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Journey of Life~戦犯の孫~  作者: ふたぎ おっと
第4章 変わらぬ故郷の街
52/73

8.現場

 部屋に入ると、その人は、ベッドに座りながらこちらを不思議そうに見てきた。

 アジェンダ人特有の赤茶系の短髪、髪色を少し薄くした切れ長の瞳には、昔とは違う年相応の落ち着きと力強さがある。頬も随分削げ、独特の目鼻立ちは一層彫りが深くなったように感じられ、とても男前に成長している。

「お前は……」

「ヴォルフ! また会えて嬉しいわぁ!」

 ゼルマは抱えていた朝食の盆をサイドテーブルに置くと、まっすぐにヴォルフの元へ駆け付け飛び込んだ。頬に返ってきた硬い筋肉質の感触は、ゼルマを満足させる。

 更にぎゅっと抱きつこうとすると、強い力で引き剥がされた。

「ゼルマ、いきなり飛びつくな。ぐっ……」

「ごめんなさい、怪我に触ったからしらぁ?」

「いや、問題ない。まったく、お前は相変わらず……」

 ヴォルフは右手で左肩を押さえながら、呆れたように息を吐いた。

 そして彼はニッと笑みを浮かべた。

「久しぶりだな、ゼルマ。お前に助けられたと聞いてまさかと思っていたが、本当だったんだな」

「本当にびっくりしたわよぉ。まさかパパのトラックにあなたが乗ってるなんて思わないじゃなぁい! でもその場にあたしがいて本当に良かったわぁ。ねぇ、最後に別れてから何年ぶり? 十年は確実に経っているわよねぇ?」

「十年……十一年くらいか? 戦争が始まってすぐだったよな、お前の家が引っ越したのは」

「そうねぇ。あのときのあたしは、もう二度とあなたと会えないんだと思っていたわぁ」

 ゼルマとヴォルフはヘルデンズ東部の都市にあるアジェンダ人地区で生まれ育ち、幼稚園から中学に上がる頃までずっと一緒だった。

 しかし二人が中学生になって間もない頃、フィンベリー大陸戦争が始まり、またそれまでも推し進められていたアジェンダ人への規制が急速に厳しくなった。

 外に出れば過激なアジェンダ人差別組織から物を投げられ、家にいても突然襲いかかられることも少なくなかった。やがてアジェンダ人が滅ぼされる日も来るのではという噂も濃く囁かれていた。

 そんな中、ヨアヒム一家は家を捨てヘルデンズから脱出し、フィンベリー大陸からも抜けて、海の向こうの大陸へと亡命した。

 それでも戦時中であったため、そこでの生活は決して豊かというわけではなかったが、他国からの激しい攻撃もなく、その地でゼルマは戦争が終わるまで平穏に過ごした。

「だけどそこの気候が合わなくてママが死んじゃってねぇ。どうせなら故郷の土に埋めてあげようって、終戦の翌年にここに戻ってきたの。ここはママの生まれ育ったところだから」

「そうか。おばさんのことは、無念だったな。だが、お前と親父さんが無事に元気でやっていて、本当に良かったよ」

「それはこっちの台詞よぉ! あっちで色んな噂を聞いていたのよぉ? あなた、その……あの後もヘルデンズにいたの?」

 勢いで聞きそうになって、ゼルマは思い止まった。ゼルマの知らない間ヴォルフがどうしていたのかはもの凄く気になるが、安易に聞いて良いものでもない。

 しかしヴォルフは少しだけ逡巡する素振りを見せると、力なく笑って答えてくれた。

「ああ、完全に逃げるタイミングを失ってな。知り合いのところで隠遁生活をしていたんだが、生憎アジェンダ狩りで捕まってしまって、親父と母さんはそれで……」

 ヴォルフは最初こそは穏やかな調子で話していたが、ひととおり言い切る頃には、どこか苦いものを噛みしめたような不穏なトーンになっていた。いつの間にか眉間に皺が寄っていて、彼の薄鳶色の瞳も僅かに細められている。

