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天使のお茶会

作者: 蒼井ひろく


短編の設定ではありますが、この物語は中編です。ご注意ください。中編という設定が無かったのです。

 天使のお茶会

                                  蒼井ひろく


 プロローグ


 眠気は毒。

 それは僕の全身を支配していた。毒は動脈から毛細血管にまで至っている。頭のつむじから足のつまさきまで。侵された僕の体は、先生の授業の声(まるで動物にハエがたかるような音だ)に、流されるままだ。ハエの音に、僕は何も抵抗ができないでいる。願わくは、早く授業が終わり、休み時間になりますように。

 授業中でもかまわずに眠ってしまえばいい。

 それができたらどれほど良いだろうか。でもできない。僕はいびきがうるさいからだ。机に突っ伏し、深い眠りに身を(ゆだ)ねようものなら一体どうなるだろう。いびきをかく僕はハエの注意と共に起こされ、クラスメイトには失笑される。それをきっかけにいじられかねない。そんなストレスに耐える覚悟は無かった。

 高校一年生、田中ソウタ。それが僕の番号。

 真面目に授業を受ける生徒たちを、僕は笑っていた。そんなに頑張って、どうするの? だけど本心では羨ましかったんだ。本当は、起きて授業を受けたい。黒板のチョークの文字をノートに取りたい。先生の授業や雑談を、吸い取り紙のように吸収したい。そして家で十時間以上も睡眠をとらずに、勉強に熱中したい。そしてテストでは高得点を取り、クラスでも一目置かれる存在になりたかった。そして、そして、そして――。

 でもできない。

 眠いから。

 家での趣味が欠かせないこともある。

 こんな悩みを抱えているのは高校生でも僕だけだろうか。いや、僕だけではないだろう。現にこの教室にだって、ノートを取らずに机に突っ伏している生徒がいる。だけど、こんなふうに僕みたいに悩んだりはしないだろうな。僕みたいに眠気のことを校長先生に相談しに行ったり、近くの都立病院の医者に精神科を紹介されたり、しないんだろうな。そして本当に、精神病院に足を踏み入れるような、そこまで眠気過多について深刻に考える高校生は、数少ないだろう。

 チャイムが鳴った。

 僕は顔を上げる。数学の先生が黒板消しで文字を消し始めている。

 僕の最後の抵抗の言葉を聞いてほしい。

 昔から言われている格言があるじゃないか。

 若い頃の苦労は買ってでもしろ。

 そういうことだろ。他にもあるぞ。

 臥薪嘗胆。

 今は辛酸を舐める時期ということだろうか。

 確かに僕は若いが、辛酸なんて舐めたくない。できることなら、リア充になりたい。素敵な恋人と出会い、登下校を共にし、一緒にお昼ご飯を食べたい。だけど僕には無いのかもしれない。

 休み時間になった。

 クラスで一番、話の合う友達の河部マコトがこちらへやってくる。

「ソウタ。お前、また寝てただろ」

 彼は呆れ笑いを浮かべる。

「寝れなかった」

 僕は表情を歪めた。


 第一章


 *


 やっと六限の授業が終わった。

 僕は教室のそれほど多くない友達に別れを告げて、廊下へ出る。マコトはこれから部活があるので、僕の帰りはいつも一人だ。

 廊下を歩いて、階段を二つ降り、玄関で靴を履き替える。靴は、黒色のナイキだ。やっぱり、高校生にもなったらナイキぐらい履いてないとね。

 玄関を出て、建物を振り返る。犬が伏せっているような形をした校舎。古い建物で、そこら中に汚れが染みついている。さすがに木造ではなく、コンクリートだ。桜川高校という。この桜川町でただ一つの高校であり、東京都では底辺の高校。四年制であり、通う生徒の学力は低い。部活も強いという噂を聞いたことは無い。なんでそんな高校を選んだの? 理由は簡単だ。僕の家から一番近いから。自宅は、桜川町の川辺の方にあった。距離が近ければ、それだけ睡眠時間が確保できる。電車代もいらない。

 僕は前を向き、歩き始める。入学してから、まだ一か月しか経っていない高校を並木道。桜の花はもう散っていた。

僕はピカピカの一年生だ。だけど僕には、ドロドロの一年生という言葉が似合っていそうだった。僕の体は白血球が毒に負け、肉は溶解しどろんどろんに溶けるのである。

 いつもの通学路を歩いていた。

 空を見上げると、快晴だった。太陽の光がまぶしく、家々の影が道路に背を伸ばしている。

 横断歩道の前で、信号が青に変わるのを待っていた。

 その時だ。

 不意に頭痛がして、僕は顔をしかめる。何だろう。後頭部に右手で触れる。

 横断歩道の真ん中に、人が立っていた。

 まだ赤だぞ?

 それは、白い服を来た、同年代くらいの女だった。彼女は辺りを見回し、僕を見つけてにこっと微笑む。

 左側からセダンの車が猛スピードで迫っていた。

 右側の道路には、赤の軽自動車がハザードランプを付けて停車している。

 セダンが警笛を鳴らした。避けれない。このままではぶつかる。ブレーキのかな切り声。僕は走り出していた。

 童貞で死ぬのかよとか。

 そんなこと思っている暇も無かった。

 僕は女の体を両手で抱きしめ、思いっきり道路を蹴った。多分火事場の馬鹿力が働いたのだろう。僕と彼女は鳥のように宙を舞い上がり。くるくると回転して地面に落ちた。そして道路をごろごろと転がり、止まる。僕は息を荒げていた。視線が定まらず、行動ができないでいた。近くで車のドアが開く音がした。

「だ、大丈夫ですか」

 誠実そうな若い男性の運転手が駆けつけていた。そこで僕はやっと意識を定まらせる。女の体から手を離して立ち上がり、男性に応答する。

「大丈夫です」

 制服をパンパンとはたく。汚れがあったが、骨を折るような重傷は無い。ちょっと腕に擦り傷が出来た程度だ。

 僕は女の安否を確かめる。

「馬鹿かてめえは」

 僕は父が子供を本気で叱るような声で叫んでいた。こんなに大きな声が出たことに自分でもびっくりした。そして、自分にはこんなヒステリックな一面があるのだと言うことを新発見していた。

 女はきょろきょろと辺りを見回し、

「はれ?」

 人差し指をあごにつけ、頭を斜めにした。きょとんとしている。

「あー、本当に良かった!」

 後ろの方で、若い男性は心から喜んでいた。両腕を天に向けてバンザイしている。車で人を引いてしまえば、それがどんな状況であれ、運転手は暗澹たる人生を余儀なくされる。それを回避できたことは、確かに僥倖だった。

 僕は女の頬を突っぱねた。

「痛っ」

「おい、お前」

「何ではたいたのですか」

「今、お前は他人を殺人犯にするところだったんだぞ」

「何で?」

「分からないのか?」

「んー」

 女は両目を閉じ、人差し指で頬をさわり、そして瞳を開いた。

「すいません。私、この世界に来たばっかりで」

「は?」

 僕はびっくりした。この女、車にはねられそうになったショックで、脳味噌がおかしくなったんじゃないのか。

「私は天使です」

「何を言って」

「こんにちは、人間さん」

「……何を言って」

「ここはどこで、今は何時ですか?」

 僕は唖然とした。口を半開きにして、頭を振って思いなおす。

「ここは桜川だよ」

 僕は立ち上がり、後ろにいる女をひきそうになった男に近づいた。

「すいません。救急車と、警察を呼んでください」

「警察?」

「大丈夫です。非はこの女にあります。貴方の悪いようにはならないでしょう。それよりも、時間が経った後でこの事件が警察に伝わったのなら、すぐに伝えなかった非を、貴方は被ることになると思います」

「そ、そそ、そうだね。分かった。警察を呼ぶのは分かったよ。でも、救急車は? 君たちは、怪我でもしたのかい?」

「事故による怪我は、後になって現れることもあります。そしてこの女性は……」

「もしかして、骨を折ったり?」

 男性は泣き出しそうな面で、顔をくしゃっとさせた。

「いえ、もしかしたら、知的障害があるのかもしれない」

「知的障害者?」

「自分を天使だと言っています。思考が錯乱しているのかもしれません。とにかく、救急車を」

「わ、分かった」

 男性はスーツのポケットからスマホを取り出し、操作して耳に当てる。僕はもう一度、女のそばに近寄り、膝を落とした。

「ここを離れるぞ」

 僕たちはいまだに道路の中にいた。次から次へと待っている自動車が列を成している。

「はい。分かりましたわ」

 女は元気溌剌と言った具合に微笑んで、立ち上がった。やはりこの女、変だ。

 よく見ると、彼女はすごく美人だった。顔が綺麗。そして女と呼ぶよりも、少女と言った方がふさわしいように思えた。

 僕たちは歩道に移動する。

 それから救急車が来るまで、僕と少女は調子の出ないトランペットの音みたいな、づれた会話を交わした。

「あの、桜川と言うのは、地球で言うとどの辺なのでしょうか」

「……東京です」

「あの、東京というのは、地球で言うとどの辺なのでしょうか」

「……日本です」

「おお、日本!」

 彼女はどうしてか、歓喜に目をうるうるとさせた。両手をにぎにぎしている。

「なんで喜ぶんだ?」

「私、日本に来たかったんです」

「天使だとか言ってたな」

「はい。私の名前はミル。この世界を守護する天使の一人です」

 透き通った声だった。

「天使は常識が無いのか?」

「常識ですか? ありません」

「何で?」

 僕は唇をとがらせる。

「だって、私は人界に来るのは、これが初めてですから」

「ふーん」

 何か、すごい電波がゆんゆんと飛び回ってるような会話だ。僕は恥ずかしくなって、下を向いた。

「じゃあお前が天使だったとしよう」

「違います。天使だと、認めてください」

「認めるとしよう」

「はいっ」

「この桜川に、何をしに来たんだ?」

「決まってるじゃないですか」

 自称天使は、両手の平を合わせる。子気味の良い音が鳴る。

「お茶会です」

「お茶会?」

「はい。天使同士の、お茶会です」

「天界でやれないの?」

「天界にお茶はありません」

「分かった」

「分かってくれてうれしいです」

「違う?」

「はい?」

「貴方が僕の手に負えないことが、分かったんです」

 救急車が到着した。


 *


 救急車は二台来た。僕と、ミルという名前らしい少女のためのものだ。僕らは担架に寝せられ、最寄りの都立病院へと運ばれた。遅れてパトカーが到着した。現場を様子は、救急車で運ばれて行ったために、それ以上は見ていない。救急車の隊員は僕の家の電話番号を聞いた。しかし、かけても家には誰もいない。父は仕事が転勤族で、今は青森にいるはずだし、母は乳ガンで入院していた。

 十分と待たないうちに、病院へつき、救急外来の医者に診察を受けた。僕は特に隠すことは何もなかった。事件の様子をありのままに語り、擦り傷が出来た箇所を見せた。

「後で腫れてくるかもしれない。とりあえず、レントゲンを撮りますから」

 医者の言うことに従って、僕はレントゲン室に行った。今度は担架では無く、病院の廊下を歩いての移動だった。足は特に怪我をしていないと思ったし、骨も多分大丈夫だ。

 レントゲンを数枚撮り、診察室へと戻ってくる。そこでミルと再会した。彼女は医者の診察を受け終えたのか、丸椅子に座っていた。この様子だと、外傷は無いようだ。髪が長く、艶々としている。髪も異常は無さそうだ。

 僕の近くに先ほどの先生がやってきた。

 僕からしゃべりかけた。

「あの、一緒に救急車で来たあの子は、大丈夫なんですか?」

「うん? ああ。大丈夫だ。彼女は天使らしいから」

「は?」

 僕はびっくりした。天使というのは、認知して扱うことが容易な存在なのだろうか。それとも天使と初めて出会ったのは、僕だけなのだろうか。そんなはずは無かったし、僕はこのお医者さんがユニーク言葉を選択して、僕の質問を煙に巻こうとしているのだと思った。僕は続けて口を開く。

「彼女は天使なのですか?」

「ああ、そうみたいだね」

「……、ぼ、僕は天使と出会うのが初めてで、ちょっと理解が追い付かないのですが」

「私だってこれが二度目さ」

「先生は、前にも会ったことがあるんですか」

「ああ。それより君の怪我についてなんだけど」

 それから僕は、自分の骨に異常は無いことと、擦り傷は腫れてこない限り安心であるが、安心はしないようにとの説明を受けた。安心であるが、安心ではないというのは、ちょっと頭がこんがらがる。

 入院の必要は、僕には無く、ミルにも無いとのことだった。先生は僕の両親に来てほしいと言ったので、僕は家の事情を告げた。父は遠いところにいるが、母ならば、この病院の八階に入院している。今は抗がん剤での治療で、ベッドに横になっているはずだ。

