サムライフラットデイズ:火造り
「火造り」とは、刀を作る際の過程の一つです。
潰れた右目が今日も疼く。格子窓から月を見上げると、細い三日月が高く上っていた。少年は体を起こし、薄暗い部屋の中で手探りで二段ベッドから降りた。床に届いた裸足の足の裏から冷たさが背筋へと伝ってくる。少年はそのまま、僅かに軋む戸を開いて廊下に出た。まだ初春の廊下はひどく冷える。
身震いを一つ、廊下の先の手洗い場へ向かう。背伸びをして蛇口をひねると、冷たい水が流れ出た。それで何度か顔を洗って、吊るしてあったタオルで乱暴に水を拭きとる。
顔を上げると、月明かりが当たった鏡に、自分の顔がちらりと映っていた。
短く切られた黒髪、大きな目。だがその右目は、傷で潰されていた。上下に長い傷は頬骨の中ほどまで続いている。
傷はもう痛まない。だが、時折思い出したように、目を潰された日の幻に襲われた。
五年前――――マジモノに家族を殺された、あの夜の幻に。
人を呪う念は闇を呼ぶ。
呼ばれた闇は、人の念を吸って肥大する。
そうして肥大し、遂にはその念の主をその内側に取り込んだ異形――――マジモノ。死肉と呪念の依代、そして土塊で作られたその化け物は、天災のように人々を襲った。
そして、その恐怖から人々を護る兵士、サムライ。狂気の異形に身一つで挑み、市民の安寧とマジモノの根絶を目指す。そんな目標を掲げた彼らを、人々は称え、あるいは畏怖していた。
首都トウキョウのダウンタウンは、国家の重要な機能が集中している。そのため、陰陽師達が交代で結界を張り、街からマジモノを弾き出していた。地価は全国でずば抜けて高いが、それだけ、マジモノという圧倒的な恐怖からは切り離される。高層ビルの高級マンションから郊外の一軒家まで、結界内の住宅には空きがなかった。
その中で、孤児院だけは唯一、ダウンタウンよりも地方の方が人口密度が高いものだった。ダウンタウンの孤児院が受け入れるのは、ダウンタウン及びその周辺数キロ内で保護された少年少女だけである。孤児院に入る少年少女が両親を失った原因の多くはマジモノで、ダウンタウンにはそのマジモノがいないためであった。
綺麗に剪定された芝生の庭に、子供達が駆け出していく。庇の下で、隻眼の少年はぼんやりと庭を見つめていた。
「燈瑞君は、今日も遊ばないの?」
保母の一人が、少年――――燈瑞の傍らにしゃがむ。燈瑞はふいと視線を背けた。保母は苦笑する。
「今日は悪い夢を見ちゃったのかなあ。そういう日もあるよね、うん」
保母の手が、そっと燈瑞の頭を撫でた。
「でも、そんな時こそ、お友達と遊んだら楽しいと思うんだけどなあ」
「……おれ、そういうのは苦手だ」
燈瑞が唇を尖らせる。「そっか」と保母が困った顔で呟いた。
「……そうだ、燈瑞君。今度、あなたのことを引き取りたいって人が来るの。会ってみない?」
「おれを……?」
「そう、新しいお父さんよ」
新しい父。その言葉に、燈瑞は目を丸くした。だがすぐに表情を洗い、「ふうん」と興味なさげに答える。
「昔、サムライをやっていた人だったんだって。燈瑞君、サムライになりたいんでしょう? 何か教えてもらえるかも知れないよ」
「……ふうん」
やはりつまらなそうに答えた燈瑞の声は、少しだけ弾んでいた。
迎えに来た男は、葉桜浩介と名乗った。皺になったスーツに無精髭、癖のあるやや長い髪を乱雑に後頭部でまとめていた。痩せた頬と、鋭い双眸。顎のあたりに、細い傷跡があった。
「連絡した葉桜です。……例の少年は?」
「彼が」
保母が、荷物を抱えた燈瑞の背を押す。燈瑞は浩介の前に歩み出ると、ぺこりと頭を下げた。
「藤虎燈瑞といいます」
「……藤虎……嗚呼、あの家か……とうとうあの家もこんなちびっこ一人になっちまったんだなあ」
浩介はがりがりと頭を掻く。
