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魔拳、狂ひて  作者: 武田道志郎
第二話『構え太刀』
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構え太刀 八(完)

※この話は「構え太刀 七」の続きとなっております。初めて読まれる方は、「構え太刀 一」からお読みください。

「……ッ」

 ──空気が急速に張りつめていく。

 双方が発する殺気が、辺りに充満していた。

 衛は、構えたまま全く動かない。

 三兄弟もまた、その場に佇んだまま、全く動かなかった。


 ──否。一人だけ、微かな動きを見せる者がいた。

 剣次郎である。

 彼は今、全身をぶるぶると震わせていた。

 恐怖から来る震えでもなければ、武者震いでもない。

 怒りから来る震えであった。

 衛の挑発により、剣次郎の腸は熱く煮えたぎり、爆発寸前であった。


「……こンの……クソガキがァ……」

 剣次郎の口から、小さな声が漏れる。

 もはや、我慢の限界であった。


 ──次の瞬間、剣次郎が素早く動いた。

「……調子こいてんじゃねェぞコラ……その口なますにしてやらァァァァッ!!」

 咆哮と共に、目を血走らせながら疾走する。

 衛との間合いを一気に詰め、左小太刀で斬り掛かった。


「──!」

 衛はそれを、ギリギリまで引き付け回避する。

 続けて右小太刀の強襲。

 これもしっかりと引き付け回避。

「オラ避けんじゃねェよクソガキがァァァァッ!!」

 剣次郎が吠え、両の小太刀で何度も斬り掛かる。

 衛はそれらの斬撃を冷静に見極めながら、ギリギリまで引き付けて避けていく。


「ッ……!」

 ──突如、衛が右掌を放った。

「な──」

 小太刀を振り下ろす剣次郎の右手に直撃。

 右手の後から襲ってくる左手にも、左掌を叩き込む。

 左右の手が外へ弾かれ──剣次郎の正中線に隙が生まれた。


「しまっ──がッ!?」

 がら空きの口元を目掛け、衛の強烈な右フックが叩き込まれる。

 剣次郎の体が、錐揉みをしながら横に吹き飛んだ。


 それに代わるように、ダンプカーのような巨体が衛を目掛けて突進する。剣三郎である。

「小僧め!! 俺の怪力を受けて肉塊と化すがいい!!」

 怒号を発しながら、剣三郎が大太刀を振り下ろす。

 凄まじい勢いであった。

 掠めただけでミンチになりそうな程、殺意に塗れた一撃であった。


 ──だがその斬撃を、衛は最小限の動きで避ける。

 その回避動作から続けて、左直拳を水月に打ち込んだ。

「が……!」

 弾丸の如き速度の拳を受け、剣三郎の口から呼気が絞り出される。


 しかし、衛の打撃は単発では終わらなかった。

 二打目による追撃。

 三撃。

 四撃。

 五撃。

 六撃目を放った所で、衛の打撃が止む。

「あ……ぐ……が……」

 拳撃による鈍痛を堪えながら、よろよろと後退る剣三郎。

 衛のストレートパンチの連打によって、正中線上の急所を正確に打ち抜かれていた。



「ぐ……ゥ……!」

 剣三郎が跪き、呼吸を整える。

 その頭上を飛び越え、衛との間合いを詰める影が見えた。

 剣一郎である。

「チィィィィィッ!!」

 着地後、一瞬で衛の懐に飛び込む。

 そして、太刀で一文字の形で斬り込んだ。

「せいッ!」

 衛が一歩飛びのき、すれすれの所で回避する。


 避けられたと分かった瞬間、剣一郎が猛攻を開始した。

「──っ!」

 凄まじい勢いで放たれる連続切り。

 高威力、高速度、尚且つ正確無比な斬撃の嵐が、次々に衛を襲う。

 衛は呼吸を止め、それらを回避する。

 避けられそうにない斬撃には掌を放ち、刀の平地を打って逸らしていく。


 ──その最中、不意に衛が地面を蹴り上げた。

「フンッ──!」

 剣一郎を狙った蹴りではない。地面を擦り上げるような蹴りである。

 その蹴りによって、地面に転がっていた砂利が宙に巻き上がる。そして、斬撃を放った直後の剣一郎の顔に向かって飛んでいく。

「……!? ぐっ──」

 目に入ることを恐れ、左腕で顔を覆う剣一郎。


 ──その隙を狙い、衛が懐に飛び込む。

 がら空きの腹部目掛けて、前蹴りを放った。

「シッ!!」

「ぬぅっ──!」

 腹筋に力を込め、剣一郎が耐える。

 内臓へのダメージは防ぐことは出来たが、凄まじい蹴りの威力を消すことが出来ず、思わず後方へ後退った。


「ッ!!」

 すかさず、衛が追撃を加えるべく踏み込もうとする。