 僕と先生は、今から母親の病室に移動することになった。その折に、どうしてかミルも同伴することになった。


 *


「ナイスガッツ。さすが我が息子ね」

 事件の顛末を聞かされた僕の母は、左手を右手の二頭筋に当ててガッツポーズを取った。

「母さん、体の具合はどう?」

「へっちゃらよう」

 口ではそう言っているが、かなりきつい薬を使っているという説明を医者から受けたことがある。今も左腕には点滴の管が通っている。そして、おかげで母は髪が全部抜けて、今はニット帽を被っている。部屋も四人部屋では無く、個室だ。

「ミドリさん。そういうことで、息子さんには家へ帰宅してもらいますが、後で怪我が出現することもありますので、ご承知ください」

「ええ、分かったわ」

 ミドリというのは僕の母の名前だ。

「それよりさ、母さん。天使と会ったことある?」

「私の事?」

 後ろに控えているミルが反応した。

「天使でしょ? あるわよ」

「そ、そっか。僕は生まれて初めて見るからさ、面食らっちゃって」

「あんたテレビも見ないし、新聞も読まないからね。その上忘れることが得意だし、また忘れたんじゃないの?」

「ふ、ふーん」

 天使という存在は、誰が知っていてもおかしくないようだ。新聞の記事にも書かれることがあるということは。ミルは知的障害があるのではなく、僕が知らなかっただけということだ。

 医者が口を開く。

「それでなんですが。この天使のミルさんは、人界にお茶会に来たということなんです。ですが泊まる家が無いので」

 母がびしっと僕を指さす。

「ソウタ、家に泊めてあげなさい」

「すいません。お世話になります」

 ミルが上品に言って頭を下げた。何か、僕の意見を無視して話が進んで言っている気がする。

「そんな」

「そんなじゃないだろ! この馬鹿息子。天使の女の子が困ってるんだ。優しく、泊めてあげなさい」

「わ、分かったよ。だけど、どうすれば」

「どうすれば、って何」

「メシとか、色々」

「家事なら私がします」

「ほら、ミルちゃんも譲歩してるんだから、あんたも納得しなさい。というかしろ!」

「わ、分かったよ」

 昔から母には逆らえない。勝気で男勝り。病院という場所がとても似合わない女性だ。

「じゃあ、えっと、ミルさん?」

 僕は後ろを振り返った。

「はぁい☆」

「お茶会まで、よろしくお願いします」

「こちらこそ!」

 ミルはどうしてか照れていた。嫁入りするわけでもないのに。

「それじゃあ、私はこれで」

 医者は下がっていくようだ。

「ありがとよ」

 母が親指を立てた。

 そして、医者とは入れ替わりに、外で待機していた警察の二人組が訪問してきた。ドアをノックする音がする。

「すいません。ちょっと時間をもらってもいいですか」

 カーテンは開かれていた。イカツイ顔をした壮年の男が一人と、柔道が強そうな、筋肉ダルマというあだ名が似合いそうな男が一人、こちらへ近づいてきた。

「警察かい?」

 母はとたんに嫌そうな顔をした。

「何をしにきたんだい。でも、悪いけど帰っておくれ」

 母は早口でまくしたてた。

「違うんです。田中さん。私たちは事情聴取に来た訳ではないんです」

 壮年の男が微笑みを浮かべて、ベッドへ近づいてきた。

「だったらなんだって言うんだい」

「都知事が息子さんに表彰状を送るとのことです。天使を助けたということで」

「へ、ふ、ふーん」

「都知事!?」

 僕はまたびっくりした。

 母は首を傾けて、

「ソウタ、やったぞ。都知事に会ってきな」

「悪いけど遠慮するよ」

 僕には言い分があった。有名になりたくないのだ。学校で寝てばかりの僕が都知事に賞賛されても、その賞賛に見合うような生活をする自信が無い。僕は、暗い悩みを抱えていた。

「何だよお前。気持ち悪いなあ。都知事が頭を下げてくれるって言うんだ。遠くにいるお父さんも、喜ぶぞ」

 僕は舌うちをした。

「仕方ないなあ」

 滅多に帰ってこない父。父さんが喜ぶのなら、都知事に会うぐらい安いものかもしれなかった。

 それから僕は、次の休みの日に都庁へ行くことになった。母の病室を出ると、警察が僕に事情聴取をした。最初の言葉は嘘だったようだ。でもそれは簡単なもので、僕はここに運ばれてきた時に医者に言った話を繰り返すことになった。そして、僕とミルは二人で病院を出た。



 帰り道。

 五月の夜はそれほど寒くなかった。スマホを取り出して見ると、午後八時過ぎ。いつもなら眠るためにベッドに入る時間である。

 帰宅途中の車が狭い道を走っていく。そのランプの明かりが僕たちを照らしては過ぎていく。遠くで踏切の音が鳴っていた。そしてどこかからか、料理の匂いがうっすらとする。

 僕とミルは前後に連なって歩いていた。先頭はもちろん僕。歩道が狭いせいで、並んで歩けない。

「あのー」

 ミルが遠慮がちに声をかけてきた。僕は立ち止まって振り返る。

「何?」

 ちょっとトゲのある声になってしまった。

「あの、ソウタさんは、力がとても強いのですね」

「弱いよ」

 僕はぼそっと言って、前を向いて歩いて行く。

「そんなことないです。私を抱えてジャンプした時、あの車の背丈よりも高く飛んでいましたよ」

「火事場の馬鹿力」

 僕は歩いて行く。

「火事場? ふんふん、ソウタさんはお強いのですね」

「弱いよ」

「私が知っている、宮本武蔵よりも強いかもしれません」

「何で武蔵を知ってるの?」

 僕だって、宮本武蔵ぐらい知っている。

「常識が無いんじゃなかったの?」

「お友達に聞きました」

「じゃあ日本の常識も、お友達から聞いてきてくれよ」

「はい、すいません」

「いや、怒ってるわけじゃあないんだ」

 僕はまた立ち止まった。

「貴方は、ミルさんって言うんだっけ」

「はい!」

 ミルは両手の平を合わせて握り、笑顔を浮かべる。ちょっとくらっと来た。カワイイと思ってしまった。

「ミルさん」

「ミルですわ」

「……ミルさん」

「ミルですわ」

「ミル」

「はぁい」

「ミルはなんで、ここに来たんだっけ」

「お茶会のためです」

「ふーん、お茶会ね」

 僕は左手に折れた。こっちの道路の方が、道幅が広い。二人並んで歩けるようになる。ちょっと遠回りになるが、それくらいかまわないだろう。

「天界にはお茶が無いんだっけ」

「うん。でも、天界のことについては、人間には秘密です」

「なんで?」

「秘密です」

「ふーん、まあ知りたくないけど。お茶会には何人が出席するの?」

「今のところ八人です」

「八人ね」

「皆、遠くに住んでいる友達です。ですがこの度は日本に集まり、親睦を温めるためにお茶会をすることになりました」

「なんで日本に集まるの?」

「それは、んー、言っても良いのでしょうか」

「ごめん、言わなくていいや。秘密なんでしょ?」

「うん」

「そっか。天使のことについて聞きたいけど、秘密なんじゃあしょうがないね」

「申し訳ありません」

「いや、いいよ。それよりミル、お腹空いてない?」

「空きました」

 ミルがお腹に両手を当てる。くーっと音が鳴る。ミルは顔を赤くして、てへへと笑った。

「梅屋……違う、メシ屋にでも行く?」

「いいんですか?」

「いいよ、ついてきて」

 それから僕たちは牛丼屋さんにご飯を食べに行くことになった。距離はそんなに遠く無い。梅屋の席は混んでいて、僕たちは牛丼を持ち帰りで買って、家に向かった。僕は間接的に天使についての質問を繰り出す。

「ねえ、天使は、このまっ黒の夜空を、星空にしたりできないの?」

「それは人間の仕事ですね」

「人間の仕事って?」

「つまり、いつか人間が成しえる偉業ということです。人間の手の届く範囲の仕事を、天使はしません」

「ふーん。じゃあこの世から、犯罪を無くしたりしないの?」

「しませんよ」

「そっか」

 人間の力でいつか犯罪の無くなる世の中が来るのかもしれない。

 僕たちのその場しのぎの会話が続く。でも、初対面の人同士の会話なんてものはそんなものだろう。これからミルが同じ家に住むのならば、仲良くなれるかもしれなかった。

「ねえ、お茶会っていつあるの?」

「夏です」

「七月? 八月?」

「八月の頭です」

「ふーん。お茶会が終わったら、やっぱり天界に帰るの?」

「もちろんです」

「そっか」

 僕はちょっとがっくりした。

その時思ったんだ。

あまり、ミルに辛いようにしてはならないと。だって、お別れが悲しくなるといけないから。

 それから、ミルが家に来てから、少しずつ日数が過ぎていく。


 *


 ミルが家に来たって、僕の生活は変わらない。眠るために学校へ行き、眠るために家に帰り、そして眠るためにベッドに入る。どうして生きているのか、よく分からなかった。

 家事はミルがやってくれているので助かっていた。ただ、料理以外はだけど。最初の朝に、ミルが作ってくれたお煎餅を焼き肉のタレで焼いた物を見た時、僕はげんなりとした。仕方ないのだ。彼女には日本の常識が無いのだから、料理が分からなくとも納得できた。

 問題は彼女の服のことだった。

 彼女は白いワンピースしか持っていなかった。僕は母の着物を貸して、彼女の着替えとしていた。もちろん寝る場所も、両親の部屋を提供している。

 あれから二週間ほどが過ぎた日曜日のこと。僕はミルのモーニングコール(扉のノック)で目を覚ます。時計を見ると、朝の七時だった。

「ソウタさん。朝です」

「分かった。今起きるよ」

 僕は寝間着から普段着に着替える。白のパーカーとデニムのズボン。そして脱いだ寝間着を持って部屋から出た。

「おはようございます。ソウタさん」

 部屋の外ではミル元気満天という顔で微笑んでいた。どうして朝からそんな風に元気でいられるのだろう。

「おはよう、ミル。今、メシ作るからさ」

「はぁい」

 ミルは両手の平を合わせて握った。

 僕らは一階に降りて、リビングとキッチンがくっついた室内に入る。僕はキッチンに立って、ベーコンエッグを二つ焼いた。お皿に載せてちぎったレタスとミニトマトを添える。トースターで、パンをこれも二枚焼き、お皿に載せる。リビングのテーブルに運んで、朝食の完成だった。

 ミルはしきりにテレビを見ていた。興味津々と言った風である。

「どうしたの?」

「見てください。天使が出ています」

 僕はソファに座り、テレビに顔を向けると、天使が本当に出ていた。フランスでイスラム過激派によるテロが起き、死傷者が五十人超出たようだ。日本人の被害は無いとのこと。しかし天使は無傷で生還したようだった。

「知ってる天使の友達?」

「いえ、知らない人です」

「それよりご飯食べようぜ。冷めちゃうよ」

「あ、はぁい。ありがとうございます」

「いいんだよ」

 僕たちはパンをかじった。

「ミル」

「なんでふか?」

 彼女は口をもぐもぐとさせながら応答する。

「今日さ、暇だったらで、いいんだけど」

「うん」

「お前の服を買いにいかないか?」

「服ですか? すいません、私はお金を持っていないのです」

 ミルは残念そうな顔をして、顔を落とす。

「いや、俺が出すよ」

 もちろんおこずかいからだ。

「そんな、悪いです」

 彼女は顔を上げる。

「いいんだって。それより、十時から行くから、準備しとけよ」

「ちょ、ちょっと待ってください。悪いです」

「行くから、準備しとけよ?」

 僕は有無を言わせずに言った。

「この御恩は、いつかお返しします」

「じゃあキスで」

「キスでいいんですか?」

「じょ、冗談だよ。冗談」

 そして僕たちは、十時から出かけることになった。


 *


 一週間前の土曜日、僕は都庁に行った。電車では無く、家に黒塗りのリムジンのお迎えが来た。僕は松本都知事に表彰状をもらい、カメラのフラッシュを浴びまくった。テレビカメラでも撮影された。おかげで僕は、新聞とテレビ、どちらにも出演にすることになり、恥ずかしいったらこの上無かった。帰りもリムジンで帰ることになった。

 次の日、学校へ行くと変化があった。同じ学校の生徒が、僕に好奇の視線を寄せるのである。その中には好意的なもの多く、友達たちも鼻が高いようで、その日は僕のテレビ出演の話題で盛り上がった。マコトなんかは自分のことのように喜んでいた。


 *


 ファッションセンターシラハマという服屋で、ミルはうんうんと悩んでいた。二万円渡してあり、好きなものを買ってくれと僕は言った。それにしても、なんだろう。同年代ほどの女子と一緒に歩くのは、こんなに素晴らしいものだったのか。素敵な気分になれる。それはミルが愛嬌のある顔立ちをしているからという事も、ずっと背中を押してくれていただろう。身長は低いが、百五十半ばほどで、髪は長く、腰まで届いている。そしてこれは僕の勘違いかもしれないが、彼女からは良い匂いがした。それは香水のようなものでは無くて、小型の飛行機の搭乗者だけが知っているような、高い天空の中にただずむ、淡い空気の匂いだ。

