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サメ小説アンソロジー『サメ、サメ、サメ!!』  作者: サメ小説アンソロジー企画班
9/22

プールに浮かんだサメについてのくだらない推論 作者:杉並よしひと

杉並よしひと


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http://mypage.syosetu.com/529129/

「なあ」

 俺は息を詰めて、次の言葉を待つ。

「お前、本当はあいつのこと、どう思ってんの?」

 不思議と、静かな気持ちだった。俺はあいつをどう思っているのか。そんな簡単な問いすら、一度も自分で考えたことがなかったことに気づいた。

「少し、待ってくれ」

 俺が言うと、どこかで奴が頷いた気がした。



 暑さは人を狂わせる。俺は柄にもなく、目の前の女子生徒が捲したてる話に、耳を傾けていた。

 その日は、朝から凶悪な日差しが照りつけていた。太陽は全ての物を平等に、もちろん、道路のアスファルトも、木々の緑も、おそらくさっきまでは、プールに浮かんだコミカルで悪辣な表情をしたサメの浮き輪も、平等に強烈な日差しで灼いていたに違いない。

 …………サメ?

「そうなんだよ!」

 目の前の見慣れた顔の新聞部は、拳で机を叩きそうな勢いでそう言った。

「昨日の夜にはなかったって、水泳部の何人かが証言してるんだよ。ってことは、昨日の夜に誰かがプールに侵入して、そこに忘れて行ったってことなんだよ!」

 そう言うと、目の前の新聞部はスマホをペロペロっと操作して、一枚の画像を見せてくれた。なるほど、その水泳部のやつとやらが撮ったのだろう、水色のプールの真ん中で灰色のサメの浮き輪が浮かんでいる。どうしようもなく間抜けな絵面だった。

「へえ」

 自然と俺の声からも熱が抜けていく。

「聞いてるの、醒ケさめがい?」

「聞いてる聞いてる」

 俺の目の前の席の椅子に逆向きにまたがって、記事のネタをガンガンまくし立てているこの女子は、新聞部の稲枝だ。首から下げたコンデジが、まあ似合うこと似合うこと。左手には常にメモ帳がひっついていて、何かあるとすぐにメモる。端的に言えば、天性の新聞記者である。

「しかも、昨日の夜に誰かが校舎に侵入したっていう報告もあったらしいし、ますます許せないね、こいつ」

「なんでさ」

 俺は、思ったより自分の声が興味なさげなことに驚いた。泳ぎなんて、夏の間に二、三回、友達に付き合って市民プールに行けば十分だ。

 夏場の水泳の授業なんて、丸めてゴミ箱にポイしたい。

 俺のあまり好きでは無い水泳を、わざわざ夜中にプールに行ってまでする、というやつを頑として許さないだけの気概を、俺は持ち合わせてはいない。

「だって、うらやましいじゃん! 夜のプールだよ? 忍び込むんだよ? いったいどんだけの高校生が夢に見て、夢破れていくと思ってんの?」

「どんだけって…………。俺にゃわからねえや」

「ったく。夢が無いの通り越して、枯れてるんじゃ無いの?」

「何が」

「何がって、ロマンが、よ」

 これだから最近の若いもんはー、と愚痴りながら、稲枝は立ち上がった。腰を浮かせ、椅子を戻した瞬間に「あ」と振り返る。

「あんだけのエキセントリック美少女と一緒に部活してるのに、浮いた話一つ無いあたりがもうロマンが枯れ果ててる証拠だよねー」

「うるせー」エキセントリック美少女ってなんだよ。

 俺はしっしっ、と手を降って、稲枝を追いやった。稲枝はむっくりと膨れながら、椅子と椅子の間を縫って別のやつのところへと、まるで水族館のカツオかマグロみたいに回遊していく。また同じような話を、別のやつに聞かせるのだろう。願わくば、聞き手のロマンが枯れ果ててませんよーに。

 稲枝の声が目の前から消えると、クラスのざわめきが耳に流れ込んでくる。いつもよりさらに暑い空気といつもよりさらに青い空のせいで、クラスの面々もいつもより浮かれているみたいだった。

 明日からは、夏休みだ。


 長期休暇の前日には、決まって「集会」「大掃除」という、浮かれてきた高校生の頭をつかんで地面に叩きつけるような行事がある。俺たちの高校もその例に漏れず、バスケ部やバレー部の汗が蒸気になって詰め込まれたみたいな体育館に集められ、なんの得になるかもわからない話を聞かされる羽目になった。

 むっとした空気が、さっきから全く動きやしない。風ひとつない体育館に、せめて扇風機を。

 こまごまとした委員会や部活の報告をものすごい勢いで右耳から左耳に受け流していた俺にほんの少し引っかかったのは、生活指導の教師の話だった。と言っても、「あー、そういや稲枝も同じこと言ってたなー」というだけの、本当に些細な興味だったけれど。

 生活指導の彦坂とか彦田とかいった教師は、いつもの猫背をさらに丸めながら壇上に上がると、マイクを四回叩いてから、せっかちさを全面に出してこう話した。

「え、えー、生活指導の彦根です」あ、彦根だったか。「生徒の皆さんに一点、お話ししておきたいことがあります。校内への夜間侵入の件です」

 この辺りで、俺は「おっ?」と思った。聞き覚えがあるぞ。

「昨晩、本校の校舎内に不審者が侵入しました。一階の教室の窓から侵入し、校舎内を徘徊したと思われます。この校舎は機械警備によって監視されていますが、警備員が急行した時には、もう侵入者はこの校舎を後にしていました」

 そして、彦根は一旦舞台袖に下がると、片手に灰色の何かを持って現れた。あれだ。体育館の中が低いざわめきに包まれる。

 サメの浮き輪。

「また、こんなものがプールに残されていました。このように、プールにも侵入した痕跡があることから、この侵入者は夜のプールに忍び込んだ後に校舎へ侵入したと見られています。

 良いですか、みなさん。夜のプールに忍び込んで遊ぶことはもちろんですが、夜の学校に忍び込むことも禁止です。この件に関して、近隣の方から、プールに忍び込んだ生徒の声がうるさかった、と苦情の電話もいただいてます。特に夜のプールは危険ですから、絶対に侵入しないようにしてください。

 夏休みだからといって羽目を外さないように。高校生として節度ある行動を心がけてください。あと、今回の件について心当たりのあるものは生徒指導部の彦根まで」

 大抵この彦根という教師は、こう言った話の後にいつも「生徒指導部の彦根まで」と付け加えるが、誰が素直に申し出るというのだろう。こんなもの、誰が侵入者かわかってません、と宣言しているようなものじゃ無いか。

 だとしたら、おそらく侵入者は申し出ることはしないだろう。何の憂いもなく、一点の曇りもない夏休みへ突入だ。

 こう言った時に名探偵がいれば、この無数の生徒の中から忍び込んだやつを一人選び出して、「あなたが犯人ですね」とか言えるのだろうか、と、俺は暑さでぼうっとした頭で、そんなことを考えた。


 集会が終わると、今度は大掃除である。

 大掃除は、普段の掃除が三倍にめんどくさくなったような行事である。三倍もめんどくさいのに、あろうことか俺は枇杷島びわじまと一緒に校舎二階の男子トイレを掃除していた。

 やる気なくブラシをぶらぶらとさせながら、枇杷島は言った。

「夏、どうする?」

 俺はブラシすら手に持たずに答えた。

「別に。何の予定もない。合宿くらいかな」

「マジか。二川ふたがわさんと同じ部活なのに、何の予定もないのか?」

「だから、あいつとは別になんでもねえって。うわ、ブラシ振り回すな。なんか水飛んできた。汚ねえ」トイレの水だぞ。

「あ、悪い」殊勝な態度で枇杷島は謝ると、「じゃあ、俺とどっか行こうぜ」

 枇杷島の言葉に、俺はおもわず咳き込んだ。

「え、何でそうなるの?」

「だって、俺も予定ねえんだもん。男二人で海っていうのも、オツなもんなんじゃない?」

「お前、俺のこと好きすぎだろ…………」

「まあな」

 得意げに鼻をこする枇杷島。

 ははは、とから笑いをしてから、お互い「気持ち悪り」といって、すざざざざ、と後ずさった。いつものことだ。

 ある程度距離をとってから、俺は枇杷島に声を投げかける。

「せめて他の奴らも誘おうぜ。男二人で海に行ったって虚しいだけだろ」

「それは思った。二人でビーチバレーやるわけにもいかないし、誰か後で声かけてみるかあ」

 俺は想像した。日の光が燦々と降り注ぐ海辺。周りには家族連れや、眺めるだけで眩しい男女混合のグループがわらわらと動き回っている。波の音が人の心を夏へ夏へと急き立てる。

