第二話「ルールと邂逅」
暦の上では7月、期末のテストが終わった時期。
放課後前の六限目の窓から見えるのはグラウンドと雲と空。その光景は僕が知っている世界と何ら変わりなかった。
僕はこの世界の『僕』を殺し、ドッペルゲンガーとして入れ替わることになった。
人ではなく化け物になったのだ。その恩恵からか身体能力は異常に高くなり、傷や怪我などの治りも早くなっていた。一度軽く自分の指にカッターで傷つけたことがあったが、瞬時に傷が治ってしまい、自分が人でなくなったことを理解させられた。
自殺をしようとしていた身でいうのもおかしいが、人間でなくなったことにはさすがに切ない物を感じる。
僕はため息を一つ吐き、黒板に書かれた文字をノートに写していった。
ややあって授業が終わるチャイムが鳴り、いつもと同じように放課後がやってくる。
僕は帰り支度を済ませ、屋上へと向かった。
皆が学校から出ていく中、流れに逆らい一人階段を上っていく。目的の場所である、屋上の入り口前には片桐マナが立っていた。
ふわりとした髪、少しぼんやりした瞳、僕の知っている彼女と何も変わらない、こちらの世界の彼女。
彼女は僕の姿を見つけると、申し訳なさそうな表情を浮かべ、頭を下げた。
「来てくれてありがとう……。今日はあなたに伝えなければいけないことがあります」
静かに僕を見つめる彼女は、事務的な口調で言葉を続けた。
「先日の件です。私が願ってしまったためにあなたはこの世界に呼び出された……。あなたは私が死ぬか、あなたが死ぬまでこの世界に留まらざる負えない」
「呼び出されたことに不満があるわけじゃ……そもそもどうして片桐にそんなことができるのさ?」
「……私の家系は代々、特殊な道具を作ることに精通していました。あなたを召還したのも、私が作っていたお守りが機能してしまったせいだと思います」
……ずいぶんとファンタジーな話だ。だがしかし自分の状態を考えると信じるほかないのが現状だった。
「僕はここにいるつもりだよ。片桐を殺すようなこともしないし、僕自身も死ぬつもりはない」
「そう……ですか。あなたをこのようなことに巻き込んでしまい……本当にごめんなさい」
正直謝ってほしいわけではない。僕は僕ですべてを失って、自分も捨てようとした人間なのだ。
ましてや、片桐は『僕』の醜い部分の被害者なのだ。謝罪の言葉は的を得ていない。
「片桐が謝るようなことはなにもない。僕は僕で、あの行為を否定したかったんだ。……化け物みたいなやり方しかできなかったけど」
僕の言葉に複雑な表情を浮かべる片桐。
「あなたは、自分を殺すことが平気なのですか?」
「平気なわけじゃ……でもあの時は自己否定が勝ったというのかな、僕は僕を許すことができなかった」
あの時のことを思い出したのか、片桐の表情は険しいままだ。
「……一つ覚えておいてください。この世界に呼び出されたあなたは世界によって修正されようとします。本来あるべきだった代川アキラの席にあなたが居続けることはそれだけで歪みになっています。ドッペルゲンガーは同じ顔をもつ人物が三人いるという都市伝説が由来の現象。あなたを代川アキラの席から引きづりおろそうとする『あなた』が現れるのも時間の問題です」
「ドッペルゲンガーに襲われる可能性があるってこと?」
「そうです。……あなたがこの世界に留まろうとするのなら、これを使ってください」
そういわれて彼女から渡されたのは少し刃の長いナイフだった。
キャンプなどで使うナイフのように回転させ柄に刃をしまうことができるようだ。
柄は簡素ながらもいくつか装飾が施されている。
「大げさ、というわけじゃないんだね」
「はい……私はあなたに謝らなければならない。
あなたがこの世界に留まる限り、あなたは自分を殺し続けなければいけない。本当に、本当にごめんなさい……」
夕暮れが差し込み始めた屋上の踊り場ではそれ以上の言葉はなく。
僕は静かに片桐の謝罪の言葉を受け止めていた。
三日後の昼、僕は学校にいた時間帯に、駅前で見かけたという話が伝わってきた。
「お前、本当に昨日駅前にいなかったのか?」
八目はパンを片手に僕に疑問を投げかけてくる。
「本当だよ。昨日はすぐに学校からまっすぐうちに帰ったんだ。駅前に用事なんてなかったし」
「ウソだろ? 駅前の裏路地、ほらちょうど居酒屋とか並んでて本屋の近道になってるあそこだけど、ありゃアキラの姿だったぜ?」
「声はかけたの?」
「声かけたさ、でもお前無視するじゃんか。だーかーら、こうやって無視すんなよって」
「いや、だからそれ僕じゃないって……」
昼休みの屋上、僕と八目と片桐の三人での昼食。
7月という炎天下の中、屋上の入り口の影に避難しながら、僕たちは八目の昨日僕にあったという話を聞いていた。
ちらりと片桐の方を見ると、複雑そうな暗い表情を一瞬だけ作った。
……彼女の預言は見事に当たったのかもしれない。
その日の放課後、僕は八目の話を確かめるために駅前を歩いていた。
