序章「願いと約束」
私はこの世のすべてから逃げ出したいと願った。
10階のマンションのベランダから飛び降りたのも私のワガママ。
学校も頑張った、友達付き合いも頑張った、先生にだって褒められた。
でも何かが足りず、私は満たされなかった。
だから私はもうすべてが嫌になって、何をやっても満たされなくて飛び降りるしかなくて―――。
地面が徐々に近づいてくる。
のどの渇きがやまない。やまない。ああ、あと少しで私は――――。
突然、世界が反転し、私は硬い床に背中を打った。
「いたっ……え? なんで……?」
突然のことで私は困惑した。
死ねなかったことにだろうか?
突然全く違う場所にいたところだろうか?
……それとも、目の前に私と同じ『私』がいることだろうか?
「……あなたは、誰?」
思わず私は呟いた。
のどが渇いていたからだろうか、思うように声が出ない。
「あなたは、私よ」
『私』が口を開いた。
録音した自分の声を聴くような微妙な違和感。
その声を聴いてなぜか私は唾を飲み込んだ。
のどが異常に渇いているように感じる。
「私を消すために、私が呼んだの」
『私』はその私と変わらない鏡写しの姿でゆらりと立ち上がり、私のそばに近づいてきた。
「私はここから出ることはできない。でもそれもここまで―――約束を、どうか、お願い」
そういうや否や『私』は私の腕を引き寄せ、私の顔を『私』の首に押し付けてきた。
突然のことで混乱する私の脳裏に、カチリ、カチリと何か音が聞こえたような気がした。
何を考えている。この首を噛みちぎれなんて――――。
でも、私ののどは渇きを増し、衝動は膨れ上がる。
わからない、なんなのこれは。
「いいのよ……どうか終わらせて。私自身で」
抗いきれない衝動に私は―――私は『私』ののどに歯を突き立て――――深く咬みぬいた。
「――――!!」
一瞬の痙攣と脱力。『私』は目を見開いたまま私の前に倒れこんだ。
荒い呼吸が収まらない。
何をぬぐおうとしたのか私の右手は自然と唇に触れていた。
ぬるりと血が付いた。
私は『私』を殺したのだ。私が死ぬつもりだったのに……どうして、こんなことに。
呆然としている中、倒れた『私』の体は影のように黒く染まり溶けるように消えていった。
もし、これが死ぬ前に見る走馬燈なのだとしたら最悪の部類なのかもしれない。
夢ならどうか目覚めてほしい。
これは私が自らの命を投げ出そうとした罰なのだろうか。
「約束、ああ、高校生にもなって何を言っているのよ、私は……」
『私』の言葉を振り返り脳裏によぎる一人の少年の顔。
『私』が最後に託した願いを思い出し、私は私のことながら少しあきれてしまった。
今になって満たされない理由に心当たりがあったのだ。
「まあ、そうよね。私たちはそういうものなのよね」
見渡せばここは個室の病室だった。
私自身はなにもなかったが、きっとそういう私の中には可能性もあったということなのだろう。
私はつい先ほどまで『私』がいたと思われるベッドにもぐりこんだ。
そしてまだ少し暖かい布団をかけなおし、その場で眠りにつくことにした。
そうして私、川口 シイナはかくして奇跡的な回復を遂げ、高校生活に半年ほど遅れて参加することになったのだった。