 そんな中、目の前のこのむさい男と二人、延々とビーチバレー。冗談じゃない。せめて遠泳なら、ストイックな感じがこの残念さを塗りつぶしてくれそうな気もする。

「お前の妹とか、ついてきそうな感じしない? 泳ぐの好きだし」

 枇杷島の言葉に、俺は少し考えた。

「あー、まあ、確かにそんな気もするなあ。だからと言って、高校生だけのグループに一人だけ混ぜ込まれても、大変じゃね?」

「ああ、まあ、そうか」

 枇杷島は素直に言葉を引っ込めると、今度はスマホを何やら操作し始めた。

「まあ、善は急げだ。とりあえずクラス全員誘ってこーぜ」

 どうやら、とんでもない大人数を招待するつもりらしい。俺はあえて口を挟まない。

「まじか。みんな部活とかあるだろ」

「お盆なら平気じゃん」

「…………そーか?」

「そうだろ。…………、なあ、二川さんも誘ってあげようか?」

「なんで俺に許可とってんの?」というか、なんで「あげようか?」なんだ。

「いや、同じ部活だし……」

「俺は別にいい。誘いたいならあいつに聞け」

 俺のその言葉に、枇杷島はわざとらしく「緊張するわー」とかなんとか零した。

 俺だって、あいつと同じ部活に入りたくて入ったわけじゃない。俺のいる将棋部と二川のいる生物研究会、そして天文研究会は、その昔、慢性的な部員不足に悩まされ続けた結果、お互いの部に入り合うことで部員不足による廃部を逃れよう、という協定を結んだそうだ。

 つまり、俺はいま生物研究会員でもあり、天文研究会員でもある。そしてそれは、俺の意思が全く届かないところで締結された取り決めに基づくことなのだ。

「ま、違うクラスの人が混ざってもつまらないだろうし、今回はやめとくか」

「あー、そうだなー」

「それに、醒ヶ井にも悪いしな」

「てめ、殴られたいのか?」

「悪い悪い……、いや、お前、目がマジだって。こええよ」

「なんてな」

「はあ……心臓に悪いよ、醒ヶ井」

 完全に掃除の手を止めて駄弁っている俺たちが、通りかかった美化委員に油を絞られるのは、そう遠くない未来だった。


 夏休み前にすべきこと、つまり、集会、大掃除、級友との挨拶を済ませた俺は、最後の一仕事を終えるために部室に向かった。生物研究会(天文研究会と将棋部含む)の夏合宿について話し合うためである。

 部室(兼生物実験室)に向かった俺を出迎えたのは、現生物研究会会長の、例の二川ありすだった。…………、制服であるセーラー服を着ているのは、まあ当たり前だ。が、なんで裸足なのか。靴下すら履いていないのか。

 と、部室の入り口に泥で汚れた長靴と、靴下が突っ込まれた綺麗なローファーが揃えて置いてあるのを見て、俺は全てを理解した。田んぼかどっかにいって来たのだろう。

「うっす」

「お、醒ケ井。来た来た」

 二川は顔をほころばせると、裸足でペタペタと歩いて奥から洗濯ネットを取ってきた。ああ、また何か捕れたな、と思いながら、俺は手近な椅子に腰掛ける。

 今日みたいに用事がない日だって、こうして部室に来てしまう。習慣とは恐ろしいもので、将棋部の先輩が引退して、実質部員一人になってしまった今も、癖でこうして部室にやってきてしまうのだ。一人寂しくプロ棋士の定跡を並べていると、大抵はこうやって、珍しいものが捕れたとか言ってはしゃぐ二川の姿を見守ることになるのだ。

 だれか、将棋指そうぜ。

「これこれ。さっきさあ、終業式の間に抜け出して捕まえたんだ」

「さぼりかよ」

 俺の言葉をまるっきり無視して、二川は俺の目の前に洗濯ネットをどさりと置いた。しばらくじっとしていた洗濯ネットが、急にうねうねと踊りだす。うわ。うわわわ。

「なんだこれ」

「シマヘビ。文化祭のふれあいコーナーに展示しようと思うんだけど、どうかな」

 そう言って、二川は洗濯ネットのファスナーをじーっと開けた。途端に黄土色をしたヘビが袋の口から飛び出して、俺の腕を撫でながら床へと飛び出していった。ひえええ。なんかすべっとした。

「うわ! 逃げた!」

「なさけないなーもー」

 思わず叫んでしまった俺にそんな声をかけながら、二川は必死の脱走を試みるシマヘビをむんずと掴むんで床から拾い上げた。しゃっ、しゃっ、と、なぜか俺に向かって攻撃してくる。サメの浮き輪なんかよりよっぽど凶悪な目つきをしてるあたり、地味に怖い。

 こいつは、生物実験室の中でしか、こんな事をしない。不公平だ。俺だけがヘビに咬まれる恐怖を感じなければいけないなんて。

 なんなら、こいつのせいで、恐怖を感じなければいけなくなった事は、一度や二度では済まない。その度に、俺はこの不公平を呪ったものだ。

 なんで将棋部なのに、ハチの巣を除去しなきゃいけないんだ。

 なんで将棋部なのに、でっかいヒキガエルを捕まえなきゃいけないんだ。

 まあ、全てはまた別の話だ。

 二川が洗濯ネットにヘビを入れ、ファスナーを閉め終わったのを確認してから、口を開く。

「それ、ふれあいコーナーで触れ合うには、少しやんちゃ過ぎないか?」

「んー、まあ、飼育しているうちに慣れてくるとは思うんだけどね」

 二川はそういうが、俺はいまだうねうねと踊っている洗濯ネットが怖くて仕方ない。洗濯ネットに噛まれて怪我とか、シャレにならない。

 しかしまあ、二川はそうやって動き回る洗濯ネットを自分の方に引き寄せると、ファスナーを開いて中を覗き込んだ。俺はそんな二川の横顔を覗き見る。

 涼やかな目は細められ、まあ間違いなく美人と言って良い横顔は、にへら、とだらしなく口元が緩んでいる。肩にかかりそうな黒い髪の向こうで、いつまでもそのままの表情でいそうだった。

 俺は、二川のカバンの隣に、(おそらくヘビの餌にされてしまうのであろう)カエルがたくさん入ったプラケースが置いてあるのから目をそらしながら、二川に声をかけた。

「で、合宿の話し合いとかいってなかったか?」

「…………っ、あ、そうだね」

 ほんとうにこっちの声が聞こえていなかったみたいで、慌てて洗濯ネットの口を閉じて、カバンにしまった。……カバンにしまうのか。

「でも、天文部の二人が来ないと、話は進まないしなあ」

 そう言って、二川は四つ足の椅子を後ろに傾けて、うーん、と唸りながら天井を見上げた。しばらくそうやってうーんと唸っていたが、ふと、意地悪そうな表情で、俺の頭の上に爆弾を落っこどした。

「テスト、返ってきたでしょ?」

「ああ」

「テストの点で勝負しない? 買ったほうがアイス奢りね」

「お前とは勝負したくない」

「なんでよ」

「自分より頭が良いって解ってる奴に、テストの点なんて言いたいわけないだろ」

「え……、別に、特段頭が良いわけじゃないって、私。単に学校の勉強が出来るだけだから」テストの点を取るにはそれで十分だ。「私の頭が良いって勝手に決め付けて、賭けを降りないで」

「そんな話は認められんぞ」

「えー」

 蝉の声が流れ込んでくる部屋の中で、だらだらと会話が続いていく。もう、頭じゃなくて口が物を考えて、そのまま言葉にしているかのようだった。

 そのまま適当に会話が続くのかと思ってたのに、今日の二川はまた、一段と挑戦的なことを言い出した。

「じゃあさ、何か一つ問題出してみてよ。一生懸命考えてみて、それでも私がその答えがわからなかったら、テストの点数教えて」

 ちょっと考えて、俺は二川の仕掛けた罠を見破った。

「それ、解けなかったら、って、解けないフリすれば良いだけの話じゃん。結局俺の点数聞き出して、俺に奢らせるんだろ」

「ちっ、ばれたかー」

 わざとらしく二川はそう言って、けらけらと笑った。俺はさらにムッとする。

「でもさあ、本当に頭の良い人って、学校の勉強できるか否かとはまた別のところにいる気がしない?」

「それはわからんでもない」

「だからさあ、学校の勉強できる私と、できない醒ヶ井で、さっきの勝負しない?」

「え、だからってなんだよ、だからって」

 負けたふりなんて簡単じゃん。そこまでして人のカネでアイスが食いたいか、と俺が言いかけた時、生物実験室の扉がいきなり開いた。

 天文研究会の野洲くんと守山さんだった。

「遅れてすいません」

 二人は礼儀正しく一礼してから教室に入ってきた。二人の礼儀正しさを見るたび、目の前の生物研究会の会長のはっちゃけ具合が申し訳なくなる。そろそろ靴ぐらいはいたらどうなんだろう。

