フカの鳴く声 作者:赤井瀬 戸草
赤井瀬 戸草
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誰が為に、君は。
***
潮の匂いは少年を浜辺に導き、その心を青く澄んだ海へと導こうとする。しかし少年はまだ海に出ることを許されていない。だから、幾重もの層を形作っている浜辺の岩のひとつに腰掛けて、沖の方から村に帰ってくる漁船をいつまでも待ち続けるのが、少年の日課だった。
少年の居る浜辺は、少年だけが知っている秘密の場所だった。村の漁船が停まり、人々が魚を選り分けたり捌いたりする広い浜辺ではなくて、村はずれの茂みを抜けたところにある、小さな浜辺だった。そこには小さな寂れた祠があって、少年はよくそこに一人で語りかけていた。
「――だから、親父もなんであんな頑なに俺が海に出るのを拒むのか、分からねえんだよな。僕ももうすぐ十六になるんだ。よその村ならとっくに成人の儀が終わって、許婚が居たっておかしくない歳だっての。なのに親父は『お前はまだ餓鬼だから』の一点張りだぜ? 冗談じゃねえや。僕だってもう網を引く力もあるし、鯨が来たなら銛を深々と突き刺してやれる。船に乗っても酔っ払わねえし、鰯だって手際よく捌ける。なのに親父は何が不満なんだろうか」
祠は少年の話を聞くだけで、うんともすんとも応じたりはしない。でも少年には、自分の思いを吐露出来る空間があるというだけで十分なのだった。
沖の向こうに、年季の入った木造の漁船が見えた。少年の父親たちが寮から帰ってきたのだ。少年は祠に向かって喋ることに満足したのか、すっくと岩から立ち上がった。そして腰から提げた魚篭から一匹の生き生きした鰯――これは村の魚網から漏れていたものを少年がくすねてきたものだ――を取り出し、祠に置いてある欠けた茶碗にそれを置いた。ぴちぴちと魚の跳ねる音がした。
「今日も聞いてくれてありがとうな。――じゃ、また」
そう言って少年は村へ向かって歩き出した。
その背後に、人影がひとつ。
「へえ……中々に旨そうじゃのう」
舌なめずりをして。
「おい、了次郎! 了次郎はいるか!」
特徴的ながらがら声。
村人が総出で獲ってきた魚を選り分けている中から、少年の父――豊一の声が聞こえてきた。茂みから出てきた了次郎は急いでその声の方に駆けていった。
豊一が居た。浅黒い肌と筋肉は漁師につきものだが、親父は加えて村一番の背丈であるから、了次郎はすぐに見つけることが出来た。
「親父、どうかしたのかい」
「うむ。今度の漁だが、お前を連れて行くことになった」
「えっ!?」
了次郎は目が飛び出るのではないかというほどに、目を見開いた。
「お前ももう十六になる。そろそろ一人前の男として、俺と同じ漁師になる時が来たんだ」
「すごく嬉しいよ。でも……」
「どうした?」
「――いや、なんでもない」
親父はどうして掌を返すように、俺を漁師にすると言い出したのか。了次郎はそう思ったが、言ってしまうとすぐにまた『やっぱりお前は餓鬼のままだから、今回の話は無しにしよう』と言われてしまいそうだったので、湧いた疑問をそっと胸の奥にしまった。
「そこで、今日は大漁だったこともあるから、久々に〈青塗りの宴〉を開くことになる。そこでお前を漁師として鱶神さまに認めてもらえば、晴れてお前もこの村の漁師だ」
豊一は、白い歯を光らせてそう笑った。
鱶神というのはこの海辺に佇む蒼塗村の祟り神である。
村人たちから村の守り神であると同時に災厄の源としても捉えられている、崇拝と恐れの対象。村の漁師たちは、この鱶神を讃える儀式を通じて漁師として認められ、村の漁船に乗ることを許される。
今日の了次郎がそうであるように、村の男たちもまた、この儀式で漁師としての承認をされてきたのだ。
「――以上。ここに鱶の神との信を以って、幾茂了次郎を蒼塗村の漁師とせん。我らはこれを、村民の〈青塗りの宴〉によって迎え入れよう……」
村長が祈祷を終え、供物として捧げられた大漁の魚の桶に背を向けた。桶には海水が張られているため、魚たちは狭い中でもまだ生き生きとしていた。
「では、ここに宴を始めよう! 鱶神さまと新たに漁師となった豊一の息子、了次郎を祝おうではないか!」
その乾杯の音頭とともに、大きな焚き火を囲うようにしていた皆は声をあげ、一斉に飲み食いや雑談を始めた。
「か、乾杯……」
了次郎が戸惑っていると、村長が彼の元にやってきた。
「おめでとう、了次郎。村の皆のために、これからその力を尽くしておくれ」
村長に微笑みかけられて、了次郎はしどろもどろになりながら答える。
「あ、いや、その……あ、ありがとうございます」
「ほっほっほ。豊一のような立派な漁師になれるといいのう」
村長は言いたいことを言い終えたのか、体を翻して宴の席へと戻っていった。
取り残された了次郎は何をして良いか分からず、とりあえず見つけた丸太の椅子に腰掛けた。枡に注がれた酒も、先ほどちびりと舐めてみたがとても飲めたものではなかった。
あんな喉が焼けてしまいそうな飲み物を、親父たちはあんなに勢いよくぐびぐびと飲んでいるのか。そんな思いを抱いている自分にふと気付いて、自分がひどく餓鬼のように感じられた。
昼間は祠の前であんなに愚痴っていたのに、いざ蓋を開けてみれば僕は図体がでかくなっただけだ――そう思った。
「おいおい、湿気た面してんなや了次郎。お?」