「そう。でも尚更あなたと再会できて良かったわぁ。とりあえず朝食持ってきたから食べて頂戴」

 ゼルマはにっこり笑ってスープの入った皿をヴォルフに差し出した。

 すると彼は不思議そうに目を丸くしてそれを眺めた。

「それ、あいつに頼まれたのか?」

「あいつ? 黒髪のおかっぱの子に渡されたわよぉ?」

「やっぱりそうか……」

 ヴォルフは深くため息を吐いて渋々スープ皿を受け取った。

 彼の瞳は相変わらず機嫌悪そうに細められていて、それでいながらどこか遠くを眺めるようなその色合いは、明らかに上の空に見える。

 ゼルマは片眉を吊り上げた。

――さっきの質問が後を引いているのかしら? それとも……。

「あの子はあなたの恋人か何か?」

 瞬間、ヴォルフは飲んでいたスープを吹き出した。同時にスープが変なところに入ったのか、彼は思いっきり噎せ込む。

「馬鹿言え。んなわけあるか」

「ええ、でも二人で何処かから逃げ込んできたんでしょぉ?」

「はぁ……そうか、そこまでは知れ渡っているのか。別に、ただ事情があって行動を共にしているだけだ」

 ヴォルフは「だけだ」の部分をやたら強調して言い切った。眉間の皺が明らかにさっきよりも増えていて、心底不愉快そうな表情だ。それでいて焦点の合ってなさそうな彼の瞳は、確実に目の前のゼルマを映していない様子だった。

――へぇ、事情ねぇ?

 ゼルマは更に片眉を吊り上げた。

 ヴォルフの回答自体は望んだものであったが、その反応が面白くない。

 そもそも、あのおかっぱ頭の女の子のことでこんなにも分かりやすく機嫌を悪くするのが気に入らない。二人が実際にどういう関係なのか知らないけれど、ヴォルフともあろう男前が、あんな貧相な小娘のことで頭を悩ませるなど、納得がいかない。しかも、目の前の美貌の女にはほとんど関心を示さず考え事など、ありえない。

――だけど、そうしていられるのも今のうちよ。

「じゃあヴォルフ、あなた他にそういう(ひと)いるの?」

 ゼルマは悠然と足を組み、膝に頬杖を付いて彼をまっすぐに見た。スカートから少し脚を見せれば、動揺しない男はいない。

 しかし彼は、ゼルマの仕草に対する反応はほとんど見せず、一方で不機嫌そうな顔を引っ込めずにこの手の話に心底うんざりといった様子で答えた。

「生憎、独り身だよ。仕事での出会いもほとんどないしな。そういうお前はどうなんだ? その歳で独身は笑えないぞ」

 話題逸らしとばかりにヴォルフは冗談ぽく笑い飛ばして聞き返すが、ゼルマにしてみればこれは好機だった。

 ゼルマは憂いを帯びた様子で大きく肩を落とした。

「本当に笑えないんだけど、あたし、独身なのぉ」

 正確には亡命先で一人、ヘルデンズに戻ってから一人、それぞれ結婚と離婚を繰り返した後ではあるが、いちいちカミングアウトする必要もないだろう。

 寂しい女よろしく深々とため息を吐けば、ヴォルフは分かりやすく狼狽えた。しかしそれは、失言だったと言わんばかりの表情で、まだゼルマの望む反応ではない。

「この歳でこれだからねぇ。早くパパを安心させてあげたいんだけど、あたし売れ残っちゃったみたぁい」

「はぁ……大袈裟だな。別に男なんかその辺にゴロゴロいんだろ? 選り好みしなきゃいいんじゃないのか?」

「それじゃあ嫌なの」

「は?」

 心底意味不明そうな顔をするヴォルフの手からスープ皿を奪い取り、ゼルマはヴォルフの両手を握って上目遣いで彼を見上げた。別れた夫を含め、これで落ちなかった男はいない。

「ねぇ、この再会は運命だと思わなぁい?」

「は? い、いやいや、待てゼルマ。意味が分からない」

「あなたこの十年でとても素敵に成長したわぁ。あたしはどーお? 綺麗になった?」

「ああ? あ、ああ、綺麗になったと思うよ、見違えた。だが俺はな――」

「まぁ嬉しいわぁ!」

「おい、俺の話を聞けっ――っておいゼルマ!」

 ようやく状況を察したらしいヴォルフは何とかゼルマの手を解こうとするが、ゼルマは彼が左腕に力を込めないのをいいことに無理矢理ベッドに乗り上がり、彼の膝に跨るようにしながらヴォルフの胸にもたれ掛かった。自分の豊満な胸を彼に押しつけるのも、忘れない。

「おい、離れろゼルマ。俺はお前にそういう感情はないからやめろ!」

「今は、でしょお? それにつれないわぁ。あたしがいなかったらあなた、助からなかったのよぉ?」

「それは……ぐ……っ感謝しているが、それとこれとは別だろ。いいから降りろっ」

 ヴォルフは右手でゼルマの身体を離そうとするが、ゼルマは構わずヴォルフの首に腕を回す。ちょうど彼の目線の位置にゼルマの胸が近づくが、ヴォルフは至極嫌そうな表情で顔を逸らす。