「あれ、立花は?」二川が聞く。立花とは天文研究会唯一の二年生である(もちろん、俺や二川も当然入ってるから厳密には唯一ではないけれど、意識の上では俺は将棋部、二川は生物研究会だ)。

「立花先輩は機材を片付けに行ってます」野洲はぴしっと姿勢を正して答えた。

「あ、そう」

 二川はそういうと、しばらく何やら思案顔をして、そして、また悪そうな顔に戻った。悪そうな顔になっても、人を惹きつける外見をしているのだからタチが悪い。

「ねえねえ、野洲くん、守山さん。私とそこの醒ヶ井で勝負してるんだけど、乗らない?」

「え、勝負、ですか?」野洲くん目をぱちくり。

「そう。どっちが真に賢いかの勝負」

「…………そりゃ、二川先輩の方が頭良いに決まってるじゃないですか」

 おいこら、と野洲くんに言いたくなったが、一瞬自分でも納得してしまったのが悔しい。

「あーもー、みんなそういうこと言うー」

 二川は大袈裟にため息をついてみせると、いきなり立ち上がった。なんだなんだ、と俺たちがのけぞっていると、急に二川のやつは演説をぶちはじめた。

「醒ヶ井は私のことを頭が良いという。私は決してそんなことはないと主張する。なら、勝負をするしかないでしょう」

「そうですね」

 二川の顔にうっとりと見入りながら、守山さんがいう。おいこら待て。ちょっと考えれば、二川がめちゃくちゃな事言ってるのに気づくだろ。

 ただ、自分の言葉の扇動性だけで、二川はごり押ししている。

「だから、野洲くん、守山さん。あなたたちに公平な出題と判定をお願いしたい。何か一つ、学校の勉強とは関係ない問題を一つ出して、先に妥当な答えを出したほうが勝ち、ということにしたいんだけど、どう? で、私が勝ったら、醒ヶ井が私にアイスを奢る、醒ヶ井が勝ったら、醒ヶ井の言ってた『私の方が頭良い』って言葉は嘘だったって事で、醒ヶ井が私にアイスを奢る」

 おいこらちょっと待て。

「それじゃ、どっちにしろ俺の負けみたいなもんじゃねえか」

「不満?」

「不満だらけだ」

「じゃあ、単純にこの勝負の勝敗だけで、アイス奢るか奢らないか決めよう。これなら、純粋な勝負になるんじゃないかな」純粋でも、平等じゃねえ。

「わかりました」

 従順な部下、という感じで野洲くんが答える。だから待て。

 俺に置いてけぼりを食らわせて、話はどんどん進んでいった。野洲くんと守山さんはコショコショと話し合っている。二川はそんな二人から視線をそらすと、俺に挑戦的な目をして見せた。

 あいつ、汚いぞ。

 しかし、だからと言って、ここで勝負を降りたんじゃ、あいつに何を言われるか解ったもんじゃない。どうせ、勝負の前に逃げ出したら不戦しょ……。

「醒ヶ井、もう逃げられないよ。勝負の前に逃げ出したら私の不戦勝だから」

 ほら、予想通り。二川は髪をかきあげながら、そう宣言した。

 こいつの、こういう好戦的かつ負けず嫌いなところを知ってるやつは少ない。だから、まあ、(ある人に対してどういう印象を持つかは人それぞれ違うとはいえ)、概ね俺や立花の二川像と、他のクラスメートの二川像は、かなり大きく離れているのだ。

「解ったよ。勝てば良いんだろ、勝てば」

「ふっふっふ」

 もうすでに、消極的な理由で戦闘態勢に入った俺の脳みそは、何かがおかしいことに気づかない。二川はそんな俺を見て、何か含みのある笑い方をした。

「決まりました」野洲くんが宣言した。「ええ、守山さんと公平に審議をした結果、お二人に挑戦していただく問題は次のようになりました」

 芝居掛かった話し方の野洲くんの後を、喋り方そのままで守山さんが継ぐ。

「みなさん知っての通り、昨日の夜、何者かがプールに侵入した後、校舎内に侵入しました。今朝、プールにはその侵入者が残したと思われるサメの浮き輪が残されていました。

 お二人には、彦根先生のお話とこの残された状況証拠から、侵入者が一体どんな人物なのか、を明らかにして欲しいのです。具体的な人名までは挙げなくて結構です。どんな人か、をおっしゃってください。私たちの判定によって、より妥当だと思われる方の解答を勝ちとします」

 あれ、と思い、俺は守山さんに問いかけた。

「それ、片方だけ答えても大丈夫なの?」

「片方だけ、というのは?」

「だから、プールに侵入したのはこんな奴、校舎に侵入したのはこんな奴、って感じで」

 守山さんはしばらく不思議そうな顔をしてから、

「できるだけ、両方について条件を揃えてください。だってその方が、答えに近づくでしょう? 甲乙って一人の人物に対して二つの条件が出てきたら、甲かつ乙ってやってしまえばさらに詳しい条件になるじゃないですか」

「あ……、まあ、そうか」

 俺は引き下がった。

 そして、野洲くんと守山さんは二人顔を見合わせた。息を合わせるのかと思いきや、野洲くんが口を開いた。

「では、はじめ」

「ちょっと待って」

 二川が待ったをかけた。

「侵入者って何? 私聞いてないや」

「全校集会サボってたからだろ。ま、俺も、新聞部部長が喋ってた内容くらいしか覚えてなかったけど」

「サボっ……、いや、自分の道を追い求めてたからだよ。というか、醒ヶ井だって彦根の話全く覚えてなかったってことじゃん。全然聞いてなかったんでしょ?」

「まあな、体育館が暑くてぼうっとしてた」

「守山さん! もっと詳しく! もっと詳しく聞かせて!」

 そうまくし立てながら、二川は守山さんの方を掴んでゆさゆさと揺さぶった。がくがくと守山さんの頭が動く。やめて差し上げろ、二川。

「教えてくれる? その、彦根っちのお話」

「あああ〜、は、はい、わ、解りました」

 二川は手を離した。守山さんはかわいそうに、首をぐりぐりと回して肩を揉むと、「彦根先生は、こうおっしゃってました」と、俺の覚えている彦根の話の三倍くらいのことを話して聞かせた。記憶力がすげえや、と思いながら、俺も守山さんの話を聞く。覚えてないことばっかりだ。

 で、全て聞き終わると、二川は驚いた表情で俺と向き直った。

「知ってた? この話」

「彦根の話はほとんど覚えてなかったけど、知ってた」

「え、ソースは誰?」

「稲枝」

「あー、あの天性の新聞記者だね」俺の思った事とおんなじ事を言う。

「参考までに、稲枝さんの話がどうだったか、教えてくれる?」

 後々になって、俺が稲枝の話をソースとして出したら、こいつは「アンフェアだ」とか言い出すだろう。目に見えている。だから、俺は稲枝の話を、できる限り細かく話して聞かせた。

 俺の話が終わると、二川はけろりと言い放った。

「じゃ、尋常に勝負」

「お前、調子よすぎるだろ」

 俺の嫌味などどこ吹く風、二川は「うーん」と何やら深い考え事に溺れていった。巻き込まれたとはいえ勝負は勝負、俺も真面目に考えようかと窓の外に目をやった。

 まあ、代わり映えのしない風景だ。梅雨が終わったせいで砂漠みたいになったグラウンドに野球部が散らばっている。よくもまあ干からびないものだ。その隣では、水泳部がプールで延々と水しぶきをあげている。グラウンドを挟んでプールと反対側の通路を、晴れやかな夏休みに向かって制服姿の生徒が帰っていく。まだまだ、昇降口からは生徒がわらわらと吐き出され、通路を通って門をくぐっていく。……全く問題を考えていない。

「あのさあ」

 二川は言った。どうやら俺に話しかけているらしい。

「なんだ?」

「醒ヶ井はどう思うの? なんか、侵入者のあたりが付いてたりする?」

「うーん、全く。ってか、これ相談ありなの?」

 野洲くんは首を縦に振った。

「ええ。相談してもいいですよ。その場合は、いかに上手に相手の立論を潰せたか、という点でも判定を下すことになります」

 野洲くんのりのりである。横の守山さんも同じような表情しているあたり、守山さんものりのりである。いよいよ純粋な勝負なのかどうかが怪しくなってきた。

「少し考えたんだけどさ」醒ヶ井は椅子の上で体育座りをした。白い膝小僧が日の出みたいに机の上に顔を出した。なんだか見ていてはいけないような気がして、俺は目を逸らした。

「この侵入者って、たぶんプールに先に侵入したんだろうね」

「……、なんで?」

「なんでって、校舎だけには機械警備があるから、だけど」

 二川は、これでわかるだろう、と言いたげな表情だ。今度は足を伸ばしたくなったのか、隣の椅子に足を置いてストレッチなんかしている。落ち着きがない。というか、人と話をするときにストレッチ始める奴初めて見た。