 その時、剣一郎の後方から、怒号が飛び込んでくる。

「ンの野郎ォォォォッ!!」

「くたばれぃッ!!」

 剣次郎、剣三郎であった。

 兄への追撃を阻止すべく、その場で息を整えている剣一郎を追い抜き、二つの影が衛へと迫る。


「どりゃあああああああああああああっ!!」

 剣三郎が大太刀を振り下ろす。

 その平地に、衛が掌を当てて逸らす。


「死にやがれェェェェッ!!」

 続け様、剣次郎が斬り掛かる。


 小太刀が真横に振られるのに合わせ、衛がその場で低い姿勢を取る。

 斬撃を躱しながら回転し、剣次郎の足目掛けて水面蹴りを放った。


「な──ぐわっ!?」

 足を刈られ、剣次郎が転倒する。

 受け身を取り損ね、地面に頭を強かに打ち付けていた。


「っだ……がァ……」

 倒れたまま昏倒する剣次郎。

 衛はそれに目もくれず、剣三郎に向き直る。

 視界いっぱいに、大太刀を振り上げようとする巨漢の姿が映った。


「図に乗るな小童が!!」

 怒りに満ちた顔で、巨大な刀を天に掲げる剣三郎。

 衛の脳天目掛けて振り下ろそうとし──


「──な!?」

 ──直後、剣三郎が驚愕した。

 大太刀を振り下ろそうとしていた腕が、途中で止まっていた。

 否──遮られていた。

 衛が一瞬で懐に入り込み、刀を握っている剣三郎の腕を、両腕で受け止めていたのである。


「ばっ──馬鹿な──俺の一太刀を──!?」

 剣三郎には、目の前の人間が見せる力が信じられなかった。

 未だかつて、力比べで剣三郎の右に出る者はいなかったのである。

 それを衛は、いとも容易く受け止めて見せたのだ。


「……おい」

 衛は鬼の形相を向けて、剣三郎を煽った。

「どうしたデカいの。ご自慢の怪力とやらを見せてみろ」

「ぬぅぅっ……! こ、の、小童めがぁぁ……っ!!」

 衛の挑発を受け、剣三郎が更に激昂する。

 振り下ろす腕に、限界を超える力を込めていく。

 徐々に、衛の腕が剣三郎の力に押し負け始めた──その時であった。


「ッ……!」

 突如、衛が力の向きを逸らした。

「むおっ!?」

 腕に掛かる支えを失い、剣三郎がよろける。

 前傾姿勢になった剣三郎の顔に、衛が膝蹴りを放った。

「ぅおりゃあっ!!」

「うがッ!」

 鋼のような巨漢の鼻がへし折れ、鼻孔から血が噴き出した。


 衛は、そのまま首相撲の体勢を取る。

 そして、剣三郎の水月に連続で膝蹴りを叩き込んでいく。

 一発。

 二発。

 三発。

 四発ほど食らわせた所で、鼻血に塗れた剣三郎の口元目掛け、頭突きを放った。

「あがっ!?」

 前歯が砕け、口の中から鳴るジャラジャラとした音を耳にしながら、剣三郎が仰向けに倒れた。


「……ってて……んの……ガキ……!」

 昏倒状態から回復し、よろよろと立ち上がろうとする剣次郎。

 その腹部目掛けて、衛が蹴り込む。


「ぎゃッ!?」

 サッカーボールキックをまともに受け、剣次郎が再び転げる。

 腹を抑えたまま、その場で悶絶した。


 追撃を加えようとする衛。

 だが、背後から迫る殺気を感じ取り、そちらに目をやった。

「うおおおおおっ!!」

 咆哮と共に、衛へと間合いを詰める剣一郎の姿があった。

 一気に踏み込み、斬撃を放つ。

 それを衛は、飛び退きながら躱した。


「……」

 数歩離れた場所に着地する衛。

 ジャケットの左肩部分が、斬り裂かれていた。

 そこから除く衛の皮膚から、血が流れていた。

 燃えるような赤色であった。

 避けるタイミングが少しでも遅れていたら、出血していたのは腕ではなく、衛の首だったであろう。


 衛は、痛みに顔をしかめることもなく、剣一郎に言い放った。

「どうした。まだ俺は死んでねえぞ」

 その言葉に、剣一郎が歯軋りをする。

 仕留め損ねた屈辱が立てる音が、口の中から鳴り響いた。

「く……! 小僧ぉぉぉぉっ!!」

 再び咆哮を上げ、剣一郎が突進する。

 それに応じるように、衛も前へ踏み込んだ。


 凄まじい攻防であった。

 ──斬撃。

 ──回避。

 ──打撃。

 ──防御。

 ──その合間に混じる、気合いの掛け声。

 双方の一つ一つの行動に、凶悪な殺気が込められていた。


「ッ……! イヤァッ! カアァァッ!!」

 展開される激しい攻防の中を、必死に生き延びる剣一郎。

 その心の内に、徐々に動揺が生じつつあった。


 目の前の退魔師が放つ、強力無比な体術。

 その体から湧き出る、決して衰えぬ闘志。

