12.突然の別れ
数時間後、二つのバッグが、ロマンの前に投げ置かれていた。
彼の前に立つのは、ダムブルク児童施設の大人たちだ。
その真ん中にいる館長が、困惑した表情でロマンに問いかけた。
「ロマン、さっきの人たちは一体何者なんだい? ブラッドロー語を話していたけれど、一体何でそんな人たちがうちに来てブランカの持ち物を漁っていったんだ?」
館長の質問に、みな恐ろしい顔を浮かべて頷いていた。
一時間前、施設に帰ってきたロマンとレオナがゆっくりする間もなく施設内の捜索が始まった。
ロゼから一緒についてきたブラッドロー兵のうち、フラウジュペイ語を話せる兵士の一人が職員達にあれこれと説明している間に、他の兵士達はつかつかと施設に上がり込んできた。そうして一通り施設内を捜索すると、彼らはブランカの数少ない持ち物をひと揃い回収して出て行った。もちろんブラッドロー軍の人間であることは伏せていたし、それらしく聞こえる理由で、職員の何人かは納得していたはずだった。
しかし、突然物々しい雰囲気で押しかけてきた何人ものスーツ姿の男と結構な頻度で聞こえてきたブラッドロー語に、やはり違和感を覚えないはずがなかった。
そんな人たちを連れ帰ってきたロマンに、当然その疑問は向けられた。
施設から去っていくブラッドロー兵を施設の門で見送っていたロマンの前に、職員達は集団で立ち塞がり、その一人が彼の前に二つのバッグを投げ捨てた。
一つはロマンがこの十日の旅で使っていた旅行鞄。そしてもう一つのバッグには、本や洋服など、施設に置いていた彼の荷物が詰められていた。
少し目を離した隙にこんなことになっていて、レオナは慌てて彼らを止めにいった。
「待ってよ、何でこんなことになってるの!」
「レオナ、君は黙っていなさい」
「ちょっと!」
レオナはすかさず食堂婦達に抑えられた。暴れて彼女たちを振り切ろうとするが、数人がかりのそれに、レオナの抵抗はままならない。
一方のロマンは、何も言わずに、驚いた表情すら見せずに、職員達の顔をまっすぐに見据えていた。
焦れた男性職員の一人が、館長に続いて言った。
「聞いたぞ、ロマン。君、東側の人間と関わりがあるらしいな? まさかブランカもそれに関わっているのか?」
「最近君がずっと施設を開けているのもそれが理由か?」
「違うわよっ!」
レオナが必死に否定の声を上げるが、食堂婦の一人が「そうそう、胡散臭そうな人だったよ」と言うから、彼らの不信感は余計に煽られるばかりだ。
レオナはその食堂婦を睨み付けた。ロマンの高校時代の友人ヤーツェクが訪れたときに彼女は出くわしていたが、あのときロマンがオプシルナーヤ人ではないことはレオナがちゃんと言ったはずだ。
なのに一体どこからそんな疑問が湧き起こったのか。彼らにとって東フィンベリーの人間と繋がりがあれば、ロマンの今までも一切抜きに嫌悪の対象になってしまうのだろうか。
レオナは何度も否を唱えるが、職員達はみんなロマンを不審の目で見るばかりで、誰一人としてレオナをまともに相手にしようとはしなかった。
やがて館長が言いづらそうにしながら言った。
「ロマン、君にはとても世話になっているし、もちろん君が悪いことに関わっているとは思いたくない。君にも事情があるとは分かっている。しかしこちらも厄介事は持ち込まれたくないんだよ。分かってくれるだろう? だからロマン、」
「待って、館長!」
その後に続くであろう言葉を聞きたくなくて、レオナは一際大きな声で遮ろうとした。
しかし彼女の制止も空しく、館長はその一言を放ってしまった。
「出て行ってくれないか」
瞬間、辺りはしんと静まりかえった。
レオナは絶望的な気持ちで職員達とロマンを見た。ロマンを見る館長の目も職員達の目も、異論は一切認めないと語っていた。
ロマンは力なく微笑んだ。
彼は腰を折り、深々と頭を下げる。
「今までお世話になりました」
それだけ言うと、彼は足元に転がっていた二つのバッグを取って、施設の門から出て行った。
――嘘でしょ……?
