牙も祈れば 作者:とびらの
とびらの
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わたしの身体に穴が開けられ、革紐を通されたとき、わたしはとても誇らしい気持ちになった。
生まれてすぐに役目を終えて、海の底に落ちたわたし。そしてその兄弟たち。
みんなで一緒に海底の砂になるのかと覚悟していた。
流れ、流され、砂浜にまでたどり着いたのは、ただの偶然。少女に拾われたのは本当に幸運。
彼女には感謝のきもちでいっぱいだ。
彼女はそのあと、いろいろ勉強したらしい。わたしの加工方法なんて学校じゃ教えてくれないものね。
ちょっと不器用だけど、無事にペンダントになれたわたし。
せいいっぱい背伸びして、彼女はわたしを、男の首にかけてあげた。
「お父さん、お守りよ。これがあると、海の事故に遭わずに済むって」
「……サメの牙……これは、イタチザメかな」
さすが、長年の漁師だけある。海の男は、わたしの姿を見てすぐに正体を当てた。
少女はとびきりの笑顔を浮かべて、
「あたしが拾って、お母さんと一緒に作ったの。前に水族館で見たことがあったから……あれよりは、ずっと小さくなっちゃったけど」
「ああ。あそこにあったのは、ホホジロザメのだからね。とびきりデカいし、それに馬鹿みたいに高かった」
「本当はあれをプレゼントしたかったの」
「ありがとうカグラ。お父さんはこっちのほうが気に入ったよ。小さくてかわいくて、綺麗で格好いい。肩が凝らなくて最高だ」
男は娘の体を持ち上げ、空中で抱き留めた。わたしは彼の胸元にあるので、少女の間に挟まれる。ちょっと苦しいけど、嬉しい。
少女と男の心臓が、どちらも嬉しそうに跳ねていた。
「お仕事がんばってね。行ってらっしゃい、お父さん」
父親の頬に唇を寄せ、音を立ててキスをする。
よく日に焼けた男の頬が、アカマンボウの腹ビレみたいに赤く染まった。
正直な話――
海の事故から、持ち主を守るお守りだなんて言われても、わたし自身にはぴんとこなかった。
自分で言うのもなんだけど、そんな霊力なんてあるわけない。ただのアクセサリーだもの。
見目が良いと言われたら、嬉しいけどね。
わたしの形は、飾りにするためのものじゃない。
鮫、と呼ばれる魚類は、分類の仕方で諸説あるが、四百から五百種類ほどもいる。わたしのママであるイタチザメは、中でも大型で、何でもガブリと食べる種類だ。
アザラシなんかはもちろんのこと、ウミガメの甲羅、自分より大きなクジラだって噛みつく顎と牙。
その牙の形は、独特だ。主が、ママの名を当てたのもその特徴からだろう。
大きさはだいたい、三センチくらい。三角形が途中で折れ曲がったような形に、ノコギリ状の「かえし」が付いている。
それが、わたしの姿だ。
「いいもんもらいましたね、ジンベエ船長」
漁師仲間に褒められて、主は素直に頬を緩める。
「ああ。正直、あんまりハート型なのを持ってこられたらやりにくかったが、こいつはイイカンジにひん曲がってる。牙らしくて、着けやすいよ」
あら、なんだか失礼な。
海の男が、チャラチャラした飾りを嫌がるのはわかる。けど、それを言うなら娘からのプレゼントって時点でどうなんだ?