「ソウタさん。これとこれ、どっちが似合いますか」

 ミルは両手にブラジャーとショーツがセットになったものを一枚ずつ手に取り、こちらを向いていた。いつの間にか、下着売り場に来てしまったようだ。

「い、いや、そんなの、自分で決めろよ」

「嫌ですぅ。ソウタさんが、選んでください」

「む、無理だ。服ならまだしも、下着くらい自分で選んでくれよ」

「嫌ですぅ」

 ミルがぷっくりと頬を膨らませる。

 僕は勘弁してくれと思った。

「僕、ちょっと自分の服探してくるから」

「お待ち遊ばせ」

 ミルが左手の下着を元の場所にひっかけて、僕の手を握った。僕はまた彼女の方を向く。

「離してくれ」

「ソウタさん。ちゃんと決めてくれないと、私は困ってしまいます」

「いや、困ってるのは僕なんだけど」

「ソウタさん、青年の日本男子としては、女子をきちんとエスコートしなければいけないのではないですか?」

「いや、何でそんな常識知ってるの? それに僕はまだ少年だ」

「ソウタさん、早くしてくださいなぁ」

「そっちでいいよ」

 僕はミルが左手に持っている下着のセットを指さした。

「分かりました。これを二つ買いましょう」

 彼女はカゴの中に二つ入れ、また移動していく。僕の手を握ったまま。何だろう、懐かしい気分が溢れる。そうだ、小学校の入学式で、知らない女の子と手を握りながら体育館へ入場したあの時の気分だ。照れくさいのだけど、どこかほっとするような。恋人たちは、いつもこんな思いを味わっているのだろうか。そうに違いない。

 それから僕たちは、数枚の服とスカートをカゴに載せた。彼女の選ぶ服のセンスは、良いのか悪いのか良く分からなかった。実際更衣室で着てもらったが、ミルは顔にデンッと花が咲いているので、どんな服を着ても似合うような気がした。ただ、今は春であり、もうすぐ夏になるということで、ピンク色のものや花柄の物を僕は選ぶように誘導した。

 会計にて、お値段、一万八千円余り。残り千円ちょっと残っている。スマホで時間を確認すると、ちょうど十二時を回ったところだ。

 ファッションセンターを出ると、ミルはしきりにお礼の言葉を述べた。僕は荷物を持とうとしたが、彼女が固辞したので、僕は手ぶらだった。

「なあ、腹空かないか?」

「空きました」

「じゃあ、センタッキーへ行かないか」

「洗濯機?」

「いや、違う。鶏肉屋さんだ」

「行きます行きます」

「よしっ」

 ノリが良い奴は大好きだった。


 *


 センタッキーはそれほど混んで無く、僕たちは窓際の方を選んで座れた。僕はチキンサンドのセットを、彼女はカツサンドのセットを注文した。食事が来ると、僕はチキンにかじりついた。彼女はその様子を不思議そうに見ていた。

「どうしたの? 食べろよ」

「ううん。ちょっと考え事をしていました」

 ミルは少し眉を寄せる。

「考え事?」

「はい。これは秘密の話なのですが」

「秘密? だったら言わなくていいよ」

「いえ、聞いてください。人間というものは、誰でも鳥になりたいという願望があると聞いたことがありまして」

「鳥か。そうだな。鳥のように空を飛べるなら、自由だと思うぞ」

 僕はフライドポテトを二本口に放り込み、ドリンクのコーラをストローですする。

「じゃあソウタさん。鳥になりたいと言いながら、もう一度チキンを食べてください」

「いいぞ?」

 僕は気分が高揚していた。ミルと一緒に外食するのは、なんだか恋人同士みたいな気分だった。それを味合わせてくれる彼女に感謝していた。

「鳥になりたい」

 僕はチキンをかじる。

「おほほ」

 彼女は右手を口元に当てた。

「どうしたんだ?」

 僕はむしゃむしゃと、肉を咀嚼する。肉汁が半端無くおいしい。香ばしい匂いが、鼻いっぱいに広がる。

「鳥になりたいと願いながら鳥を食べるソウタさんは、どこか哀愁が漂っていますわ」

「哀愁?」

「ええ」

「まあ、別に鳥になりたい訳じゃなく。空を飛びたいだけなんだけどな」

「それはそうですね」

 彼女はまた微笑んだ。

「ご飯冷めるぞ」

「はい。いただきます」

 それから僕たちは、他愛のない会話を楽しみながら、食事をした。帰る頃になっても、僕らはまだ遊び足りなくて、百円ショップに行って物色したりした。


 *


 月曜日。

 朝、僕が学校へ行く支度をしていると、ミルがトースターでパンを焼いた。どうしたの? と訊くと、私にもこれぐらいできますとのことだった。……ふーん。僕はいつも通りベーコンエッグを焼いて野菜を散らし、ミルの焼いたパンと共に朝食を摂った。そしてカバンを持ち、家を出た。

 平日は、ミルは家でお留守番をしている。道路に出て、また事故を起こしてしまうといけないので、川辺の公園までしか行かないようにと言ってある。本当は外に出ない方が安全なのだけど、彼女だって外の空気が吸いたいだろう。咲き誇る花を見たいだろう。川の橋を渡る車の群を見て、何か考えたいだろう。そう思ったんだ。

 通学路を歩いて行く。僕の家から高校までの距離は、徒歩十分ほど。近いというだけで選んだ高校に行くのは、なんとも言えない気分だった。

 ふと後ろで不穏な足音があった。僕はびっくりして振り返ると、電信柱の影に身をひそめる人間の姿が確認された。

「マジかよ」

 間違いなくミルだった。もう見慣れた、さらさらとした長い髪が揺れたのを確認した。どうしてか僕を尾行している。

 僕は気づかないふりをして、また前を向いて歩いて行く。後ろから軽い足音がついてくる。僕はまた後ろを向いた。ささっと、家の角に影が隠れる。困った。仕方なく、僕は彼女の隠れた家の角に行く。そこには家の中を冒険する飼いネコのような無邪気な顔を浮かべたミルの姿があった。どこから持ってきたのか、サングラスをかけている。

「ミル」

「は? いえいえ、私はミルではありません。人違いでは無いでしょうか」

 彼女は顔を前で右手の平を振る。しかし、声はミルのものであったし、着ている服は、昨日ファッションセンターで勝ってきた花柄のワンピースだ。

「そのサングラス。どこから持ってきたの?」

「これは、お母様の部屋に、いえ、違います。私が買ったんです」

「どこで?」

「ファッションセンターシラハマです」

「いつ?」

「昨日です」

「誰と一緒に?」

「もちろん、ソウタさんと一緒に、ですわ」

「おいっ」

 僕は握りこぶしを掲げる。しかし叩くつもりはない。おどしだ。

「ひえっ」

 ミルが怯えた声を上げて小さくなり、両手で頭を押さえる。

 僕は盛大にため息をついた。右手を伸ばしてミルのサングラスを外す。

「なんでついてきたの?」

「それは、もちろんソウタさんを護衛するためです」

「護衛?」

「はい。この日本には、どんな悪が潜んでいるか分かりません。ソウタさんの肉体は、私がこの命にかけても守ってさしあげるしだいでございます」

「いや、日本って、世界でも一番安全な国なんだけど」

 僕は右手で眉間をもんだ。

「その油断が命取りなのです」

「で、本当の目的は何だ?」

「ソウタさんの学校を見たいと思いました」

 彼女は後頭部に右手を当てて、てへへと笑う。

 僕は呆れを通り越して苦笑する。

「じゃあ、ついて来いよ」

「いいのですか?」

「今日だけだぞ」

「ありがとうございますぅ」

「ふん」

 僕はまた、通学路を歩き出す。横にミルが並ぶ。

「ソウタさん。ソウタさんは高学歴ですか?」

「……低学歴」

「ソウタさんは、頭が良いと思います」

「それよりさ。なんで高校を見たいと思ったんだ?」

「ソウタさんの通う場所を見たいと思うのは、変ですか?」

「変だ」

 僕たちの歩く靴音が鳴る。家々のブロック壁を過ぎていく。彼女と一緒に歩いている姿を友達に見られたら恥ずかしい。でも、僕はこの間もっと恥ずかしい目にあったばかりだ。都知事に表彰された件で有名になってしまった。恋人が出来たと噂が流れても、かまうもんか。

 駅からほど近い学校につくと、僕は立ち止まった。

「これが学校だ」

 犬が伏せっているような格好をした建物。白いコンクリートは汚れ染みがいたるところにある。

「へー、ふーん。ここかぁ」

 ミルは瞳を大きくして吐息をついた。

「それじゃあ、お前は帰れよ」

 通学する生徒たちが、好奇の視線をくれては通り過ぎて行く。

「嫌ですぅ」

「は、何言ってんだ」

「ちゃんと中まで見ないといけません」

「ミル、いいか、良く聞け」

「はいさい」

「いいか。周りの生徒を見ろ、皆、どんな服を着ている?」

「えっと」

 ミルはキョロキョロと辺りを見回す。

「男性は黒色の服を、女性は紺色の服を着ています」

「学ランとセーラー服だ。それを着ないと、学校には入れないんだ」

「ほほぉ、つまり私は女ですので、セーラー服が必要ということですね」

「そうだ。お前持ってないだろう」

「はい、持っていません」

「分かったら帰れ」

 僕は今歩いてきた場所を指さす。

「嫌ですぅ」

 ミルはぷっくりと頬を膨らませる。

「何でだ」

「セーラー服をもらってきます」

「誰にだ」

「誰かにです。もういいですよ、ソウタさんは先に入ってください」

「マジか」

 もしかして、自分が天使であるということを良いように使って、誰かからセーラー服を取り上げかねない。それは、さすがにまずいだろう。

「違うんだ。ミル、いいか良く聞け」

「はいさい」

「セーラー服を着たとしても、お前はこの学校には入れないんだ」

「どうしてですか?」

 彼女は驚いた顔をする。

「あの、な。えっと、そう。校長先生の許可が無ければ、入れないんだ」

「ほほぉ。校長先生の許可ですね」

「ああ、だから、ミルは入れないんだ。帰ってくれるか」

「違います」

「何が?」

「間違っていますよ。ソウタさん!」

 彼女は謎を解いたどこかの名探偵のように声を張り上げた。

「な、何が間違っているって?」

「つまり、私はセーラー服と、この高校の校長先生の許可があれば、学校に入れるということです」

「……」

「だんまりですか。やはりソウタさん、犯人だったんですね」

「いや、何の話をしているんだ」

「ふふん、分かりましたソウタさん。今日のところは、帰ることにいたします」

「おお、そうしてくれるとありがたい」

「さようなら、ソウタさん。永久に。もう会うことは無いと思いますが、泣かないでくださいな」

 彼女は歩いて行く。

「おい、天界へ帰るのか?」

 俺の声に、彼女は答えなかった。

 ふと、後ろから肩を叩かれた。

「おっすソウタ」

 知っている声だ。友達のマコトである。僕は振り返る。

「おはよう、マコト」

「おいおい今のは彼女かぁ? ういうい、お前もついにリア充へ進化だな」

「いや違う。テレビで放送されたと思うけど、あいつは天使だ」

「天使? 今のが?」

 マコトはスポーツ刈りの頭を右手で触る。

「ああ、それより、教室へ行こうぜ」

「ちょっと待て」

 マコトは僕の首に手を回した。

「お前とあの天使の関係について、詳しく話してもらおうじゃねえか」

「話すことなんてないぞ」

「嘘つけ。今日は返さんぞ」

「お前部活があるだろ」

「さぼる!」

「とにかく、教室へ行くぞ」

「俺の冗談ひろってー」

「知らん」

 僕はマコトの手を振り払って、玄関へと向かった。


 *


 一年生の教室は、一棟の三階にある。僕は教室に入ると、窓際の一番後ろの席に腰を下ろした。最初の席替えで、誰もがうらやむこの窓際一番後ろを獲得できたのは、とても僥倖だった。ここならば寝てても気づかれないで済むことが多い。

 僕はまだホームルーム前だというのに、机に突っ伏した。もはや寝る態勢である。眠くて眠くてしょうがない。

「おいソウタ」

 またマコトがやってきた。僕は顔を上げる。

「何だ?」

「天使の話、聞かせろよ。今度一緒に遊びに行こう」

「それは駄目だ」

「何で」

 マコトは僕の前の席を借りて腰を下ろす。ちょうど前の席の女子は、いなかった。

「ミル……、あの天使は、日本の常識が無いんだ」

「ミルちゃんって言うんだ。うはー、カワイイ名前だなあ」

「話を聞け。道路に出たら引かれかねない。だから、一緒に遊びに行くというのは、却下だ」

 理由は、本当は違う。ミルみたいな素敵な顔をした女性を、男友達に会わせたくなかったのだ。それは嫉妬から来る感情だったのだが、僕は意識できずにいた。

「俺たちが守ってやればいいじゃん」

「とにかく駄目だ。ミルについては、お前は関わらんでくれ」

「おー、あー、お前、皆の天使を独占する気だな」

「何でも良いよ。とにかく、気にしないでくれ」

「ふーん。まあいいけど」

 チャイムが鳴った。担任の先生・倉成哲が教室に入ってくる。そこでびっくりした。倉成先生の後ろには、セーラー服を着たミルがくっついてきていたからだ。跳ねるような軽い足取りである。僕は開いた口が塞がらなかった。

