8.手負いの二人
薄暗い森の中を、二人は死にものぐるいで走っていた。
否、ブランカはヴォルフに引っ張られるままに必死に足を動かしていた。
ここが一体どこで今が一体いつなのか分からないし、この森を抜けたところで彼らの安全が守られる場所などどこにもないのかもしれない。
ただ分かっていることと言えば、彼らが西へ向かっているということと、朝日が昇って間もないということ。
そして彼らが追われているということだ。追っ手の気配はまだ近くにはないが、オプシルナーヤ軍の一部隊がこの森に入るのを、つい先ほど高台から目撃した。もしかすると先発隊もいるかもしれない。
もはや一刻の猶予も彼らには与えられていないのだ。
倒れた木々を飛び越え岩を登り、ぬかるみにはまりながらも二人は無心に走り続ける。
限界などとっくに過ぎていた。
地面から剥き出す木の根を超えようとしたとき、ヴォルフの片手がガクリと下がった。ブランカが足を十分に上げられないまま、地面に倒れ込んでしまっていた。
「ごめん……っなさいっ!」
「いいから早く立て! グズグズするな!」
「今すぐに……!」
ヴォルフは腕を引いて無理矢理ブランカを立たせようとするが、膝まで浮いたところで彼女の身体は再び崩れ落ちた。地面に突っ張った腕も震えていて、明らかに力が入っていない状態だ。息切れも相当ひどい。
ヴォルフは大きく舌打ちをすると、ブランカの身体を右肩に担ぎ上げた。
「えっヴォルフ!? 待っ――」
「騒ぐな。大人しくしていろ」
「でも……っ」
「いいから黙ってろ!」
ブランカの抗議に構わず、ヴォルフは再び走り出した。状況は更に厳しくなったが、ブランカがここまで付いて来られただけでも奇跡と言えよう。
そもそも彼女は昨夜の時点でひどい有様だった。ダール狩りによるものなのか何なのかは結局ヴォルフには分からないが、服から見えている部位だけでも擦り傷や打撲痕だらけで昨夜はよろけるほどだった。
ただでさえそんな状態だったというのに、列車から飛び降りたのだ。車体の傾きを利用したとは言え、結構な高さだったし爆風で飛ばされもしたので、地面を転がったときに受けたダメージは相当大きい。ブランカの手足はもはや地の色が見えないくらいに青黒くなっていた。
まともに走れるわけがなかったのだ――というのは、ブランカに限った話ではないが。
「ヴォルフ! 下ろして! 私、まだ走れる!!」
「うるさい! 怪我人は大人しくしとけ!」
「あなたの方が重傷じゃない!」
尚も抗議の声を上げるブランカに、ヴォルフは「うるさい」と声にならない声で言う。
実際ヴォルフもかなりきつい状態だった。
ブランカを担いでいない方の左肩からは、赤い血が流れ出ていた。列車上でオプシルナーヤ兵に撃たれた箇所だ。ここに来るまでの間に一度止血はしたものの、既に布を真っ赤に染めるほどに血が滲み出ている。列車から飛び降りたときの傷だけだったらまだ何とかなっていただろうが、刺すような鋭い痛みに頭がどうにかなりそうだった。
案の定、ヴォルフの注意は散漫していた。追っ手の気配を気にして逃げることばかりを考えていたため、足元の確認がおろそかになっていたのだ。
落ち葉の厚く重なったところへ足を下ろした途端、足下が大きく崩れた。そこから急な斜面になっていて、ヴォルフは前方へと足を掬われた。咄嗟にブランカを抱え直しながら、落ち葉と共に斜面を滑っていく。地面の小石や岩肌が、ヴォルフの背中を更に痛めつけた。
そうしてすぐに前方に立ちふさがる大木へとぶつかった。ヴォルフは弾かれるようにして地面に転がり、その上を覆うようにブランカが倒れ込んだ。いち早く立たなければならないのに、積もる傷の痛みは二人の身体を更に鈍らせていた。
「……川が近くなった」
ヴォルフの上で身じろぎしながらブランカが言った。
「それがどうした」
ヴォルフはさして興味もなさそうに返した。
確かに彼らのすぐ近くから、川の流れる音が響いていた。その存在は少し前から認識していたが、斜面を滑ったことによってより近くなったのだろう。ただそれだけのことだ。
ヴォルフは起き上がると、何か言いたげな様子のブランカを無理矢理右肩に担ぎ上げた。怪我をしていない方とはいえ、肩に掛かる比重に左側の痛みが更に増す。ヴォルフは全身の力を奮い立たせながら、再び足を踏み出した。
しかしそのとき。
人の声が聞こえてきた。
よく耳を澄まさないと分からないほど微かな音量で、話している内容も全く聞こえない。どうやらまだ十分に遠くにいるようだが、今の状態ではすぐにその距離を詰められてしまうだろう。
――どうする?