「だって、プールにも機械警備がついてるんじゃないか?」

「いいえ、ついてないです」

 野洲くんが控えめに言う。俺は当然ついているものだと思っていたから、少し声が裏返った。

「マジか」

「はい、マジです。前に水泳の授業で先生が言ってました。夜中にお前らが忍び込んでも、警備会社の人は来ないから、安心して忍びこめるなーって。まあ、知ってる人は少ないんじゃ無いかな、って思いますけど」

 おそらく生徒に人気のある教師なのだろうと思った。とにかく、ただでさえ校舎がボロボロなこの高校だ。機械警備も余計なところにつけるほどのお金がないのかもしれない。

「そんなことも知らなかったんだ〜」

 二川はにやにや笑いながらそういった。なんだ、せっかく野洲くんが俺のフォローしてくれたのに。

 というか、なんだかんだでかなり人をむかつかせることに長けたやつである。もちろん俺はこんな安い挑発に乗ったりはしないが、よくもまあまあ、外面と本性をここまで使い分けられるものだ。

「まあ、無知は恥じゃないからな。今こうやって学んだだけでも十分立派なことだし」

「ちぇ」

 わざとらしくそう言い放つ二川。やったぜ、一矢報いてやった。が、二川はすぐに復活すると、話を続けた。立ち直りが早い敵、これすなわち憎たらしい敵なのだと俺は学んだ。また一つ賢くなった。

「とにかく、プールに機械警備がなくて、校舎に機械警備があったことと、犯人が機械警備のセンサーに反応して初めて警備会社の人が急行するって常識を照らし合わせれば、犯人がいきなり校舎に侵入してからプールに行くより、プールでひと遊びしてから校舎に入ったって考える方が自然じゃない?」

「警備会社の人って、そんなすぐ来るのか」

「当たり前でしょ」

 ぴしゃりと言い切られて、俺は口をつぐんだ。

 しかし、得意げに話す二川を見て、俺のいたずら心がむくむくと目を覚ました。

「でも、そっちの方が自然ってだけで、別に校舎に先に入った可能性を消せたわけじゃないだろ? そもそも、校舎とプールのどっちに先に入ったかが、この問題に答える上で重要なのかどうかも解らねえじゃん」

「でも、あれだよ。これだけは言えるよ。侵入者がこの学校にきたのは、プールに忍び込んで遊ぶためだって」

「それは別に、こんな七面倒臭いこと考えなくたって、浮き輪があったから、ってだけで十分じゃないのか?」

「それもそうだけどさ……」

 珍しく二川はしゅんとして引き下がった。少し伏し目がちになって、次の攻撃を準備している二川を見ていると、妙な罪悪感が湧いてきた。なんだこれ。

 二川が、ちら、と上目がちにこちらを見た。まともに視線がぶつかって、俺は自分の手元に目を落とした。手相が走る手のひらを見ながら、こちらも次の弾を用意する。どうやって侵入者を絞っていこうか。どうやったら野洲くん守山さん、そして二川を、完膚なきまでに納得させられるだろうか。

 そして、どうやったらこの試合に勝って、勝利の美酒、じゃなかった美アイスに酔えるのだろうか。いや、アイスじゃ酔わないけど。

 しかし、一から考えるとなると、別に「犯人はあなただ」と指名しなくていいにしても、やっぱり難しいものだ。なんせ、手がかりといえば、稲枝の話と彦根の話しかないのである。相当無謀な問題を出してきたな、と思う。

「相当無謀な問題出してきたね…………」

 俺の声が二川の声に声変わりしたのかと思ったが、そんなことはなかった。俺が思ったことと全く同じことを、二川は声に出したと言うだけのことだ。

 なにしろ、俺はとっくのとうに声変わりを済ませている。

「ええ。でも、二川先輩なら何らかの解答はくれるかな、って思ったものですから」

 野洲くんは殊勝なことを言う。二川の表情は目に見えて明るくなった。

「あ、それって期待してくれてるってこと? がんばらないと」

 そういうと、二川は「んー」としばらく唸り、そして、次の弾を発射した。

「じゃあ、これはどうだろう。何で、侵入者はサメの浮き輪を取りに来なかったのか。そっちから考えてみようよ」

「まあ、それは確かに変だな」

 あれだけ大きな浮き輪を、うっかり忘れてきたとは思いにくい。うっかり忘れてきたとしても、どこかで気づきそうなものだ。

 あ、でも。

「まあ、あの手の浮き輪はプールの行き帰りには空気を抜いてつぶしておくのが普通だから、置き忘れても、帰り道では気付きにくいっていうのはあるかもしれないぞ」

「だって、普通に考えれば、プールから上がってプールサイドに立った時に、プールの真ん中に浮いてる浮き輪に気づくでしょ」

 二川は食いさがる。俺は食いさがるピラニアのような二川を、振り落しにかかった。

「でも、侵入者が忍び込んだのは夜だぜ? 暗くて気付きにくかったかも知れないだろ」

「そっか……」

 二川は何度目かわからないため息を吐くと、机に突っ伏した」

「あああ〜〜〜〜。守山ちゃーん、ヒントくれええ」

「いいえ。二川先輩なら必ずや妥当な解答をくださるはずです」

 こいつら、俺がこの勝負に勝てる可能性は、みじんも残されてないって言いたげだな。そう思って一瞬この勝負に乗っかった自分を攻めそうになったが、すんでのところで思いとどまる。逆に言えば、二川すら解らない難問なのだ。不完全な二川の立論をぶっ潰していけば、勝利は見えてくるんじゃないか。

 そう思った俺は、何気ない風を装って二川を促した。

「じゃあ、俺が反論しなかったら、何て言うつもりだったんだ?」

 うなだれたまま二川は答えた。くぐもった声が、テーブルと二川の顔の間で響いている。

「あれだけ大きな荷物を忘れるってことは、なんか慌ててたんじゃないかなって思ったんだ。でも、それだけ慌てる理由もいまは見当たらないし、やっぱダメだ」

 珍しく自分からこういうことを言い出すから、かえって俺は二川に反駁することができなかった。自らダメと認めているものを敵が叩いたって、何のダメージにもならない。

 うううー、むずかしいぜー、と、相変わらず突っ伏したままの二川はぼやいた。この分だと、俺も何か言わないとまずいかもしれない。何しろこの二川のことだ。「アイス」とは言ったが、「アイス一本」とは言っていない。もしかしたらこのひと夏分くらいのアイスを一括で俺に購入させる気かもしれない。

 そうなったら、俺の夏は終わる(主に金銭面で)。

 それはまずい。二川の言ってることを叩き潰していくつもりでいたのに、当の二川が何にも言わないんじゃ、こっちだって手の施しようがない。

 しゃあない。俺も何かひとつ、考えよう。

「じゃあ、こんなんはどうだ? 侵入者はプールに忍び込んで遊んだ。だから、この学校の生徒であることはほぼ確実だ」

「なんで?」

「なんでって……」

 俺は一瞬口をつぐみ、しゃべることを整理して、それから答えた。

「例えば、夜中に学校の敷地に侵入するっていうのは、かなり緊張することだろ? いざとなれば不法侵入で立派に法に触れてしまう。プールで遊ぶって時に、そういう要らない心配は邪魔だろ」背徳感がいい、という場合もあるだろうけど。「だけど、自分の通ってる学校なら、先生に油を絞られこそすれ、それ以上のお咎めはないだろう。

 それに、この学校の生徒が侵入した、って思わせるなんかがあったから、彦根もわざわざ俺たちにクギを刺すような説教をしたんじゃないか?」

「でもさあ」

 二川は不満げな声を出した。人の論をぶっ潰すのが楽しいのかもしれない。彼女がテーブルを超えて身を乗り出すから、俺は後ずさりした。彼女の大きな瞳が楽しげな色を浮かべている。

「もし忍び込んだのがグループだったとしたら?」

 彼女の瞳を見ているのは何だかきつい。自分の中を覗き込まれているような気になってしまう。俺はもう一度、夏の窓の外に目を逸らした。青い雲に、見本のような入道雲がのっそりとそびえていて、まるで「夏休みだよおお」とあたり一面に宣言しているかのようだ。

「グループだったとしたら、何だっていうんだ?」

「グループだったら、複数の高校の生徒が混ざってるかもしれないじゃん。だとしたら、侵入者はうちの学校の生徒、って言い方じゃなくて、侵入者の一人は、って言い方のほうが正しいんじゃない?」なんだその、とりあえず反論してみましたー、みたいな反論。

