試練の始まり
私には好きな人がいる。
その人のためだったら、何でもしたいと思っているくらい好きな人がいる。
そんな彼に釣り合う女になりたくて、やろうと思って悩んでいた物があった。
それが春休みのこと。
好きな人が、この家に居候すると聞いて、とても嬉しく思った。
だから、ずっと変わらない私を見られて幻滅するんじゃ無いかと思って、手を出そうと悩んだおまじない。
友達からは効果が無かったと言われたそれを教えて貰って数日。
ずっと悩んで、ずっと悩んで、結局この日までずれ込んだ。
今日は彼がうちにやってくる日。
引っ越しの業者が荷物を運び込んで行くのを尻目に、私はリビングで一人携帯電話を前に悩んでいた。
立ち上げたアプリ、そこに表示されている魔法陣とか、よく分からない注意書きとか。藁にも縋る思いで悩んでいる。
効果が無かったとき、どうすればいいんだろうとか。
彼に嫌われてしまったらどうすればいいんだろうとか。
益体の無いことばかり考えてしまう。
それから、迷ったまま、彼を迎え入れて。彼が自分の部屋の荷物を片付けている間におまじないを試そうと思った。
どうせ失敗する。そう思っていたら成功した。
目の前には羽の生えた猫。緑の瞳が爛々と輝く黒猫がいた。
「さてさて……、これはどういう了見だろう?」
少女の声音を漏らした黒猫が、私を射竦めるように見ている。
「……なるほどなるほど、願いがあるんだね」
私はそれに頷いて応えた。
そしてその願いを口にしようとしたところで、リビングの扉が開いた。
予期せぬ闖入者に私は狼狽えた声を出す。
それに、黒猫がおどけた声をだして、視界が光に包まれた。
どさりという音と、その音の発生源に倒れ伏す彼。
慌てて彼にかけより抱き起こすと、息はしていた。
「大丈夫、眠って貰っただけ。邪魔者は排除するに限るからね」
その声にほっと胸を撫で下ろす。
黒猫は、続けて言う。
「悪魔との契約を邪魔したら、それはそれで災いの元になるからね。ボクはこう見えて親切な悪魔なんだ。呼び出した対象以外によっぽどのことが無い限り危害は加えないよ」
そうなの? と聞き返し、そうだよ。という答えを貰った。
私は少しだけ目の前の黒猫への警戒を解いた。
「しかし……その子はもうダメだね……」
どういうことかと黒猫に詰め寄った。
私の好きな人がもうダメ、とはどういうことなのかと、詰め寄った。
「わかったわかった。説明するから。この子、生きる力がもう無いんだよ」
生きる力がない、とはどういうことだろうか。
どうして、この黒猫はそんなことを言うのだろうか。
私の思い人がどれだけ苦しい思いをしていたのか知っているのだろうか。
「今、全部見えたよ。ボク、こう見えて、世界と繋がってるから、君たちを見ればどういう状態かなんて、すぐに分かるよ。君の願いも分かってる。彼に変わった自分を見て欲しいんだろう?」
そうだ、と応える。
変わりたい。こんな暗い女じゃ無くて、彼のことを引っ張っていけるような魅力的な女になりたい。
それが私の願い。塞ぎ込んでしまった彼を引っ張っていけるような女になりたい。昔、彼が私にしてくれたような事を逆にしてあげたい。
外に連れ出してあげたい。
それが私の願い。
「今のままじゃあ、その願いは叶わない。無理矢理彼を連れ出した結果、彼は死ぬ。社会に中てられて死ぬ。言ってる意味わかる? といっても分からせるけどね」
それと同時に頭の中に彼の様々な死に姿がうすらぼんやりと影を纏った形で頭の中に入ってきた。
早ければ春の日に、遅くとも冬の日に。年を越すことが出来ずに、彼は自死する。
例え、私が彼を襲い男の悦びを教えたとしても、彼は死ぬ。
依存してもダメ、突き放してもダメ。彼が自分の部屋を追い出された時点で、これは確定された未来。
最後の拠り所の両親に裏切られた時点で、これは確定されていた。
ああ……と。
黒猫の言いたいことを理解してしまった。
私の思い人はどうあがいても近いうちに自ら命を絶つ。それくらいまでに心が疲弊している。今のままじゃあダメなのだろう。