逡巡しながらヴォルフがもう一歩踏み出したとき、ブランカが彼の肩を叩いた。振り向けば、彼女は川の方を指差していた。
「だから川が何なんだよ。いい加減にしろよ。ふざけてんのか!?」
「違う! あそこ! 隠れられないかしら」
言われてヴォルフは再びブランカの指す方を振り返った。胡乱げに細められた彼の瞳は、ハッと見開かれる。考えるよりも先に足が動き出す。
今いたところより数十メートル先にある滝の傍でヴォルフはブランカを降ろし、慎重に且つ急いで岩を降りる。それほど大きくはないその滝の中流付近まで降りると、岩と岩が重なって出来た空洞に二人は忍び込んだ。人間二人が入って僅かに身動きがとれる程度の広さだ。傾斜の陰に隠れるし草や木の葉が上面を覆うため、よくよく観察してみないと気が付きにくい。この場を凌ぐには悪くない選択だった。
ブランカを奥に押し込み少しでも入り口から距離を取ろうとしていると、いよいよ人の話し声が鮮明に聞こえてきた。
「つーか爆発事故の後でこんなところまで逃げて来れるものなのかね?」
「実際難しいと思う。件の女の子も元々怪我人だったらしいし、誘拐したって言うアジェンダ人も銃で撃たれているそうじゃないか。そもそも何処かで焼け死んでいる可能性だって十分にあり得る」
近づいてきたのはヘルデンズ語を話す二人組だ。オプシルナーヤに動かされている地元基地のヘルデンズ兵か、あるいはオプシルナーヤ軍に入れられたヘルデンズ人か。いずれにせよ油断の出来ない相手には違いない。
話し声と足音は、徐々に大きくなってくる。
「アジェンダなんてまだ存在していたんだな。滅んだものだと思っていたよ」
「お前が知らないだけだろう。北の方に行けば結構うじゃうじゃいるぜ」
「マジかよ。本当にゴミみたいな連中だな」
当然のようにアジェンダ人を罵る言葉に、ヴォルフは息を飲む。こんな風に言われるのは珍しいことではないが、まさかこの時代においてヘルデンズ人の口からそんな言葉が出てくるとは思いもしなかった。あの恐ろしいアジェンダ狩りを肯定する輩が、今も尚この国には多く残っているのだろうか。
頭をよぎる考えに、失望と苛立ちが湧いてくる。
「そんなゴミみたいな奴に、しかもブラッドローなんかにせっかく再会した一人娘を攫われるなんて、アメルハウザー大佐もお気の毒だよな」
出て来た単語に、ヴォルフはちらりと隣を盗み見る。未だ泥や煤で汚れているが、ブランカの顔が蒼白になっているのはすぐに見て取れた。小さく縮こませた身体が小刻みに震えていて、今にも物音が立ちそうだった。
「おい、じっとしろ」
ヴォルフが小声で窘めるが、ブランカの震えは一向に止まる気配を見せない。
そうしているうちに、男達の声がすぐそこまで近づいてきた。
ヴォルフは口の中で小さく舌打ちをすると、彼女の震えを無理矢理抑え付けるかの如く、彼女の身体を引き寄せきつく自身へと押さえ込む。
「あーあ。大佐の娘が一緒じゃなければこの森も燃やしてしまえるのにな」
「何だよそれ。大佐がダールベルクの孫を焼き殺したことを言っているのか?」
「ああ、まあな。そのときも、もしかするとこんな感じだったのかなと思ってさ」
軽い調子で二人がケラケラ笑い飛ばすごとに、ブランカはぎゅっと身を固くした。震えが更に大きくなっているのが伝わってくる。
いい気味、なのかもしれない。
こんな風に五年前のことを揶揄され、昔を彷彿とさせるような言葉に恐れおののいて。散々アジェンダ人を虐げ駆逐しようとしたあの男の孫が、復讐したくて堪らなかった仇が、こうして目の前で恐怖の淵に落とされている。ある意味胸の空く状況ではあるだろう。
しかし、そう思うには何かが胸に痞える気がした。左肩の傷が、余計に痛む。
「ま、アジェンダ一匹捕らえるために森を燃やすのもバカみたいだけどな」
「ハッハ。言えてる」
二人はそのまま傍を通り過ぎ、更に先の道へと歩いていく。次第に声と足音は遠ざかり、しばらくして二人の声は聞こえなくなった。
他に足音や話し声は聞こえない。
「行ったか……?」
ヴォルフはそっとブランカの身体を離し、慎重に空洞の入り口から外に出た。岩場の陰から辺りの様子を伺うが、人の気配はどこにも感じられなかった。