「細けえな」

「こうやってポイントを稼いでいく主義だから」

 澄まし顔で二川は言う。俺は、はいはいそーですか、の意味も込めて二川の言葉を無視した。ポイント制とか聞いてねー。

「でもさあ、今までこうして話してても、どうして侵入者が校舎に忍び込んだのかっていうのは謎のままだよね」

「まずそれが解るのかどうか、については何も言わないんだな」

「合理的な説明を与えれば勝ちなんでしょ? 解る必要はないじゃん」

 バッサリ切って捨てられた。とことん俺の形勢は悪くなっていく。何とか食い下がろうと、俺は苦し紛れに言った。

「でも、具体的に解るならそっちの方が良くないか? 例えば、忘れ物してたとか」

「何言ってんの。今日だって学校に来られたんだよ? 急を要さないものなら、わざわざ夜に取りに来なくたって、今日持って帰ればいいだけだし、逆に、『夏休み前に出さなきゃいけない宿題を忘れた!』みたいに、窮地に陥ってるやつなら、そもそも悠長にプールで遊ぶわけないじゃん」

「トイレに行ってたとか」

 こちらこそ真の苦し紛れのつもりだったのだけど、その一言に、二川は腕を組んで考え込んだ。ぺたぺたぺた、と裸足が床を叩く音がする。二川はそうやってリズムをとって、考え事をするのだろう。

「トイレ、ありかもね」

「え、まじで」

「だって、プールのトイレって、プールに併設された更衣室の中にあるけど、あそこも夜中は施錠されるからね。窓は小さいし、扉は一個しかないから、毎日週番の生徒が戸締りをチェックしてる校舎の窓よりも、よっぽどしっかり施錠されてると思う」

 それに、と二川は付け足した。「冷えると催すしね」

 その通りだ。俺は野洲くんを見た。野洲くんは一瞬戸惑って、「今のは、二川先輩のポイントじゃないですか?」と言った。このやろ、二川の色香に惑わされおって。そもそもポイント制だって、二川が勝手に言い出したことじゃないか。

 俺は溜息をついた。まずい。二川とかいう傾城との勝負じゃ、そもそも公平な判断が期待できない。要するに、俺は戦う前から負けかけていたのだ。

 はあああ、と心の中で溜息をつく。

 あー、はやく立花が来て、この話がうやむやになったりしねーかなー。

 どうせはっきりとした答えは出ないのだ。答えの出ないゲームをダラダラと続けているに等しい。そんな中で、偶然二川はうまくポイントを稼ぎ、俺にアイスをおごらせようとしている。

 ただ、本当にただ、それだけの話なのだ。

 でも、何でそんな退屈そうなゲームのために、何でそんな二川のために、俺がこうやって時間をつぶしているかといったらーーーー

「おーっす!」

 がちゃり、と扉が開いた。額に大きな玉の汗が浮いているが、それでもこのバイタリティお化けはそんなこと気にもせず、元気よく机についた。

「おっす」「あ、やっと来た立花」とそれぞれの言葉をかける俺と二川に、立花は「いやー、遅れてすまない!」と言うと、今度は天文研究会の後輩二人に向き直った。

「なあ、天体望遠鏡、地学準備室に置いといてくれた?」

「あ、はい。置いておきました」野洲くんが答える。立花は野洲くんの返事を聞くと、「グッドだ!」と親指を立てて見せた。

 何とも元気な奴だ。まあこいつは、俺がこいつを初めて見たときから今に至るまで、一瞬たりとも元気でなかったことがない。

 と、急にがたり、と椅子が鳴った。二川である。急に立ち上がった彼女は、立花に詰め寄った。

「え、昨日、天文部員って観望会してたの?」

「ああ、彗星が来てたからね」

「それって、ここで?」

「ああ。校庭の隅っこがちょうどよく開けてて、その上充分暗いからね。遠出できないときは重宝してるんだけど…………」

「誰か、校舎に入らなかった?」

「あ、ちょ、二川先輩」

 野洲くんが止めようとしたのに、立花ははっはっはと笑うと、

「何でそれ知ってんだ? 野洲の奴が双眼鏡を自分の机の中に忘れてきたっていうからさあ、取りに行かせたんだけど、あれな、夜中に校舎に入ると警備員が来るんだな。おかげで、俺たちグラウンドの端っこで隠れなくちゃならなかったんだよ」

 俺は野洲くんを睨んだ。野洲くんは首をすくめた。彼をたっぷり睨んでから、今度は守山さんを睨んだ。彼女は苦笑いをした。

 苦笑いをしたいのは俺の方だ。

「ってことは、例の侵入者って、あんたたち天文部員だったってこと? はー、守山さんと野洲くんも、案外ずるいことするんだねえ」

 二川のわざとらしい追求に、野洲くんは小さい声で「ごめんなさい……」と答えただけだった。二川はまだ続ける。

「はー、せっかく私の方が賭けに勝ちかけてたのに。立花も余計なこと言うんだから」

「え、賭け? なにそれ?」

 不思議そうな顔をする立花に、守山さんと野洲くんが、余すところなく賭けについて話してくれた。おかげで、俺と二川は何もすることがなくなって、とりあえず立花を睨みつけていた。

 立花がきたおかげで、勝負はチャラになった……はずだ。

 あれだけ面倒くさいやる必要ないと思っていた勝負を、無理やりに打ち切ってくれた立花を、俺が睨む理由はどこにもないようだけど。

 それでも、あるのだ。

 しかし、勝負は終わらなかった。

「いや、それなら、賭けは終わらないぞ。だって、俺たちはプールには入ってないからな。だって、三人がそれぞれを見てたし、そもそも、星を見るのにサメの浮き輪なんていらないからな。

 まあ、プールに入ってる人がいたのは確かだけど」

「え…………、あ、そうなんだ」

 二川は不意を打たれた、と言うような顔で立花を見た。立花はそんな彼女の表情に気づかない。

「だからまあ、存分に勝負を続けてくれよ。面白そうだし」

 終わると思っていた賭けが、思いがけず続いてしまった。

 校舎に忍び込んだ侵入者は、野洲くんだと判明した。しかも、彼はプールには入っておらず、サメの浮き輪を持っていなかったという。

 一見すれば、問題が簡単になったように思えるだろう。確かに、プールと校舎を結びつける必要はなくなり、問題は、どんな奴がプールに入ったか、という点に、合理的な説明を与えるだけなのだ。

 だが、単純ゆえに、どんな説明をしていいかわからない。もっと言えば、侵入者を絞ることができないのだ。さらに言えば、「プールに入っ」て、その上「校舎に侵入し」たからこそ、条件を絞って考えられたのに、両者が別と解ったために、今までに潰れた立論も、今になって復活してきている。現に、忘れ物をしたから野洲くんは校舎に入ったのだ。まあ、プールへの侵入者が、忘れ物を取りに来たとは考えづらいが。

 少なくとも俺の力では、侵入者は人間、それもせいぜいこの学校の生徒だ、と言うところまでしか合理的には絞れない。

 俺は諦めた。合理的な、つまり、それっぽい説明をするのは無理だ。あまりにも単純すぎる。手がかりが少なすぎるのだ。

 俺がそうやって八割がた諦めたのと、二川が歓喜の声を上げたのは、ほぼ同時だった。

「解った!」

「…………何が」

「侵入者がどんな奴か!」まじか。

「ほうほう、聞こうじゃないか」

 なぜか偉そうに立花が言う。俺はとりあえず二川を睨む。

 二川はもったいぶって間をとった。その間に、身動き一つしないオーディエンスを睨め回し、俺のことはたっぷり二秒は見つめていた。そんなに自信があるなら、さっさと喋っちまえ。

 俺は二川の視線から逃げるように、野洲くんを見た。野洲くんも不思議そうな顔をして俺をみる。

 おほん、と二川は咳払いをした。

「まず、プールへの侵入者は複数人いた。これはオッケー?」

「いや、オッケーじゃない」

 俺の不機嫌そうな声に、二川の表情はさらに明るくなっていく。

「そっかー、オッケーじゃないかー」二川は嬉しそうだ。「まず、彦根の話に出てきた、近所の人からの苦情を思い出して」

「侵入したやつの声がうるさかった、っていうあれですか」

 守山さんが言うと、二川は親指を立てた。

「どんぴしゃりな引用ありがとう。つまり、この『声』っていうのは、話し声のことでしょ? 話し声は二人以上の人間がその場にいないと生まれないんだから、侵入者は複数なわけ」

「いや」

 俺は反論しようとして、手持ちの弾が尽きかけていることに気がついた。拳銃に枝豆でも詰めたみたいな反論しかできない。

「もしかしたら、一人で声をあげてたのかもしれないぞ」

「どうやって?」

「どうやってって…………」

 俺の脳裏に、夜のプールの景色が浮かぶ。月が照らすプール、サメの浮き輪を抱えた人が一人、プールの中に浮かんで、大声をあげている。…………ないな。

 あ、いや。

「演劇の練習とか」

「なら、サメの浮き輪はいらないでしょ」

「要るかもしれないだろ」とは言えなかった。なら、プールに来る必要がない。歌の練習だって、楽器の練習だって、浮き輪は要らない。

 俺に残されたのは、短く、肯定する事だけだった。

「はい」

 袈裟斬りにされ、俺の反論は斃れた。そんな俺を振り返りもせず、二川の舌は止まらない。

「じゃあ、ここで二つ目に行くね。プールにはサメの浮き輪が残されていた。これはもちろん侵入者が置いていったと思われる。ここまではさっき確認したよね。立花の話のおかげで、プールへの侵入者が柵の内側に入ってた事が解ったから、プールにサメの浮き輪を投げ入れたって可能性はほぼゼロと考えられるもんね。