「あれ、天使来てんじゃん」

 マコトが目をぱちぱちとさせる。

「マジか」

 僕は眠ることさえ忘れて、状況を見守るしかなかった。帰ったんじゃなかったのか。というかセーラー服をどこで仕入れたんだ。校長先生の許可をもらったのか。

「皆、ホームルームを始めるぞ。席につけ」

「ソウタ。後でな」

「うん」

 マコトが自分の席へと戻っていく。教壇に立つ先生とミル。彼女は教室中を眺めまわして、僕を見つけるとペロリと舌を出した。先生が口を開く。

「皆、突然だけど、今日からこのクラスに編入性が来ることになった。天使のミルさんだ。よろしくな」

「よろしくお願いいたします」

 ミルが上品に腰を折って、頭を垂れた。

 クラスメイトの、特に女子の声が飛ぶ。

「天使?」

「え、この前の事故の?」

「すっげカワイイ」

 先生が手を叩く。

「はいはい、静かにして。それじゃあ、ミルさん。自己紹介をお願いします」

「はい」

 彼女は胸を張った。

「皆さま、私はミルと申します。趣味は散歩です。何卒、よろしくお願いいたします」

「はいはーい」

 女子の一人が手を上げた。

「はい、武藤」

 先生が名指しする。

「ミルさんは。天使だということですが、どうして人間の世界に来たのですか?」

「決まっています」

 ミルは人差し指を立てた。

「お茶会をするためです」


 第二章


 *


 休み時間になると、僕は教室に生まれた新しい席の生徒に会いに行った。

「おい、ミル」

「はぁい。ソウタさん、奇遇ですね。こんなところでどうしたんですか?」

「奇遇も何もねえだろ。お前、そのセーラー服、どうしたんだ?」

「借りました」

「誰から」

「先生からです。何でも、展示用のセーラー服だそうで」

「ふーん。それで、校長先生の許可をもらってきたんだな」

「もちろん」

 彼女は親指を立てる。

「天使だと言ったら、簡単に編入を許してくれましたわ」

「マジか」

「何か、お困りでしょうか」

「いや、いいんだ。それよりも」

 生徒たちが、こちらに興味津々と言った瞳を輝かせている。

 僕は悩んでいた。これはどこの誰にも言えることだが、新しい環境に入ったのなら、まずすべきこと。それは人間関係の構築である。つまり友達作り。それに失敗したのなら、暗澹たる生活を余儀なくされる。僕はミルを友達だと思ったことは無い。それ以上に仲の良い関係だと自負しているからだ。同じ屋根の下に住んでいるのだ。僕は、彼女の友達作りを手助けする義理があった。

 ほっとけばいい。

 畑に植えたジャガイモのように、水などくれずに育てた方が良く育つかもしれない。だけど僕はおせっかいだった。

「おいマコト」

 近くの席で様子を見守っていたマコトが、びくっとした表情をする。

「来いよ。紹介するからさ」

「ああ」

 びっくりしていたものの、やはりミルに興味があるようだ。

「待ってました。電光石火、俺参上」

 マコトはひらりひらりと机をかきわけて、こちらへ来た。

「誰ですの?」

「俺の友達。マコトだ。サッカー部に所属してる」

「うんうん。それより天使様に会えるなんて、俺、なんか超感激。スプーン曲げとかできるの?」

「できません」

「おいマコト。エスパーと天使は違うだろ」

「え、違うの? でも、天使だったら翼があるんじゃないか? 空を飛べたり、できないのか?」

「それは……」

「おいマコト。無茶言うなよ」

「へー、じゃあ何ができるの?」

「掃除ができますわ」

「洗濯もできるしな」

「普通すぎてかっけー。そうなんだ。ミルっち、今日からよろしくな」

「こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」

「あ、僕、ちょっと離れるよ」

「どこ行きますの?」

「どこ行くんだ?」

 二人の声が重なる。

「委員長に用事があってさ」

 僕はクラス委員長の女子の席に近づいて行った。彼女も僕たちの方を見ている。

「よう、委員長」

「何? ナマケモノくん」

 この委員長は、中学時代からの知り合いだ。名前は、一之瀬リリコと言う。メガネをかけていて、髪はショート。理知的な女性だ。真面目で頭も良い。そんな彼女がどうしてこんな馬鹿校に入学したのか。それには深い訳がある。

「実は一生のお願いがあるんだけど」

「何よ畏まって。今朝は悪い物でも食べたの?」

「違う。今日の昼休み、暇か?」

「えっ?」

 リリコはびっくりした表情をした。

「いや違うんだ。今日の昼休み、僕と、ミルと一緒に、ご飯を食べてくれないか」

「へえ、ふーん。一つ聞いていい?」

「ああ、何だ?」

「ソウタとミルさんは、知り合いなの?」

「訳あって、そういうことになる。ああ、知り合いだ」

「あの、テレビで知事から表彰状をもらった件のこと?」

「良く分かるな。そうだよ」

「良く分かるって、誰でも知ってるし。まあ、とりあえず分かったよ。ただし」

「ただし、なんだ?」

「もちろん貸しよね」

「……モチよ」

 僕は彼女の席を後にした。


 *


 それから、授業が一つ一つ終わっていく。

 僕はやはり眠っていた。いや、眠っているというのは少し違う。机に突っ伏して、眠っているふりをしているのだった。本当に眠ればいびきをかいてしまう。

 昼休みになった。

 僕はいつものようにカバンから弁当箱を取り出して、顔をしかめる。ミルは弁当を持ってきていないだろうに。僕らの弁当は昨日の夕食の残りだが、ミルの分の弁当は家にあるはずだ。思い返すと、朝彼女は手ぶらだった。

 僕はミルの席に行こうとして、踏みとどまる。すでに彼女の席には、クラスメイトの女性が群がっていた。様々な質問が飛び交っている。その様子を見て、僕は安心した。どうやらおせっかいをせずとも、彼女は友達を作れそうだった。だから、それを邪魔するのは、ちょっと罪悪感があった。

 僕は弁当箱を持って立ち上がり、マコトの元に向かう。

「マコト、めし食おうぜ」

「ああ、いいよ。でもお前はミルっちと食べるんじゃねえの?」

「ミルも一緒に食う。食堂で食べよう」

「食堂? 何で? ここで食えばいいじゃん」

「ミルが弁当を持ってきていないんだ。買わなきゃいけない」

「そうか。分かった」

 マコトは弁当を持って立ち上がる。

 僕はミルの席に向かった。群がる女子の隙間から彼女に声をかける。

「ミル、メシ行こうぜ」

「ちょっと、横から入ってこないでよ」

 気の強い女子が反感を口にする。

「うるせえな。おいミル。早く行くぞ」

「え、あ、はい」

「ちょっと待ちなよ。ミルはあたしらと弁当食べるから。男子はどっか行ってて」

「そうそう、ここは男子禁制でーす」

「ソウタくんと食べます」

 ミルが小さな声で言った。

「え、いま、なんて言った?」

 取り巻きの女性の一人が語気を強くする。

「ソウタくんと、一緒に食事します!」

 ミルは大声で言って、席から立ち上がった。

「え、へえ、そ、そう」

 女子が気弱になる。僕は自分の顔が真っ赤になる音を聞いた。心臓が早鐘を打っている。

「ミル、行こう」

 僕は彼女の手を握る。

「はぁい」

「マコト、行くぞ」

「おういぇー!」

 僕はミルを連れて教室の前に移動し、廊下側のリリコに声をかけた。

「委員長、一緒にめし行くぞ」

 彼女はノートになにやら書いていた。シャーペンを下ろす

「わ、分かったけど。ちょ、ちょっと待ってよ」

 リリコはノートと筆記用具を片付けて、カバンを持った。

「どこ行くの?」

「食堂だ」

 僕たちは教室を出た。


 *


 食堂はそこそこ混んでいた。直方体の広い空間に、全部で五十人は座れそうな長テーブルが並んでいる。リリコとマコトに席を確保してもらい、僕はミルの分の食券を買いに行った。

「ミルは何食べる?」

「私はなんでもいいです」

 どうしてか彼女は頬を上気させている。これからメシを食うだけなのに、変な奴だ。

「うどんで良い? それともラーメン?」

「ラーメンが良いです」

「そっか」

 僕は券売機でお金を払い、カウンターに出しに行った。すぐに、三分ぐらい待ってラーメンが出てきた。

「はい一丁」

 食堂のおばさんが男前に言う。

 僕はラーメンが載ったオボンを受け取り、ミルに渡した。

「ありがとうございます」

「いいんだよ」

 僕らはマコトとリリコがいる席に向かった。二人は仲が良い訳では無かったが、マコトがいつものノリでリリコに話しかけていた。

 僕とミルは対面同士になって腰を下ろす。僕の隣にはソウタ。ミルの隣にはリリコがいる。

「それにしても、ミルっちに群がる女たちは、すごい人気だったな」

 マコトがハンバーグを箸で口に運ぶ。

「本当、私、天使様なんて、初めて会うんだけど」

 リリコの言葉に、ミルがてへへと笑う。

「リリコさんでしたよね」

「うん」

「これから、よろしくお願いいたしますね」

「よろしく頼むぜ委員長」

 僕はぶっきらぼうに言って、弁当と格闘を始める。

 リリコがミルの方を向いて微笑み、そして僕を見て唇をとがらせる。

「よろしくね。それと、ソウタ、何その言い方」

「いや、口が悪かった。許してくれ」

「ふーん」

「リリコさんとソウタさんは、友達なのですか?」

 僕たちは苦笑いを浮かべる。

「友達かな?」

「中学時代のクラスメイトでしょ」

「まあ、そんな感じだ」

「なるほど。ソウタさんの旧友でしたら、私も心してかからねばなりません」

「旧友かな?」

「それでいいでしょ」

「まあいいか」

「おーい、俺を抜かして会話しないでくれ」

 マコトが涙目になっていた。

「マコトさんでしたよね」

「おう、ミルっち。俺のことはマコトでいいぞ」

「マコトさんは、ソウタさんとはどんな仲なのですか?」

「まだ出会って一か月しか経ってないよ」

 僕が答える。

「マコトでいい……」

 またマコトが涙目になっていた。

「ふんふん。なるほど。良く分かりました」

「ミルさん、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど、いいかな」

 リリコのメガネがギラリと光った。

「ミルちゃん」

「ん? ミルちゃん?」

「はぁい」

「あ、ミルちゃんって呼べってことね。で、それでなんだけど、ミルちゃん。ちょっと相談があるんだけど」

「ほいほい」

 ミルがラーメンを一口すする。口をもごもごとさせて、幸せそうな顔をする。一杯五百円のラーメンでしかないのに、安い女だと思った。

「このナマケモノこと、ソウタなんだけどさ。授業中に毎回寝てるの。何とかならない?」

「ならない」

 僕はぶっきらぼうに言った。

「そうですねえ」

 ミルは両腕を組んで考える。

「んー、そもそも、ソウタさんの興味を引くような授業をしない先生も悪いのではないですか?」

「それは、この桜川高校じゃあ、面白い授業をする人なんていないよ」

「んー、それでは、耳に洗濯バサミをして授業を受けさせる、というのはどうでしょうか。痛みで神経が覚醒するかもしれません」

「それだ!」

「そうだな」、とマコトも賛成の声を上げる。

「そこ、うるさいぞお前ら」

 僕は身が小さくなる思いだった。二人の女子が僕のことを話している。それは気分の悪いものではなかったが、触れて欲しくない話題だった。僕は月に一回精神科に診察に通っている。夜に深い眠りをもたらすような薬も飲んでいる。それでも治らないのだ。

「ごめんなさいソウタさん」

「いや、いいんだ。だけどさ、ミルもリリコも、俺のこの病気については、あまり触れないでくれ」

「病気?」

 リリコがびっくりしたような顔をする。

「ああ」

 ふと、時計を見ると、もうすぐ昼休みが終わろうとしていた。僕たちは歯切れの悪い会話をしながら、食事を続けた。


 *


 教室へ帰ってみると、嫌な感じがした。クラスメイトの視線が奇妙に歪んでいる。

 僕はどうしたのだろうと思い、教室を見渡すと、黒板に異変があった。

 僕とミルの名前がでかでかと書かれており、相合傘になっている。僕は嫌悪した。マコトは危険を察知したライオンのように警戒をしたし、リリコは眉を寄せて深刻そうな顔になった。しかしミルだけは顔を真っ赤にして、微笑んだ。