「カグラちゃん、いくつになったんでしたっけ」
「十歳だ。女房に似て可愛く育った」
「あれは育つと美人になりますぜ。すらっと切れ長の、アオザメみたいな別嬪に」
「馬鹿野郎、それを言うならヨシキリザメだ」
男達の馬鹿話に華が咲く。
あーあ、いまの、主の顔ときたら。いつもはオキスズキみたいに凛々しいのに、娘の話になるとすぐコレだ。でれでれのぐにゃぐにゃ、これじゃナマコだよ。
それでもさすが、海の男。
「魚影だ! 大群だぞ!」
と、いう声に、一気に顔が引き締まる。
主はわたしを胸元で揺らし、魚影探知機のもとへ駆けつける。揺れる船上でダッシュしても、ぐらりともしない下半身。
「ほかの船に指示を出せ。囲みこむぞ!」
オウと上がる、男たちの声。
彼らはこれから、多くの命を刈り取る。ただただ闇雲に突っ込むんじゃない。
魚影探知機という、ママの鼻先にあったロレンチーヌ器官みたいな道具を使って、作戦を立て、効率的に獲物を追い込んでいくんだ。集団で囲い込むのも、鮫と同じ。
人間って、なかなかやる。
わたしは主が海を見る、トビウオのような強い瞳が好きだった。
◆◇◆◇◆◇◆
わたしの主は、強かった。
……『船の性能が良かった』と、言うべきなんだろうか。
いや、でもやっぱり、主の力だとわたしは思う。
本来、上下関係はないというたくさんの船も、やっぱり主には一目置いているようだった。
潮の流れも魚の動きも、探知機に頼らず察することがよくあった。
いつも、誰よりも大漁だったし、市場からも信頼されていた。
「あれっ、ジンベエさんなんすかそのペンダント。そんな趣味ありましたっけ」
「娘からのプレゼントだ。いいだろう」
わたしを持ち上げ、笑う主。まだ独身だという、市場の青年は、ウヘエと舌を出してみせる。
「なんだかゴチソウサマですよ。そいつのおかげで、最近水揚げがいいんですね」
「鮫の牙ってのは、そんな効果もあるのかね」
はてどうだったかと首をかしげる市場の男。
ばかばかしい、そんな効果あるわけない。
漁師らは不思議と、エンギだとか御加護だとか、そんな話をよく口にする。命がけで、命を狩る仕事だからだろうか。
ありがてえ、あやかりたいもんだと、わたしに手を合わせる市場の男。自慢げな主。
悪い気はしない。
もしかしたら、本当に自分は『お守り』なんじゃないかとふと思う。
そんな力を持った覚えはないけど。
水揚げ釣果などはどうでもいいが、主とその娘が願った、守護のちからならあって欲しい。
わたし、彼らを守りたいと思うんだ。
◆◇◆◇◆◇◆
夏のことだった。
その日の海は、ひどく荒れていた。
朝から荒れていたわけじゃなかった。
主いわく、こんなことはめったにないという。
本当に突然の大時化だった。
「ジンベエさん、ダメだ。港に引き返そう!」
仲間の言葉に、主は眉を吊り上げた。
「そうしたいのはやまやまだ。しかしギンの船が――」
どん、と大きな衝撃が来た。
何か大きなものが流されて、船に当たったんだと思う。
大きく揺れた戦場で、主の体がぐらりと傾ぐ。不運は重なった。さらに大きな波が来て、ふんばりの利かない方向へ、船を揺らした。
わたしの世界がぐるりと回る。
塩水に包まれる。
主が海へと落ちたのだ。
「船長!」
「ジンベエさん!」
漁師たちが悲鳴を上げる。その声も波に飲まれていく。水のお化けは主を飲んで、船とはまるで反対の方向へと引っ張る。あっという間に遠ざかる。
主は、救命ベストを着けていた。それだけは本当に幸いだった。
たっぷりと空気を含んだベストは、酷い波にもみくちゃにされながらも、必死で主の体を持ち上げてくれた。
揺れる、揺れる。飲まれては吐き出される。その繰り返しだった。
そんな状態になっても、主は悲鳴を上げなかった。冷静に、ここぞというときに呼吸して、溺れてしまわないようにしていた。
彼の胸元でゆらゆら揺れて、わたしは何一つできなかった。
時化が収まるまでの間、主が生き延びたのは、ひとえに彼自身の力だった。
わたしは何の役にも立てなかった。
時化は案外、すぐに収まってくれた。ホウと息をつく主。もっと安堵するわたし。
主は初めて、言葉を発した。
「あーあ。参ったね、こりゃあ」
……実際、かなり参っていた。
船の姿が見当たらない。
主はずいぶん沖まで流されてしまったらしい。
……漂流。遭難だ。
かなり穏やかになったと言っても、波はやはり高く、心地のいい凪ではない。平らで揺れない地面が、猛烈に恋しかった。
「……夏とはいえ、水も食料もなにもない。長生きできそうにないな」