去りゆく彼の背中を、レオナは信じられない気持ちで眺めていた。
そうしていると、屋内に戻ろうとする職員達の話し声が耳に入ってきた。
「まさかあのロマンが」
「人は見かけによらないねえ」
「いいや、ロマンもどこか胡散臭い気がしていたんだ」
「あれだけブランカに入れ込むくらいだしな」
少なくとも二週間前、レオナがロゼへ経つ時までは、ロマンに対して不審な目を向ける人はいなかった。もしかするとレオナが知らないだけだったにしても、彼を施設から追い出すほどのことなんて、一切無いはずだ。
それなのに、どうして彼がこんな言われようのな言いがかりを付けられて、こんな仕打ちを受けなければならないのか。
「レオナ、残念だけれど、彼のことは忘れて――」
「うるさい!」
余計な言葉で彼女を宥めようとする母の手を、レオナは乱暴に振り払った。
「何でよ! 一体ロマンが何をしたって言うの! 何でそんな薄情に彼を追い出せるの!? 何一つ彼のことを知らないくせに!!」
レオナはヒステリックに叫ぶと、施設を飛び出しロマンの後を追った。
こんなのはあんまりだ。
彼はただメルジェーク出身なだけだ。それ以外に怪しいところなんて一切無い。
彼はただ人よりも優しいだけだ。自分が施設に連れてきた子を人より気に掛けていただけだ。
それがそんなにおかしいことだろうか? 彼が一体どんな気持ちで故郷から遠く離れたこの地に居続けたのかも知らないくせに。
数時間前、列車で見せたロマンの姿が脳裏をよぎる。レオナは悔しくて仕方がなかった。
泣きそうになりながら、レオナは必死にロマンを追い掛ける。
ロマンが施設を出て行ってからまだ五分も経っていないのに、彼は既に大通りに出ていた。何故か彼の周りに少し前に施設を出発していたはずのブラッドロー兵がいたが、レオナは構わず彼を呼び止めた。
「待ってよ! ロマン!!」
レオナは力の限りの大声で叫んだ。
町の人もブラッドロー兵たちもこちらを向くが、レオナにはどうでもいい。
ちょうどタクシーを呼び止めたばかりの彼は、扉を開けて乗車を促すブラッドロー兵を差し置いて、レオナを振り返った。レオナは全速力で彼の元へ駆け寄った。
せっかく止められたって言うのに、あまりに息切れがひどくて、何か喋ろうにもすぐに言葉が出てこない。レオナは彼の服をぎゅっと掴みながら、自分の呼吸を整えた。
すると、ロマンがふっと笑った。
「そんなに必死になって追い掛けてきてくれたんだね、ありがとう」
そう言って頭を撫でてくる彼を、レオナはキッと睨み付けた。
「あったり前じゃない! 何でそんな素直に従うの! みんな言いたい放題言ってるだけじゃない! 何で……っ!」
「うん、本当にそうだね」
ロマンは一切の不満も悲しみも漏らすことなく、レオナの怒りに優しく笑って頷いた。列車の中の様子とは一転していつも通りの柔らかい表情を浮かべる彼に、レオナは余計に泣きたくなった。
レオナはロマンの腕を無理矢理引っ張った。
「ねえ、戻りましょう? ロマンもちゃんと説明しないからダメなのよ。戻って事情を説明すれば、みんなきっと――」
「うん。でも、ごめん」
ロマンは、しかしレオナの手を離した。
レオナは絶望的な気持ちで彼を見上げた。
何となく吹っ切れた様子は、まるで彼がこうなることを予想していたかのようにレオナには思えた。それどころか、彼の空色の瞳は、どこか心を決めたような色を浮かべていた。
レオナはロマンの後ろにいるブラッドロー兵をちらりと見て、そして彼を見上げた。
「どこに……行くつもりなの?」
