滅掌の延慶 七
6
一体何が起こったのか―――正吉の頭に最初に浮かんだのは、そんな疑問であった。
確か自分は、目の前のフロックコートの男に斬り掛かった。
そして、身体をバラバラに斬り裂いて、自慢の爪を侮辱したことを後悔させてやろうとしていたはずだ―――正吉は、そう思っていた。
しかしその瞬間、信じられないことが起こった。
目の前の男が―――消えたのである。
そして次の瞬間、男の鋭い両目が、正吉の目と鼻の先に出現したのだ。
恐怖と動揺が、正吉の全身を駆け巡った。
それに続くように、全身に何かが叩き付けられる衝撃。
何かが砕けるような音。
そして―――気付いたときには、地面に倒れ伏していたのである。
苦痛に悶えながら、やっとの思いで立ち上がる正吉。
そして、再び自慢の爪を構えようとして―――
「・・・・・え?」
ようやく気付いた。
先程の、何かが砕けた音の正体に、正吉はようやく気付いた。
砕けたのは―――己の爪であった。
禍々しいほどの鋭さを持ち、幾多の獲物を殺傷してきた自慢の爪が、粉々に砕け散っていたのである。
「そん・・・な・・・」
正吉が、愕然とした表情を浮かべる。
「俺・・・の、つ、めが・・・俺の・・・自慢の・・・爪・・・が・・・!」
そう呟き、力なく膝をつく。
両目には、じわりと涙が滲んでいた。
「ハッ!なんとも脆い爪よ!貴様の安い誇りに相応しいわ!!」
その無様な姿を目にし、男が嘲笑する。
「だがしかし・・・この延慶に立ち向かってきたことだけは賞賛してやろう・・・!その誉を以て、安心して地獄に落ちるがいい・・・!」
「!?えんけ・・・!?」
その瞬間、正吉が両目を見開いた。
―――この男は、この妖怪は今、何と言った?
―――確か、延慶と言ったか?
「延慶・・・って、まさか・・・!?『滅掌の延慶』!?」
正吉の体が震え出す。
滅掌の延慶―――その名を、正吉は知っていた。
退魔師だけでなく、妖怪達の間でも伝説となっているその妖怪の名を、正吉は何度も耳にしたことがあった為、知っていた。
「フン、今更気付きおったか、この愚鈍めが・・・!」
口角を吊り上げたまま、延慶が正吉の傍に近寄る。
「安心するがいい。苦しまぬよう、一瞬で粉々にしてくれるわ・・・!」
そう言うと、延慶は右拳を天へと掲げる。
その一点に、妖気が収束し始めた。
凄まじいほどの妖気であった。
触れるだけで溶解してしまいそうなほどの熱量を帯びた、禍々しい妖気であった。
「ひっ、ひぃぃぃっ!!」
それを目の当たりにした瞬間、正吉の恐怖は頂点へと達していた。
全身の毛穴から汗を吹き出し、失禁しながら、正吉はパニックに陥っていた。
死にたくない。
こいつに殺されたくない。
何とかして生き延びたい―――正吉はそう思っていた。
そして、混乱している脳内を必死に動かし、何とか生き延びる為の術を見つけ出そうとした。
それが例えどんなに無様な手段だとしても、何とかしてこの場から生還しなければ───そう考えていると、昔耳にしたとある噂が甦った。
それは───『滅掌の延慶は、強敵との死闘を求めている』というものであった。
もしかしたら、この妖怪に強者についての情報を提供すれば、見逃してくれるのではないか───そう考えたのである。
「ま、待て、待ってくれよ!」
声を震わせながら、正吉が延慶に話し掛ける。
その声に、延慶は不愉快そうに顔を歪めた。
「何だ?命乞いなら聞かんぞ?」
「そ、そう言わずに話を聞いてくれよ!あんた、強い奴を探してるんじゃないか!?」
「・・・む?」
「知ってんだよ、強い奴!!最近噂になってる滅茶苦茶やべぇ奴だ!!あ、あんた、ここ最近姿をくらましてたらしいから、ひょっとしたら知らないんじゃねえかって思ってよ!!」
