聞きたい。
汗ばむ体を舐め、よがる彼を見たい。
でも、彼は私の方を向いて無くて。
だから、私は抜け駆けをした。
悩みを聞いて貰って、彼の唇を奪った。
薄く柔らかい、少しだけ化粧水の苦みがする彼の唇を奪った。
そして、甘い痺れの虜になっている彼を揶揄う。
好きな人に触って貰う事を想像するだけで、天にも昇るような気持ちになるあの痺れ。
そのことを教えてあげたくて、苛めてみたくて。
彼が頬を真っ赤に染めて、口をつぐむ姿がいじらしくて。
本当に押し倒したくなる。
そして、どさくさに紛れて、彼が私の頬に口付けをしてくれた。
唇じゃない事に、大きな落胆が走って、急に冷めた。
そして、彼が、友人A……私の天敵の事を男の子として好きだって言った事が、最後の堤防壊した。
彼が見てる前じゃ、涙は見せないって、決めていたのに。
無理だった。
私が彼の心の中心にいないことが、とても辛かった。
でも離れたくなかった。離れたくなかったから、彼の仲のいい幼馴染みという立ち位置を甘んじて受け入れることにした。
胸が痛くて、痛くて、引き裂かれそうな、貫かれたような、叩き砕かれたような、そんな胸の痛みに耐えきれなくて、私は泣いた。
彼を抱きしめて、声を押し殺して、涙を流した。
それから、きっとこれから先、何回も言う最後のワガママを言った。
彼と一緒にお布団に入りたかった。
恋人の真似事をしたかった。
だけど、どうしても、我慢できなくて……。
寝静まって、彼が反応を示さない事を確認して、彼に大人のキスをしようと試みた。忘れるために、私の自己満足のために。
でも、彼は起きていた。寝た振りをして、私のする事の全てを受け入れてくれた。それが、とても悲しくて、どうしようもなくて、声をあげて泣いた。
どうして、そこまでしてくれるのに、私の思いは受け入れてくれないの……。
そんなの分かりきっている。
彼は律儀だから。どちらもという選択ができない人だから。
その性格のせいで、悲惨な中学時代を送り、その性格のお陰で、人徳を得た。
そう、彼の暗黒時代を支えていたのは、私ではなく、画面の向こうにいた友人Aだから。その時に積まれた信頼が、ちょっとした事で愛情に転換してしまったのだ。だから、彼は恋する乙女になった。
私が、つきっきりで彼を甘やかしていられたら。女の武器を使って、誘惑ができていたら、また違ったのかも知れない。
……彼が、私に依存してくれたら良かったのに。
そして、私は負けた想いを引きずりながら、小さい時に彼に言われた綺麗で長い髪を切った。短くばっさりと。
まるで日本人形のように不気味になったけれど、いい。気にしない。何れまた伸びる。元に戻る頃に、気持ちの整理がつけばそれでいいと思い直した。
「いやはや、強いね、きみは、びっくりだよ」
プールの道中、黒猫が私に囁く。
「おめでとう、二つ目の試練もよく乗り越えました」
めでたくもなんともない。
そんなにわたしが、不幸に合うのが嬉しいのかと問うと、黒猫はにんまりとした笑みを浮かべて、
「違うよ。辛いことがあっても、前を向いて歩こうという姿がとても美しいと思ったんだよ。強い心は、良質な魔力を生むからね。あの子の一つ目の願いも、充分に美味しい魔力を産んでくれた。これでボクは向こう十年くらい魔力を得なくても生きていける。きみたちに決めて正解だったよ」
それはどうもと吐き捨てるように言い放ち、黒猫にとって、私たちの生活はただの魔力を得る為に観察しているに過ぎないと、そこのドラマは大して興味が無いと言うことが分かった。
まあそれはそれとして、つまるところ、黒猫にとっての試練とは、私に襲いかかる恋の試練と言うことなのだろう。
一回目は、彼が私を助けに来てくれるのか。
二回目は、想い破れての私の出方。
試練とは名ばかりだ。黒猫は、試練らしい試練を出していない。
わけが分からない……。試練なんて言わずに、日々の暮らしを見たいと言えばいいではないか。
「試練って形にしておかないと、魔力の抽出が上手く行かないんだよ。別にボクは死んでもいいんだけど、ボクが死ぬ事で悲しむ人が幸いにもいるからね、その人達のためにもボクは生きなければならない」
つまり、黒猫は、私と一緒……?
私は彼が死ぬ事を良しとしない。彼も、多分私や、身近な人が死ぬのを良しとしない。
「そういうことだよ。だから、頑張って。誰と誰がくっつこうと、ボクには関係無いけれど、それでも君たちの暮らしの中で生まれる、眩しいまでの魔力はボクに取ってのご馳走だから」
酷い言い草だ。
ここまでコテンパンにされておいて、まだ私に頑張れと言う。
そんなにも惨めな私が見たいのだろうか……。いいや違う。万が一の可能性があると言うことまで、視野に入れているのだろうか?
「まあ、結果がどうなるにしろ、ボクと今のきみの立場は一緒だよ。好きな人を愛した人を横から取られたことだってあるよ。だから、できればめげずに頑張って欲しいなって、そう思って、見守ってるだけさ。きみが辛いのはよくわかる。ボクだって経験済みだから」
艶やかな髪色の少女は屈託なくわらってそう言った。
悪人かと思ったら、同じ思いをした同類様とは思わなかった。
今の私には、ちょっと理解しきれない……。