 こうも自分に靡かないのは納得がいかないが、だからこそ、ゼルマの心は燃え上がる。

 ゼルマは嫌がるヴォルフの顔を無理矢理こちらに向かせ、顔を近付けた。

「ねーえ? 本当にあなたがあたしに感謝しているのなら、ご褒美、もらってもいいかしらぁ?」

「はあ? だから何でこうなる……っ!? とにかく離れろ……っ」

「いいじゃない、減るもんじゃないんだから」

「いやだから……っおいっちょっゼル――」

 ベッドのヘッドボードと自分の身体の間で藻掻くヴォルフを抑えて、ゼルマはその凛々しい唇に自身のそれを重ね合わせた。

 少しかさついた彼の唇は固い力が込められていて、まるでそれは、ゼルマの身体を押し返そうとする右手と同じく、ゼルマの唇を拒絶しているかのようだ。当然ゼルマとしては面白くない。

 ゼルマはぎゅっとヴォルフの顔を固定しながら、一層強く彼の唇を吸った。

 するとそのとき――。

「あの、入ります」

 消え入りそうな小さい声と共に、部屋の扉が開かれた。

 瞬間、ハッと息を飲むのが唇越しに伝わってきたかと思うと、強い力で身体が引き剥がされた。

 ヴォルフは焦ったように扉の方を見る。その視線の先では、黒髪のおかっぱ頭の女の子が、ベッドの上でじゃれ合っている二人の様子に瞠目し、固まっている。この状況に頭がついてきていない様子だ。

「あ……えっと、私……お薬をゼルマさんに預け忘れていて……えっと……その……ごめんなさいっ!」

「おいっ待て!」

 ブランカは青い顔で少しずつ後ずさると、勢いよく来た道を引き返していった。

 それと同時にヴォルフもゼルマの身体を剥がし、ベッドから飛び降りて彼女を追いかけていった。

――何この状況……。

 ゼルマはベッドの上で呆然と瞬きする。

 自分のような女を差し置いて他の女の子を追い掛けるなど、納得がいかない。

 そもそもこんなにも拒絶する男も初めてで、納得がいかない。

――でもいいわ、絶対に落としてやるわ……!

 それが初恋相手のヴォルフなら、尚更落としてみせよう。

 ゼルマは炎を宿した赤茶色の瞳で、走っていくヴォルフの背中をじっと見つめていた。



***



 廊下を駆けていく黒いおかっぱ頭を、ヴォルフは必死に追い掛ける。

 何故そんなことをしているのかとか、何故こんなにも焦っているのかとか、そんなことを考える間もなく衝動的に身体が動いていた。

 そうしてキッチンらしき部屋に入る直前、その細腕を捕まえた。

 たった数日寝込んでいただけでこの身体は鈍ってしまったらしい。走った衝動で左肩の傷が疼くが、構わずヴォルフは彼女へ声を掛けた。

「おい……お前、今の……」

「見てません。知りません」

「そ……れならいいが、こっち向け」

 ヴォルフは彼女の肩へ手を回し、その小さな身体をこちらへ向かそうと力を入れた。

 しかし、彼女はヴォルフの手から逃れるように肩を逸らす。もう一度ブランカの肩を引っ張るが、身体はこちらの方へ向いても、彼女は頑なに顔をヴォルフの方へ向けようとはしなかった。

 そうしているうちに、ヴォルフは何故だか無性に苛立ちが湧いてくる。それと同時に、こんなことをしている自分自身に疑問を抱く。

――キス一つで、俺は何でこんな取り繕うかのようなことを――。

 すると、ブランカは身じろぎしながら、小さな声で言った。

「別に……ヴォルフがどこで何していようと……私には、関係ないですから……」

「何?」

 彼女が言っていることは、何もおかしくない。ヴォルフにしても彼女がどこで何をしていようと知ったことではないし、さっきのゼルマとのことについても、別に彼女には関係ないことだ。ただ先程偉そうな口を叩いた後だったので、ばつの悪さを感じているだけだ。