背後から酒やけのしたがらがら声がするので、振り返ってみるとそこに豊一がいた。顔が真っ赤なのは日焼けのせいでも焚き火のせいでもなく、ただ酔っ払っているせいらしい。すでに軽く枡十杯は酒を飲んでいそうだが、豊一の持つ枡にはなみなみと酒が注がれていて、まだまだその勢いを緩める気は無いようだ。
「別に」
「やけにふて腐れてんなあ……やっぱり餓鬼のまんまだな」
「なっ……!」
豪快に笑った豊一は酒を一気に呷った。
「まだ餓鬼だってんなら、なんで親父は僕を漁師にしたんだ?」
「ん? もしかしてお前そんな事気にしてうじうじしてたのか?」
「うじうじしてねえし!」
「はっはっは、分かりやすい餓鬼だな! ――別に俺は今でもお前が漁師になるべきじゃねえと思ってるぐらいだ。だが、村の連中が薦めるんだからしょうがねえだろう。それだけお前が期待されてるんだ」
普段冗談ばかり言う豊一がいつになく真面目に言うものだから、了次郎はおもわず面食らってしまった。了次郎が覚えている限りでは、豊一が自分を遠まわしにとはいえ褒めたのはこれが初めてのことだった。
「そうなのか……」
「ま、せいぜいきばれや。網引きぐらいはやってのけろよ」
「あ、当たり前だろ! もう十六だぞ俺!」
「へへっ。そーかい」
豊一は了次郎の言葉を真に受けてない様子のまま、どこかへと消えてしまった。
一人残された了次郎は、自分が何か気概のようなものに満ちているのを感じたものの、心臓の辺りにどこか釈然としないものを抱いた。
了次郎はまだ酒が残っている枡をちびりと舐めた。
そして、顔を歪めた。
夜。
宴はすっかり終わり、疲れ酔った村人たちも既に床についている。そんな夜中に、了次郎は一人目を覚ました。了次郎がふと外に目をやると、丸々とした満月が海の方に輝いているのが窓から見えて、どうも寝付けないので外に出てみることにした。
辺りは静寂を波が行き交うだけで、宴の喧騒などは残り香も無い。焚き火はもちろん消えていて、燃え尽きた木々は黒い煙を吐き出しているのがなんとなく感じられた。
「ん?」
了次郎はそこで、誰かを見つけた。誰かは分からなかった。
ただ、そこにいる何かが、必死に何かに喰らいついていることは分かった。そしてそいつの前には、供物として捧げられた魚の入った桶と思しき物体があった。
「おい! それは捧げ物だぞ!」
大声に反応したが、そいつは桶に向き直って、構わず魚をむしゃむしゃとほおばり続ける。
――こいつはもしかすると人間ではないのか?
ふと、了次郎の頭をそんな疑問がよぎった。
刺身などは生で食うこともあるとしても、漁師ですら生きた魚にかぶりつくような奴は居ない。だというのにそいつは目にも留まらぬ速さでばくばくと魚を平らげている。
ばけもの。
ぞわり――と、その言葉を思い浮かべて身震いする了次郎。
もちろん、彼は恐怖したのだろう。
だがそれ以上に彼は、父や他の漁師たちが苦労して取ってきた魚を化け物なんぞに喰われているということに、確かな憤りを覚えたのだ、
そして怒りのままにもう一度。
「だからっ! それは鱶神さまへの捧げ物だと言っているだろう!」
さっきより震えていたが、声の大きさはさっきより大きいほどだった。
了次郎の意思が伝わったのか、そいつは了次郎を睨んだ。
両手に魚を握り締めて、両の目をぎらりと金色に光らせて。
「……っ!」
怖い。
小便がちびってしまいそうなほどだ。
だが、了次郎はくじけない。
「そのっ……その魚を放せっ! 早く!」
「さっきから何を言うておる了次郎。これは私への供物なのだろう?」
「そうだ! 鱶神さまへの供物っ――は? 私?」
了次郎の声に一気に勢いが無くなる。
桶の前のそいつはすっくと立ち上がって、着ている真っ白な着物をひらひらとあそばせながら了次郎の方へと歩いてきた。
そして、了次郎の目の前で立ち止まる。
了次郎はそいつを見下げる。
了次郎より頭二つは背丈の小さな少女だ。
「……は?」
「私が鱶神じゃ」
右手に握っていた魚の頭を喰いちぎって、咀嚼しながら少女は金色の目で了次郎を見つめていた。
「失礼いたしました」
砂浜に土下座しているのはもちろん了次郎だった。
「よいよい。そなたの不躾な口は今に始まったことではない」
「いや、お話しするのはこれが初めてでは……」
鱶神は魚に喰らいつきながら喋る。
「こうして面と向かって話すのは確かにそうじゃな。だが、私はいつもあの祠でお前の話を聞いておったぞ」
「いっ!?」
基本的に、了次郎は隠し事なんかを全部が全部あの祠の前で喋ってしまっている。漁師になれないことへの不満はもちろん、好きな女への恋心であるとか、口にするのも憚られるような下世話な話とか、全部。
もちろん了次郎としては、祠に神様が居座って話を聞いてるだなんて予想の範疇外の話で、これまで話してきたことは全て独り言のような感覚だったのだ。だが結果として鱶神さまが目の前に現れて、高貴な少女のような居住まいと姿でこうして喋りかけてくるのだから、恥ずかしさだってとめどなく了次郎に押し寄せてくる。
「とりあえず、堅苦しいその喋りを止めて、面を上げてよいぞ。もう慣れた」
「喋りはともかく土下座はしばらくこのままでお願いします」
「……どうした?」
まあ、そんなこんなで。
二人は並んで丸太に腰掛けて話し始めた。
「でも、鱶神さまって人間の姿なんだな。てっきり鮫の神様かと思ってた」
「普段は確かに鮫の格好で海を漂っておるな。この格好はそなたに合わせた結果じゃよ」
「人間の姿をして……ってことか?」