 じゃあ、なんでサメの浮き輪を置いていったのか。プールに浮き輪を持って行くくらいだから、おそらく侵入者のグループの中にはあんまりバリバリ泳ぐわけでは無い人がいたんだろうね。じゃあ、その人はプールに入っている間は浮き輪に摑まってただろうし、プールサイドに上がるときは、そのまま浮き輪も持って行くはず。

 じゃあ、そんな人が、プールから立ち去る時に浮き輪を置いてきてしまうのって、どういう時なんだろう、って考えたんだ。

 この学校の構造を考えてみて」

 俺は窓の外をみた。プールがあって、その隣にグラウンドがあって、その隣には昇降口につながる通路がある。

「さっき、立花はグラウンドの隅で小さくなって隠れていた、って言ってた。警備会社の人も、おそらくこのグラウンドの脇を通って、校舎を確認しにきたはず。

 じゃあ、もしその時、プールで遊んでた奴らがこれをみてたとしたら、悠長に遊んでいられる?」

 おい、別に警備会社がきた時間に、プールに人がいたがどうかわからないだろ、と言いかけて、すんでのところで押し黙った。さっき、立花は言っていた。まあ、プールに人がいたのは確かだけど、と。

「遊んで、いられない、はず、だな」

「でしょ? とりあえず、大急ぎで柵を乗り越えて外に逃げなきゃなんない。でも、あれだけ大きなサメの浮き輪を持って柵を超えることはできない。外に投げ出してから柵を越えればいいのかもしれないけど、他にも大事な荷物があったはずだから、必然、浮き輪の優先順位は低くなる。

 確かにサメの浮き輪は目立つけど、あれで個人を特定できるわけじゃ無い。指紋とか調べればまた変わってくるのかもしれないけどね。素人判断で侵入者を特定できる証拠品じゃ無いことは確かだよね。

 だから、サメの浮き輪を置いて、とりあえずは逃げた」

「でも」

 俺は食いさがる。なんでか知らないが、とにかく二川の語りを止めたかった。

「後で取りに来ることだって、できたはずだろ?」

「でも、現に、後から侵入者は取りに来てないじゃん」

「そういうことじゃなくて、後で取りに来ることができたのに取りに来ないってのはおかしいじゃねえか」

「そうだねえ」二川は少し考え込むと、あ、と小さく声を出した。息に紛れてほとんど声とは解らないくらいの声だが、何かが二川の頭にひらめいたのは、手に取るように分かった。

「じゃあ、こっちならどう? プールにいた侵入者のグループが警備会社の人を見たのはほとんど明らかだよね。その人達をみて、プールの侵入者が逃げたっていうことは、侵入者たちは、プールにも機械警備が施されていて、自分たちが侵入したことによって警備会社の人がきたと勘違いした。

 これはどう?」

「…………、ああ、まあ、そう考えられるな」

 俺は自分の声が自分でも驚くほど低くなっていることに気づいた。

「警備会社の人が門をくぐって、校舎に近づいてくる。もしくは、警備会社のロゴが入った車が門に近づいてきたあたりで、もう侵入者のグループは気づいていたかもね。校舎の周りは、夜は暗くなるから、車のヘッドライトが近づいてきただけで、はっきりと気づけたと思う。

 いい? 侵入者たちは、自分たちが侵入したせいで警備会社の人がきたと思った。しかも、その警備会社の人たちは、どんどんこっちへ近づいてくる。

 こんな時はどうするのかな?」

 二川は拳をマイクのようにして、守山さんの前に突き出した。守山さんはおずおずとそれに答える。

「逃げます」

「そう。柵を乗り越える時も、必死だっただろうね。何しろ、警備会社の人たちはプールを目指して近づいてきているって誤解してるんだから。顔をみられた、って焦ったかもしれない。つまりは一刻を争う事態だったわけ。

 そんな時に、浮き輪を先に外へ出すくらいの頭が働く? どっちかといったら、名前が書いてあるわけでも無い浮き輪を置いて、とりあえず逃げるって方向に動くと思うけど。

 で、学校のプールからは目の届かない距離まで逃げてから、一息つくはず。で、そこでプールに浮き輪を取りに行こうか悩むんだろうけど、取りに行って、まだ残っていた警備会社の人と鉢合わせする可能性や、警備会社の人が浮き輪を回収している可能性を考慮して、結局は取りに戻ることはなかった。こんなところじゃ無い?」

「…………それもまあ、そうだな」

 満足げに二川は鼻を鳴らした。そして、大学教授が喋るみたいに、後手に手を組んで、ぶらぶらと歩きまわり始めた。

 プラケースの中で、一度だけカエルが声を出した。

「このことから、二つのことがわかるね。

 まず一つ、侵入者のグループは、プールに機械警備がついていると誤解している。

 あともう一つは?」

 今度は拳のマイクを野洲くんに近づけた。のりのりだな、おい。突然マイクを振られた野洲くんも、少し怯えながら答えた。

「えっと…………、え、もう一つですか?」そして、少し考えたのち「すみません、ひとつめと同じようなのしか出てこないです」

「えー、そっかあ」

 本気で残念そうな態度なのがむかつくぞ。野洲くん、その拳マイクに嚙みついちゃえ。誰も止めはしないぞ。

 二川はしばらく「ええええ」と言い続けたのち、結局は二つめを自分で言ってしまった。

「二つめは、ね。侵入者のグループにこの学校の生徒がいることと合わせて考えれば、侵入者は、自分たちの他に、もうひとつのグループが学校に侵入していた、って知ってるってことだよ」

「いちおう、どうして、と訊いておこうか」

 無駄に偉そうに立花が問う。二川も胸を張ると、「よかろう」と答えた。

「自分たちが侵入したことで、警備会社の人が学校にきた、と思ってる人たちは、翌日集会で彦根の話を聞いて、もしくは学校で流れる噂を聞いて、こう思うはずなんだよね。『自分たちは校舎には入ってない』って。

 自分たちは校舎に入ってないのに、校舎に入った侵入者がいたことになってて、しかも、その侵入者がプールに忘れ物をして来たことになってる。つまり、彦根の話によって、この学校の誰もが事実を誤認している中で、侵入者だけが、自分たち以外の別の侵入者の存在を知ってる、ってわけ。

 これは校舎に入った侵入者とプールに入った侵入者を入れ替えてもまた真で、現に、ここの天文部員三人は、プールに侵入していた侵入者を知っていた。まあ、プールで騒いでいた奴らはうるさかっただろうけど、天文部員三人がそこまで騒いでたとも考えられないから、他の侵入者に気づいたのは天文部員の方が先だったけどね」

 二川はそこで足を止めた。テーブルに手をつき、俺たちを再び見回す。

「じゃあ、ここでプールへの侵入者について整理するね。

 侵入者は複数。

 侵入者はプールに機械警備がついていると誤解している。

 侵入者は、プールに入った侵入者と、校舎に入った侵入者が、異なる人物だと知っていた。しかも、侵入者以外にこれを知っていた人物はいない。

 侵入者は、天文部員では無い」

 二川の声はさらに熱を帯びた。

「思い出して。醒ヶ井はこう言っていた。『片方だけ答えてもいいのか?』ってね。これってつまり、醒ヶ井が稲枝さんの話を聞いたときから、すでにプールに侵入した侵入者と、校舎に忍び込んだ侵入者は別だと思っていた、ってことだよね。稲枝さんも、彦根も、そんな話は一切していなかったのに