掠れる声で、レオナは尋ねた。
何となく、彼が遠くの地へ旅立っていくような気がしてならなかった。
ロマンは困ったように笑いながら首を横に振った。
「ダムブルクには、帰ってくる?」
レオナは再度尋ねた。
何となく、これから彼が危険なことに関わる気がしてならなかった。
だけどロマンはこれにも困ったように笑いながら首を傾げた。
「もうここには僕の帰る場所はなくなってしまったけれどね」
「それならあたしが作る!」
「え?」
少しだけ悲しみを滲ませて言う彼に、気が付けばレオナはそんなことを口走っていた。
目を丸くするロマンに構わず、レオナはそのまま続けた。
「ロマンがちゃんとここに戻って来られるように、あたし、用意しておくわ! これまで稼いだお金もあるし、ちゃんと自立して、施設の外に住まいを構えるの。ロマンは安心してそこに帰ってくればいいのよ」
ロマンを引き止めることに必死になりすぎて、レオナは自分が何を言っているのか分かっていなかった。だから彼が何故きょとんとした瞳を向けてくるのか、レオナには不思議だった。
ロマンは数回瞬きをすると、ぷっと堪えきれなくなったかのように突然笑い出した。
「あははははは、まさかそんなことを言われるとは」
「ちょっと! 何で笑うの!」
「何でってレオナ、そういうことはちゃんと意中の人に言うべきだよ」
「いちゅ……っ!?」
言われてレオナは自分の発言の重大さにようやく気が付いた。あまりに必死すぎたとは言え、これではまるでプロポーズみたいではないか。もちろんレオナはそんなつもりは一切無かったので、自分の発言に恥ずかしくなる。穴があったら入りたい気分だ。
「もう、いいわよ。人が必死になってるっていうのにそうやって笑うんだから。ロマンなんてどこへでも行ったらいいわ」
未だにロマンが目に涙を溜めるほどに笑っているので、レオナはふんっとへそを曲げて彼に背を向けた。
だけど突然腰を引かれ、いつの間にかレオナはロマンの腕の中に閉じこめられていた。
背中越しに、彼の体温を感じる。
列車の中でそうしたようにロマンはレオナの肩に顔を埋めると、耳元で小さく言った。
「今までありがとう。君の明るさに救われた」
そうして彼はレオナのこめかみに一つ口づけを落とすと、そっと身体を離して待たしていたタクシーに乗り込んでいった。
間もなくタクシーが発車するのに、レオナは振り返るどころか身動きすら出来ないでいた。
車の音が遠ざかるにつれて、一つ、二つと涙がこぼれ落ち、気が付けば次から次へと溢れ出てきた。
レオナの世界は一日にして変わってしまった。
一番に気に掛けていたブランカは、生死の分からない状況に陥ってしまった。正体がクラウディア・ダールベルクだったのだとしても、あんなにひどい言葉を浴びせたまま別れることになるのは、とても耐えられるものではなかった。せめて、彼女の言い分だけでも聞いてあげれば良かった。
一番に頼りにしていたロマンは、施設を追い出されて、たった今レオナの前を去っていってしまった。ようやく彼の本音に触れられたと思っていたのに、まるでこれが今生の別れかのような言葉を残して、どこかへ行ってしまった。こんなときになって彼のことが好きだったのだと自覚するとは、なんとも皮肉なことだ。
レオナの世界に当たり前のようにいた二人が、突然そこからいなくなってしまった。
失ってから襲いかかってきた悲しみに、レオナは何時間もずっとその場で泣き続けていた。
第三章 完
思えば2章8話からたった二日しか時間が経過していないことに気が付きました。