「もっと正確に言うならお前の好みの女子の格好で、じゃの。鮫の姿ではそなたにすら話しかけてももらえんし、私も話しかけられんからのう。じゃが、この姿なら少しは話せるようになるじゃろう」
「むしろ話しにくい……」
「何か言ったか?」
「いや、何も」
鱶神は年寄りのような喋り方をしているが、なにぶん年端もいかない少女のような風貌をしているので、了次郎の喋りには照れが混じってしまっていた。
悶々とする了次郎を横目で見つつ、鱶神は笑う。
「しかし、良かったのう。これで明日からそなたも立派な漁師ではないか」
「ありがとう。鱶神さまも僕を承認してくれたんだろう」
「いや、あれは村の者たちが勝手にやってるだけで……」
「え?」
「嘘じゃよ、嘘。そなたは私も認めるこの村の漁師じゃ」
けらけらと笑ういたずらな鱶神を見て、了次郎は明らかに顔をしかめる。
「ははっ、そう怒るな。これでも私も神のはしくれであるぞ。私という神の承認は、お前の漁師としての資質、資格を認める絶対のものとなる。誇ってよい」
「――でも、僕さ。ちょっとよく分からないんだ」
「何がじゃ?」
「自分が、本当に漁師になって良いのかなって」
「散々私に愚痴っておったではないか。船に乗ることに怖気づいたのか?」
「そういうわけじゃないんだよ。でも、漁師として認められたとしても、僕って実際は餓鬼のままなんじゃないかなあって思ってさ……」
「どういうことじゃ?」
「褒められたら喜んじまうところとか餓鬼っぽいし、親父みたいに酒も飲めねえし、親父は僕の事を餓鬼だと思ってるって言ってたし……」
「そんなことを気にしておるのか。そなたは」
「そんななんて言えちゃうような軽いことじゃないよ。大問題だ」
「ふうむ……」
了次郎が存外その事について思い悩んでいるのを察したのか、鱶神は真面目な口調になって話し始めた。
「私がそなたに言うとすれば、むしろこれからお前が漁師であると認めさせる好機が来た。と、捉えるべきなのかもしれんのう」
「好機……って?」
「そなたが自分をそう思うのなら、そなたはまだ子供なのじゃろう。だが、村の大人達はそなたを漁師であると認めた。なら、後はそなたの自分自身の劣等を覆すだけじゃ。自信がないのであれば、これから自信をつければよいのだ」
鱶神はまっすぐに、了次郎の眼を見て話す。
「僕の自信があるかないかってだけの問題って言いたいのか?」
「そういうことじゃな。まあ、要はこれから頑張れば良いのじゃよ」
そう言って鱶神は「な?」と了次郎に笑いかける。了次郎は自分に向けられた鱶神の微笑を見て、少し自分を取り巻いていた重苦しいものが、少し晴れたような感じがしたのだった。
「……じゃあ、頑張ります」
「そうじゃそうじゃ。必要なのはこれからの努力であるぞ」
了次郎はなんとなしに、満月の光り輝く海へと目をやった。
寄せて返す波の音は、いつもと変わらずそこに在った。
その日以来、了次郎の前に鱶神はたびたび姿を現すようになった。了次郎が祠に行った時には白い衣の少女として二人で他愛の無い言葉を交わしたし、漁のときには鮫の姿をして魚を網に追い込んでくれることもあった。その漁の様子は村の人間達からも奇跡と祭り上げられ、人々は一層祟り神としての鱶神を信仰した。
しかし、ある日のことだった。
空は晴れ渡っており、今日は波も穏やかで絶好の漁日和のようだった。
「了次郎! 網の用意手伝え!」
「あいよ!」
豊一が飛ばした威勢の良い掛け声に、了次郎は全力で答える。
そこにあったのは、蒼塗村の漁師として懸命に動く了次郎の姿だった。彼は額から目に入ってしまいそうな汗を、着ている服の襟で拭いながら作業をしている。
しかし、そこでぐしゃりと厭な衝撃が船を揺らした。船員が一斉に驚きを声にする。
「おい、座礁したんじゃねえのか!? ちゃんとよく見て操舵しろや!」
声を荒げる豊一の言葉を、船員の誰かがまた大声で否定する。
「豊一違うっ、ぶつかったのは岩じゃねえっ! あれは――」
その船員が指差す方向――船の先端部に、全員の視線が釘付けになる。
見覚えのある背びれ。
ぬめりと輝く流れるような鮫肌。
そして――見紛うことのないその巨体。
「――鱶神!?」
戸惑い、大声を上げる船員に向けて、豊一はすかさず仲間に指示を飛ばす。
「おい、そこらの棒で鱶神さまを突いて船から離れさせろ! 早くしねえとこっちが沈んじまう!」
鮫の姿の鱶神は、漁船の先端に体当たりした後、進路を維持できないほどの強い力で船を押していた。無理に進路を曲げてくるものだから、木造の船はぎしぎしと呻いていたし、今にも転覆してしまいそうだった。そして鱶神は自身も血だらけになりながら、なおも船を押してくる。
「駄目だ、鱶神さまの力が強すぎる! 離れちゃくれねえ! どうすんだ豊一!」
「どうしちまったってんだ鱶神さま……おい、了次郎! 銛持って来い!」
「銛って……親父、鱶神さまを刺し殺す気か!?」
「こいつが俺達の神様だってんなら、こいつはなんでこの船を沈めに来るんだ! こいつは神様じゃなくてきっとただの鮫だ! だったら殺さなくちゃならねえ! 早くしろ了次郎!」
「そんなわけ……」
反論が浮かばなくなって、了次郎は必死に頭をめぐらせた。だって、この辺りに出てくる鮫なんて鱶神さま以外ありえない。けれど、そうなると今度は鱶神さまが何故船にぶつかって来るのかが分からない。
船を沈めたいのか? でもそれなら何故さっきのような突進を繰り返さないんだ?