 つまり、醒ヶ井は、自分の先入観に合うように、二人の話を聞いていた、ってことだよ」

 そこで、二川はひとつ息をついた。

 まっすぐな瞳が、俺の目を射抜いていた。俺はその瞳から逃げるように、生物実験室の入り口に並べられた、ローファーと長靴を見た。

 なんだこいつ。まだ靴履いてなかったのか。いい加減靴くらいーーーー

「逃げないでよ。目をそらさないで」

「…………」

「こっちを見て」

 有無を言わせぬ口調だ。

 冷たい言葉だが、二川の声はまるで鬼ごっこの鬼が逃げ惑うものを捕まえた時のように、楽しげで、喜びにあふれていた。

 逃げられない。

 俺は視線を戻した。思ったより何倍も近くに、二川の顔があった。通った鼻筋、薄い唇、長い睫毛、大きな瞳。全てが間近にあった。

 癪だから、俺も二川の瞳を、これでもかというほど覗き込んでやる。

 二川は呼吸を整えるように小さく息を吐き、そして、宣言した。

「醒ヶ井。プールへの侵入者の一人は、あんたでしょ」



 この日の前日の夜。

 明日は終業式だ、というより、明後日から夏休みだ、とカレンダーを見ながら畳に寝っ転がっていた俺を、畳から引き剥がしたのは、ひとつのメッセージだった。

『今晩プールに忍び込もーぜ』

 枇杷島からだった。俺はすぐさま返信した。

『泳ぎに行きたいなら昼間に行け』

『忍び込むってところにロマンがあるんじゃん』

『知らねえ』『泳ぎたいなら一人で行け』

『出来るだけ多くで行った方が安全』

『そもそも、俺泳ぐの好きじゃねえし』

 よほど枇杷島は暇と見えて、すぐに返信が返ってきた。

『泳がなくてもいいって。俺が浮き輪持ってくし』

 枇杷島の浮き輪は見たことがある。膨らますと人の背丈ほどもありそうな、サメの浮き輪である。一度ホームセンターに買いものに行った時に、「醒ヶ井にサメって面白くね」と買ってきたらしい。

 だったら俺にくれればいいのに。

『で、プールに行って何するんだよ』

『決めてねえよ。でも夕涼みには良くね?』

 確かに、俺の部屋にはエアコンがついていなかったから、隣の部屋(妹の部屋だ。俺の部屋より狭い代わりに、もちろんエアコン完備)との扉を開け放して、そこから冷気をもらっていた。つまり、俺にとって夏とは不公平の季節である。

 そんな俺に、夕涼みという言葉は、この上なく魅力的だった。

『じゃあ行く』

『了解。九時半に校門前で』

 約束を取りかわし、俺はいそいそと準備を始めた。

 涼むためならなんでもするぜ、って気分だった。


「友達と花火してくる」という言い訳は、すんなりと親に通じた。放任主義な親で本当に助かった。

 通い慣れた道のあちこちで、宵っ張りな蝉が鳴いている。俺はカバンをぶんぶんと振り回しながら、夜の涼しさを全身で感じていた。風はないが、気温が低くなるだけで、ここまで快適になるのだ。

 校門の前まで来ると、枇杷島の他に、クラスメートが何人かいた。能登川、安土、近江と、全員男子で、バリバリ泳ぐつもりなのか、すでにゴーグルをつけていた。

 …………いや、ゴーグルくらいは後で付けろよ。

 監視カメラがついている、という理由で、俺たちは校門ではなく、校門からずっと続いている塀を乗り越えて中に入った。

 真っ暗だった。広いグラウンドには灯がついておらず、空は正真正銘の闇だった。空を仰げば、家の窓からじゃ見えないような数の星々が、自分を見下ろしているのが解った。

 こそこそと塀伝いに動き、息を詰めてプールに接近する。

「なんか、俺たちスパイみたいじゃね?」

 能登川が言った。夜だからだろう。五人で声を押し殺して笑った。

 プールの柵までたどり着くと、俺たちは柵の細い目に苦労しながらも(目が細いと、足が掛けられないのだ)、どうにかプールサイドに降り立った。

 そう、降り立ったのだ。

 決して、「着いた」とか「到着した」ではない。そんなんじゃ生温い。

 どこまでも真っ平らなプールサイドの真ん中に、ぽっかりと、のっぺりと、暗いプールの水面が沈んでいる。

 そこは月面だった。俺たちがいつも見ていながら、こうして降り立つと、全く、本当に全く、いつもと違う顔を見せてくれるのだ。俺たちの誰も、プールサイドに降り立つと、しばらく「おお」とか「はあ」とか、意味のない声を漏らし続け、そして、はっと我に返った。

 プール横にある公道の街灯がある程度照らしてくれてはいたが、それでもプールサイドはあまりに暗かった。が、周到なことに、安土と近江がランプを持ってきていた。点けてみると、これはこれで安心感が段違いだ。