主の声は淡白だった。でも、その弱音が本心であることは伝わった。わたしはとても悲しかった。
強くて豪快で明るくて、優しくて子煩悩な主。弱音なんかはかないでほしい。元気を出してほしい。生きて還ってほしい。
そうさせてあげたい。
主はわたしを摘まんだ。
海水でふやけ、冷え切って、日焼けで爛れた指が、わたしの体をこする。大切に優しく。
「それでも、命があったのは、お前さんのおかげかね。ありがとうよ」
ああ。
ああ。
ああ。主よ。何故そんなことを言うの。
わたしは何の役にも立てていないのに。
もしもわたしに力があったなら、そもそも主は漂ってなんかない。時化だって抑え込んでやる。命があったのは人間が作った道具と主の力だ。
わたしは何の役にも立てなかった。
……主の命は、あとどれだけもつのだろう。
その刻がすこしでも伸びるよう、海の神に祈る。私にはもう、それしかできなかった。
どれだけ時間が経っただろうか。
「……日が、暮れる……」
主のつぶやきは、すぐそばにいるわたしにしか聞こえないほど小さな声になっていた。
そしてそれきり、言葉を発さなくなった。
わたしの体が、彼の心臓の上になかったら、わたしは半狂乱になったことだろう。伝わる鼓動だけがわたしの気をつないでいた。
主は、やはり強い男だった。
気丈であった。微動だにしないのは、力尽きたわけではなく、体力を温存しているのだろう。涙の水分も惜しんで、彼はただじっと波に揺られていた。
そうして救助を待ち続けていた。
主は大きな男だ。身に着けている救命ベストも、鮮やかなオレンジ色である。目立つはずだった。でも、海は広かった。あまりにも広かった。
わたしは祈り続けていた。
「くふ」
不意に、主はそんな声を漏らした。
「くふ。ふふふ。ふはは。はははははは」
それは笑い声だった。首を起こし、波間を見据えて、彼は高らかに笑っていた。
救助の船が見えたのだろうか。わたしも主の胸で跳ねた。
だが主は手など振らず、すぐに笑い声を収めていく。そしてニヤリと、壮絶な笑みを浮かべた。
「……いよいよ終わりか。鮫だ」
わたしは戦慄した。
鮫について、誤解してるひとがいたら、解いておきたい。
鮫には数百の種類があることは、前にも言ったかと思う。そのすべてが大きく強く獰猛で、人を襲うと思っているなら、大間違いだ。
そんな危ない鮫は、全世界でもほんの一握り。一割にも満たないわずかな種だけだ。
深海で静かにしてるやつのほうが多いかも。基本的に、無害でボーっとした、骨の柔らかい魚だと思ってもらいたい。
……ただ、その一割の種は、きっぱりと危険。
その中で、主のような沖合の漁師が警戒するべき種の代表が、イタチザメだった。
ちらり、ちらり、波間に見える灰色のボディ。体長四メートル、五百キロはあろうかという大型だ。
水面から生えた背びれが三つ。うち一つはまだ幼いらしく、鮮やかな縦縞模様が見えていた。
「……イタチザメの群れとはな。さすがに、おれも年貢の納めどきだ……」
主の声は、初めて聞く音をしていた。絶望、というやつだ。
あきらめないでと叱咤するわたし。
イタチザメは、確かに攻撃的で凶暴だ。だけど知的好奇心の強い種でもある。捕食目的でなく、なんとなく人に寄って来たりするんだ。
鮮やかな色を身に着けた主を、なんだこいつはと、見物に来ただけかもしれない。
もうお腹がいっぱいかもしれない。
ちょっと観察したら満足して、さっさと深い海に還ってくれるかもしれない――
お願い、そうであって。
わたしの祈りは、またしても届かなかった。
背びれは初め、主とつかずはなれずの距離を取り、不意に見えなくなったりもしたけれど、やがてその円を縮め始めていた。
すぐに咬みつかないあたり、やはり空腹ではないのかもしれない。
だけど彼らはもう決めている。
主を攻撃すると。
わたしは祈った。
お願い海の神。お願い幸運の神。主を守って。
わたしは祈った。
イタチザメが鼻先を、主の腹に突き刺した。どん、と大きな衝撃。主の身体が海に沈む。
主は目を閉じ、されるがままになっている。
わたしは祈った。
牙はその後にやってきた。
わたしは祈った。
神は聞き届けてはくれなかった。
わたしは言った。
『やめて!』
主に咬み付く鮫に向けて。
わたしは願い、懇願した。
やめて。やめて。お願い助けて。
咬まないで。殺さないで。
大事な人なの。わたしの主なの。生きて還してあげたいんだよ。
いい男なんだ。みんなに待たれているひとなんだ。
わたしを拾って、磨いてくれた少女のもとに、この優しい父を還してあげたいの。
お願いやめて。
やめて!