それに、さっきから鱶神さまは船を押しているが、傾いて船がひっくり返りそうになると、明らかに押す力を緩めている。
鱶神さまの目的は、船の転覆とはきっと別のところにある。
でも、それなら何故……?
押すことは僕達の邪魔にしかならないのに。
――いや、邪魔がしたいのか?
すると、了次郎の脳裏には一つの考えが浮かんだ。
「おい、了次郎!」
豊一の怒声に怯まず、了次郎は自分の考えを話す。
「父さん! 村に向かおう! このまま漁に行くとまずい!」
「何がだ! この鮫を殺して全て解決するだろう!」
「違うんだよ! 鱶神さまは僕たちにこのまま進んで欲しくないんだ! この先に何か危険があるからだよ! じゃなきゃこんなことするもんか!」
「なっ……!」
「父さん! 僕と――鱶神さまを信じてくれ!」
了次郎はきっ、と豊一を睨みつける。それは了次郎が父親にした初めての反抗であり、懇願でもあった。
船員達が慌ただしく船内を駆ける中、豊一と了次郎の間に数秒の無言が生まれた。
「――お前ら、引き返すぞ! 棒はもういい! もう一隻にも伝えろ!」
「えっ! お……おう!」
了次郎はひとり鱶神のところに駆け寄り、屈みこむ。
「もう大丈夫だから! 鱶神さまもありがとう!」
その言葉を受けて、鱶神は先ほどまでの荒ぶりが嘘のように海の底の方に消えていった。
残された船は、方向を変えて真っ直ぐに村へと向かって行く。
「……了次郎、お前は鱶神さまと何かあったりするのか?」
帰路の途中で、豊一は了次郎に尋ねた。別に勘繰る様でもなかったそれに対して、了次郎は静かに答える。
「――友達、みたいなものだよ」
ふいに、背後の空から音がした。それは空が腹を空かせているかのような、荒々しい雷雲の音だ。船員達が振り返ると、向こうのほうから真っ黒な雲がこちらに迫っているのが見えていた。
「こないだは助かったよ」
夜中、いつものように祠にやってきた了次郎は、茶碗に銀色に輝く鰯を一匹置いた。どこからともなく現れた鱶神が、ひょいとそれを取って噛り付きながら了次郎の横にやってきた。二人は横になっている丸太に並ぶようにして座った。
「うむ、くりゅしゅうぬぁい」
「鰯食ってから喋れっての。別に僕も逃げやしねえしさ」
そうしてしばらく、鱶神が無言で鰯を食い散らかす音だけが続いた。了次郎はその様子を静かに眺めていた。やがて食べ終わると、鱶神は満足げな表情で言った。
「うむ、くるしゅうない――げふっ」
「その顔立ちでげっぷすると色々台無しだぞ」
「別に私に憚られるようなものなどないぞ」
「うるさい」
二人の関係は、これまでの積み重ねでより自然なものになっていた。それは敬い敬われる人と神というよりは、憎まれ口を叩き合う男女として。
そして、それは二人にとってとても心地の良い関係性でもあった。
「あの後、海は大荒れさ。あんなに晴れてたのにな」
「そなたらがそんなことも知らずのうのうと海に出てきておったからのう。さすがの私も船を押すのは骨が折れたぞ」
「そんな傷だらけになってまでな……すまん本当に」
「よいよい。そなたらを守るのが、私の役目であるでの――自慢の背びれがおかげで傷物になってしまったがの」
そう言って笑う鱶神の顔は擦り傷にまみれている。それらに限らない全身の傷が、あの日の突進で出来たものであることは言うまでもない。
「そんでさ、今日塗り薬を持ってきたんだ。神様に効くかは知らないけどな」
「ほう。助かるぞ」
「ほら、こっち向いてくれ。塗るから」
了次郎がそう言って、二人は向き合うように丸太に座った。
「ちょっと痛むけど、我慢してくれよ」
「ん」
月明かりが薄く照らす鱶神の額へ、了次郎は軟膏をつけた人差し指を伸ばした。
「痛っ」
「ごめんな。ちょっと我慢してくれ」
了次郎はそう言ってから喋らなくなって、てきぱきと鱶神の傷に薬を塗っていった。額、鼻、腕、肩、腹、膝、といったように体の上から下のすみずみまで、全ての傷に。鱶神も塗るたびに痛みで顔を歪めていたが必死で我慢していた。
鱶神に指で触れながら、綺麗な肌だな、と了次郎は思った。