 とにかく、俺たちは海パン一丁になり、枇杷島の意外に真面目な一言に渋々したがって準備運動をしっかりして、プールに飛び込んだ。

「冷てええええ!」

 誰かが叫んだ。

「いやっほおおおおおおお!」

 他の誰かが叫んだ。

 俺も飛び込んだ。頭から、ゴーグルもつけずに飛び込んだ。

 身体中を水の泡が包む。

 水底へ沈んでいくのに、空へ浮かんでいくような浮遊感。

 俺は目を開ける。水泳の授業で見えるような、少し藻の生えた水色の床は、今は見えない。ただただ黒く、ぽっかりと口を開けた闇が、俺のことを見ていた。

 そして、足をつく。ぬるりとした感触に足を引っ込めそうになるが、力を入れ、闇を踏みしめる。

 体を持ち上げる。

 夜空の下に、俺は顔を突き出した。

 そして、わけもなく叫びたくなったのだ。

「ひゃああああああ!」

「どうした! 溺れたのか!」

 枇杷島が突然俺に大声を掛けた。なんだよ、俺が叫んだ時だけ心配するのかよ。泳ぐのがあんまり得意じゃなくて悪かったな。

「ほら、お前のために持ってきてやったぞ」

 なぜか偉そうな枇杷島は、一生懸命膨らませたサメのでっかい浮き輪を、俺に投げてよこした。

 ふわりと呑気に空中を飛んだサメは、ゆっくりと着水した。でかい尻尾が俺の頭を叩いた。

「ありがとな」

「へっへ、いいってことよ」

 枇杷島はそういうと、「とうっ」と綺麗な弧を描いて、プールへ飛び込んだ。派手な水しぶきが飛んで、短い間、小さな水の粒が水面へ降る音がする。

「おーい、競争しようぜ!」

「おっしゃ」

 泳げる組のやつらが騒いでるのを聞きながら、俺はサメの背中に抱きつきながら、ぷかりぷかりと夜のプールに浮かんでいた。

 水が冷たい。

 あの蒸し暑い部屋と、ここの空気が繋がってるなんて、今はどうしても信じられない。


 結局、プールを何往復もした俺以外の四人は、荒い息をつきながらプールサイドに寝っ転がっていた。

「あー、疲れたー!」

 四人は口々にそんなことを行って、アザラシみたいにプールサイドでごろごろしていた。近江が「あちー」とか言い出した時には、少し夕涼みの定義を疑いかけた。

 泳いでいない俺は、何も疲れていない。ただ体が冷えていき、冷えていく体を外の空気がちょうどよく温めてくれる。いつまでだって、プールに浮いていられる気がした。

 ここに来て、初めて落ち着いた時間が流れた気がする。

「夏、どうするよー」

 近江が誰にいうでもなく、そう言った。仰向けに寝てたから、空の星々にでも語りかけたつもりだったんだろう。

 答える声は、当然、地上から聞こえる。

「俺は部活だな。三日に二日は野球だ」

 安土は答えた。うんうん、と枇杷島はそれに同調する。二人は野球部だった。

「あー、まあ、そういやあ、俺も部活だな。ほとんど部活で潰れるわ」

 そう言って、近江は笑った。

「おめえは? 能登川」

「俺は特に予定はないかなー。帰宅部だし。クーラーの効いた部屋で寝っ転がるくらいしか予定ないや」

「いーなー」

「なら野球部なんて入んなきゃよかったじゃん」

 能登川の反論に、枇杷島は珍しくぼそりと答えた。

「だって、野球好きなんだからしょうがねえだろ」

「ま、そうだな」

 能登川はそれ以上追求しない。

「なんだかんだで、あと一年しかないからなー。やるだけやって終わりたいし」

「そうだなあ」

「ま、結局はどこかで負けるんだろうけど」

「当たり前だ」

 安土と近江の会話は、どこかのんびりとしているように感じた。口ではあと一年と言ってみても、その時間の長さをどこか測りかねているようだった。

 そして、唐突に沈黙が訪れた。何人かで話してるとよくある、いきなり湧いてくる沈黙の時間だ。

 しばらく、俺たちは遠くを走る自動車の音を、聞くともなしに聞いていた。

 突然、枇杷島が言った。

「醒ヶ井、お前はどうするの? 夏」

「どうするの、って……。部活の合宿ぐらいしかないな。運動部じゃないし、そんなに毎日は部活はねえもん」

「どこ行くの」

「田舎」

「具体的には?」

「明日決める」

「へえ」

 ぶっきらぼうな会話の応酬で、終わるのかと思った。

 とんでもない爆弾が、空から落っこちてきた。枇杷島の声がする。

「お前さ、ほんとのとこ、どう思ってるの?」


「ほんとのとこ?」

 俺の間抜けな声が聴き返すまで、かなりの時間が経っていたのだろう。枇杷島の声は、若干呆れ気味だった。

「そうだよ。お前、二川の事どう思ってるの? 同じ部活でさ、よくあいつに引きずられていろんな事してるのにさ、全く二川にはそんな感じはないし」

 地味に辛辣な事を言うやつだ。枇杷島は全くそんな事を気にせず、さらに言葉を継いだ。

「だからさ、お前はどう思ってるのかな、って、訊いてみようかと思ったんだ」そして、余計な一言を付け足す。

「人の恋愛話ほど、面白いものはないからな」

「どう思ってるって…………」

 なんて答えればいいのだ。あと、勝手に恋愛話になるって決めつけるな。

 しかし、俺の次の言葉はなかなか出てこなかった。

「なあ」

 俺は息を詰めて、次の言葉を待つ。

「お前、本当はあいつのこと、どう思ってんの?」

 枇杷島の声に、深刻なところは何もない。ただ、他愛のない会話の一つとして、ちょっと面白がって、こんな質問をしてきたのだ。

 それは解ってる。

 でも。

 不思議と、静かな気持ちだった。俺はあいつをどう思っているのか。そんな簡単な問いすら、一度も自分で考えたことがなかったことに気づいた。

「少し、待ってくれ」

 俺が言うと、どこかで奴が頷いた気がした。

 もちろん、プールサイドに枇杷島がいて、その枇杷島が頷いたんだろう。でも、俺は一人、果てしないプールの真ん中に、一人置き去りにされたみたいな、そんな気持ちだった。

 喜ぶ二川を、俺は何度も見た。喜ぶ二川は、本当に幸せそうだ。飛び跳ねて喜んで、満面の笑みで喜んで、得意げな顔をして喜ぶ。いろんな事に付き合わされて、大変な目にもあって、そんな時に喜ぶ二川を見て、俺はどう思ったんだ。

 悲しむ二川も見た。悲しむ二川は、見てるこっちまで、胸のあたりが締め付けられるような気がする。口数が減る。目が伏しがちになる。涙を流す。いろんな事に巻き込まれて、きつい目にもあって、そんな時に悲しむ二川を見て、俺はどう思ったんだ。

 簡単だ。

 愛おしいと思ったのだ。辛いと思ったのだ。一緒に喜んだのだ。一緒に胸を痛めたのだ。

 あいつの喜びは、あいつの喜び。あいつの悲しみはあいつの悲しみ。それはわかってる。全てはあいつのもの。俺が横取りして良いものじゃない。

 でも。でも、そのそばに行きたい。そばに行って、長い時間を過ごしたいと思ったんじゃないか。

 それすなわち。

「好き…………、なんだろうな」

 口に出せばたった二文字なのに、この結論に至るのには、ひどく体力を使った気がする。



「ああ、俺だよ」

 素直に俺が認めると、しばらく生物実験室は静まり返った。窓越しに、野球部の掛け声が忍び込んできて、この部屋の空気を満たした。

 誰が最初に口を開くのか、誰もが探り合っているような沈黙だった。

「え…………、ほんとに?」

 信じられない、というふうに、二川は呟いた。

 俺は目を逸らしていない。二川もまた、目を逸らしていなかった。

「やった…………、やったあああ!」

 裸足の二川は、喜びの声を上げてその場で飛び跳ねた。小さなガッツポーズをしながら、地面を蹴る。制服のスカートが揺れ、白い脚がちらりと覗く。

 俺は今度こそ、目を逸らした。見てはいけない見てはいけない。

「本当に醒ヶ井が忍び込んでたの?」

「ああ、昨日クラスメートに誘われてな。嘘だと思うなら枇杷島ってやつに聞いてみてもいいぞ」

 俺の言葉を聞きながらも、二川は飛び跳ね、地面に膝をつき、両手を広げ、とにかくいろんな格好で喜んだ。ブザービーターを決めたNBA選手もかくや、というくらいに、オーバーな仕草で喜びを表した。

 こういうやつなのだ。

 そして、できれば、俺はこんな二川を、ずっと見たいのだ。

 大げさな二川を見て、唖然としていた野洲くんと守山さんも、はっと我に返った。

「え、本当に、醒ヶ井先輩なんですか?」

 と野洲くん。

「つまんねえ事訊くなよ。俺だって」

「本当に先輩なんですか? いや、すみません、なんか、こんなにドンピシャで二川先輩が答えるとは思ってなくて」

「いやだからつまんねえ事訊くなって」

 守山さんはその隣で、目を輝かせながら二川を見ていた。お願いだから、あんな先輩にはならないでね。二川みたいなのが二人もいると、ほら、野洲くんとか胃を壊しそうだし。

 飛び跳ねる二川は、ぺたぺたとテーブルを回って俺のところまで歩いてくると、俺と腕一本分くらいの距離で立ち止まった。

 そして、呆れるくらい鷹揚に、胸を張った。

「私の勝ちでしょ?」

「ああ、認める」

「アイスは?」

「おごる」

「一週間分ね」

「一ヶ月分は覚悟してたから、それくらいは安いもんだ」

「はい決まり。指切り」

 そして、二川は小指を差し出した。思っていたよりも何倍も華奢な小指だった。

 俺たちは指切りをした。

 とうとう、アイス一週間分を、俺は二川に奢らねばならない事になった。でも、そんな事は些細な事だ。

 野洲くんと守山さんはなぜか盛り上がり、二人で何やら離している。こら、そこの一年、俺が負けるのがそんなに嬉しいか。それに立花、おめえはほぼ何にも事情を知らないくせに、なんで一緒になって喜んでるんだ。

 小指を離した二川は、にんまりと悪そうな表情を作って俺を見た。俺はわざと大きなため息をつく。

 と、二川は、俺の耳に口を近づけた。内緒話でもするのだろう。

 こしょこしょと、二川は俺の耳元で、声を潜めて喋った。耳に二川の吐息があたって、どうも、甘やかなくすぐったさがある。俺は慌てて駆け出したい気持ちに蓋をして、二川の言葉を聞いた。

「醒ヶ井、一つだけ訊きたいんだけど」

「なんだ?」

「あんたみたいな、超の付くものぐさが、夜にプールに忍び込んで、何してたの?」

「泳いでた」

「うそ。そんな柄じゃないでしょ」

「じゃあ、浮いてた」

「サメの浮き輪で、ね。他は?」

「他?」

「クラスメートと一緒に忍び込んで、水に浮かんでるだけな訳ないでしょ。どうせ他愛もない話とかしてたんだろうけど」

「半分当たりで、半分ハズレだな」

 俺にとってあれは、今年の会話の中で五指に入るくらいは大事な会話だった。

 でも、そこまでは、二川も推理出来はしないだろう。あの場の他の四人が黙っていたなら、永遠に二川の耳にすら入らない。

 それでいい。

 二川に聞かれて、たまるものか。

「あー、羨ましいなあ」

 二川はそう言って、コショコショ話を打ち切った。だらり、と体から脱力して、両手をぶらぶらと揺らす。その動きになんの意味があるのか、よく解らなかった。とりあえず、暑さにまいってるんだろうな、という事は解る。

「私も誘ってくれればよかったのにー」

 こういう事を、なんの考えもなしに言ってくるから、こいつは危険だ。

「いや、男だらけだったし」

「それはまあ、そうだろうけどさあ。あー、でも羨ましいなあー。夜のプールにさ。忍び込んでさ。泳ぐなんてさ。青春じゃん青春。解りやすく青春」

「何言ってんだお前」

「はー、こうなったら海だ。海行こう!」

「え?」

 俺が聞き返した声を、二川は聞いていたんだろうか。くるり、と他の三人の方に向き直ると、宣言した。

「我々生物研究会の今年の合宿地は、海の近くね」

「なんでですか?」

 守山さんが訊く。

「海の生き物も見てみたいしさ、それに」

 二川は笑った。真夏の太陽が微笑んだみたいな、そんな笑みだった。眩しくて見ていられない。目を逸らし続けた理由も、解って欲しい。

 高らかに、彼女は宣言する。

「泳ぎたいからに決まってるじゃん」


 考え直してみれば、二川の推理は穴だらけだ。これしかない、という可能性だけを追いかけ続けたんじゃなくて、蓋然性の大きな推論を重ねていって、一つの真実に、偶然辿り着いただけだ。

 考えてみてほしい。九十九パーセントの確率で起こる、と言ったら、かなりの確率だろう。でも、九十九パーセントの確率で起こる独立な事象が千個集まったら、その全てが起こる確率は、約〇、〇〇四パーセントだ。

 つまり、二川が答えを言い当てたのは、本当に、ただの偶然だったのだ。そうとも言える。どこかで推理の道から外れたら、もう二度と真実にはたどり着かなかったかもしれない。

 そこまで考えて、俺はスマホの電卓を弾く手を止めた。

 これこそ、くだらない推論だ。

 俺は負けを認めた。二川は勝ちを喜んだ。

 それだけで十分なのだ。(了)

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