 僕たちがぼそぼそと、「どうする?」「誰だ?」「誰なの?」と会話をしていると、ミルが一番に黒板へ向かった。そして白色のチョークを取り、相合傘の上に、ラブラブと書いた。僕らは笑ってしまった。ミルは教室を振り返り、両手を腰にあてて、えへんっ、と胸を張った。クラスメイトの、相合傘に関わっていないだろう生徒からも笑いがもれる。

「あんたら付き合ってるの!?」

 女子の一人が声を上げた。おそらく、現行犯のグループの一人だろう。

「もちろんですわ」

 ミルが親指を立てた。

 僕は笑った。腹をひくひくとさせて声を出した

 事実は知っての通り、僕とミルはラブラブでは無かったし、付き合ってもいないけれど、ここはそう言うことにしておこうと思った。そして、田中ソウタと天使のミルが付き合ったという噂は、学園中を駆け抜けていく。

 これは放課後のことだ。

 僕が帰りの支度をしていると、あからさまにヤンキー然とした男が訪ねてきた。両耳と口にピアス。学ランはボタンを留めずにはだけている。廊下にはヤンキーの仲間がたむろしていた。僕は震えた。もしかして、ミルと付き合ったということで、調子に乗っていると判断され、不良のリンチにあうのだろうか。僕は震えた。

「お前、天使と付き合ったって、本当か?」

 肩を叩かれる。

「は、はい。それが、どうかしましたか」

「どうかしましたかじゃねえ!」

 不良は叫んだ。

「ひぃ」

 不良は右拳を僕の腹に当てた。

「やるじゃねえかお前」

 不良はクールに言い放って、僕の席を後にした。

「ソウタさん、大丈夫ですか」

 ミルが駆け寄ってくる。

「ああ、なんだったんだろう」

 廊下で爆笑が起こる。おそらく、不良の仲間たちの声だろう。そして笑い声は遠のいていく。

 そして僕たちは、高校の不良にも認められて、公認カップルとしてスタートしたのである。もちろん、本当は違うが。


 *


 帰り道、僕とミルは並んで歩いた。五月の夕焼けが、空に燃えている。町の花は次々に交代しては芽吹いていく。皐月が咲いていた。なるほど、五月は皐月である。道行く車が次々と走っては過ぎていく。排気ガスの匂いに、僕は顔をしかめた。

「あの」

「なんだよ」

 遠慮がちなミルの声。

「怒ってますか?」

「怒ってる? 何に?」

「私が勝手に、学校に編入したことです」

「別に」

 僕は空を向いた。怒ってはいないが、無関心というわけではない。それに、今日は色々あった。でも、

「逆だ」

「逆とは?」

「感謝してるんだ。お前には」

「感謝ですか?」

「うん。だって」

 ミルが黒板にラブラブと書いた時から、僕は気分が爽快だった。高校に行って、初めて心の底から笑った。そんな気持ちをくれた彼女が、いとおしかった。

「俺は、とにかく怒ってないから」

「なら良かった」

 ミルは両手を合わせて握る。

 僕は夕焼けに目をやった。美しい。だけど、隣にいる彼女はもっと。

「あのー」

「なんだ」

 またまた、遠慮がちなミルの声。

「実は、ソウタさんに相談があるんですが」

「相談ねえ、話してみそ」

「実は、お茶会の件なんですが」

「うん」

「ただ行くだけではダメだと思うんです。何か、出し物というほどのものではなくとも、特技みたいなものを披露しようと思ってて」

「まあ、何かあったほうがいいかもしれないな」

「でも私は、特技が何もないんです」

「じゃあ、これから考えなきゃなあ」

「はい、そうなんです」

「お茶会はいつだっけ?」

「八月の頭です」

「ふーん。じゃあ、一発芸でも考えてみれば?」

「……一発芸とは?」

「知らないのか。じゃあ、モノマネとか」

「モノマネ……、何かのまねをするということですか」

「そうそう、芸能人とか」

「芸能人は知っている人がいません」

「マジか。んー、お前の得意なことは?」

「食べることですっ」

「じゃあ、料理がいいんじゃねえの?」

「料理ですか。ソウタさんみたいに、上手く作れるでしょうか」

「いや、僕も上手くないから。そうだなあ、お菓子でも作って、持っていけばいいじゃん。お茶会なんだし、お茶菓子でぴったりだ」

「ふんふん。でも、インパクトに欠けるのでは?」

「インパクトなんて、どうでもいいんじゃないか。大会じゃあないんだろうし」

「ほむほむ、私的には、歌を披露しようと思っているんですが」

「お前、歌上手いの?」

「鼻歌ならば」

「鼻歌じゃあ……駄目かもしれないぞ」

「でも、私は歌を知りません」

「ふーん。じゃあ、レンタルショップに寄っていくか」

「レンタルショップ、とは?」

「好きな歌を、お金を出して借りれるんだ。俺も選んでやるよ」

「お金、かかるのですか?」

「それほどかからない、よし、行くぞ」

「あの、この前もお金を出してもらったばかりですし」

「うるさい行くぞ」

 僕は彼女の手を取った。


 *


 レンタルショップ・ツルヤでミルは様々な歌を試聴した。僕は最近のJッポップにこそ明るくなかったが、昔のヒットソングならば知っていた。様々な曲を持ってきては、ミルに渡す。ミルはぴょんぴょんと跳ねながら音楽を聞くので、店員からにらまれた。しかしミルは気づかない様子であり、僕が注意の視線の的になった。

 小一時間ほど音楽を聞いてからの彼女の感想。

「イイのありましたぁ。これで行きます!」

 ムーシャというバンドの曲が気に入ったのか、彼女はディスクの入ったケースを渡して来る。僕はそれを店から借りた。

 それから、なんと僕たちはカラオケに行くことになった。ムーシャの覚えた曲を早速歌いたいというので、僕がカラオケを紹介したのだ。

 そして、彼女の歌う歌とは……

「いつでも~ どこでも~ 貴方~を、想っているよ~」

 音痴だった。

 壊滅的だ。

「私は~、この奇跡を~ いつま~で~も、大切~に、するよ~」

 練習させたって。

 きっと上手くならないだろう。

 植物が歩けないのと同じだ。

 彼女には、歌の才能が無かった。


 *


 次の日の昼休み。

 僕らは昨日と同じメンバーで、教室の隅にいた。空いている席を使わせてもらって、四人で各々の弁当箱をつついている。昨日の夜に二人分の弁当を作ったので、ミルも弁当だ。昨日僕らを攻撃の的にしたと思われる女子のグループは黒板前を陣取っており、時々こちらに嫌な視線を飛ばす。ま、そのうち慣れるだろう。

 僕とミルは、リリコとマコトに昨日あったことを言った。

「へぇ~、ミルっち、音痴だったんだ」

「ふーん、私、カラオケなんて行ったことないけど。でもお茶会の出し物か。困ったわね」

「僕は料理で良いと思うんだけど」

「私も料理しかない気がしてきました」

「何作るの?」

「お茶会なんだから、お菓子でいいんじゃない?」

「まあ、そうだよね」

「私に作れるでしょうか」

「作れる作れる。無理だったら、ソウタに習えばいいじゃん」

「そうそう」

「そうそうって、僕は料理できるけど、お菓子は作ったことないぞ」

「むぅ」

「レシピ通り作ればいんだよ」

「それか、家庭科の先生に習うとかね」

「家庭科の先生かぁ」

「それです!」

 ミルは両手の平を合わせて握った。

「私、放課後に家庭科の先生にお菓子作りを習いに行きます」

「へぇ~、ソウタ、大変だなあ」

「大変ねえ」

「なんで僕が大変なんだ?」

「保護者だろ」

「付き合ってるんでしょ? 手伝いなさい」

「お世話になります」

 ミルが上品に頭を垂れる。

「それは……」

 睡眠時間が少なくなる。家に帰って夕食の準備や弁当作りを考えれば、就寝できるのは早くても九時……。僕の脳がカラカラと音を立てて回転した。

「ぼ、僕は」

「しなさい。ってかしろ」

 リリコがきつい表情で言う。

「天使の手助けなんて、もう一生できないかもしれないんだからね」

「そうそう。ソウタ、天使を助ければ、死んだ後、天国へ行けるかもしれないぞ」

「そ、そうだなあ」

 実際の気持ちとしては、天国に行くよりも生まれ変わりをしたかったが。しかし天国に行くというのも悪い話ではない。

「あの、それは神様が決めることなので」

 ミルが半笑いで右手をあげる。

「決定! ソウタは放課後、職員室の家庭科の先生を訪ねること。そして二人で、お菓子作り同好会を結成すること」

 リリコが両腕を組む。

「……、リリコ、お前も確か、放課後暇だよなあ」

「ま、まぁ、私も暇だけど」

「ふーん、これで面子は三人か。おいマコト。お前は入らないか?」

「いや、私を入れないでくれない?」

「五時半以降なら行けるぜ」

 サッカー部は朝練が激しいので、夕方は少し早く終わる。

「じゃあ六時までやろう。よかったな、ミル。皆手伝ってくれるってさ」

「やりました☆」

 ミルがバンザイをする。

「ま、まぁ、いいけどさ。言っておくけど、今年だけなんだからね」

「大丈夫だよ。リリコ」

「私は人界にいるのは、八月までですから」

「そうなの?」

「うん」

「じゃあ、皆で天国に行けるように、ミルっちのご機嫌とりまくらなきゃあいけねえな」

「それは、神様が」

「ま、天国がかかってるのなら、やるっきゃないか」

「うんうん」

「な、なんだかすごい誤解をさせてしまっていますが、あえて訂正せずにおきます」

「よし、じゃあ後はあれね」

「あれだな」

「あれですね」

「あれってなんだ?」

 僕は分からなかった。

「ソウタさん、決まってるじゃないですか」

「うんうん」

「そうよ」

「私たちの名前を決めるのです」


 *


 昼休みが終わり、僕らは放課後までに同好会の名前を考えることになった。僕は机で眠ったふりをしながら、一生懸命考えていた。どんなのがいいだろう。ポイントは、お菓子を作る同好会だと言うこと。マスコットとしては、天使のミルがいる。これははずせないだろう。安直だが、ミルクッキー言うのはどうだろうか。クッキーはお菓子だし。