鱶神というの鮫の名を冠する神なのだから、仮に人の姿であったとしても、もっとごつくて、日に焼けていて、いかつい男を了次郎は思い浮かべていたのだ。ところが目の前の人は彼の予想とは全てが反対で、華奢な体躯で、色白で、なめらかな肌。それに端正な顔立ち。
目はくりりと丸く、とても澄んでいて。
美しい。
多分、自分は今半分恋に落ちているようなものだ。と、了次郎はそう思っている。
でもこの想いが恋であると断言できないのは、目の前の少女は神であるからで。
だから、とりとめのない話だけをする。
「神様でもさ、痛かったりするんだな」
「ああ。傷も負うし年も食うし、死にもするのじゃぞ」
「死まであるのか?」
「私の存在の源はそなたら村の住民の信仰じゃ。それが祟りへの恐れであれ、大漁への感謝であれ、信じられるから私は存在する。だから、私はこの村に尽くさねばならぬ。そなたらが私に世話になっていると思っているのと同様、私もそなたらに生かされているのじゃよ」
「へえ……」
了次郎が受け答えをしてから、しばらく静かになった。辺りを潮の満ち干きの音だけが満たしていて、生まれたときから絶え間なく続くこの音が、了次郎は大好きだった。聞いていると安らぎと落ち着きをもたらしてくれるからだった。
波の音でまどろんでいた了次郎の意識を、現実に引き戻したのは鱶神の声だった。
「そなたはもう漁には慣れたか?」
「んー、まあそれなりに、だな。今は仕事も色々任せてもらってるし」
「そうか」
すると、鱶神は意味深な深呼吸を一つしてから言った。
「――近々、再びこの村に嵐がやってくる。それもこれまでにないくらいの風と雨を伴う。気をつけよ」
「大丈夫だよ。そんな事が分かってるなら、さすがに今度は漁にすら出ないさ」
「そうではない。船をしっかり岸に繋ぎ止めておけと言っているのじゃ。杭を増やし、村にある縄を全て使って船を二つともしっかりと繋ぎ止めよ」
「そこまでするのか? 大げさじゃないか?」
「私が忠告しているのだ」
「……分かった」
じゃ、またな。と言って了次郎は祠を後にした。
残された鱶神は表情が浮かないままだった。そして、軟膏が塗られた頬の傷を人差し指でなぞった。
翌朝、了次郎は近々来る嵐の事を豊一に伝えた。
彼女が胸中に抱く不安は、そのまま現実のものとなった。
「船がねえってどういうことだっ!」
家を揺らす豊一の怒声で了次郎は目を覚ました。
「嵐が来るから一番太い縄で岸につないでおけと言ったろうが!」
「その杭が丸ごと持っていかれちまってんだ! 深く岸にぶっ刺した一本じゃ持ち応えられなかったんだよ!」
最初何のことを喋っているのか分からなかった了次郎だが、話を噛み砕いていくうちに、彼の中にぶわりと嫌な感覚が膨らんでいた。彼は布団から跳ね起きて、家の入り口で喋っていた豊一たちを押しのけて家を飛び出した。
「おい了次郎! どこへ行くんだ!」
頭が真っ白の了次郎にその声が届く筈もなく、彼は砂浜に飛び出していった。
まっさらな海岸。
普段ならば、そこに縄でつながれているはずの漁船が、ない。
杭が刺さっている筈の場所には、ぽっかりと黒い穴が開いていた。
砂浜は大粒の雨に穿たれた跡が幾つもある。まだ若干荒れ気味に波が寄せては返る所には木片が流れ着いていたり、海草の類が砂浜にへばりついていたりする。
あの木片は、この村の船のものなのだろうか。
『私が忠告しているのだ』
さっきから嫌というほど反芻される言葉。
彼女は確かに忠告してくれた。
その忠告にのっとって、了次郎は豊一に嵐が後日来ることを報告した。鱶神さまのお告げであると。
しかし、〈村の縄を全て使って〉、という部分を完全に失念して。
大げさだと思った。
軽視した。
記憶になんて残らなかった。
結果、村に二隻しかない船は両方失われた。
「わしらは、もうこの村を捨てるしかないのか?」
不意に、了次郎の耳に飛び込んでくる村長の声。
「我々は食料を魚に頼っていた。だがその魚を得る術を失った以上はもうもたない。干物も数日分しかない……」
いつになく自信のない声の豊一。
僕のせいか?