「?」
「ああ、いや。何、こっちの話だ。よぉし坊主。今日から俺がお前の親がわりになるからな」
浩介はにっと歯を見せて笑い、燈瑞の頭をがしがしと撫でた。
手を引かれて、燈瑞は孤児院から浩介の車へと連れて行かれる。金属製の大きな門の前で振り返ると、保母や子供達が手を振っていた。
「ほら、お別れだ」
浩介に言われて、燈瑞も遠慮がちに手を振った。
「……はあ。あの子に引き取り手があって良かったわ」
車が見えなくなった頃、保母がぽつりと言う。
「そうね。ずっと昔のことを引き摺っていた子だったもの。しょうがないんでしょうけれど」
「とにかく、良いお父さんであることを祈るしかないわ。これからは幸せになって欲しい」
年配の保母の言葉に、他の保母も頷いた。
住宅街の一角、二階建てのアパートの角部屋に、『葉桜』の表札は吊るされていた。周囲の住宅からすれば世辞にも立派とは言い難く、コンクリートの壁には所々ひびが入っている。
「ほら、荷物寄越しな。部屋まで運んでやろう」
「……いい、です」
「そぉんな遠慮するなって。これから親子として過ごすんだ」
親子、という言葉に燈瑞は俯いて唇を噛んだ。
「あの、おれの名前、変わるんですか?」
「うん?」
「……むずかしいことは分からないけど、ふじとらって名前は、変えたくなくて」
燈瑞の言葉に、浩介は「ああ」と頭を掻いた。
「そうだな……まあそこは俺が何とかしておこう。そら、入って右がお前の部屋だ。一人部屋は初めてだろう?」
やや日に焼けた畳敷きの部屋は、三畳の広さだった。押入れが一つと、東向きの窓が一つついている。
「学校が始まるまでに、机とかを揃えねえとな。確か八歳だったか? 勉強道具以外も色々欲しいだろう。布団は押入れだ。今度の日曜に服だの買いに行くか」
「……、」
戸惑ったように浩介を見上げ、燈瑞は荷物を強く握る。
「ん? 腹減ったか。飯にするか」
「あの……その、」
「何だ」
「……あ、えっと……お、お世話になります」
燈瑞が頭を下げる。浩介は頬を掻いたが、にっと笑ってその頭を両手で撫でた。
階段を駆け上がる音がしてくる。居間で煙草を咥えてパソコンを弄っていた浩介は、煙草を揉み消して窓を開いた。西に傾いた日が、街を橙に染めている。
「ただいま! コースケ、今日テストがあったんだ。おれ、また百点だった!」
「おう、お帰り燈瑞。そーか俺も嬉しいなあ」
大きいランドセルを揺らして、燈瑞が玄関から駆け込んできた。浩介が笑って見せると、得意げな顔になる。
燈瑞は自室に入り、ランドセルを机に置いて開いた。出された宿題と筆箱を机に置き、連絡帳とプリントのファイルを持って居間に戻る。それをテーブルに置くと、燈瑞は洗面所へと向かった。
「おう、何だこれ……? 進路希望調査? まだ小学二年だろうに……」
「結構、まわりでも中学受験するってやついるんだよ」
「へえ。子供も大変だねえ……燈瑞は、何になりたいんだ?」
「サムライ」
燈瑞は即答した。浩介の、プリントを捲る手が止まる。
「……そっか。格好いいもんなあ。でも危ないぞ」
「父さんと母さんの仇を取るんだ。危ないのは知ってる」
燈瑞の声のトーンが落ちる。浩介は息を吐き、燈瑞を手招きした。棚の本に手をかけていた燈瑞は、首を捻って浩介の前に座る。
「知っているかも知れないが、俺はサムライだった」
「うん」
「サムライがどんな仕事かも、よく知っている」
「うん」
「……お前がもう少し大きくなったら、言わなきゃいけないことがあるんだ。お前がサムライになるのを止めることはできないが、あんまり仇を取るためって必死になっちゃ駄目だ」
「なんでだよ。そのためにサムライになるのに。なんで必死になったらだめなんだ?」
「サムライの勉強をしていたら分かる」
浩介に頭を撫でられ、燈瑞は俯いた。