 瞳の中に揺らめく、謎めいた炎。

 それらが恐怖の塊となって、剣一郎の心の中にじわじわと形成されつつあった。


 それを自覚した時、剣一郎の心の中に、カッと熱いものが込み上げてきた。

 これまで強者との闘いにおいて、一度たりとも感じた事のない、恐怖の感情。

 それを塗りつぶすように、煮えたぎるような怒りの感情が湧き出ていた。

 ──構え太刀三兄弟の長兄が。数多の剣士を屠り、屍の山を築いてきた恐るべき妖怪が。このような小柄な、それも素手の男に対して恐怖を感じている。

 その事実が、そしてその事実を受け入れようとしている己が許せなかった。


「うおおっ!!」

 剣一郎がやけくそ気味に刀を振る。

 眼前に迫る斬撃を、衛は回避する。

 その頬を、剣の切っ先が掠めた。

 一筋の切り傷が走り、血が流れる。

 それでも衛の顔には、動揺や驚愕といった感情は浮かぶ様子はなかった。

 ただただ、眼前の妖怪への殺意が具現化した、鬼気迫る表情を作り続けていた。


 目まぐるしい攻防の後、双方が飛び退く。

 互いに距離を取り、構え直した。

「おのれ……認めぬ……恐怖など……俺は認めぬぞ……!」

 刀を握る剣一郎の右手が、静かに震えている。

 その姿は、動揺を押し殺そうとしているようにしか見えなかった。


 やがて剣一郎は、自信を奮い立たせるように、こう言い放った。

「もはや手段は選ばん……!」

 そして、跪いている弟達に向けて声を発した。

 眼前の凶悪な退魔師を、確実に仕留める為に。


「お前達、俺に合わせろ!! 彼奴はこの場で八つ裂きにしてくれる!!」

 その声に応じ、弟達が力を振り絞る。

 両足で地面を踏みしめ、しっかりと立ち上がった。

「よっしゃ……任せろや兄貴……! 行くぜサブ!!」

「応!合点承知よ!!」


 ──三人が、衛の周囲を取り囲む。

 それぞれが構える得物の切っ先は、中心の衛へと向けられていた。

 三兄弟の必殺の陣形──『構え太刀の陣』。

 彼らが複数の剣士を相手にする戦の際に用いる陣形であった。

 此度の立ち合いの相手は衛一人であったが、この凶悪な退魔師を葬る為には、この陣形を用いるしかないと剣一郎は判断した。


「……」

 広いスタンスで構え、三人の様子を無言で警戒する衛。

 その両手が突如下げられ、棒立ちの状態となった。

 なぜ構えを解いたのか──剣一郎が訝しむ。

 対応する術がなくなり、死を覚悟したのであろうか──そう考えた。


 ──随分と大きい口を叩くものだと思っていたが、とうとう諦めたか。まあ、其処らの剣士達よりは楽しめたが──そう思い、剣一郎は口を吊り上げてニヤリと笑った。


 太刀を強く握り締める。

 己の妖気を高め、身体能力を限界まで引き出す。

 そして──

「行くぞ!!」

「「応!!」」

 ──威勢のいい掛け声と共に、三人が衛へと間合いを詰める。

 凄まじい速度で疾走し、各々が得物に殺意を込めた。

 剣三郎が大太刀を、剣次郎が左の小太刀を、そして剣一郎が己の太刀を振ろうとし──


「───っ!?」

 ──その時、剣一郎と衛の目が合った。

 衛の眼窩に収まった黒い瞳。

 その中に、奇妙な光が煌めく。


 ──剣一郎はかつて、この目を見たことがあった。

 遙か昔に死合った、強い力を秘めた剣士の目が、この光を宿していた。

 この剣士は、追いつめられた際に起死回生の一撃を放ち、剣一郎に痛手を負わせたのである。

 その剣士の目と同じく、衛の目には、ぞっとする程妖しい光が宿っていた。


「……!」

 剣一郎の背筋に、冷たいものが走る。

 反射的に太刀の動きを止め、弟達を制止した。


「いかん、待てお前達!!」

「え──」

「な──」

 時すでに遅し。

 次男と三男が放った斬撃は、衛の胴体へと到達しつつあった。

 刃は、空間を切り裂きながら真っ直ぐに進み――


「ッ!!」

 ──直後、辺りに甲高い音が響き渡った。

 一呼吸分遅れて、地面に何かがバラバラと散らばる音がした。


「あァ!?」

「ばっ……馬鹿な!?」

 剣次郎と剣三郎が驚愕する。

 音の正体は、刀の折れた音であった。

 剣次郎の左小太刀、剣三郎の大太刀が、衛の体に接触した瞬間に折れ、砕け散ったのである。


「わ、我が……愛刀が……!?」

「う、そ……だろ……そんな……」

 剣三郎はゆっくりと後退りながら、折れた大太刀を愕然と見つめる。

 剣次郎も同様の反応であった。

 三兄弟が持つ刀は、妖怪達の人智を超えた技術によって打たれた刀であった。