とは言え、すぐに動くことは危険だ。同じ部隊の人間がまだ近くをうろついている可能性も十分にあるし、二人とも逃げ切る体力は残っていない。しばらくここで身体を休ませた方が良いだろう。
ヴォルフがそう結論づけて空洞に戻ろうとしたとき、ビリッと布が破れる音がした。ぎょっとしてそちらへ目を向ければ、ブランカがスカートの裾を引き裂いて、破れた布を川に浸していた。
「おい、何している! 隠れてろよ!」
「でも止血しないと死んでしまいます!」
「死なねえよ! おい! 待て!」
一体その身体のどこにそんな力があるのか、ブランカはヴォルフの身体を引っ張り空洞に押し入れると、勢いよく彼の服を剥ぎ取った。
左肩の銃創を映す深緑色の瞳が、悲しげに大きく揺れた。
血で汚れたそこへ、ブランカは濡らした布を当てていく。水の冷たさが傷口にひどく浸みて、ヴォルフは喉の奥で唸った。
「ごめんなさい。浸みる?」
「いい。気にすんな。続けろ」
ブランカは不安げにヴォルフを伺いながら、慎重に傷口を拭っていく。その手つきはぎこちなく、正直ヴォルフが自分でやった方が早いのではないかと思えるほどだ。しかし、まるで彼を気遣うかのような手つきを、何故かヴォルフは振り払うことが出来なかった。
――これが、クラウディア・ダールベルク。
昨夜彼女の正体が明らかになってからというもの、事態があまりに急変しすぎたせいで、落ち着いてその事実を考えている間もなかった。ここに来てようやくその時間が出来たのである。
――こいつは今、一体何を考えている?
プラチナブロンドの髪に薄萌葱色の瞳の少女を頭に浮かべながら、ヴォルフはまじまじと彼女を観察する。
彼女は色素の沈着した深緑色の瞳にヴォルフの銃創を焼き付けながら、ぽつりと言った。
「あの……ありがとうございます。助けていただいて……」
その声があまりにか細く、またヴォルフがあまりに穿った目で彼女を見ていたため、彼女が何を言ったのかヴォルフは理解するのに少々時間が掛かってしまった。
色々とばつが悪すぎて、ヴォルフはふっとブランカから顔を背けた。
「別に。俺もこれが任務だからやっているだけだ」
「任務……」
呆然と復唱する彼女に、よく分からない苛立ちが無性に湧いてくる。
ヴォルフは荒々しくため息を吐きながら、付け加えた。
「昨日言わなかったか? お前はブラッドローにとって重要な人物なんだ。そのために俺たちはフラウジュペイに来てずっと探していた。やっと見つけたっていうのに攫われるから、こうして連れ戻しに来たまでだ」
ただそれだけだ。
ヴォルフは一気にまくし立てて、最後に自分にそう言い聞かせた。どこか言い訳めいた言い方になって、更にばつの悪さを感じる。
眉間に皺を寄せながらブランカの方を見ると、彼女は一瞬だけ驚いたように瞠目した瞳でヴォルフを見上げ、そして伏し目がちに傷口の方へ視線を戻した。
「よく分からないけれど、その任務の目的は、もしかしてオプシルナーヤも同じ……?」
僅かに震えた声で、彼女は尋ねてきた。状況が状況なだけに、流石に彼女も察したのだろう。
ヴォルフが低く頷くと、ブランカは細めた瞳に落胆の色を映した。いや、絶望と表現した方が正しいか。とにかく何の光も映していなかった。
ブランカは一通りヴォルフの傷口を拭い終わると、一旦布類をゆすぎに空洞の入り口へと向かった。元々小さかった彼女の背中は、より一層小さく見える。つい先程ヴォルフを空洞に押し込んでいた頼もしさは、今は欠片も見えなかった。
オプシルナーヤのことを聞いて彼女がこんな風に悲しみの色を露わにするのには、ヴォルフは心当たりあった。
「ギュンター・アメルハウザーは、お前の父親なのか?」
僅かな逡巡の後、ヴォルフは尋ねた。
列車の中でオプシルナーヤ兵がそんなことを話していた。さっき通っていったヘルデンズ人も。それは彼女がクラウディア・ダールベルクであることを隠すための方便だとヴォルフは考えていたが、どうにも今の様子を見ると、嘘ではない気がしてきた。
ブランカは布を絞って振り返ると、伏し目がちのまま小さく頷いた。