駅前周辺はカラオケやゲームセンター、商店街を超えた先にはがショッピングモールとおよそなんでもそろってはいるが、ひとたび細い通りに入ると、さび付いた看板の喫茶店や空いているのかもわからない怪しい店などが並んでいる。
特に細い通りを何本か過ぎると昼間でも人通りがとたんになくなるところもある。
僕はその細い通りを歩き続けた。
本当に片桐の預言が正しいとして、僕を殺すためのドッペルゲンガーが現れたのなら、僕はそれを対処しなければならない。
僕がこの世界に留まるためには僕は死んではいけない。
片桐がいない世界に、あの皆が彼女を忘れていく世界に戻るのはもう……嫌なんだ。
「すみません――――」
一時間ほどだろうか、歩き続けた僕の背後から声がかけられた。
なんだろうと振り返る僕はとたんに強い衝撃を顎に受けた。
思いがけない不意打ちに僕は声もなく地面に倒れこむ。
「殺しに来てやったよ!」
突然のことで混乱する頭を叱咤し、殴りつけた相手を見ると――鏡があるのかと錯覚してしまった。
僕が、僕の前に立っていた。
「本当に……いたんだな……!」
「ああ、なんだよ、驚かないのかよ。そうだよそうだよ、本当にいたのさ!」
ずいぶんと多弁だが、姿かたちはまるで僕だ。
その演技じみた挙動がいちいち癪に障る。
『僕』は言葉を続ける。
「お前を殺して僕が入れ替わる。そうすれば僕が代川アキラだ。そうすれば八目も、生徒全員をむごたらしく殺すことができる!」
「何を……」
「おいおい同じ考えじゃないのか? あのノー天気な連中をどこかに追いやりたいと、
ふざけた声を止めたいと、誰かを敵にしないと、群れないと、生きていけないクソどもを、僕より近くにいたのに何もできなかったあいつを、殺したいと思わないのか!」
……ああ、そういう側面なのか。あっちの世界で片桐が自殺してしまった時、皆にいだいていたあの感情が強くなっている僕なのか。
「違う、これは僕じゃない」
立ち上がり、僕はポケットに忍ばせたナイフを取り出した。
こいつは僕じゃない、こいつは僕として認められない。
「そんなちっぽけな刃物がなんになるっていうんだ? 化け物は化け物らしくなぐり合うってのが筋じゃないのかい!」
ゴウと聞きなれない音が聞こえたと瞬間、僕の体は浮き上がっていた。
みぞおちに深く食い込む拳、アッパー気味にぶち込まれたそれは、僕の呼吸を一瞬で奪っていく。
余りの痛みに視界が揺れる。
ふざけるな、なんだそのでたらめの速さは。
「ごほっ……がは……」
「おいおい、本当に同じ化け物なのかよ? 弱すぎるだろ」
「同じに――――するな!」
無理やりナイフを持った右手を振り回し距離を作る。痛みはすぐに引き、呼吸もすぐに整ってくる。
まだ大丈夫、戦うことは可能だ。
「まあ、確かに頑丈だな。で、だから、どうする!」
再び轟音と共に突進。避けきるには距離が足りない、腕を固め、身を守るしか―――――。
鈍い衝撃とともに僕のガードはあっさり吹き飛ばされた。
基本スペックが違い過ぎる。あの『僕』は怪物を殺すために調整されてでもいるのか。
「死ね!」
相手の返す拳を受けアバラが砕けるような衝撃を受ける。僕が再び地面に倒れこむことしかできなかった。
視界が傾き、膝に力を入れようとしてもいうことを聞かない。
こんな化け物の前で動けなくなってしまったら僕は確実に殺されてしまうだろう。
死ぬのか――――。死ぬのは―――――っ!!
その一瞬、僕の右手は動いていた。
一瞬の諦めを覆すように、生にしがみつくために、僕は動いた。
そのときカチリと歯車が噛みあう感覚。奇妙な手応えが右手に伝わってくる。
「うわああああ!」
離していなかったナイフを使い、大きく一歩踏み込み腕を振るう。
フェイント気味に放った一撃はあっさり『僕』に避けられる。
「おっと、危な―――」
だが、『僕』の言葉は途中で止まった。空を切ったナイフの軌跡の通りに『僕』は切り裂かれ倒れた。
布地を切り裂くようなわずかな手ごたえ、これはこの世界の『僕』にも使った異端の力。
理解した。これは僕の能力、認識した空間を切り裂く力。
切り裂かれた空間に巻き込まれた『僕』は上半身と下半身が分かれ地面に倒れた。
「僕はお前を認めない……。認めない……!」
「おいおい……ふざけるな……なん、だ、それ――――」
切り裂かれた『僕』は全てを言い終える前に、黒く染まり影となり地面に溶けて行った
化け物がいることは世界が許さない……だれももう一人僕がいたなんてわからない。
僕もいつかああやって、誰にも気づかれず消えてしまうのだろうか。そしてその僕の代わりに異形の何かが片桐のそばに僕として近づくのだろうか……。
「ふざけるな、は……こっちのセリフだ……」
僕は僕が歩まなければいけない道の険しさを思い知らされたのだった。
痛みはだいぶなくなったのだが、僕は疲労を感じ道端に座り込まざるおえなかった。
幸いなことにここは人通りが全くない。しばらく休むことにしよう。
見上げると日はもう流れ落ち、夜の気配が感じられていた。