 頭ではそう思うものの、まるで壁を作るかのようなブランカの発言に、納得がいかない自分が何処かにいる。

 ヴォルフの苛立ちが余計に増していく。

「私は……っ言われたとおり時間を有効活用しますから……どうぞ、ごゆっくり療養してください」

「はあ? 何でそうなる……いや、とにかく! いいからこっちを――」

「――ブランカ、アロイスの提案なんだけどさ」

 もう一度彼女をこちらに向かせようとしたとき、リビングの方からヤーツェクが現れた。

 彼は二人の間にある微妙な空気に一瞬目を丸くするが、ヴォルフの方を見ると、何故か怪訝な表情でこちらを睨んできた。どうして彼にそんな視線を向けられるのか、ヴォルフは全く訳が分からない。

 すると、一瞬ヴォルフが手を緩めた隙に、ブランカはヤーツェクの方へと寄っていった。

「アロイスさんの提案ですか? 何ですか?」

「え? ああ、なんか今日あんたをうちの工場で働かせてやれって言ってくるんだよ」

「え……私を、工場で?」

「待て、どういうことだ?」

 ヴォルフは二人の会話に割り込んだ。

 未だこちらには顔を見せないくせに、ブランカは簡単にヤーツェクの方を向いて話す。それがまた無性に気に入らなく感じるが、ひとまずそれを置いておくとしても、今の話はおかしい。

 じっとヤーツェクを見据えて説明を待っていると、どこからか現れたアロイスが、ヴォルフ達の疑問に答えた。

「兄さんも自分で行動できるようになったし、ブランカちゃんがずぅっと(・・・・)ついとる必要もないやろ」

 アロイスは至って軽い調子で言うが、「ずぅっと」の部分をやけに強調しながら、ヴォルフに意味ありげな視線を寄越した。彼が言わんとしていることに、ヴォルフは何も言い返せない。

「それにうちに居候するなら、ちゃんと働いてもらわんと困るからな」

 次にアロイスは「な」とブランカの方へ含みのある同意を求めた。尚もヴォルフの位置からはブランカの顔は見えないが、彼女は何かを心得たようにアロイスに頷いた。

「ってなわけで、ヤーツェク、今日一日ブランカちゃんよろしく」

「任せときな。ブランカ、用意するから手伝ってくれ」

「はい、よろしくお願いします!」

 アロイスが強引に話を進め切り上げると、ヤーツェクはブランカを連れてリビングの方へと向かっていった。

 そのとき、ヤーツェクはちらりとヴォルフへ一瞥を寄越す。

 仄暗い光を放つヘーゼルグリーン色の瞳は、尚もヴォルフに不穏な感情を抱いていることをまっすぐに伝え、既に募っていたヴォルフの苛立ちを更に刺激する。

 二人が去り、ヴォルフはアロイスに詰め寄った。

「アロイス、あいつを働かせるってどういうつもりだ。そんな場合じゃないって分かってるだろ?」

「兄さんがそうやってカリカリしとるからやろー? ヤーツェクなら大丈夫や、ちゃんと見てくれるから」

「だからって何でわざわざ……」

「ちょうど良いじゃなぁい。あたしたちも出掛けましょうよお」

 深みのある艶やかな声が、割り込んできた。

 ヴォルフがげんなりとして目を向ければ、厄介事の元凶は、悠然とした笑みを湛えて廊下の壁にもたれ掛かっている。

「はぁ……お前なぁ……」

「ヘルネーの街、案内してあげる」

「お、それいいやん。時間は有限やからな、いいように活用しやんとな」

 こことぞばかりに意味ありげな物言いをしてくるが、まさかアロイスは今朝のブランカとの会話を聞いていたのだろうか? 腹立たしいが自分で言ったことなので、ヴォルフには何も言えない。

 それに、ゼルマの提案もあながち悪くない。

「ふふ、そうと決まったら一時間後に出発ねぇ。ちゃんと用意しておいてよぉ」

 ヴォルフが頭を抱えて項垂れていると、いつの間にかゼルマは目の前に寄り、ヴォルフの頬にキスをして嬉しそうにアロイスの家を出て行った。

 苛立ちと頭痛と肩の痛みが一気にヴォルフに襲いかかる。

「前途多難やな、兄さん」

「うるせえ。ほっとけ」

「はいはい。やけど兄さん、口紅付いとるで」

「は?」

 アロイスはニヤニヤ笑いながら自分の唇を指差した。

 それがどういう意味なのか察したヴォルフは、すぐに洗面所に向かい、その有様に心の底から情けなくなった。

 同時にゼルマにキスされたときのブランカの顔が、脳裏に浮かぶ。

――……まだ本調子じゃないだけだ。

 ヴォルフは冷たい水で顔を洗いながら、心の邪念を振り払った。

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