 誰を斬ろうと、何を斬ろうと、折れることはおろか刃こぼれ一つすることのない、正しく妖刀と呼ぶべき業物だったのである。

 それが一瞬の内に、意図もたやすく砕かれたのである。


 ──何故、二人の刀が破壊されたのか。

 その原因は、衛が刀に接触する際に用いた技にあった。


 鋼鎧功(こうがいこう)──体内の気を凝縮させ、一時的に肉体の硬度を鋼よりも高める技である。


 しかし、この技には、長時間使用すると、体力を大幅に消耗するというデメリットがある。

 その為、戦闘中、使用するタイミングを誤ったり、不用意に乱発したりすれば、その後の形勢が不利になってしまう。


 そこで衛は、三兄弟が同時に斬り掛かってくる瞬間に発動させるべく、鋼鎧功を温存し、待ち続けていたのである。

 そしてその結果、剣一郎の刀を折り損ねたものの、他の二人の刀を折り、敵の戦力を削ることに成功したのであった。


「な……何故だ……何故……!?」

 剣三郎はショックにより、放心状態となっていた。

 その隙に、衛が剣三郎に向かって踏み込む。


「いかん、逃げろ剣三郎!」

 長兄の鬼気迫る声。

 しかしその声は、呆然としている剣三郎の耳には届かなかった。

 気付いた時には、目と鼻の先に、衛の凄まじい形相があった。


「せいッ!!」

 衛の渾身の前蹴りが、がら空きになった剣三郎の腹に突き刺さる。

「が――!?」

 凄まじい威力により、剣三郎の体は宙に浮き、後方に吹き飛んだ。

 宙に浮いたまま、剣三郎が何度めかの驚愕を浮かべた。

 剣三郎の身の丈は二メートルを優に超え、体重は米俵三つ分はある。

 そんな巨体を、小柄な衛が軽々と蹴り飛ばして見せたのである。


「ぬ──ぐぅ──!?」

 よろめきながら、剣三郎が着地する。

 体勢を立て直しながら顔を前に向けた。

 するとそこに、再び急接近する衛の姿が映った。

 その時の衛は、野球の投球フォームの如く、右腕を大きく振りかぶっていた。


「でぃぃぃぃぃやッ!!」

 懐に潜り込み、衛が豪快に右肘を振り下ろす。

 その攻撃の照準は、剣三郎の右膝へと向けられていた。

「ぐぅっ!?」

 剣三郎が呻く。

 続け様、剣三郎の左膝目掛けて、衛が左肘を振り下ろす。

「オラァッ!!」

「がぁっ!?」

 野太い悲鳴を上げ、剣三郎が尻餅をつく。

 激痛を放っている両足に目を向ける。

 その瞬間、剣三郎の表情に絶望が浮かんだ。

 剣三郎の両膝が、逆向けに折れ曲がっていたのである。

 この足では、立ち上がることも出来ないであろう。


 地べたで無様にもがき続ける剣三郎を、衛が冷酷な目線で見下ろす。

「これで、怪力は使えなくなったな」

「なっ……お、おのれぇぇぇぇぇっ!!」

 恐怖と怒りの入り混じった声が、剣三郎の口から出る。

 そして座り込んだまま、折れた大太刀を必死にブンブンと振り回した。

 だが、僅かに残っている刃は、衛の体に触れることはおろか、掠ることさえなかった。


「シッ──」

 口から鋭い呼気を漏らし、衛が貫手を放つ。

 その標的は、剣三郎の太い首であった。

「が──こほ──」

 首に貫手が突き刺さり、剣三郎が間の抜けた声を漏らす。

 剣三郎の首に刺さっている右手を、衛はそのまま潜り込ませていく。

 そして肉の中から、ごつごつとした首の骨を探り当てた。

 衛はそれを握ると、強い握力を一瞬込め──

「フンッ!!」

「ごぼっ!?」

 ──器官ごと、剣三郎の頸椎を粉砕した。


「が──がぼ──ごぼっ──」

 剣三郎の口から、赤黒い血が溢れ出る。

 常人ならば即死しているところであったが、剣三郎の強靭な生命力が、この巨漢を辛うじて生に繋ぎ止めていた。


「……しぶとい奴め」

 その姿を、衛は蔑みの目線で見下ろした。

「くたばれ、ウスノロ野郎」

 そう告げると、剣三郎の首目掛け、強烈な右回し蹴りを叩き込んだ。


「ご──」

 凄まじい勢いで放たれた右足によって、剣三郎の首が引き千切られる。

 生首は真横に撥ね飛ばされると、地面に一度強烈にバウンド。

 そして、二度目のバウンドをする直前に、塵となって消滅した。

 遅れて、残っている剣三郎の首から下の巨体も、灰のように崩れて消え失せた。


「……まずは一匹」

 衛は、剣三郎の死を確認すると、残る2人に振り返った。

「次は誰だ」

 先程と寸分変わらぬ殺気を放ちながら、そう言った。


「お……のれ……貴様……よくも……!」

 剣一郎を包む怒気が、激しさを増す。

 弟を殺された怒りが、全身から吹き出していた。

 