「サムライの勉強って、今からできないのか?」
「難しいなあ。中卒じゃないと学校も入れないし」
「じゃあ、サムライになるのにすごく時間がかかるのか?」
「………………」
浩介はがりがりと頭を掻く。
「マジモノは、発生から人を襲うようになるまで五年。そこから目立つように育つまで二年ってところか。お前の家が襲われてから六年。よっぽど小型じゃなければもうサムライに狩られているとみていいだろうが」
「そんな!」
「喜ばしいことだろ?」
「う……でも、できれば自分で狩りたい」
「……やれやれ」
浩介は頬杖を付いて苦笑した。燈瑞は俯き、指先を落ち着かなく絡ませた。
「そうだな。お前を引き取る時に決めたことがあるんだ。あと二年。あと二年待ってそれでもサムライになりたかったら、俺が教えてやる」
「本当か、コースケ!」
ぱあっ、と燈瑞の顔が明るくなる。浩介は「ああ」と答えて息を吐いた。
神妙な顔で、正座した燈瑞は一枚のプリントを浩介に差し出した。上部には『四年生 第二回進路調査』と書かれ、第一希望の欄には『サムライ』と書きこまれている。
「……全く」
浩介は苦笑して息を吐く。
「今十歳か」
「ああ」
「中卒で養成校に入って、高校大学と一貫校だから卒業は二十二歳。勿論サムライの免許のテストもある。新人になってからだって自由に仕事は貰えないぞ」
「十二年以上……」
「……その間に、お前の家族の仇がサムライに打ち取られる可能性の方が高いぞ」
「それでも俺はサムライになる」
燈瑞がきっぱりと言い、浩介はゆっくりと頷いた。
「いいだろう。勉強はともかく体は早くから作るに越したことはねえ。今日から始める」
「……! ああ!」
浩介が立ち上がり、燈瑞も腰を浮かせる。浩介は棚からルーズリーフを取り出すと、そこにマジックを走らせた。
「これが今日からのメニュー。学校から帰ったら、これだけはやること。終わったら遊びに行っていい」
浩介が書いたのは、筋力トレーニングのメニューであった。それを受け取り、燈瑞は首を傾げる。
「腹筋、背筋、腕立て十回ずつを二回。あと公園でも学校のトラックでもいいから五分走れ。毎日続けて、辛くなくなったら言え」
「……分かった」
燈瑞はぐっとルーズリーフを握った。
一度に十回ずつ、一日二回のトレーニングが一日三回になり、一度が二十回になり……一年経つ頃には、一度に五十回を休まず行えるようになっていた。ランニングの時間も格段に長くなり、休日には付き合っている浩介の方が先に音を上げる始末だ。
浩介に木刀を渡されたのは、燈瑞の十二歳の誕生日だった。
「素振りは腕が痛くならないまで。やり過ぎは絶対にダメだ」
「素振りだけなのか? 技は?」
「握り方も分かってない素人がなぁに大口叩いてるんだよ」
びしっ、と額を指で弾かれて、燈瑞は不満げに唇を尖らせる。
「まずは、長くて重い木刀を自由に操れるようになること。そのために必要な筋肉は、剣を振らないとつかねえよ」
「そりゃあ、剣がいいって言ったのは俺だけど……」
ぶつぶつと文句を言う燈瑞の頭に、こつん、と浩介は軽く拳を当てる。
「焦るな焦るな。頑張ってついて来たら、三年で剣の扱いを十分にしてやる」
「ほんとか!」
ぱあっ、と燈瑞の顔が明るくなった。
「武器は多い方がいい。剣が十分扱えるようになったら、別の武器も試してみるか。万が一剣が奪われたとき、それに拘泥していたら死ぬ」
浩介は顎の傷を撫で、自嘲気味に微笑んだ。
学校から帰ると、まずサーキットトレーニングを行う。今では一度に行う腹筋も腕立ても百回を軽く超えるようになっていた。それが終わるとすぐに木刀を握り、自室の壁に向かって素振りをする。時折、仕事の合間に浩介がそれを見に来た。毎日腕が上がらなくなるほど素振りをした後は、早めの風呂に入って、浩介と共に夕食を食べる。それから他愛ない話をして、たまに不意打ちでサムライに関する知識のクイズを出され、テレビをBGMに宿題をする。
