夢幻指弾 四十二
33
「おおおッ!!」
野口は雄叫びを上げながら、乱入者に向かって突進した。
勢いを乗せ、丸太のような右腕を敵の顔をめがけて突き出す。
だが──剛拳は空を切った。
乱入者はギリギリまで拳を引き付けた後、こちらの一撃を躱したのである。
同時に──
「ッ、ご……!?」
──野口の鳩尾に、重い前蹴りがぶち込まれた。
野口の巨体が、後方へと吹き飛ぶ。
倒れないよう踏ん張り、辛うじて堪えた。
しかし、ダメージはまだ残っていた。
喉のあたりに、胃酸がせり上がってくる感覚があった。
その時──左大腿部に、衝撃が奔った。
「!?」
野口の呼吸が一瞬止まる。
筋肉に鈍痛が生じ、骨が軋む。
「シッ!」
「ぐッ!?」
再び、野口の脚に激痛が走った。
上体を駆け昇ってくる激痛と共に、吐き気が込み上げる。
野口はようやく、蹴りを食らったのだと気付いた。
──凄まじい威力である。
ローキックは今までに何度も受けたことがあるが、これほどまでに強いローは経験したことがない。
鞭よりもしなり、刀よりも鋭い蹴りである。
次の瞬間──
「ッ!?」
──己の顔面から、弾けるような音が鳴った。
鼻と、その奥に生じるツンと来る感覚。
直感で、ジャブを食らったのだと気付いた。
「ぶ──が!?」
もう一発──更にもう一発。
顔面に、何度も左拳が炸裂する。
凄まじいキレである。
その上、ジャブにしては一撃が重い。
まるでストレートの重み──否、それすらも生ぬるく感じるほどの威力である。
野口は困惑した。
敵は軽量級選手程度の体格しかない。
重量級の体格を持つ己に、小さい体躯の者の攻撃が通用するはずがない。
だというのに、なぜ己は、この小柄な敵の打撃で圧されているのか──そう思った。
「クソ……!」
このまま食らい続ければ、顔面の骨が砕けるか、脳が揺れて立ち上がれなくなる──野口は覚悟を決めた。
「ぐ、ッ……!」
野口は両腕を揃え、顔面の前に壁を作った。
いわゆる亀ガードである。
打撃の腕は、相手の方が上──ならばこちらは、投げと組みで立ち向かえばいい。
そもそも野口の得意分野は、打撃技ではなく組み技である。
打撃を得意とする相手に、わざわざ打撃で対抗する必要はない。
ガードを固め、相手の打撃を防ぎながら、むりやり組み技に持ち込む。
無論、ガードの際に両腕も相当なダメージを受けるに違いない。
しかし、肉を切らせて骨を断つしか、こちらに勝機はない。
野口は姿勢を低くし、乱入者にプレッシャーをかけるかの如く突進する。
その姿はさながら大型トレーラーの如し。
決してブレーキをかけることなく、眼前の通行人を圧殺せんと爆走する。
しかし──乱入者の体を押しつぶすことは出来なかった。
「……!」
乱入者は、野口が突っ込んでくるラインから逸れるようわずかに体を動かし、タックルをいなす。
「チッ……!」
躱された野口は、すぐに体勢を立て直し、再び体当たり。
だが、またしてもいなされる。
再びタックル──だが、三度いなされた。
それどころか──
「ぐっ!?」
──逆に、がら空きになった大腿部にローキックを見舞われた。
何度組み付こうとしても、ひらりと躱され、無力化される。
まるで、熟練の闘牛士を相手にしているかのような気分であった。
「クソがぁッ!!」
野口は激昂しながら、四度目のタックルを敢行した。
すると──乱入者は、今度は躱そうとしなかった。
それどころか、その場を動くことなく、姿勢を低くして待ち構えていた。
まるで、こちらを真正面から受け止めようとするかのように。
(ナメやがって!!)
野口の心の奥底から、煮えたぎるような感情が湧き上がる。
怒りのままに加速をかけ、今度こそ乱入者を仕留めようと突撃する。
その時──
「フンッ!!」
「え」
──野口の視界が大きく回転し──
「ッ、が──!?」
──背中に、とてつもない衝撃と激痛が走った。
コンクリートが剥き出しになった床に、背中を強かに打ち付けられていた。
「……っ……が……は……!」
野口は、己の肺から一気に空気がなくなったような錯覚を味わっていた。
呼吸が上手く出来ない。
眩暈もする。
(何をされた……!? 投げられたのか!? 俺が!?)