僕のせいだ。
伝えないからだ、
お前が悪い。
「――あああああああああああああああああっ!」
自分で自分を責めて、襲い来る何かに苦しみ悶えて、了次郎は再び何かに弾かれるようにして走り出した。そして、豊一の元に駆け寄る。
「親父っ!」
「なんだ了次郎……もうこの村は……」
「一週間だけ!」
「?」
「一週間だけでいい! 僕に時間をくれ! その間は、山菜や山の獣達を食って凌いでくれ!」
「――お前、何をするつもりだ?」
「船を作る!」
「は?」
「船を作るって言ってんだよ! 僕が船を駄目にしたんだ! 僕が責任を取らなくちゃならねえ!」
その台詞が引き金だった。
ぶちん、と。
音が聞こえるように血相を変えて、豊一が吼える。
「……っ! 馬鹿いってんじゃねえぞ糞餓鬼が! 船っちゅーのがどれだけ時間をかけて作るもんか分かってんのか! 一週間だと!? たったそれだけでてめえ一人に何が出来る! 設計はしたことあるか? 材料の木は? その間の食料だって村の連中百三十人分だぞ? 何一つ出来やしねえ! 考えて物言えや! なあ!?」
まくし立てるように全てを否定されて、了次郎は唖然としてそこに立ち尽くす。
ぼろぼろと、涙を流す。
「――もう、無理なんだ、了次郎……」
そして、線が切れたようになったのは豊一も同じだった。
彼の目にもまた、涙が浮かんだ。
「だってさ……そんな……」
了次郎の中を色々な思いが巡り、馳せて、流れて、揺らいで。彼は、もう何を考えれば良いのか分からなかったのだろう。
「……くそっ!」
了次郎は、そう吐き捨ててその場を逃げ出した。
「……何を、しておるのじゃ」
小さな声で、鱶神は目の前の了次郎に声をかけた。
「いかだを、作るんだよ」
祠の前にいる彼は、椅子にしていた倒木の丸太を鋸で両断しようとしていた。しかし、引き方が下手で一向に刃は切り進まない。
「私は忠告を、確かにしたぞ。嵐が来るから全力で備えよ、と」
「――ごめん」
「そなたの一つの油断が、村を滅ぼすことに繋がったのじゃぞ」
「……」
「そなたらがこの村を捨てれば、私は――じきに死ぬぞ」
「――分かってる。でも、それは嫌だ」
返事をする了次郎の目は既に血管で赤かった。今にも零れ落ちそうな涙を、目尻の辺りで辛うじてこらえている。
鋸を引く手が、震えで更にぎこちなくなる。
「……もう、間違えちまったんだ。だから、俺がやるしかないんだ」
それは、了次郎が自分に言い聞かせている言葉でもあった。
「いかだが出来れば、少なくとも海には出られる。沢山あれば、沢山の漁師が海に出て釣りなんかが出来る。前のように網で漁が出来るようになるまで、そうやって食いつないでいけば良いんだ……」
「本気で言っておるのか?」
「やるしか……ないじゃないか……」
「……」
鱶神は無言だった。
了次郎は、その圧力に顔を上げることができなかった。
言い訳にすらならない言葉を、了次郎は勝手に吐き出してしまう。
「皆をこの村に、なんとしてでも繋ぎ止める。そしたら、お前も死ななくて済む。俺も、またこの村で生きていける」
「できるのか?」
「そのために船を作る」
「その間の食べ物は?」
「村のみんなに山の恵みでどうにかして耐えてもらう」
「出来ると思うのか?」
「……多分、無理だ。でも、やるしかない。やらなきゃ、全部、終わっちまう」
「――そなたは、どうしてそう馬鹿なのか」
やっとこさ丸太を両断し終え、了次郎は鋸を地面に落とした。
顔を上げてみると、先ほどまで鱶神がいた場所はもぬけの殻で、静かな祠だけがそこに佇んでいた。
「……鱶神?」
了次郎は結局その日、一人で歪ないかだを一つ、作り上げて海に浮かべた。少し波に揺られてしまえば沈んでしまいそうになるほど酷い出来だった。
その不安定ないかだに乗り込んで、彼は海に出た。魚の一匹でも釣って、村の皆にまだこの村でやっていけると示したかった。
蒼塗村はまだ終わっていないと、証明したかった。
「そんな……」
しかし、彼の思いは空回りするばかりで、魚籠の中には一匹の魚だっていないというのに、沈みかけの太陽は既に西の空を橙に染め上げている。
駄目だった。
彼の行為そのものに、意味はなかったのだ。
彼の思いには、絶対的に力がついていかなかったのだ。
「っ!? やば――」
突如強めの波に彼は呑まれて、いかだはバラバラになり、沖には一人彼だけが浮かんだ。
「……畜生」
分からない。
どうすれば良いのか。
自分には結局何も出来ないのか。
諦めと絶望の板ばさみにあいながら、了次郎はなんとか村の岸にまで泳ぎ着くことが出来た。海水を結構飲んでしまい、手足はけだるく、これ以上動けそうもない。
釣竿を持ったまま、了次郎は砂浜に突っ伏した。彼が咳き込むと、飲みすぎた海水が勝手に喉から溢れ出した。
普通に息が出来ない。
荒く、荒く、肺が膨らんでは萎む。
意識が――霞む。
「――」
――。
鍋の煮える音で、了次郎は目を開いた。木造の天井は橙色の光に不規則な調子で照らされていて、意識が自分のところに戻っていくに連れて、それが囲炉裏の火によるものだと気付いた。