 *


 放課後、マコトは部活に行ってしまった。残された僕ら三人は、一棟の一階にある教員室を訪ねることになった。

「お菓子作りか」

 阿部ナツミ先生が、話を聞いてくれた。この学校に家庭科の先生は二人いる。ナツミ先生は僕らのクラスの家庭科の授業も担当していた。

「引き受けてもいいよ。でもちょっと待ってね。色々、手続きが必要だから」

 僕らは隣の会議室で、先生の手続きが終わるのを待つことになった。その間、僕らは考えてきた同好会の名前を出し合うことになった。

「それでは、まず私から行きます」

「おう」

「なんだか緊張するね」

 リリコが自分の体を抱きしめる。ミルが続ける。

「私は、ザ・ラーメン菓子」

 室内に静寂があった。

「ど、どうですか? 駄目ですか?」

「ミルちゃん、ラーメンっぽいお菓子を作りたいの?」

「もちろんです」

「べ、ベイビーラーメンみたいなもんか」

「なんですか? その、ベイビーラーメンというのは」

「市販されてるお菓子だよね」

「ああ」

「む~、パクリは良くないですよね」

「じゃあ次行ってみようぜ、リリコ」

「私? ソウタが先言ってよ」

「お、俺か。俺は、なんて言うか、超安直なんだけど」

「ドキドキしますね」

「安直でも何でもいいよ」

「えっと、ミルクッキー」

 室内にどよめきがあった。

「いいんじゃない?」

「私もイイと思います」

「そっか。良かった」

「じゃあ最後に、リリちゃん」

「私ね、私は、トキメキラビリンス」

 室内に寒風が起こったような気がする。

「な、なによ。何だって言うの?」

 僕とミルは顔を合わせて笑った。

「な、何で笑うの?」

「リリコ、一応名前の由来を聞いてもいいか」

「いいわよ。おいしいお菓子を食べたお客さんが、幸せの迷宮に入って抜け出せなくなるっていう思いを込めたんだから」

「なるほどなあ」

「ほほぉ、リリちゃん凄い」

「でしょ? 良い名前でしょ?」

「じゃあ、どれにする?」

「マコトさんの考えた名前を、まだ聞いてませんが」

「あいつ、何でも良いって言ってたよ」

 僕は六限が終わってすぐに、マコトに尋ねていた。

「この三つから選びましょうか」

「ザ・ラーメン菓子で良いと思う」

 僕は言った。ミルクッキーも安直で扱いやすいと思うが、インパクトが足りない。トキメキラビリンスは、……コメントしづらい。

「私はミルクッキーが良いと思います」

「わ、私は、トキメキラビリンスが良いと思うんだけど」

「ザ・ラーメン菓子で決定な」

「何よ? 何であんたに決定権があるの? もしかして、同好会の会長をやるの?」

「いや、会長はミルだろう」

「じゃあ何? 闇の支配者って訳? 政治家みたいね」

「何で怒るんだよ。分かったよ。じゃあトキメキラビリンスで行くか?」

「うん」

「ミルクッキーで行きます」

 ミルが両手の平を合わせて握った。

「ミルちゃん、良いの?」

「良いんです。なぜかと言えば」

 ミルは二人を眺める。

「私が会長ですから」


 *


 五時半になると、マコトが部活を終えて会議室へ来ていた。

「へぇ、ミルクッキーって言うんだ。良い名前じゃん」

「そうかなあ」

「そうそう。ソウタ、お前結構、命名の才能あるんじゃね?」

「どんな才能だよ、僕はただ、ミルが中心にいるからと思ってだな」

「私が中心ですか?」

「ま、そりゃそうね。ミルちゃんの名前が入っている名前が、一番しっくりくるかも」

「まあ何でもいいや。それより、家庭科の先生はまだなの?」

 マコトが言って振り向き、掛け時計を確認する。

「それが待ってるんだけど。中々来ないわね」

「おいおい、もう六時なるぜ?」

「もう一回教員室に行ってみましょうか」

「そうね」

「んだな」

「そうだね」

 皆が納得して立ち上がった頃、突然会議室の扉が大きな音を立てて開かれた。

「お待たせっ」

「ナツミ先生!」

「遅いですよ」

「やっと来たか」

「やっとか」

 ナツミ先生は、会議室に入ってくると興奮冷めやらぬと言った風で、僕たちを眺めまわした。

「皆、夏休みの初めに、池袋で夏祭りがあるのは知ってるかい?」

「初耳ですわ」

「そっか。ミルさんは天使だものね。知らなくて当然だわ。実はね、その運営員の中に親戚がいて、頼んだら屋台のスペースを提供してくれることになったわ」

「は?」

 リリコが疑問符を吐く。僕も同じ気持ちだった。

「登山には頂があって当然。行動には目標があってしかるべきよ。そうじゃないと、どこに進めば良いか分からなくなるわ。君たち、夏祭りにお菓子を売るという目的が定まったのならば、心してかかりなさい」

 僕たちは圧倒されていた。確かに、先生の言い分は分からなくもない。それに夏祭りでお菓子を売るというのならば、それは貴重な体験であり、楽しいかもしれない。しかし、

「先生、私たち、そんなに本格的にやるつもりはないんです」

「ありがとうございますぅ☆」

 リリコの声は、ミルの感謝の言葉で打ち消された。確かに、僕もリリコの言葉に同意するような気持ちもあったが、ミルがやる気になるというのであれば、やるっきゃない。

「よし、皆! 明日から、お菓子作りに励むわよ!」

「先生、予算はどこから出るんですか?」

 マコトが訊いた。

「ちっちっちっ」

 先生は人差し指を振る。

「運営委員が、天使の祭りへの参加ならば、可能な限り出してくれるそうよ」

「ふぇー」

 リリコが驚いて声を出す。

「その代わり、ミルさんのことを、宣伝に使わせてもらうということになったけどね。その点、ミルさんも良いかしら?」

「はい、かまいません」

「よし! じゃあ今日は、解散!」

 時計を見ると、すでに六時を過ぎていた。


 *


 帰り道。

 僕とミルはいつものように並んで歩いていた。ミルが先ほどからうんうんと悩んでいる。聞くと、どんなお菓子を作ったらいいか分からないでいるらしい。僕は言った。

「ミルは、どうして同好会の名前を、ザ・ラーメン菓子にしようと思ったの?」

「それは、あの、昨日のお昼に食べたラーメンがとてもおいしかったので」

「じゃあ、やっぱりラーメン菓子を作ればいいんじゃないの?」

「そうなんですが」

 ミルは「はふぅ」とため息をつく。

「ラーメンをどうやってお菓子にしたらいいでしょうか」

 そこまでは考えていなかったらしい。

「ん~、ちょっと待ってな」

 僕はスマホを取り出し、検索エンジンで調べる。キーワードは、「お菓子」「ラーメン」だ。調べると、記事がいっぱい出てきた。一番最初にヒットしたのは……。

「チョコレートラーメンなんて、良いんじゃないか?」

「チョコレートですか?」

「ああ、作ってる人もいるらしい」

「チョコレートとは、どんな味がするものでしょうか。お菓子ですか?」

「お前、チョコ食べたこと無いの?」

「はい」

「じゃあ、ちょっと行くぞ」

「また買うのです?」

「うるさいな、チョコなんて百円だよ」

 僕たちはコンビニへ行った。僕は板チョコを買い、外に出てミルに食べさせてみる。

「甘い☆」

「そりゃあ、チョコだからな」

「この、お菓子はすごいです。こんなお菓子を持って行けば、他の天使の皆さんも、驚くと思います」

「うん、かもしれないなあ」

 チョコ食べたことが無いのは、ミルだけだったらどうするんだろう。

「かもしれないではありません。こんなにおいしいものが人界にあるなんて。まるで天国にいるような気分です」

「そんなにびっくりするんなら、もっと早く食べさせてやれば良かったな」

「いえいえ、私の胸は今、感謝でいっぱいです」

「そうか、良かった」

「これを具に使いましょう」

「ラーメンの具に?」

「はい」

「ふーん」

 どんなラーメンになるんだろう。お菓子の範疇に収まれば良いのだが。


 *


 翌日の昼休み。

 僕らは昨日と同じように、教室で机をくっつけて、弁当を食べていた。自然に、昨日の僕とミルのチョコレートの件が話題に上がる。

「えっ? ミルちゃん。チョコ食べたこと無かったの?」

 一番驚いたのはリリコだ。

「はい。昨日食べて、それはもう夢心地でした」

「夢心地ね。やっぱり同好会の名前はトキメキラビリンスが良いんじゃないの?」

「何だそれ」

 マコトが突っ込んでいた。リリコは鼻白む。

「何って、同好会の名前よ」

「そんな恥ずかしい名前、お前の脳味噌から良く出てきたなあ」

「う、うるさぁい」

「とにかく、ラーメンにするんだったら、スープが必要なんじゃないか?」

「そうですそうです」

 ミルは両手をにぎにぎする。

「ふーん」

 リリコは両腕を組んだ。そして続ける。

「チョコレートにマッチするお菓子と言えば、アイスじゃない?」

「ソフトクリームって言う手もあるけどな」

「コーヒーはどう?」

「皆さん、私には皆さんの言う名詞がさっぱりで」

「放課後に食べに行こう」

 リリコが言った。

「いいのか? お前、金出すの?」

「そんな訳ないでしょ。あのねぇ、ソウタ。ミルはあんたの恋人なんだから」

「そうなのか?」

「違うんですか?」

 ミルが両目をうるうるとさせていた。

「……おごってやる」

「お世話になります、いつもいつも」

「ふーん」

 リリコはどこかつまらなそうな顔で、弁当のおかずをつまんだ。

 そして時間が流れていく。


 *


 放課後。

 学校から一番近いデパートに、僕たち三人は行った。そこでさまざまなお菓子をミルに食べてもらうことになった。アイスクリーム、ソフトクリーム、パフェ、色々だ。デパートには色んなお店が入っていて、服屋、市場、時計屋、メガネ屋、そしてお菓子屋さん、様々だった。人が溢れていて、デパートは賑わっていた。様々な香りがする。清涼感のある匂いだった。クーラーをつけ始めた店内はひんやりとしていた。

 三十分も食べ歩くと、ミルは根を上げた。

「も、もう食べられません」

 お腹はいっぱいになった彼女は、そう言って崩れ落ちそうになった。転びそうになるミルの体を僕が支える。

「もう食べられないか?」

「はぁい」

「リリコ、まだ食べてない物はあるか?」

「あるよ。ケーキ屋さんにまだ行っ無いわ」

「ケーキ?」

 ミルがまた分からない名詞のようで、目をぱちくりとさせる。

「それは持ち帰りでもらって、夜に食べさせることにするよ」

「ありがとうございますぅ」

「いいんだって。それよりミル。ラーメンにするんなら、具だけじゃなくて、麺も考えなきゃいけないんじゃないか?」

「そうですね。麺はさっき食べた伸びるアイスでいいんじゃないですか」

「トルコの奴ね。でも、それだと溶けそうね」

「でも、冷えたスープなら、行けるんじゃないか?」

「いや、もっと良いのがある」

 リリコが親指を立てた。

「ところてんよ」

「……いや、駄目だろ」

「何で? ところてん、おいしいじゃん」

「うーん。チョコレートと合うかなあ」

「それは、ちょっとげんなりかも」

「お餅がいいんじゃないです? さっき食べた」

「わらび餅か!」

「はい。あれならば」

「良いかもしれない!」

 リリコも納得の顔だった。

「餅じゃなくて、麺になるように細く伸ばせばいいのよ」

「そうですそうです」

「ああ、行けそうだな」

「じゃあ、麺は決定ね」

「次は、スープか」

「あんみつで、良いんじゃない? チョコレート入れてさ」

「あんみつって、味が薄すぎないか?」

「じゃあ何がいいの?」

「コーヒー」

「はい没」

「何でだよ」

「コーヒーじゃあねえ」

「コーヒーなら知ってます。ソウタさんが家でいつも飲んでる。黒い飲み物ですよね」

「うん。甘いコーヒーにすれば、行けると思うんだけど」

「駄目よ。コーヒーゼリーを作るんじゃないんだから」

「ま、まあ確かに」

 僕は両手を開いた。

「まあ、焦ってもしょうがないよな」

「そうですね。夏祭りまでは、まだ一か月以上時間があります」

「それじゃあ、学校に戻って色々研究しなきゃね」

「ああ、まずは材料を買うところから始めなきゃいけないな」

「ここで買わないのですか?」

「レシピが必要ね」

「ああ」

「レシピは、どこにあるのでしょうか?」

 僕はポケットからスマホを取り出した。

「インターネットさ」


 *


 ナツミ先生は、三棟の二階にある調理室に同好会の活動の場を提供してくれた。五時半になるとマコトも駆けつけ、皆でスープについて悩んでいた。また、麺が本当においしくできるか実験しなきゃいけなかった。僕はインターネットでわらび餅の作り方を調べ、ナツミ先生に相談して、材料を注文した。と言っても買う物はわらび餅粉とお茶だけで良かった。後は砂糖と塩だけで、出来上がるようだ。

「そうかぁ、スープなら。やっぱりソフトクリームを溶かした感じがいいんじゃね?」

 丸椅子にがに股で座っているマコトが言う。

「そうだな。それでためしにやってみるか」

 僕もソフトクリームには賛成だった。

「ココナッツオイルも使った方がいいんじゃない?」

 腕を組んで、右手だけで頬撫でている先生が言った。

「ココナッツオイル?」

 ミルはまた新しい名詞が出てきて戸惑っている。

「味って、匂いだけで全然変わりますもんね」

 リリコがうんうんとうなづく。

「ミル、ココナッツオイルは、ココナッツの匂いをさせるためのものだ」

「ココナッツとは何ですか?」

「ココヤシの果実よ」

 先生が人差し指を立てた。

「それじゃあ、ココナッツオイルとソフトクリームの材料も注文しますけど、いいですか? 先生」

「もちろんよ」

 僕は注文した。必要なものは調べた。生クリーム。牛乳。ゼラチン。バニラエッセンスなど。そして忘れてはいけないココナッツオイルだ。

 そしてこの日から僕らの、お菓子作りが始まったんだ。日数がドクドクと過ぎていく。僕は毎日放課後が楽しみだった。料理はもともと嫌いじゃなかったし、他人と一緒にお菓子作りをするのがこんなに楽しいとは思わなかった。でも、本当はミルと一緒に同じ目標に向かって進んでいるということが、喜びをもたらしていた。僕は前にも思ったことがあるのだが、これまでミルに対して辛くしないように努めてきた。だけど、それ以上に彼女は優しい天使だった。包容力が半端ない。おかげで、一日中一緒にいる僕は、彼女の温かいぬくもりに包まれて、もうどうしようも無くなっていたんだ。僕は、いつか結婚することがあるのならば、彼女のような人が良いと思うことさえあった。

 夢を見た。公園のベンチで寝転がっている光景。太陽がまぶしくて目を開くと、目の前にミルの顔があった。僕は膝枕をしてもらっていた。恥ずかしいとは思わなかった。僕と彼女は、どちらも上機嫌で、二人で過ごす時間を楽しんでいた。

 がばっと、目を覚ます。

 時計を見ると夜の二時。

 僕はまたベッドに横になる。

「夢、か」

 僕はまた瞳を閉じる。今度は、深い眠りに入って行った。


 *


 お菓子作りで一番悩んだのは、麺の型を取るにはどうすればいいかということだった。お菓子ラーメンということなので、麺状に伸ばさなければいけない。僕たちは液状のわらび餅を薄いトレイに入れて、固まった後、細く切ることにした。最初は失敗もあったが、最終的にはおいしいわらび餅が出来た。