 しかし、その傍らに──

「て、めェ……」

 ──剣一郎以上に怒りを露わにしている者がいた。

 剣次郎であった。


「てめェ……! てめぇ……!! てンめェェェェェェェェェェェェェェェェ!!」

 剣次郎は絶叫を上げながら、衛に向かって突進する。

「な……!? 迂闊だぞ、剣次郎!!」

「てめェ! てめェ! てめェッ!!」

 剣一郎が制止しようとするも、怒りに囚われた剣次郎はそのまま疾走する。

 そのまま衛との間合いを詰め、折れていない右の小太刀で斬り掛かった。


「てめェ! てめェ!! よくもサブをッ!! 俺の弟をォォォォッ!!」

 剣次郎の血走った両目から、熱い涙が迸っていた。

 剣三郎が惨殺されたことにより、頭に血が上り、冷静な判断がつかなくなっていた。


「くそっ、死ねッ、死ねェッ!!」

 剣次郎が無茶苦茶に小太刀を振り回す。

 それを衛は難なく避けていく。

 左小太刀を失っている上に、更に怒りで我を忘れた剣次郎の太刀を躱すのは、容易い事であった。


「……」

 衛は無言で躱し続ける。

 その顔に、若干の不快感が混じっていた。

「当たれ! 死ね!! クソッ、避けんじゃねェ!! クソッタレが、てめェだけは! 絶対にぶっ殺してやる!!」

 剣次郎は必死に斬撃を放つが、一向に衛の体に触れることが出来なかった。

 それでもなお、喚き声を上げながら、小太刀で斬り掛かっていく。


「……」

 衛の表情が、更に不快そうに歪んでいく。

 荒んだ目付きも一層鋭くなり、眼前でもがき続ける剣次郎を睨み続けていた。

 そんな目の前の退魔師の異変にも気付かず、剣次郎は斬撃を繰り出し続けていた。

「てめェだけはッ!! ズタズタにぶった斬って!! バラバラにして!! 徹底的に嬲り殺して──」


「ゴチャゴチャうるっせえんだよ!!」


 ──その時、衛の荒々しい一喝によって、剣次郎の罵声が遮られる。

 同時に右拳が放たれ、剣次郎の鼻骨が砕かれた。

「がぼッ!?」

 怯む剣次郎。

 その隙に衛は、剣次郎の左右の耳を、挟むように平手で打つ。

「──ッ!?」

 剣次郎の耳に走る、乾いた音と衝撃。

 一瞬、記憶が飛んだような錯覚が襲い、遅れて痛みと眩暈がやって来た。

「ぐ──うッ──」

 剣次郎は必死に眩暈を堪える。

 

 ──直後。

 剣次郎の視界いっぱいに、何かが接近している光景が映る。

 ──二本指であった。

 人差し指と中指を立てた衛の右手が、剣次郎目掛けて放たれていた。


「か、こ──」

 剣次郎が、滑稽な呻き声を漏らす。

 その両目に、衛の二本指が深々と突き刺さっていた。


「……」

 目に突き差した指を、衛は瞬時に引き抜く。

 右手の中には、先程まで剣次郎の眼窩に収まっていた、二つの血塗れの眼球があった。

「……フン」

 衛はその眼球に一瞥すらくれることなく──冷酷に、それを握り潰した。


「け……剣次郎……」

 唖然とした表情で、剣一郎が弟に声を掛ける。

「……」

 剣次郎は、その場に立ち竦んでいた。

 呆然とした表情で、空洞となった目から血涙を流しながら、そこに佇んでいた。


「……。……? 何だ……? 何が起こったんだ……?」

 不意に、剣次郎が呟いた。

 己の身に何が起こったのか、衛が自分に何をしたのか、彼には全く分かっていなかった。

「おい兄貴ィ……そこにいんのかァ……? 見えねェ……暗くて何も見えねェ! おい、何でこんなに静かなんだよ……!?」

「剣次郎!はやくそこを離れろ!」

 辺りを探るように、きょろきょろと頭を動かす剣次郎。

 そこに剣一郎が声を掛けるも、両耳の聴覚を失った彼には、その声は届かなかった。


「兄貴、そこにいンのか……!? あいつはどこだ……!? あのチビはどこに行きやがったんだ!?」

 暗闇と静寂に包まれ、見えない敵に狙われる感覚。

 際限なく溢れ出る絶望感。

 それらによって、剣次郎は恐怖に囚われていた。

 パニックに陥り、その場で滅茶苦茶に小太刀を振り回していた。


「くそッ……! どこだ……!? どこに行きやがったッ!? くそッ見えねェ!! どこだ、どこだッ、てめェはどこだッ!! どこだよッ!? どこに行きやがったァァァァァァッ!!」