「……目が覚めたか」
特徴的ながらがら声。聞けばすぐに分かる。
ここは了次郎の家で。
声の主は。
「親父……」
囲炉裏の近くの座布団の上で胡坐をかいて、豊一は何かの味噌汁のようなものを飲んでいた。
「お前が砂浜でずぶ濡れのまま倒れてたところを、村の奴が拾ってここに連れてきてくれた」
「――ごめん」
「何を謝ってんだ、お前は?」
豊一の声は、了次郎の心に威圧的に押さえつける。
「それは……勝手にいかだを作って魚を採ってこようとして、結局迷惑しかかけなかったろう、僕」
「ああ、船を作るって啖呵きって飛び出していったら、ちまちまといかだ作ってんだもんなあ。笑っちまったぜ」
「なっ……こっちは真剣に……」
「ああ、いかだぐらいなら簡単に作れる。村の全員で作れば数日で三十隻は出来るだろうな」
「……それって」
「ああ、船作りは村の人間が総出でやる。大量のいかだをとりあえず釣り船として作って、後は少しずつ以前の漁船を作り直していく」
予想外の言葉に、了次郎はおもわず豊一のほうを向いた。そんな了次郎に、豊一はにっと笑いかけた。
「お前が動かなきゃ、村の奴らは立ち直れなかった」
「――でも待ってくれ! 当面の食料の問題が解決してないだろ! 食わなきゃ船なんて作ってられねえ!」
「それなら多分……問題ねえ」
「どうして!?」
「……これだよ」
豊一が箸で突いたのは、囲炉裏で煮られている味噌汁の鍋だった。その中には、普段と変わらない量の魚の身が入っていた。
魚。
「――なんで魚があるんだ? 親父達も釣りに行ったのか?」
「うんにゃ、俺達は釣ってない……何故だか浜辺に活きの良い魚が沢山打ち上げられていてな」
「何故だかって……」
「村の連中が、鮫が何度も魚を砂浜に置いていくのを見てる。――きっと、鱶神様だろうな」
「……!」
「ありがたい限りだ」
一体、彼女はどれほどお人好しだというのか。
どれほど――自分は世話になるというのだろうか。
彼女だって体は既に満身創痍で、その存在すら消えかかっているというのに。
感謝してもしきれない。
そう思うと、了次郎は涙が止まらなかった。
それからしばらくして。
村民総出の協力と、鱶神の力添えで、蒼塗村は着実に嵐の被害から立ち直っていった。漁船二隻の再建造こそ完了していないものの、大きな問題だった食料供給も大量のいかだの活用と鱶神が日々魚を送り届けてくれることである程度安定的なものとなっていた。
「よう、了次郎。大漁か?」
いかだを岸に着け、杭につないでいる了次郎に、豊一が話しかけた。それに対する了次郎はどこか釈然としない様子だ。
「んー、微妙。鰺が三匹と鰯が五匹ってとこ」
「まだまだこれからだな」
「ああ、昼飯終わったら二回目行くつもりさ」
「昼飯は先に俺が大物を釣っといてやろう。お前の手柄はねえぞ」
「は? ずりいよ親父! 俺もすぐ行く!」
「ははは、先に行ってるぞ」
豊一は了次郎の脇を通り抜けて、自分のいかだに向かう。了次郎の方に向きもせず、手だけをひらひらと振っていた。
「……とりあえず家で飯食ってくるか」
釣りに向かう豊一に背を向けて、了次郎も自宅へと駆けていった。
今日は青空が果てしなく広がり、風もほとんどない、絶好の釣り日和だ。
昼食を終えた了次郎が港の自分のいかだに向かっていると、何やら向こうのほうが騒がしかった。
「――何だ?」
豊一が漁に出てからもう随分時間が経っているが、さすがに大物を釣り尽くすなんて芸当が出来るはずもないので、とりあえず騒ぎの起きてる方を見に行ってみることにした。
村民達は何かを中心に輪を作るようにして集まっていた。
野次馬の一人が了次郎を向いて、ぎょっとした表情をする。豊一が乗っていなかった方の船の船長で、確か名前を梧助と言ったはずだ、と了次郎は思い出していた。
「馬鹿野郎! こっちに来るな!」
「……?」
了次郎は梧助の言う事を聞かず、その輪の中心に向かっていった。人々の間を抜け、その先に、砂浜の上で跪いてひたすら震える漁師の一人――四次郎がいて、その横に転がっていた。
左脇腹を喰いちぎられた、豊一の遺骸が。
了次郎は自分の父親が一目で死んでいると分かった。空っぽの目はこちらに見向きもせず、ただただ真っ直ぐに空を見据えていて、傷口からおびただしい量の血を今もどくどくと吐き出して砂を紅く濡らしていて。
「おや……じ……?」
「四次郎の話だと、いかだで釣りをしていたところを鮫に食われたらしい。恐らく、我々は鱶神の祟りにあったのだろう」
「――ちょっと、待ってくれよ梧助さん、これを……鱶神様がやったなんて本気で思ってるのか?」
震える声で、梧助に向き直る了次郎。
「我々はこれまでずっと鱶神を、魚を勝手に取って来る物のように扱っていた。怒るのも無理はない」
「……だからっ、あいつが怒るわけがないだろ! 梧助さんあいつの何を知ってるってんだよ!」
「お前こそ鱶神などと軽々しく呼び捨てるな! お前のような不躾な者がいるから豊一が食われたんだぞ!」