燈瑞が中学に上がってしばらくもすれば、時折、喧嘩をしたという連絡が入った。迎えに行くと大抵燈瑞は無傷で、相手が何処かしら怪我をしている。浩介は、拗ねる燈瑞の頭を下げて自分も詫びを入れた。
「喧嘩するのは仕方ねえ。だがケガさせたらダメだって言ってんだよ」
「っせえ、ちょっと小突いただけなのにあいつが大袈裟なんだよ」
「お前は鍛えてるんだから、他の人より力が強いんだよ。それを人を傷付けるのに使うなら、もう何も教えねえ」
「何でだよ! マジモノだって元は人間だろ。マジモノより弱い人間が倒せないで、どうしてサムライに」
「燈瑞!」
浩介が燈瑞の胸倉を掴み、壁に押し付ける。咄嗟に伸びた右腕も抑えつけられ、燈瑞は呻いた。
「勘違いするな燈瑞。サムライは『マジモノを倒す』のが仕事じゃない。『マジモノから人を護る』のが仕事だ。そこをはき違えたら、一生サムライになんかなれない」
「っ……、」
「……今日は木刀禁止だ。飯にするぞ」
胸倉から手を離し、浩介は台所に向かう。燈瑞は舌打ちをした。
貸道場の床を踏み鳴らし、燈瑞は木刀を振るった。教えられた技を繋げて一つの流れとし、見えない敵に向かって刃を振り下ろす。一瞬視界の端に腕を組んだ浩介が見え、燈瑞は緊張の唾を飲み込んだ。
最後に鋭い突きと共に両足を開いて体を沈める。剣の切っ先まで神経を張り巡らせるように、視線はその先まで向けていた。
ふっ、と息を吐き、姿勢を整えて腰のベルトに木刀を戻す。納刀を模した動きを終わらせて浩介を振り返ると、浩介は腕を組んだまま黙っていた。
「……どうだった?」
「……ま、及第点だな。本当に三年で、よくここまでやった」
浩介が言い、燈瑞はぐっと唇を噛む。そして、誤魔化すように何度もごしごしと汗を拭った。
「明日は中学の卒業式だな」
「ああ」
「養成校は全寮制だ。もう面倒も見れねえなあ」
浩介が笑う。燈瑞は表情を曇らせた。
「あんたの剣は、これから誰が教えてくれるんだ」
「全寮制ったって時間くらいあるだろう。携帯買ってやるから、それで連絡寄越せ。基礎は全部教えたからあとはそれを何度も体に刷り込んで慣らすだけだ。動画を送ってくれれば指導くらいできる」
「……そっか」
ほっと燈瑞は息を吐く。浩介は燈瑞に近付き、ぽんぽん、と優しく頭を叩いた。
「よく頑張った。きついこともあっただろうに」
「……別に」
「今日は美味い飯でも食いに行こう」
浩介がくるりと背を向けて、燈瑞は顔を上げた。自分よりずっと上に広がっていた背中が、随分と小さく見えてくる。
背筋を悪寒が走って、燈瑞は思わず手を伸ばした。裾を掴まれた浩介は驚いて振り返る。
「あ……」
「ん?」
「あ……いや、悪い何でもない……」
ぱっと燈瑞は手を離すが、浩介は首を捻って頬を掻いた。
「どうした。何も無いってことはないだろ」
「……本当に何でもないって。ただ、ちょっと……ちょっとだけ、父さんを思いだしたんだ」
「………………」
浩介は目を瞬かせると、ポケットから煙草を取り出して咥えた。そして道場の入り口を見上げ、そこに禁煙マークを見付けて顔をしかめる。
「まあ、忘れられるものでもないよなあ」
浩介は苦笑した。
成長するにつれて、つい自分も忘れてしまうが、目の前にいるのは、まだ親の手を離れる年齢ではない少年なのだ。強がって、大人ぶって、平気な顔をしていても、まだ十五歳になったばかりである。豆だらけの拳を握り締めて、どれ程の悪夢を握り潰してきたのか。
浩介は長い息を吐くと、燈瑞の頭をわしわしと撫でた。
「?」