やめて!
わたしのすぐそばに、わたしそっくりの牙があった。美しく歪んだハートの形、ノコギリ状のかえしが、主の身体を裂いている。わたしは叫んだ。
『やめろと言っているだろうこのくそがきめ! まだ歯茎についてる分際で!
わたしよりずっと後に生まれたひよっこ風情が、我が主に牙を立てようなどと、生意気なことやってんじゃないよ。
さっさとその汚いトゲを抜け――!』
鮫の身体がびくりと跳ねて、突き立っていた牙が抜かれた。主は海中に解放される。
三匹のイタチザメはグルグルとあたりを回遊し、なにかコミュニケーションを取っているようだった。
先に主に咬み付いた、あの一頭が指揮を執る。
そして彼らは尾びれを向けた。
海の深くまで潜り、そのまま遠くへと去っていく。
わたしはすぐそばにある、主の傷の具合を見た。
たった三センチ弱の傷だった。五つ並んで、場所は心臓の少し下、肋骨のあたり。たぶん背中側もそんな感じ。
致命傷ではない。だけど、救命ベストも傷ついてしまった。
それで大破したわけではないが、どこかに穴が開いたのだ。一気に浮力が減っている。
日中の時化と比べれば、夕方の海ははるかに穏やかにはなっている。だが凪ではない。
主はなんとか海面に上がったものの、顔より高い波に煽られて、溺れかけていた。
半日の遭難、襲われた傷で、浮力の助けもなく泳ぎ続ける体力はない。
海中に流れる血は、いつかまた、別の鮫を呼び寄せるかもしれない。
フウ、フウと、主の息が乱れてくる。
わたしは祈った。
主の胸の上で、空に向かって祈った。
主とともに見上げた空は、とても青くてきれいだった。
その青色のまんなかに、白い物が浮かんでいた。
あれはなんだろう。
わたしの身体が海に沈む。
主は額まで海に沈みながら、傷だらけになった手で、何かを掴んで引き寄せた――
◆◇◆◇◆◇◆
「……と、いうわけだから。その商品は、棚に戻していらっしゃい」
母の言葉に、少女は首をかしげて疑問符を浮かべた。
「なにが、というわけなのかわかんない。お父さんの遭難と、快気祝いの食材に、何の関係があるの?」
「そのかまぼこの、原材料のとこみてごらんなさい」
「……サメ」
「そう、うちは鮫は食べないことに決まったの。カグラ、そっちのカマボコを取って頂戴、それなら鯛だから」
彼女はそう言って、買い物カートを機嫌よさげに滑らせた。
港町の、スーパーマーケットである。週に一度は必ず来ている店だ。
慣れた様子で食材をさがす母を追いかけながら、少女は唇を尖らせる。
「だから、わかんないって。お父さんが鮫に襲われたってのは聞いたよ。大した怪我にならず解放されたのは奇跡的、よく生還したもんだって、毎日いろんな人が言いに来るんだもの。でもそれがどうして――あ。わかった。お父さん鮫が怖くなったんだ。トラウマ、ってやつだ!」
「そうじゃないのよ。むしろ、お父さんは鮫が大好きになったって」
「ええーっ?」
少女は大声を上げた。
わたしも、彼女の胸元で同じように驚いていた。
彼女と同じように、わたしも、主は鮫を恐れていると思っていたからだ。
それが逆に、大好きになっただなんて。
いったいどういうことだろう?