立ち上がろうとしながら、野口はようやく気付いた。
組み合おうとした瞬間、乱入者にその勢いを利用され、投げ飛ばされたのだと。
「立て!!」
「うお……!?」
その時、野口の胸倉を乱入者が左手で掴む。
そして、再度投げられる。
視界が揺れ動き──またしても背中に衝撃。
更に無理矢理引き起こされ、投げられて床に叩きつけられる。
──苦痛の中、野口は過去の出来事を思い出していた。
柔道部の練習で、体の小さい部員を、何度も投げていびっていた時の記憶を。
あの時、投げられていた奴らはこんな気分だったのだろうか──頭の片隅に、そんな考えが浮かんだ。
「ゴホッ……が、ゲホッ……! はぁ……はぁ……」
野口は全身の痛みに悶えながら、何とか体を起こし、四つん這いの姿勢になる。
そこで、また投げられるかもしれないと気付き、慌てて乱入者の姿を探した。
乱入者は──数歩分離れた場所にいた。
こちらを掴もうとはしていなかった。
ただ、野口を見ているのみであった。
「どうする。まだやるか」
そう言って仁王立ちしながら、野口を見下ろしていた。
明らかに体格の劣るこの乱入者の姿が、こちらよりも遥かに大きく見えた。
──そこで初めて、野口は気付いた。
乱入者の体の一ヵ所に、不自然な点があることに。
彼の全身は、鮮血血で赤く染まっていた。
サングラスの上にある額。
ジーンズに覆われた両脚と両膝。
黒いジャケットをまとった両腕と両肘。
そして、グローブで包んだ左手。
攻撃に用いた部位は、ペンキをぶちまけられたかの如く、返り血で真っ赤になっていた。
しかし──右手のみ、汚れていなかった。
本来なら、左手のように返り血で真っ赤になっていてもおかしくないというのに──右手のグローブのみ、不自然なほどに綺麗なままであった。
その意味に気付き──野口は畏怖と、激しい怒りを感じた。
──この乱入者は、右手を使わなかったのである。
この階に至るまで、無数の手下たちと乱闘を繰り広げたというのに、一度も右拳を攻撃に用いなかったのである。
「何で右を使わねえ!! ナメてんのかてめえ!!」
野口は立ち上がりながら怒鳴りつけた。
一方の乱入者は、ただ淡々と答えた。
「お前らに使うには勿体ねえ。そもそも俺の右は強すぎて食らったら死んじまうんだ。お前らみてえなカスをブッ殺して前科なんか持ちたくねえんだよ。だからハンデで使ってやってねえんだ。ありがたく思えよ」
「……ッ!」
野口は憎しみと恥辱に歯ぎしりをした。
行き場のない怒りがとめどなく溢れ出る。
歯を剥き出し、乱入者を睨みつけ──不意に、無表情になった。
そして、突然にやにやと下卑た笑みを浮かべ始めた。
「……ならせいぜい手加減しろや。こっからは本気で行ってやる。そんでてめえの全身の骨バキバキにへし折って、山ン中にでも埋めてやる」
「ああ、そうかよ」
「そんで、てめえを殺したらガキ共も始末してやる」
「……ああ?」
乱入者の声に、怒気が混じる。
静かだが、低くドスの効いた声。
かかった──野口はそう思い、更に口の端を吊り上げた。
「てめえが隠したガキ共を全員見つけ出して楽しんでやる。その後に売人どもに売り飛ばしてやる。どの道顔が割れてんだ。一匹残らず片付けてやるよ」
「……てめえ」
乱入者が、不愉快そうに口元を歪める。
そして、静かに構え直した。
左構えである。
固く握りしめた左拳が震え──その後ろに控えている右拳が、うずうずと動いていた。
「……そんなに死にてえなら本気でやってやるよ」
「殺すってか? やってみろよコラァ! パクられるのが恐ェくせにデカい口叩いてんじゃねえよヘタレがよォ!!」
野口は、作り笑いを浮かべながらそう叫んだ。
上手くいった──野口はそう思った。
野口は、敢えて挑発した。
乱入者の内面から、冷静さを失わせようとしたのである。
結果は成功──見ての通り、乱入者は野口に対して激しい怒りを剥き出しにしている。
その上、封じていた右拳を使うように見える。
ならば、その右の一撃を掴み取り、今度こそ組み伏せる。
そして、関節を完全に粉砕し、苦痛に喘いでいるところに追い打ちをかけ、完全に息の根を止めてやる──そう目論んでいた。
「……」
野口は強張った笑みを浮かべながら、低く構えた。
「……」
乱入者は、固く握った両拳をわなわなと震わせながら、更に低く構え直した。
数秒の沈黙──そして、乱入者が動いた。
「うおおおおおッ!!」
乱入者が踏み込む。
弓を引くように、右拳を後ろに引いている。
怒りによる力みのせいか、右脇が開いている。
そして、真正面に突き出される──典型的なテレフォンパンチ。
野口は勝利を確信した。
この一撃を掴み取り、これまでの屈辱を粉砕する。
──乱入者の腕が伸びる。
──野口が両腕を絡めようとする。
互いの腕が交わろうとし──
「えっ」
──刹那、野口の口から、間の抜けた声が漏れた。
己の顔から凄まじい音が鳴った──気がした。




