鮫と僕 作:雪野
雪野
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青く染まる視界の上を黒い影が悠々と泳いでいた。
大水槽の前は寒いほど冷房が効いている。地元のデートスポットとして定番のこの場所も平日の昼間となれば人気はほとんどない。
外は朝からにわか雨がざぁざぁと振り続け、湿気と熱気が嫌というほど幅を利かせていた。
一方でこの薄暗い空間は乾いていて、冷たくてまるで別世界のようだ。
視界の先で自分の背丈よりも大きなゆったりと泳いでいる。
ミサイルのように尖った鼻先。わずかに開閉する口の間からはノコギリのような牙がずらりと並んでいるのが見える。
水槽の端に小さく備えられた銀のネームプレートには『シロワニ』と書かれている。
どう見てもサメなのに、ワニなのか。
まるでチグハグのそれがなんだかひどくおかしく感じられた。しかし、よく見てみると確かにその小さく輝く金色の瞳はどこか爬虫類のようだ。
丸く、ボタンのようなぎょろりとした瞳は言われてみればワニっぽい。
「食べてくれるかな……」
自分が呟いた言葉にハッと我に返り、辺りを見渡す。水槽の端に穏やかそうな表情をした老夫婦が一組いるばかりで、それ以外は周囲に誰もいない。
幸い、迂闊な独り言を聞かれたわけではなさそうだった。
その老夫婦もゆっくりとした足取りで次のブースへと消えていった。
これでこの水槽は独り占めとなる。
ぼんやりと水槽を見上げるとこちらの事情など知ったことかと先ほどと変わらぬペースでシロワニはその身をくねらせていた。
水槽越しの青い光を見に受けながら、僕はそのしなやかな泳ぎに見惚れていた。
「次に生まれ変わるとしたらサメがいいかも……」
それは冴えない僕としては珍しく悪くない案に思えた。
次に生まれ変わったら。もしも、生まれ直すことができるなら。
その時は、このシロワニのように大きな魚になりたい。
こんな風に堂々と生きていけたならどんな気持ちだろうか。ゆったりと自分だけのペースで思うがままに泳ぐのだ。尾びれを振り、ひんやりとした水をかきわけるようにして泳ぐ。
最後に泳いだのはいつだっただろうか。何かと理由をつけて水泳の授業に出なくなったのはいつからだった?
無意識のうちに気が付けば手を伸ばしていた。何かを求めるように伸びた指先は冷たいアクリルに阻まれ、届かない。
水槽の中にいるのはシロワニのはずなのに、自分の方がまるで水槽にいるようだ。
この世界は水槽のように息苦しい。自由はなく、ただ毎日の日々を痛みに耐えるようにして過ごしていく。
喘いでみても何も変わらない。これまでもそうだったし、たぶんこれからもそうだろう。
ゴツンと小さな音を立てて、額がアクリルにぶつかる。
水温を保つためだろうか、無機質な水槽はひんやりとしていて気持ちがいい。
はぁ、と息が漏れる。それは安堵に似た諦観だった。
きっと僕はこの世界でいつか溺れ死ぬ。
何も為せず、何も得られずに、沈んでいくのだろう。
だって僕には何も欲しいものはなかった。ドラマやマンガの中では夢を追いかける姿が判を押したように並んでいる。
けれど僕は何ひとつ欲しいとは思えなかった。ただただ解放されたかった。
こんなに息苦しいのなら、いっそ死んでしまいたかったのだ。
どれぐらい、そうして過ごしていただろうか。
かたりと小さな物音がした。驚いて心臓が飛び出るかと思った。慌てて逃げようとして、ここが学校でないことを思い出す。
激しく鼓動を繰り返す胸を押さえながら、物音のした方を見てみれば膝ほどまである長靴を履いた飼育員が不審そうにこちらを見ていた。
暗くて気づかなかったが、水槽の脇にはドアがあり『関係者以外、立入禁止』と書かれたそれが今は開かれている。
「どうしました? 体調が悪いんですか?」
化粧っ気のない若い女性の飼育員が心配そうに僕の方へと歩み寄る。
伸ばされかけた手から反射的に逃げるようにして後ずさりしながら僕は必死になって否定する。