 絶叫を上げる剣次郎。

 その右手に、衛が鋭い蹴りを放つ。

 剣次郎の小太刀が弾き飛ばされ、数メートル程先に転がった。


「もう喋るな。てめえの喚き声は耳障りだ」

 衛が冷ややかな声で呟く。

 今の剣次郎の耳が、何の音も捉えないことを知りながら。

 そして、剣次郎の両こめかみを、左右の手で掴んだ。


「や、止め──」

 叫びながら、剣一郎が駆け寄ろうとする。

 だが、その時既に──

「フンッ!!」

 ──衛は腕に力を込め、無慈悲に捻り回していた。


「こほ──」

 口から呼気を漏らしながら、剣次郎の首が一八〇度回転する。

 頸椎が、ごきりという音を立ててへし折られていた。


 衛が両手を放す。

 捩れて真後ろを向いていた剣次郎の首が、元の位置へ戻ろうとする。

 それを待つことなく、体はゆっくりと地面に崩れ落ち──消滅した。

「……これで二匹。残りはてめえだけだ」

 剣一郎に向かって、衛は簡潔にそう言った。

 ぞっとする程、冷たい表情であった。


「……貴様……!」

 震える声で、剣一郎が呟いた。

 その目はいつも以上に鋭く、狂気を孕んだ瞳をしていた。

 剣一郎は、怒りを必死に押し殺そうとしていた。

 少しでも気を抜けば、剣次郎の如く、怒りに身を任せて特攻しかねない程、その体には怒りが満ちていた。


「剣三郎のみならず……剣次郎までも虫けらのように……もはや許さん……!」

 剣一郎は静かに、ゆっくりと構える。

「……貴様は生かしては帰さん……この場で確実に斬り捨て、弟達への手向けとする……!」

「御託を並べるな」

 応じるように、衛も構える。

 どんな攻撃にも対応出来るよう、ゆとりを持った構えであった。

「死ぬのはお前だ。地獄で弟くん達が待ってるぞ」

「ほざけ……!」

 剣一郎が、怒りと共に、そう吐き捨てた。


 ──そのやり取りを最後に、辺りが静寂に包まれた。

「……」

「……」

 両者は構えたまま動かない。

 眼前を睨み付け、相手の出方を伺っていた。

 その中で、己はどう動けばいいのかを考えていた。

 ──相手がどう動き、こちらはどう対処するか。

 ──こちらが攻め、相手がどう返すか。

 そういったシミュレーションを、僅かな時間が経過する間にも、何十、何百と行っていた。


 辺りに風が吹き始める。

 木々が風に煽られ、枝と葉がざわざわと音を立てていた。

 揺れによって、枝の木の実がいくつか落ちる。

 音を立てて、地面に転がった。

 そういった周囲の変化を気にも留めず、両者はなおも睨み合っていた。


「……」

「……」

 殺気が込められた視線が、互いを突き差している。

 肌が焼け焦げる錯覚を、両者は感じていた。

 一際強い風が、その場に訪れる。

 羽虫や木の実を吹き飛ばす程の勢いを持った風が、両者の体を激しく叩きつけた。


 ──その時であった。

「キエエエエエエエエエエッ!!」

 剣一郎が動いた。

 斬撃を加えるべく、右足を踏み込む。

「──ッ!」

 同時に衛も動いていた。

 ステップインし、剣一郎の踏み込む足を蹴る。


「くっ……!」

 ストッピングを受け、剣一郎が体勢を崩す。

 そこに、衛が裏拳を放つ。

 人中を打たれ、剣一郎が後ろへよろけた。


「ぶッ、アアアアアアアアアアアアアア!!」

 しかし、すぐに体勢を整え、袈裟斬りを放った。

「チッ……!」

 衛は剣一郎の右側面に回りつつ、斬撃を躱す。

「せいッ!!」

 それを追うように、剣一郎が刃を返し、横薙ぎに一閃。

 衛はバックステップし回避。

 直撃は免れたものの、切っ先が右腕を掠めた。


「うおおおおおおおおおおおっ!!」

 剣一郎が咆哮。

 衛の心臓目掛け、突きを放った。

「──!」

 衛は、着地した直後に、右足で前に踏み込んだ。

 刀の平地部分に左掌を当て、軌道を逸らす。

 そして、余った右手で、拳を軽く握った。


 ──その拳に、赤い光が灯った。

 最初はかすかに──そして瞬時に、太陽の如く強い輝きとなり、丸い拳を包み込む。

 鮮血よりも赤い、恐ろしさを漂わせた拳であった。


 ──受け流した太刀が、通り過ぎていく。衛の右肩の横の辺りを、掠めることもなく。

 直後──鋭い咆哮と共に、衛が渾身の赤き拳を放った。

「イィィィィィィィヤアアアアアァァッ!!」

 禍々しさを湛えたその拳は、剣一郎目掛けて直進。更に、空間を抉り取るような凄まじい勢いで回転。

 そして──剣一郎の、右肋骨部に直撃した。


「ぐぅッ!?」

 うめき声を上げながら、剣一郎は苦悶の表情を浮かべた。何とか堪えようと、歯を食いしばり、意識を保つことを心掛けた。

 ──しかし、拳は止まらない。命中してもなお、ドリルの如く回転し、真っ直ぐ突き進む。