「・・・むぅ」
延慶が考え込むような表情をする。
どうやら、正吉の話に興味を示したらしい。
しばらくして、右拳から妖気の塊が霧散する。
そして掲げた右拳を下ろし───正吉に話し掛けた。
「・・・よかろう。話してみよ。もしつまらん話を聞かせたのならば、その瞬間に貴様をくびり殺してくれるわ」
「だ、大丈夫だって!!絶対気に入ると思うぜ!!」
正吉の心に、ほんの少し希望の光が灯る。
それに安堵しながら、正吉は語り始めた。
「じ、実はよ、最近、『魔拳』って呼ばれてる退魔師がいるんだ!」
「・・・魔拳?退魔師だと?」
「あ、ああ!!そいつ、妙な格闘技を使うみたいでよ、そこそこ強い妖怪共も、簡単に殴り殺してるらしいんだ!しかも、割とえげつない方法を使ってよ!あんた、構え太刀三兄弟って知ってっか!?」
「・・・?うむ。近頃、何者かに討たれたらしいな。中々の猛者であると聞いておったので、いつか立ち合いたいと思っておったが・・・」
「実は、そいつらを殺したのが、その魔拳なんだよ!」
「何・・・?」
「ひょっとしたら、あんたも気に入るんじゃねえか!?」
「・・・!」
延慶の眉が、ぴくりと動く。
目が僅かに丸くなっていた。
ほう、と吐息を漏らし───
「・・・・・く・・・・・く・・・・・」
それに続いて、妙な声が放たれた。
口の端を吊り上げ、その隙間から漏れている。
「・・・く・・・む・・・くく・・・!」
声が、徐々に大きくなっていく。
響きが、愉快さをまとったものへと変わっていく。
そして遂に───
「ムハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
夜の路地裏に、大きな笑い声が鳴り響いた。
天を仰いで笑いながら、延慶は高揚した表情を浮かべていた。
「面白い!堪らぬわ!!武心拳の使い手が現れたとは聞いておったが、そやつ以外にも面白い人間がおるとは!!現代も中々捨てたものではないな!!ムハハハハハハハハハハハハ!!」
きょとんとした表情で見つめてくる正吉の様子にも気付かず、延慶は笑い続ける。
全身から妖気が噴き出す。
それをまとい、天高く跳躍。
延慶の姿は見る見るうちに遠ざかり、夜の闇に紛れ───消え失せた。
後に残されたのは、その場で膝をついたままの正吉のみであった。
「・・・・・・・・・・」
正吉は呆然と、先程まで延慶が立っていた一点を見つめていた。
───助かった。
───生き延びることが出来た。
そう実感し───
「・・・・・・・は・・・・・はぁ・・・・・!!」
正吉は、全身から力が一気に抜けるのを感じた。
同時に、己の体を満たしていた恐怖の感情が、ゆっくりと溶けていった。
代わりに───強い憎悪が湧いて来た。
自身の爪を侮辱し、完全に打ち砕いた延慶に対して、激しい殺意が湧き出した。
「・・・滅掌・・・あの野郎・・・よくも・・・!!」
爪が折れ、歪な形となった右手を見つめながら、正吉が歯軋りをする。
鋭い両目から、熱い涙がぼろぼろと零れ落ちていく。
つめながにとっての爪は、自身を象徴するものであり、誇りでもある。
それを砕いた延慶を、許せるはずがなかった。
「覚えてやがれ・・・滅掌・・・!!」
よろよろと立ち上がり、歩き出す。
己が仕留めた浮浪者には目もくれず、ただ黙々と歩いていく。
その足が目指すのは、同族───つめながの仲間の下である。
延慶への復讐───今の正吉の中を満たしているのは、その意識のみであった。
次の投稿日は未定です。
【追記】
次は、月曜日の午前10時に投稿する予定です。