「い、いえ! だ、大丈夫です……その、ちょっと暑かったので……」
ごにょごにょと呟いた言葉尻は自分でもたどたどしく、まともに聞けたものではなかった。羞恥にかぁと頬が赤く染まるのが自分でも分かる。
飼育員は首を傾げながらも、前半の『大丈夫』という言葉だけは聞き取れたのだろう。それ以上、追及してくることはなかった。
代わりに、
「大丈夫ならいいんですけれど、水槽にはお手を触れないようにお願いします。魚たちが怯えてしまうので」
「あ……はい、その、すみません……」
慌てて水槽から離れ、曖昧に頭を下げる。
思い返してみれば、ここまでの水槽にも必ず『水槽を触ったり、叩いたりしないでください』という文言があったのを思い出す。小学生にも読めるようにとルビを降られた当たり前の常識さえ、僕は今まで忘れていた。
ばつが悪くなって、目を逸らしながら水槽を離れると飼育員は小さく頷き「それではごゆっくり」と言って足早に去って行ってしまった。
なんとか怒られずに済み、ほっとしたところで僕はふと気づく。
ドアが、開いているのだ。
先ほどの飼育員が出てきた、おそらくはバックヤードに繋がるドアがかすかに開いたままになっていた。どうやら先ほどの彼女は閉めるのを忘れて行ってしまったらしい。
周囲を見渡す。
辺りに人影はない。先ほどの飼育員も戻ってくる気配はなかった。しばらくは新しい客も来ないだろう。
そう思ったらもう歯止めは利かなかった。
ふらふらと誘われるように、僕はドアをくぐってしまった。
後ろ手で静かにドアを閉め、最初に感じたのは独特の水の匂いだ。
暗く青い展示室とは違い、古い蛍光灯に照らされた通路には蒸せるような湿気と生臭さを伴った水の匂いだ。
規格に合わせて丁寧な掃除の行き届いた展示室とは違う。正真正銘、生き物が生きる場所。
ごうんごうんと遠くで聞こえる機械の駆動音は水槽を管理する何かしらだろう。
小さなドアをくぐった先は今まで自分がいた世界とはまるで違う。例えるならそれはまさしく異界だった。
鼓膜の奥でうるさいほど鼓動が反響する。
全身の血管が広がり、興奮しているのが自分でもわかった。なぜかは分からない。けれど不思議と息は乱れ、胸の辺りの服をぎゅうと握り絞めていた。
『自制』という言葉はもはや頭から抜け落ち、僕は駆け出す。
案内板もないバックヤードをめちゃくちゃに歩き回り、気が付けば巨大な水槽の縁に立っていた。
道も分からないのに、どうやってここまでたどり着いたのか、自分でも分からない。
けれど確かに目の前には巨大な水槽があり、水槽の中では先ほど見上げていたシロワニが変わらず泳いでいた。
水槽の縁へとかがみこみ、上から改めてシロワニを観察する。
下から見上げていた時も大きいとは感じていたが、こうして見下ろしてみてもその大きさは分かった。
揺らぐ水面越しにもシロワニの巨大な魚影は見れば分かる。茶にも灰にも見えるその背がゆっくりとくねり、水の中を進む姿はいつまで見ていても飽きそうになかった。
「……生まれ変われたらお前みたいになれるかな」
静かに問いかけてみても、答えはない。
あるはずもない。相手はサメだ。答えが返ってくるはずもなかった。けれどそれでよかった。それがよかった。
答えが返ってこないのなら少なくても、拒絶されることはない。
水の中に、身を投げてしまえばシロワニはその鋭い歯で僕をバラバラに食い千切ってくれるだろう。
どれほど痛いかは想像もつかないが、いっそこのまま息苦しさを感じたまま無為無為に生き続けるよりはよほどマシに思えた。
「……よし」
小さく気合いを入れて僕は立ち上がる。
そして靴を脱いで、水槽の縁へきちんと揃えた。遺書のひとつでもあれば格好もついたのだろうが、生憎と用意していない。思い付きじみた突発的な逃避行だった。
「不味かったら、ごめんね」
そう呟いて、目を閉じる。未練はなかった。
僕はシロワニの水槽へと身を投げた。
ざぶんと水音を立てて、世界が沈む。