「違う! あいつは祟り神なんかじゃない! 純粋にこの村を愛して、ここの人々を愛して、この蒼塗の海を愛する優しい神様だ! 間違ってもちょっとの失礼なんかでこんな怒り方するはずがねえ!」
「……話にならんな」
「てめえっ!」
了次郎が梧助に殴りかかろうとしたところで、他の漁師達が腕ずくで彼を砂浜に押さえつけた。了次郎は「離せよっ!」と吠えるが、たかだか十六歳の少年が、大人の漁師達に叶うはずもなく、ただ砂がちょこちょこと散るだけだった。
――神殺しだ。
誰かがぽつりと、そう呟いた。
四次郎だった。
「――梧助さん! 鱶神様を殺そう! じゃなきゃ祟りで俺達がみんな殺されちまう!」
「四次郎さん何言ってんだよ! そんな――うぐっ!」
了次郎の言葉は、途中で遮られて誰にも届かない。一方で、恐怖から四次郎に同調する野次馬たちが一気に膨れ上がり、その勢いが不動のものとなる。
やめろ。
やめてくれ。
「――そうだな。生き残るためにはやむを得まい」
梧助は声を張り上げ、野次馬たちに結論を伝える。
「村の者達は鱶神様を見つけ次第、銛で突き殺せ!」
それは、神と人間の共存決裂を意味していた。
「おい鱶神、いるか!」
「――ああ、いるとも」
その日の夜中、いつもの祠に了次郎はやってきた。鱶神に状況を伝えるためだった。
「――ってわけなんだ。だからお前は早く逃げてくれ。じゃないと殺されちまう」
「それは無理な相談じゃな」
「どうして! お前は親父を殺してはいないだろう!」
「ああ、確かに殺してはいない。だが、近海の鮫どもを私が最近治めきれていなかったのも事実じゃ」
鱶神はぼうっと、海に浮かぶような月を眺める。そして言った。
「それに私の存在は、そなた達の信仰ありきの存在であるぞ。私がどのような末路を迎えるとしても、この村の神である私は、最期までこの村に尽くさねばならぬ」
「お前がそこまですることないだろう! 村の人間達はもう十分に独り立ちした! 全部お前のおかげだ! だから、今度は遠くで見守ってくれれば良い! 村を守るためのお前が殺されちまったら、元も子もねえだろう!」
「……了次郎」
鱶神は、了次郎の方を向いた。
その目は潤んでいて。
今にも砂粒に落ちて染み込んでいってしまいそうで。
「私はな、お前達のことが大好きなんじゃよ。例え、そなたたちがどうあろうともな」
了次郎は鱶神の様子を見て、心臓が張り裂けそうな感覚を覚えた。
「……なんだよ。なんなんだよそれ……」
親父を失って、お前を失って。
そこに何が残るというのか。
そんな空っぽの漁村のどこに、僕の居場所などあるというのか。
「嫌だ……嫌だぞそんなの……」
「仕方が……ないんじゃ」
二人は泣く。
了次郎は呻くように。
鱶神は何かに苦しむように。
月夜の下で、延々と。
ただただ、己のちっぽけな存在と無力さを感じて。
数日して、岸に鮫の死骸が転がっていた。舟を押したときに傷ついたというぼろぼろの背びれがあったので、それは間違いなく鱶神だった。魚を持ってきたところを一突きにされたらしい。
脳天に深々と銛が突き立てられていて、了次郎はただただそれが寄せる波に揺られるのを呆然と眺めていた。
流れる血が、彼女の目から涙のように、一筋。
了次郎は彼女が数日前に流した涙の事を思い出していた。
彼女は一体、どんな風に〈ないて〉いただろうか。
***
「――教授、ありました!」
「おお、本当だなあ……人工衛星がなければこんな辺境の漁村の跡地なんてみつからなかっただろうな。それにしても綺麗に残っている」
「そうですね。研究価値も非常に高いと思います」
数百年の月日が経って、廃れたこの漁村を訪れたのは、とある大学の教授と助手の学生だった。どうやら、この村の調査をしに来たようだった。
砂浜はあの時と変わらず、波の音で満たされている。所々に海から来たゴミが流れ着いているものの、当時の暮らしぶりを調べるには上等すぎるようだった。
学生と教授の話し声が辺りを飛び交う。
こんなところに、村があったんですね。
きっと、人々は海の恵みに囲まれて生きてきたんだろう。――そう言えば最近本で読んだんだが、鮫というのは鳴くらしいね?
え? でも魚って声帯ありませんよね?
喉を締めて鳴くとか何とか。あまり注意深く読んでなくて詳しいことを忘れてしまったんだがね……。
「教授、何か祠みたいなものがありますよ!」
助手が茂みの中で大きな声をあげるので、教授もぼうぼうの木々や草花を潜り抜けて、その場所にたどり着いた。
「これは――きっと、ここの神様なのかもしれないな。二人で、手を合わせておこうか。これからお世話になるかもしれない」
「はい」
二人は並んで、ほこらに手を合わせる。
すると、ぴちっと何か水っぽいものが跳ねる音がした。
「えっ、えっ、なんですか!?」
「……吉川くん、見たまえよ。これを」
教授が人差し指で示したのは、祠の前にあったもの。
「――これは、鰯? なんで?」
学生が見つめるその先には、今にも朽ちそうなボロボロの茶碗があって、その中で一匹、活きの良い鰯が飛び跳ねていた。
了