私は彼に生きていて欲しい。外の楽しさを教えてくれた彼に生きていて欲しい。
「一つ、提案をしよう。ボクは心優しい悪魔だからね」
こみ上げてくる吐き気を飲み込んで、私は何と詰め寄った。
彼が生きていてくれるなら、私のちっぽけな願いなんて投げ捨てていい。
彼のために変わりたいという願いくらい、自分で実現してみせる。
私の事なんて二の次で良い。私にとって一番は彼。
だから、その提案を早く話せと黒猫に詰め寄った。
「彼の運命を改竄しよう。大悪魔であるボクに掛かればそれくらい朝飯前さ!」
私の思い人が生きていてくれるなら、いつかちゃんとその話をする時間を取ろう。
私のエゴだけど、彼には生きていて欲しい。
黒猫の言葉を信じたわけでは無いけれど、迎え入れた彼の幽鬼の様な青白い顔は到底生きている人間の顔付きじゃ無かったのは確かだから。
ただ生きているだけ。心は殆ど死んでいる。それがありありと痛ましく伝わってきた。
だから、黒猫の近いうちに死ぬと、社会に中てられて死ぬという言葉を鵜呑みにした。どれだけ心配しても構っても、きっと彼に取って心の負担になる。私の心遣いが重みになって支えきれなくなって潰れる未来が見える。
彼が塞ぎ込んでから一度も顔を合わせていない。一年半の間にこうまで変わってしまっていたのかと今日顔を合わせて初めて思ったくらいだ。
だけど、そんな変わり果ててしまった彼を見ても、私の恋心は冷めなかった。
何とかしてあげたい。そう思うくらいには、彼のことが大事だったのだ。
黒猫の運命を改竄するという言葉に疑問を投げた。
「簡単なことだよ、少なからずとも、彼ときみは同じ種類の願いを持っている。だからできる事さ。彼の切れた運命の糸を紡ぐよ。きみにとって例えどんな姿になっても彼が生きている事の方が最大の喜びのようだし?」
私はそうだと応える。
彼が生きていてくれることの方が嬉しい。
その為だったらなんだってする。
私は私の為に、彼に生きていて欲しい。彼がどんな姿になっても、彼が私を頼ってくれるならそれでいいと思う。
「さて、それじゃあ、彼ときみはこれから運命共同体だ。契約の対価に、君には四つの試練を、彼は巻き込まれた方だから三つの願いを。それぞれ受けてもらおうかな。ボクが生きる為に必要な対価だから、拒否はできないよ」
頷く。私が試練を受けるのは当たり前だ。だから、そこに文句を付ける余地は無い。来るなら来い。例え彼に被害の及ぶ試練でも、彼を守り切ってみせる。
「じゃあ、彼の未来を不確定事象まで崩してしまおう。世界と繋がっているボクですら見通すことの出来ない特異点にしてしまおう」
そして黒猫は詠う。
変われや変われ、と詠う。
運命を壊し、事象を溶かし、確定された死を砕く、と。
そのたびに、彼を包む光が大きくなり、収束していく。
まず最初に目についたのは、柔らかな甘い色合いの髪の毛。
そして、縮んだ背丈。細い肩に腕、そして手。
唖然とした。
彼が彼女になった。
変化が終わり、私は黒猫を恨みがましく睨み付ける。
「だって、しょうが無いじゃ無いか。彼が男で過ごす限りあの未来は避け得られない事実だよ」
そうなのかと問うと、黒猫はそうだよと返してきた。
「彼が生を全うするのならば、心の傷を癒やし、乗り越える力を手に入れて、その上で選択の余地を与えなければいけない。きみが彼と結ばれたいと思うなら、彼が他の男に取られないように頑張らないと」
分かったと私は応える。
誰にも取られないように、大事に彼女となってしまった彼を守ると、黒猫に誓った。彼の意思を尊重しながら、彼の選択を最大限に認めると。
どんな姿になっても、彼が生きていてくれるならそれでいいと思ったのは私だから。だから、彼が潰れないように、私が守ってあげる。
いつも守って貰っていた私が、彼のためにできる事。
それは、彼にしてもらった事をそっくりそのまま返してあげることだから。
「……やるわ。例えどんな試練が待ち構えていようと、私は負けないから」
私はそう、黒猫に宣言した。