服のすき間から泡が流れていくのが感じられた。水分を吸った服がずっしりと重くなっていく。
しかし、覚悟した痛みはいつまで経っても僕を襲うことはなかった。
恐る恐る水中で目を開いてみれば、シロワニは水槽の隅へと逃げていた。少なくても襲おうとする気配はない。
どうして、そう思うも先に息が続かなくなった。
死のうと思っていたのに、肺は酸素を求めて喘ぐ。息苦しさに抗えず、僕はなんとか水から這い出すようにして、水面に達する。
「ぷはっ!」
濡れた服に四苦八苦しながらもなんとかプールの縁に辿り着く。荒い呼吸を繰り返しながらも、水槽の中を覗くがやはりシロワニは寄ってこようともしない。
「なんで……?」
「コラァ! キミ、何してるのっ! 早く上がりなさいっ!」
突然、響いた怒号に心臓が飛び出るほど驚かされた。
慌てて声のした方へ視線をやると先ほどの飼育員が青筋を立てて、こちらを指さしている。
「シロワニの水槽に飛び込むなんて、どういうつもりっ⁉」
「え、いや……その、死のうと思って……」
「とにかく早く水槽から上がりなさいっ!」
そっちから聞いたくせに。
と思ったがそれを口に出す勇気はなかった。結局、怒鳴られるがままに水槽から僕は引きずり出された。
今にも飛び掛からんばかりの剣幕で叱られながら、ちらりと横目で水槽を見る。シロワニは水槽の隅で怯えたようにこちらを静かに伺っていた。
英字のロゴにイルカのプリントがあしらわれたTシャツを着て、僕は俯いて応接間に座っていた。「とりあえずこれに着替えなさい」と渡されたお土産物のTシャツに着替えたのだ。
正面には先ほどの飼育員の女性。その隣には厳めしい顔つきをしたスーツ姿の中年。どうもこの水族館の偉い人、ということらしかった。
そして隣には、忙しなく爪を噛む母がいた。
母の視線は落ち着かない様子で周囲を彷徨い、漂う。時折、僕の方を見て何か言おうとしては口を閉じる。
その繰り返しだった。
健全な学生ならば学校へ行き、授業を受けているはずの時間に、まさか学校をサボった挙句、サメの水槽に飛び込んで自殺を図るなんてまさに寝耳に水だったことだろう。
あの後、すぐに僕は水族館のバックヤードへと連行され、どうしてあんなバカな真似をしたのかこんこんと詰められた。
なぜ、と聞かれても自分でも分からないのだから答えようがない。埒が明かないと警察か保護者かどちらに連絡するかと迫られ、観念した僕は母親の携帯電話番号を伝えた。
仕事途中に抜け出してきたらしい母はひどく顔色が悪く、今にもふらりと倒れてしまいそうだった。その蒼白な顔を目の当たりにして初めて、自分のしでかしたことに現実味が伴った。
「……どうして、あのサメは僕を殺してくれなかったんですか?」
震えるようなか細い声で口にしたのは弁明でも謝罪でもなく、質問だった。
飼育員とスーツの男は一瞬、目を見合わせ、男が小さく頷くと飼育員が答える。
「キミが飛び込んだ水槽にいたサメは『シロワニ』よ。ネズミザメ目オオワニザメ科に属している一種で、体長は3mほど。暖かい海に生息していて、日本近海にも生息しているわ。身体は大きいけれど、とても大人しいサメよ」
「大人しいんですか? あんなに大きいのに?」
「ええ。大きいから『ジョーズ』なんかで有名なホオジロザメと混同されがちだけど、シロワニは大人しい種類。そもそも人を襲うサメなんて、ほとんどいないのよ」
知らなかった。
あれだけ大きなサメなのに、人は襲わない。
サメは人を襲うものだと思っていた。それが当たり前だと、それがサメという生き物だと。そう、思い込んでいた。
そういう風に生きるのが当然だと思って、そういう風に生きているのだろうと願っていた。
けれど違った。
人を襲わないサメ、そういう種類がいてもいいのだと僕は初めて知った。
「ねえ、どうしてそんなことしたの?」
母が不安そうな眼差しで問いかける。
「僕、学校でいじめられているんだ」
今まで、どうしても言い出せなかった一言が驚くほどするりと口から零れた。