「その思い出は、決して悪いものじゃあないからな。お前を護ろうと父さんが頑張ったんだろう? それは父さんにとってお前が大事だったからだ。お前のことが自分よりずっとずっと大切だったんだ」
浩介の言葉に、燈瑞は顔を上げた。
「誇れ。お前は間違いなく、両親に愛されて生き延びたんだ」
「……うん」
ぎゅっ、と燈瑞は胸元を握る。浩介は目を細めた。
布団を被って眠っている燈瑞の傍らに、浩介は片膝を付いた。穏やかな寝息を立てて、燈瑞は眠っている。
「……ごめんなあ……」
そっと、不器用に浩介は燈瑞を撫でる。
「でもこの秘密ばっかりは、墓まで持っていくつもりだからな」
あどけない燈瑞の寝顔に、浩介は頬をほころばせる。
潰された右目の傷跡――――その形と、燈瑞の証言から、藤虎の家を襲ったマジモノのおおよその姿は知っていた。
それが、自分が取り逃がしたマジモノだとも、分かっていた。
取り逃がした結果の惨事、当然の糾弾を受けて職を辞した。元同僚からの情報を頼りに、生き残りの少年を見つけ出し、引き取ろうと決心するまでに随分と時間をかけた。
「ごめんな……」
この少年から両親を奪ったのは、自分かも知れないのだ。
だのに、この少年の成長を見守る日々が、何より自分の幸福となっている。
静かに積もる鬱積と罪悪感で引き裂かれそうになっても、まだ幼い少年がそれを救ってきた。
「………………」
願わくは――――この少年が、憎しみに飲み込まれないように。
仇討ちの鎖に、押し潰されてしまわないように。
「幸せになってくれ」
消え入りそうな声で、浩介はそう呟いた。
久方振りに会った燈瑞は、浩介の背を超していた。ガーゼだった眼帯も黒い革製に変わり、傷跡も随分と小さくなって見える。
「合格の報告に来た」
「合格?」
燈瑞は頷き、テーブルに一枚の紙を乗せる。薄く黄色に色づき、黒々とした文字が書かれたそれは間違いなく、サムライ養成校の卒業証書――――そして、サムライとしての免許試験に合格したという証であった。
「お前……まだ十八だろ?」
「言ってなかったか? 飛び級した。コースケの教えのお蔭だ」
にっ、と燈瑞は笑った。
「そっか……そうか」
「今日はまだ用事があるから、もう寮に戻る。何処に配属されるかの事例が出たらまた連絡する」
「ああ……」
驚いている浩介をよそに、燈瑞は立ち上がってリュックを担いだ。見送りに出ようと、浩介も腰を浮かせる。
「燈瑞」
靴を履く燈瑞の背中に、ほぼ無意識に呼び掛けた。
「ん?」
振り返った青年の顔は、もう立派に成長した大人のものだった。不安そうにしていた瞳も、嫌嫌と文句を言っていた口も、もう何処にもない。凛とした瞳と引き結んだ口は、それだけで成長をうかがわせた。
「……、」
何と言おうかと口を開いて、浩介は言葉に詰まる。
「……何だよ?」
怪訝な顔をした燈瑞を見て、浩介は小さく頷いた。
「サムライはきっつい仕事だぞ」
「んなこと知ってる」
「だから、辛かったら逃げ帰ってこい」
そう言うと、すっと肩の力が抜けた。燈瑞はしばし、驚いたように目を瞬かせる。
「……昔言っただろ。俺はお前の親代わり。いざとなったら、逃げ帰る場所にくらいはなってやるから。必要だったら背中も押してやる。だから、」
にこっ、と浩介は不器用に口元を笑わせた。
「いつでも帰って来いよ」
そう言って、頭を撫でる。自分の頭より上になった燈瑞の頭は、随分と高く感じられた。
「……父さん」
ぽつりと燈瑞が言う。「えっ」と浩介が声を上げると、燈瑞は顔を赤くして首を横に振った。
「何でもない。頑張る。頑張るから……帰ってきた時には、褒めてくれ」
ぼそりと、縋るように呟く。浩介は「勿論」と笑って見せた。
その数日後。飛び級の期待の新人として、燈瑞はトウキョウアンダーシティ――――ダウンタウンの西、マジモノが跋扈するスラム街の支部に配属された。
(了)