 スープは液状のソフトクリームにココナッツオイルで完成だった。ソフトクリームは濃厚にすると、とても美味しいとの皆の意見だった。

具は、チョコレート、タピオカ、コーンフレークを入れて、これも完成。

 それらを入れるための器も買い、僕たちは来る夏祭りに向かう準備はいつでも大丈夫だった。


 第三章


 僕たちは喧嘩していた。

 いや、喧嘩というほどではないのだけれど、出来上がったお菓子のネーミングについて悩んでいた。

「だから、わらび餅ラーメンでいいじゃねえか」

 マコトが言う。放課後であり、今は彼が言うところのわらび餅ラーメンを皆で試食している。麺がつるつるとしていておいしいし、ココナッツの匂いと甘いスープが、まろやかな味わいを演出していた。

「おいしい☆」

 ミルはほっぺたが落っこちそうな顔をしていた。

「そんなの駄目よ。これはお菓子なんだから、ラーメンっていう名前は付けない方が良いわ」

「でもこれ、ラーメンっぽいぜ」

「ああ、旨いな」

 僕はちゅるちゅると麺をすする。

「ラーメンって言う方が、インパクトがあると思うけどな」

「インパクトなんていらないの」

「ふむ」

 先生が両手を組んでうなった。

「じゃあお前は何が良いんだよ」

「決まってるじゃない。キラキラメモリーよ」

「それ、お菓子の名前じゃないだろう」

「お菓子の名前よ。良い? 私が作ったんだから、名前はキラキラメモリーで決定」

「いや、お前だけで作ったんじゃねえし」

「キラキラメモリー、良いと思います」

 ミルの賛同の声。

「ほら、ミルちゃんもこう言ってるわ」

「おい、ミルっち~」

 マコトが落胆する。

「ねえ、ソウタはどうなの?」

 僕はコーンフレークをかりかりと咀嚼しながら、

「僕はなんでもいいよ」

「よしっ、じゃあ先生。そうことなので、お菓子の名前はキラキラメモリーになりました」

「却下」

「えっ?」

「ネーミングセンスなさすぎ。頭悪すぎ」

「私、頭は良いんですけど」

「良い、皆。このお菓子の名前は私がつけるわ」

「そんなっ」

「なんて言う名前なんですか?」

 僕が水を向けた。

「名付けて、ワラビ餅のココナッツ仕立て・ラーメン風よ」

「……凄いですね」

 ミルが感嘆の声を上げる。

「いいじゃん。先生すげー」

 マコトが前かがみになり、両手で自分の太ももをさする。

「確かにいいなあ」

「皆、行けるわ。夏祭りはもらったわよ!」

「待ちなさいよ」

 リリコが立ち上がった。

「名前は、キラキラメモリー!」

「却下」

「駄目だな」

「リリちゃん、ごめんねえ」

「あきらめろよ」

「ぐすん、もういいよ」

 リリコは腰を下ろし、調理台に突っ伏した。

 そんなこんな。

 僕たちの暑い夏が始まろうとしていた。



 期末テストが終わり、夏休みが近づいていた。テスト期間は同好会の活動が無く、僕とミルは家に帰って一緒に勉強したりした。もちろん睡眠時間を確保するために、勉強は八時で切り上げることになったが。

 ミルは掛け算の段階で分からないようであり、正直言って今回のテストは壊滅的だと思われた。しかし彼女は頭が良かった。僕の古い中学校の教科書を読破し、問題を解いた。一週間もしないうちに、彼女は中学校を卒業するほどの学力を手に入れた。そしてテスト前夜、ミルは次の日のテストの科目を一夜漬けで何とかしようとしていた。彼女の熱意に心を打たれ、僕も一夜漬けに付き合った。焼きそばなどを作り、夜食二人で食べたりした。テスト期間は、学校が半ドンで終わるので、僕らは家に帰るとすぐにベッドにダイブした。そしてまた夜に起きては、一夜漬けの勉強。僕たちの生活リズムはおかしくなっていた。

 テストが過ぎ、答案が帰ってくる。僕の点数は、ぎりぎり赤点を逃れるほどであった。ミルはとても点数が良かった。僕はとてもイライラした。勉強を始める前までは掛け算も出来なかった彼女、なのに数日で僕よりも頭が良くなるなんて、あり得なかった。嫉妬だった。天使だから頭が良いのかもしれないとも思ったが、僕はこのいらだちをどこへぶつければいいだろう。

 僕はミルにこんなことを言ってしまった。

「なあ、お前、いつ天界に帰るんだ?」

「八月の頭です。だから、あと十日ですね」

「良かったな、故郷に帰れてさ」

「はい!」

 最低な気持ちで言葉を吐いた僕に対し、ミルはいつものように返事をした。だけど、僕の気持ちは伝わっただろう。彼女が震えていたからだ。僕は、最低野郎だった。


 *


 夏休みが始まり、僕たちの学業は一学期を終えた。夏祭りの日まで、あと五日と迫っている。僕らは夏休みだというのに学校の調理室に集まり、屋台の準備をしていた。マコトはサッカー部に行っている。

「まずは着物ね。私、用意してきたから」

 リリコは開口一番にそう言った。紙のバッグから衣装を取り出す。それはピンク色のハピであり、ハッピでハッピーと刺繍がされていた。

「これよ」

「わあ☆ リリちゃん偉い」

「その刺繍、お前が縫ったのか?」

「そうよ」

「すごいわねえ。さすが家庭科の成績は五の女の子ね」

「先生、他人の成績をばらさないでください」

「これ、僕とマコトも着るの?」

「もちろんよ」

 この恥ずかしい服はなんだろう。同好会やお菓子の名前に自分の意見が通らなかったリリコの最後のあがきだろうか。でもよく見ればデザインは凝っている。裾が海の波の絵柄になっていている。

「分かったよ。まあ、お祭りなんだし。馬鹿になってやるさ」

「馬鹿になるってどういうこと?」

「その意気よ! ソウタくん」

「私も馬鹿になりますぅ」

 ミルが両手をグーにしてバンザイをした。辺りを走り回る。まるで小学生のようだ。

「後は、なんだけど」

「うん」

「運送会社に麺とスープを運んでもらわなきゃ。さすがにその場で作るっていう訳にはいかないしね」

「そうだね。麺は固まるのに時間がかかるし、スープだって冷蔵庫には入りきらないだろうしね」

「まかせなさい! 準備はばっちりよ」

 先生が腰に両手を当てた。

「もうナゴミ運輸に手配してあるわ」

「さすが先生」

「やるなあ」

「うっぴゃー☆」

 ミルが何か良く分からない奇声を上げている。

 そして僕たちはこれから、祭りに必要な分の麺とスープを作ることになった。客がどれくらい来るか分からないので百人ぶんを昼と夜に用意し、計二百人分のものを作った。それは大掛かりな作業であり、祭りまでの残された時間まるまるを使うことになる。でも、僕たちは楽しんでいた。


 *


 夏祭りが始まる。

 池袋の公園沿いの一角に、僕たちは届けられた屋台のセットを準備していた。朝早くから来ており、汗にまみれながらの作業が続いた。夏休みとは縁がないスーツ姿のサラリーマンやOLが僕たちに視線を送っては過ぎていく。屋台の暖簾には、でかでかとワラビ餅のココナッツ仕立て・ラーメン風と書かれている。他にも、天使の作るお菓子の店とも書かれている。お祭りの匂いがした。僕はウキウキしていた。

「ソウタさん」

 ハッピを着たミルが話しかけてくる。

「何だ?」

「お客さん来るかなあ」

「きっと来るさ」

「もちろんよ。私がハッピを用意したんだからね」

 リリコが割り込んでくる。

「俺がいるんだ。女性客をメロメロにしてやるぜ」

「マコト、酔っ払ってやるのか」

「違う違う。俺の心の声が叫んでいるんだ」

「ちょっと自重した方がいいかもな」

 皆がクスクスと笑った。

 そして屋台は出来上がっていく。お客さんが座って食べるスペースも用意されているため、場所は広々としていた。


 *


 朝の十時、僕たちは営業を開始した。最初、女性陣はお菓子を作り、僕とマコトで客寄せをしていた。お客さんは来るには来たが、客入りが悪い。そこへ、今までどこに行っていたのか、ナツミ先生が駆けつけた。ハッピを着ている。

「あんたたち何やってるの?」

「何って、客寄せを」

「逆よ逆。男は中に入った入った。ミルさんとリリコさんは外。当たり前でしょう」

「なんでだ? これから俺がサッカーで鍛えた筋肉ショーを披露しようって言うのに。女性客をメロメロにだなぁ」

「あんたはどんだけナルシストなの? とにかく、男性と女性は交代しなさい」

「はーい」

 僕たちは仕事を交代する。ミルが表に立つと、道行く男性が振り向いた。彼女の美貌に翻弄されたのかもしれない。男性はお菓子を買って、腰かけに座り、ちゅるちゅると食べた。

「う、うまい」

「ですよねっ」

 リリコが二カッと笑顔を浮かべる。そして、その客を最初に、男性客がどしどしと押し寄せることになる。

 昼の分のお菓子は、十二時を待たずに売り切れてしまった。一杯五百円のお菓子。五万円の売り上げがあったが、材料費や運送料を引くと、儲けは五千円ほどである。ただ、僕たちの場合、儲けが欲しい訳ではなかった。皆で夏祭りという目標に向かい、おいしいお菓子を作り、お客さんに食べてもらう。そして高評価を得る。それが僕たちの課題だった。

 昼のぶんが売り切れると、僕たちは夜まで暇になった。僕とミルはそろってお祭りの見物に出かけた。マコトとリリコは、店で後片付けをしている。一時間経ったら交代で、今度は僕たちが片付けをしないといけなかった。

「ソウタさん、お祭りって楽しいですね」

「ああ」

「まるで、天国にいるような気分です」

「ああ、そうだな」

「ソウタさん? あまり元気が無いようで。もしかしてお腹が痛いのですか?」

「違う、違うんだ」

「そうですか。ならよかったです」

「ミルは、もうすぐ天界に帰るんだよな」

「はい。お茶会を終われば、帰ります」

「そうか」

 お別れが悲しかった。だけど、それ以上に、僕はミルに聞いてみたいことがあった。

「なあミル」

「はぁい」

「これが、この祭りが終わったら、お前に聞きたいことがあるんだ」

「何か、深刻なお話ですか」

 ミルは僕の雰囲気から何か感じとったようだ。

「ああ」

 僕は俯く。

「分かりました。なんでもおっしゃってください」

「ありがとう」

 それから僕たちは、かき氷屋さんでブルーハワイを食べ、帰り道にリンゴ飴を買った。僕はスマホでミルの姿を取った。ミルはノリ良く、笑顔を浮かべてポーズをとってくれた。


 *


 天使の作るラーメン風のお菓子は大盛況だった。夜の六時からまた営業を始めた僕たちの屋台は、二時間ほどでまた売り終わってしまった。皆、すっきりとした笑顔でしめくくり、屋台のセットの片づけを始めた。途中まで片付ければ、後は業者さんがやってくれるらしい。僕たちは早々と引き上げ、花火を見ることになった。先生を含めた僕たち五人は、夜空に咲く大輪の花を、興奮さめやらぬと言った様子で見物した。

「すごい、すごいっ」

 ミルは僕の手を握って、上下に振っていた。花火を見るのが初めてのようだ。

 だけど僕は、花火なんて見ていなく、花火を楽しむミルの横顔を眺めていた。赤白黄色の光が当たる度に、彼女は笑顔を浮かべる。こっちの方が、断然綺麗だったんだ。


 *


 夜、僕ら綺麗に片付けが終わり、何も無くなった空間に集まっていた。

「それでは、皆さん」

 ミルがしゃべりだす。僕たちは静かに見守る。

「お菓子作り同好会、ミルクッキーは、今日で解散します」

 彼女は言葉を切りながら、思いを告げる。

「皆さんのおかげで、お菓子作りは大成功しました。全ては皆さんのおかげです。私はすごく楽しかったです。皆さんも、同じ気持ちなら良いと思います」

「ああ、楽しかったよ」

「もっかいやろうぜい」

「私も、楽し……」

 リリコは悲しくなって、しとしとと泣いてしまった。

「ほら、悲しいの無し無し」

 先生がリリコの背中を撫でる。リリコが泣いてしまったことは、ミルにも伝染し、マコトにも伝染したようだった。皆が泣いていた。それだけ、今まで楽しかったということだ。僕はと言われれば、泣いていなかった。いつからか、眠くてあくびをかみ殺した時ぐらいにしか、僕の瞳は涙を流さない。だけど、悲しい気持ちは伝わってきた。