少女の母、主の妻は、くすくすと笑い声を漏らす。ヨシキリザメのようにスマートで綺麗な女性である。ほっそりした顎に手を当てて、とてもうれしそうに笑っていた。
「だってお父さんが助かったのは、その鮫の牙のお守りのおかげだもの。命の恩人の同族を食べるわけにはいかないってさ」
「コレのおかげぇ?」
少女は目を丸くして、己の胸元にぶら下がる、わたしの体を持ち上げた。
あの日――主が遭難し、そして救助された日のことは、わたしはよく覚えていない。
ただ病院で治療を受け、目を覚ましたとたん、主からさんざん礼を言われ頬ずりを受けたのははっきりと覚えてる。
……正直、ちょっと、気持ちが悪かったので。
「お前は命の恩人だ。お前のおかげで俺は救われた」
と、しきりに言っていた。
漁師仲間たちもそう言うもんだから、正直、まあ、悪い気はしない。だけどやっぱりピンとこなかった。
わたしはやっぱり、お守りなんかじゃない。
あのとき――わたしもすっかり動転して、忘れていたのだけど――主を襲ったイタチザメが、齧りつきまでして去っていったのは、わたしの説教が効いたからなどではない。
わたしがママの口の中にいたときに、舌に聞いたことがあった。
イタチザメに限らず、鮫には味覚がある。ひと咬みして意に沿わぬ味ならば、食べずに捨てることもあるのだと。
捕食者である鮫がもっとも好むのが、アザラシなどの海獣だ。彼らのたっぷりした脂肪は、鮫に絶対に必要な栄養素である。鮫は意外と、小食だ。それなりに選んで食べないと栄養不足になってしまうのだ。
敵への攻撃スイッチが入ったとか、飢えているならばともかく……そうでもなければ、脂肪の少ない人間を好んでは食さない。
中には貪欲な馬鹿もいるだろうけどね。
主に咬み付き、吐き出したあのイタチザメは、きっとグルメで賢いやつだった。
そういうこと、なんだと思う。
主が助かったのは、ただの運。あるいは運命。
主はまだ、死んではいけない男だった。それだけのこと。
……やっぱり、わたしは役に立てなかった。
贈り主であった少女もまた、わたしと同感らしかった。
お守りだ、というのもネタだけで、さすがの現代っ子はそんなこと信じていなかったのだ。ただ格好いいアクセサリーでしかないわたしを、彼女は指でつまんで、つまらなさそうに眺めていた。
主はわたしの『力』を信じ切って、自分が自宅療養中、出歩く娘に着けておけと手渡した。
これって海の事故のお守りでしょ、通学路のクルマに効果なんかあるの、という娘のツッコミは、ニコニコ笑って流された。
主は馬鹿だ。
わたしには、守護の力なんてない。
ずっと昔に抜け落ちた、使い捨ての無機物だ。象牙質とエナメル質の塊。魂なんて……あるはずがないのだから。
夫の快気祝い、ごちそうを作るのだと張り切る妻。
少女はわたしを弄びながら、てくてくと後ろをついて歩く。
――パーティー料理・豪勢な食材――
そのコーナーの前で、母親はウームと唸る。
「ごちそう、パーティー、華やかに……むむ、フカヒレスープのレトルトが……ああ、だめだめ、美味しそうだけど。うーん……」
そういえばこの妻は、ちょっと料理が苦手だった。
少女の胸元で、わたしもなんとなく、棚を見ていた。
そして。
『あっ……』
「あっ」
少女が声を上げ、わたしが見ていたものを手に取った。
「お母さん、これ。これにしよう」
掲げたのはキャビアの缶詰である。値札も見ずに持ち上げた少女に、母親は苦笑いを浮かべて、
「キャビアなんてダメよ。それはチョウザメの卵。鮫は食べられないんだってば」
ちがうよ。
「ちがうよ! チョウザメは、鮫じゃないんだよ」
鮫は軟骨魚類ばんえい類。チョウザメは硬骨魚類。形がすこし似ているから名前を寄せているだけで、全然ちがう生き物だ。
「ぜんぜんちがう生き物だよ。だからお母さん、これにしよー」
娘の言葉に、母親は目をぱちくりさせた。
「そ……そうなの? あれ? お母さんてっきりキャビアは鮫の卵だって……あれ? でも、あんただって、食べたこともないでしょうに」
「常識だよぉ」
そう、これは常識。十歳の子供だって知ってる子は知ってるだろう。
ちなみに、コバンザメも鮫じゃないんだけど……それもきっと、常識だろう。
「ちなみにコバンザメも鮫じゃないんだよー」
母親の知らない知識を披露して、少女はご満悦。
「あんた……いつからそんな、おさかな博士になったのよ……」
母親は首をかしげながらも、娘の言うことを信じたらしい。
キャビアの値札をじっくり確認。
そして小さくほほ笑んで、やたら頑丈そうな缶詰を、買い物かごに放り込んだ。