 柔らかく握られていたはずの拳は、直撃の瞬間、鋼鉄よりも硬く、強く握り込まれていた。

 深紅の拳による一撃は、剣一郎の肋骨をバキバキとへし折り、内臓を千切る苦痛を与えながら、体内へと潜り込んでいった。


 ──『烈光螺旋拳(れっこうらせんけん)』。

 それが、この凄まじい拳打の名であった。


「……」

 確実に敵の体内を破壊した事を、拳の感触から感じ取る。

 衛は無言で、打ち込んだ拳を素早く引き抜く。

 その拍子に、拳の赤き光は、蝋燭に灯っていた火が揺らぐかのように消え失せた。


「ん……ぐ……! ゲホッ! ゴボッ!!」

 咳き込むと同時に、剣一郎の口から血が吐き出される。吐血は一向に収まることなく、むしろ血の量は更に増していった。

「ごぼっ!! ゲホゴホッ……ぅっ……ゲエエ……ッ──」

 血反吐を周囲に撒き散らしながら、剣一郎は、どう、と背中から地面に倒れた。


「……」

 衛はその様子を、しばらく睨み付けていた。

 そして、剣一郎の砕けた肋骨部に膝を置き、身動き出来ないように圧をかけた。

「……! ゲホッガハッ!! ガアアアアアアアアアアアアアア……ッ!!」

 剣一郎は悶え苦しむが、衛の拘束から逃れることができない。彼に出来た唯一の抵抗は、衛に怒りと憎しみをぶつけることだけであった。


「グ……グッ……おのれ……おのれ魔拳……! 弟達の……仇……!!」

「……」

 剣一郎は血反吐を吐きながら罵り、衛に怒りに満ちた瞳を向ける。

 自らの骨が内臓に突き刺さり、引き裂いているのを感じていたが、それでも、憎悪の言葉を吐かずにはいられなかった。


「貴様……だけは……ゲホッ……絶対に、許さん……!」

「……」

 咳と共に血を飛ばしながらも、剣一郎は言葉を紡ぎ続ける。

 その姿を、衛は冷酷な眼差しで睨み続けていた。

「我が命……に……代えても……貴様、だけは……こ、の場で……八つ、裂きに──」


「黙れ」

 突如、衛が声を発し、剣一郎の言葉を遮った。

 静かだが、凄みのある声であった。

 その声に、思わず剣一郎は口を閉じ、衛の目を覗き込んでいた。


 その時──剣一郎の体が、ビクリと震えた。

「……っ!?」

 背筋に冷たいものが走る感覚と、胃の中のものが逆流しそうになる感覚が、剣一郎を襲った。

 ──剣一郎は、理解してしまった。

 衛の瞳に絶えることなく宿っていた炎。その正体を


 それは──憎悪であった。

 剣一郎の目に宿る怒りや憎しみを遙かに凌駕する、どす黒い憎悪の炎が、衛の黒い瞳の中から溢れんばかりに燃え上がっていたのである。


「お前に聞きたいことがある」

「な……何っ……?」

 衛の迫力に気圧され、剣一郎の声色に、若干の戸惑いが生じる。


「斉藤和江を知っているか」

「斉、藤……?」

 その問い掛けに、剣一郎は一瞬混乱する。

 初めて聞く名であった。

 そんな名前を持つ者知り合いなど、彼にはいなかった。


「誰だ……そいつは……そんな、ことを、聞いて……何に──ぐわッ!?」

 剣一郎の言葉は、彼自身の上げた呻き声に遮られる。

 衛の拳が、剣一郎の顔面に叩き込まれていた。


「知らないか。なら次の質問に移る。加藤明久を知っているか」

 再び衛が問い掛ける。その表情は、依然として冷酷なものであったが、その中に僅かに怒りが混じっていた。

「知らん……一体だ──ぐうっ!」

 そして再び、拳が叩き込まれる。


「分からないのか……? なら吉田孝太郎はどうだ……!?」

「知らん──ぁがっ!?」

 先程よりも鋭い拳が叩き込まれる。


「佐藤美知留は……!? 三上洋介は……!? 新庄明子は!?」

「げっ──ぐっ──げぁっ──!?」

 再び衛が拳を叩き込む。

 その拳打は、剣一郎の返答が終わる前に放たれていた。


「吉田真由美は! 加藤憲明は! 木村新二は!!」

 もはや、剣一郎の返答を待ってなどいなかった。

 ひたすら誰かの名を叫びながら、剣一郎の顔を殴りつけていた。

 時折、拳槌や肘打も交えながら、只々打撃を放っていた。


 そんな打撃の雨に晒されながら、剣一郎は混乱していた。

(何だ……!? こいつは一体、何を言っている……!? 誰の名を口にしているのだ!?)

 皮膚が裂け、血が噴き出す。

 流血により、剣一郎の顔が赤く染まっていた。


 それでもなお、衛は誰かの名を叫びながら、ひたすら殴り続けた。

「黒川慎吾!! 山本順平!! 東憲明!! 西村真由!! 磯山耕作!! 二階堂伸介!! 葉山佐友里!! 浅木竜二郎!!」

(そもそもこの男は本当に人間なのか……!? これまで我々は、数多の武人を葬ってきた……! その誰もが、何らかの執念や気迫を纏っていた……! だが、この男の気迫は……奴らが放っていたそれとは違う……!)