「私はもうすぐ天界に帰りますが、皆さんのことは、天国に行けるように、神様にお願いしようと思います」

「マジで!」

 マコトが泣きやみ、現金な面を見せた。

 リリコがその頭を叩く。

「痛って、何すんだ」

「空気読んでよ」

 ミルは続ける。

「それでは、皆さん。最後は笑ってお別れをしましょう。そして、いつの日か、またお会いしましょう」

「うん」

 リリコが瞳をうるうるとさせる。

「これで、会長である私の言葉は、終わらせていただきます。本当に、本当に本当に、ありがとうございました」

 ミルが上品に腰を折った。僕は拍手を送った。それにつられて、皆は拍手をする。ミルは両手の袖を顔に当てて、泣いてしまった。

 それから。

 僕たちは終電に間に合い、自分たちの町へ帰ることになった。僕とミルとリリコは桜川町。マコトはその隣町である。


 *


 結局、言えなかった。

 僕は家に帰ると、さっそく風呂に入った。早く寝ないといけない。睡眠時間を確保しなければ、朝と夜が逆転した生活になってしまう恐れがあった。高校生としては、それはまずいだろう。

 その時。

 風呂場の扉が、がらがらと開かれた。

「お、おいっ」

 僕はスポンジで体を洗っていた。後ろを見ると、バスタオル一枚を体に巻いた、ミルの姿があった。

「ソウタさん。お背中を流します」

「べ、別にいいって。それより、入ってくるな」

「ソウタさん。失礼します」

 ミルは風呂場の扉を閉め、僕の後ろに座った。背中に両手を当てる。

「ソウタさん。ソウタさんは昼に言いました。私に、何か話したいことがあるって」

「そんなこと別に良い。それよりも」

「ソウタさん。私はもうすぐ天界へ帰ります」

「う、だから、だから何だって言う……」

 ま、まあいいか。

 僕はミルを風呂場から追い出す気がそがれてしまった。

「ソウタさん。話してください」

「風呂に入ろう」

 僕はミニタオルで腰をしばり、ざぶざぶと湯船の中に入っていく。

「あのっ、私はまだ体を洗っていません」

「気にしなくていい」

 僕はミルの手を掴んで、引っ張った。彼女も湯船に入る。湯船からお湯がこぼれてタイルに流れる。僕たちは背中を向け合って、風呂に入った。

「ミル」

「はい」

「実は、昼にも言ったけど、話したいことがあるんだ」

「はい、なんでしょう」

「知っての通り、僕は毎日が眠くて眠くてしょうがないんだ」

「そのようですね」

「それで、なんだけど。校長先生にも相談して、医者を勧められたんだ。色々あって、精神病院へ行くことになったんだけど、医者は体や精神には問題ないって言ってくれて。それで、普通の人と同じような生活を送って良いって」

「それは、素晴らしいことですね」

「ああ。だけど、僕の体は年々悪くなってるんだ。年々、睡眠時間が増えていっている。これって、どうしてなのかな。天使のお前には分からないか?」

「そんな悩みですか」

 ミルは笑った。背中ごしに振動が伝わってくる。

「笑いごとじゃない」

「笑いごとですよ。もっと深刻なものかと思いましたわ」

「深刻って?」

「借金で困っているとか、そういう感じだと思いました」

「うちに借金は無い」

「良かったです」

「それより、解決方法は無いのか?」

「そうですね。天使の私なんかの意見に過ぎませんが、それでもいいでしょうか?」

「いいよ」

「お医者様の言う通り、ソウタさんの体に異常は無いと思います。ただ」

「ただ?」

「ソウタさんが、もうダメだと思うときまで、状態は悪化し続けると思います」

「もうダメだと思う時?」

「はい。そして、ソウタさんがもうダメだと思い、人生における何かに挫折した時、ソウタさんの体はゆっくりと回復を始めるでしょう。回復のスピードは、ゆっくりだと思いますが」

「治るのか?」

「はい、治ります」

「挫折する時って言うのは?」

「例えば、ソウタさんが眠くてしょうがなくて、もう高校に行くのはやめようと思った時なんかです。例えばの話ですよ?」

「こ、高校だけは出とけって、親に言われてて」

「良いご両親ですね。でも、そんなの不意にすればいいんです」

「不意にする?」

「ええ、高校を出るか出ないかなんて言うのは、人生においてちっぽけなことではないですか?」

「……そうかもしれない」

「ソウタさん、もうダメだと思った時や、もう嫌だと思った時、天に向かって私を呼んでください。そうすれば、きっと私が駆けつけて、ソウタさんの相談に乗ります」

「本当か?」

「はい。私はいつも天からソウタさんのことを見ています」

「分かった、ありがとう」

「いえいえ、お礼を言わなければいけないのは私の方です。今まで、ありがとうございました」

「天界へ、帰るのか?」

「はい。あと三日後です」

 ミルは立ち上がり、風呂を出て行く。僕はまた恥ずかしくなって、下を向いた。

「ありがとう」

 僕の声は、小さすぎて、果たして彼女に届いたかどうか、分からなかった。


 第四章


 *


 その日、僕は病院の母の病室を訪れていた。水道水をマグカップで飲みながら新聞を読んでいる母に、僕は思い切って告げた。

「母さん」

「なんだい? 息子よ」

「僕、高校が終わったら、働くことにするよ」

「ふーん」

 母さんは何を考えているのか、新聞に顔を落としたままだ。

「それでさ、バイトする。最初は短い時間のシフトにしてもらって、それで、それから何年もかけて、少しずつ時間を延ばしてさ、最終的には八時間で働ける会社に就職することにするよ」

「ふんふん」

「いいかな」

「ソウタ」

 母はやっとこちらを向いた。

「お前の人生だ。好きにしな」

「……うんっ」

 やっぱり、高校を辞めることはできなかった。両親が悲しむだろうから。でも、大学や専門学校にはいかない。というかいけない。僕は、幼い頃の元気を取り戻すために精一杯生きようと思った。これが、僕の出した結論だ。誰にも文句は言わせやしない。


 *


 お茶会の日がやってきた。

 その日曜日の朝、朝食を食べていた時、ミルは僕に言った。

「ソウタさんも、一緒に行きましょう。皆さんに、紹介したいです」

「……いいよ。行こう」

 僕はもう心の準備は出来ていた。もちろん、ミルとお別れをするということに、だ。彼女とのお別れの時間が少し伸びたって、気にすることは無かった。


 *


 東京都品川にある、民家風の隠れレストランで、パーティーは催されるようだった。僕は九人分のお菓子を両手に持って運んでいた。もちろんバッグに入れてある。スープはこぼれないように、百円ショップで買った便利なフタをしてあった。

 お店につくと、ミルは最初に、店の主人に頼んで、お菓子を冷蔵庫に入れてもらった。後は他の天使が到着するのを待つだけである。僕とミルは、ソファに座って、天使たちの到着を待った。


 *


「来ないですね」

 もう午後の三時になった。十二時から待っているというのに、ミルの友達は来ない。店の電話が鳴った。主人が出る。そして電話を置き、ミルにこう告げたのだった。

「皆さん、来れなくなったそうですよ」

 僕とミルは、二人分のワラビ餅ココナッツ仕立て・ラーメン風を食べた。ミルは悲しそうな顔で、どうしたらいいのか分からない様子だ。今日は、ミルとのお別れの日である。そして僕は、ミルと笑顔でお別れをしたかった。僕は立ち上がる。

「ソウタさん?」

「ちょっと待っててくれ」

 僕は店の支払いを済ませる。そして戻って来て、ミルに手を掴み、立たせた。

「行くぞ」

「行くって、どこへですか?」

「ついて来れば分かる」


 *


 最近秋葉原に出来た、グドラックグラウンド、通称GGという遊園地があった。僕たちはそこに行った。元気を出して、懸命にミル手を引く。話題の中身なんて無いような会話でも、元気一杯に話す。遊園地の持つ強い幸福オーラが後押しして、僕はとにかく一生懸命だった。

 ジェットコースターに乗った。

 観覧車に乗った。

 潜水艦にのった。

 二人でソフトクリームを食べた。

 僕は、今日、この彼女の手を、離すつもりは無かった。

 コーヒーカップに乗った。

 マスコットと一緒に写真を撮った。

 スタンプコースを巡った。

 ミルは、最初こそ元気が無かったものの、だんだん調子が上がってきた。

 そして、あるところで、ミルは立ち止まる。左手で指さし、

「ソウタさん、私、あれに乗りたいです」

 メリーゴーランドだった。

「ま、マジか」

 高校生にもなってメリーゴーランドに乗るのは、抵抗があった。

「ダメですか?」

 ミルは笑顔から、涙目になって瞳をウルウルとさせる。

「ば、馬車だよね」

「もちろん、お馬さんです」

「……」

 僕は、僕は、僕は――。

「乗ろうじゃないか」

 ミルの喜ぶことならば、何でもしてあげたかった。僕たちは列に並び、お馬さんに乗る。

「きゃははっ」

 ミルの心の底からの笑い声を聞いたのは、今日初めてだった。

 そして、幼稚園児が喜びそうなポップなメロディーがかかり、メリーゴーランドが回り始める。馬は上下に動き、辺りの照明が虹色に光り方を変える。多分、今日この時の僕は、世界一勇敢な男かもしれなかった。


 *


 二人でナイトパレードを鑑賞し、終わるとレストランで夕食を取った。遊園地のレストランと言うことで値が張ったが、かまうもんか。それからミルがお城の方に行きたいと言ったので、僕たちは向かった。その折、ミルはまたしても足を止めた。

「ソウタさん。あれはなんですか?」

 ミルが指さす。

 そこにはプリクラ機があった。

「あれは、写真を撮るための機械だ」

「一緒に撮りましょう」

「いいよ」

 僕たちは列に並び、自分たちの番が回ってくると、機械の前に立った。プリクラなんて撮るのは初めてだが、ミルに機械の操作はできないだろう。僕が操作した。

「あ、これ、文字書けるみたいだな」

「何て書きましょう」

「上に書こうぜ。俺は、ん~」

 僕はペンを持ち、自分の頭の上に(楽しい)と書いた。

「あ、ずるい」

 ミルがペンを取り上げ、自分の頭の上に、(仲良し)と書いた。

 僕らは顔を合わせ、笑いあった。その瞬間プリクラがシャッターを着る。

「え、もう?」

 ミルは意表を突かれたようで、髪型を急いで直しながら、笑顔を作った。果たして出来上がったプリクラは。変顔をしているミルと、緊張にちょっと硬くなっている僕の顔がプリントされた。

「あはは」

 僕は笑った。

「もうっ、笑わないでくださいなあっ」

 ミルは涙目だった。


 *


 ラッキーキャッスルというお城の前で、ミルは僕の手を離した。そして僕の対面に移動し、口を開いた。

「ソウタさん。今日はありがとうございました」

「いや、俺の方こそ、付き合ってくれてありがとう」

「私は、天に帰ります」

「そ、そうか」

 時間が着てしまった。シンデレラタイムである。

「泣かないでくださいなあ」

「へ?」

 僕は自分の顔に両手で触れた。濡れている。あくびの時以外に泣かないはずの僕が、泣いていた。

 僕は鼻をすすって、両目を服の袖でこする。

「誰が、誰が泣いてるって?」

「ソウタさん、楽しかったです」

「俺も、実は、俺もなんだ」

「それでも、さようならです」

 ミルの声音は、震えていた。

「行かないで、くれないか」

 僕は本心を言ってしまった。

「それはできません」

「そうか」

「それでは、さようならです」

 キスもしたこと無かった。

 でも、手をつないだことは何度もあった。

 僕と彼女は恋人では無かったけど。

 僕と彼女は、心ではつながっていた。

「ああ」

「プリクラの写真、マスコットとの写真、お祭りでの写真、お菓子のこと、皆、大切にします」

「僕もだ」

 ミルの体が、うっすらと透き通り始める。彼女は天に帰るのだ。

「ソウタさん。私はいつでも、貴方のそばにいます」

 ミルの体が消失した。

「ああ」

 僕は、笑顔を作れただろうか。失敗したかもしれなかった。


 *


 僕はひどく泣いていた。子供の用に泣いていた。お母さんにアイスを買ってもらえなかった幼稚園児のようだった。泣きながら、うずくまり、行動できずにいる。これからどうしよう。分からなかった。

 十分もそうしていただろうか、僕は立ち上がり、遊園地の出口を目指して歩き始める。

「出会えて良かった」

 僕はその独りごとを何度も唱えた。素敵な三か月だった。おそらく、これから何年経っても、この期間の事を振り返るだろう。そして、そのたびに勇気をもらえるに違いなかった。

 GGの出入り口を出たところで、花火の上がる音が聞こえた。ひゅるる~と音が鳴る。僕は振り返る。すると、花火が文字を咲かせた。

 ☆彡ソウタ☆彡

 何だろう。僕は花火にくぎ付けになった。

 ♡大好き♡

 二発目の花火に心を打たれた。僕はただ、感動していた。この花火はきっと、ミルが起こした奇跡なのだろう。そして、泣いている僕を天から見たミルが、泣くなと言ってるのかもしれなかった。僕は恥ずかしくなり、そして平静を取り戻した。

「俺も、俺も大好きだ!」

 僕は天に向かって叫んだ。

 天使のミル。優しいミル。

 僕のたった一人の想い人。

                                  終わり


読者の方には最大級の感謝を。

また書きます。どうもありがとうございました。

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