 剣一郎の脳裏を駆け巡る疑問。

 それも、機関銃の如く浴びせられる打撃の痛みによって、徐々に朦朧となり、薄れていった。

(この男は……この退魔師は……一体……何者……なのだ……!?)


 ──衛の殴打は、なおも続いていた。

 口から放たれる人名も、既に六十人目を超えていた。

 そして遂に、六十九人目の名前が唱えられた。

 同時に放たれた一撃を最後に、衛の拳打の雨が止む。

 衛は肩で息をしながらも、剣一郎を睨み続けていた。


「う……あ……が……」

 剣一郎が呻く。

 衛の拳打によって、今や彼の顔は、顔中の骨はひしゃげ、皮膚は腫れ上がり、所々が裂けていた。

 もはやその姿に、弟達の仇への怒りは感じられなかった。

 眼前で、憎悪の炎を燃やし続けている死神。

 それに対する、疑問と恐怖の感情で塗りつぶされていた。


「誰も知らねえのか──誰一人として分からねえのか──」

「……ぁ……が……」

 衛が呟く。

 怒りと憎悪で、声が震えていた。


「なら地獄への手土産に教えてやる──今挙げた名は──!」

「……ぃ……」

 衛がこれからしようとしている行動を、為す術もなく見つめる剣一郎。

 口を動かそうとするが、顎の骨や歯が折れており、上手く言葉を発することが出来なかった。


「この人達の名は──!」

「……っ……た……い……」

 衛が固く握り込んだ右拳を掲げる。

 爆発させまいと抑え込んでいる憎悪の感情が、微かに漏れ出しているかのように、その拳は大きく震えていた。


「貴様らが渋谷で惨たらしく殺した!!」

「……な……に……も…………の…………」

 衛はその右拳ただ一つに、全身に流れている抗体を凝縮させる。

 溜め込んでいる抗体によって、右拳が禍々しい赤光を放ち、炎のように揺らめいていた。


 そして──

「罪無き犠牲者達の名前だ!!」

 ──剣一郎の額を目掛け、咆哮と共に全身全霊、渾身の一撃を振り下ろした。


 ──その瞬間、周囲に凄まじい轟音が鳴り響いた。


9       

 ──辺りが、再び静寂に包まれる。

 剣一郎の頭の周りには、赤黒い血溜まりが広がっていた。

 衛が放った一撃は、剣一郎の頭蓋骨を、中に詰まった脳味噌ごと粉砕していた。

「……」

 断末魔の叫びを上げることもなく、剣一郎の体が何度か痙攣し、それっきり動かなくなる。

 それからゆっくりと、体がぐずぐずに崩れていき、塵となって消滅した。


「……はぁ……はぁ…………はぁ…………」

 ゆっくりと呼吸を整える。

 それから、己の右拳に目を向けた。

 赤黒い血に染まっている拳はまだ、先程殺した兄弟達へと怒りと憎しみで、静かに震えていた。


 その手をゆっくりと開きながら、ここに来るまでに会ってきた、犠牲者の遺族達の顔を思い出した。

 そして同時に、彼らが口にしていた言葉が、衛の耳に木霊した。


 ──彼らは皆、怒りや悲しみを湛えた表情をしながら、大切な人々の理不尽な死を嘆いていた。

 そして同時に、その人々を無残に殺した犯人に対し、決して届かない憎しみの言葉を呟いていた。

 その言葉は、片時も離れることなく、衛の耳にこびり付いていた。

 他の目撃者や遺族達の話を聞いて回っている時も。

 三兄弟の退治に向かう時も。

 生死を賭けた、死闘の最中にも。

 そして今、この瞬間も。


 惨劇を引き起こした凶悪な妖怪は、衛に完膚なきまでに叩きのめされ、消滅した。

 しかし、元凶にどれだけの苦痛を与えようとも、殺された人々は決して帰って来ない。

 失われた命は、日常は──決して甦ることはない。


「……」

 未だに震えが治まらない右手を、衛は再び固く握り込んだ。

「…………」

 衛はただ、己の右拳を見つめていた。その顔には、悲しみと虚しさが混ざったような、やるせない表情が浮かんでいた。

 拳の震えが止まっても、衛は拳を見つめたまま、しばらくその場に佇んでいた。


                             第2話 


 今回の投稿分をもって、「構え太刀」のエピソードは完結となります。

 次回からは新しいエピソードを投稿していく予定です。

 ちなみに次は、都市伝説として有名な「メリーさん」をモデルにした話を書いていこうかと考えています。

 投稿する日時は、現時点ではまだ決まっておりません。

 もしかしたら、投稿までに一月近く時間がかかるかもしれません。

 申し訳ございませんが、それまでもうしばらくお待ちください。

 それでは、ここまで読んで頂きありがとうございました。

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