夢幻指弾 三十二
24
山郷ビル10階。
コンクリートが剥き出しになった、殺風景な大部屋。
その部屋の中央に無造作に置かれたパイプ椅子に、秀児は腰掛けていた。
「あ〜あ。クソ颯人クンはいつになったら来るンでしょうねェ。早くしねェとガキどもブッ殺しちゃうぞ〜っと」
秀児はぼんやりと天井を仰ぎ見ながら、そうぼやいた。
それから、もう何度出したかわからないほどの大きな欠伸をした。
背もたれに身を預け、子供のように足をぶらぶらと振りながら、『遊び相手』の到着を待ち望んでいた。
この部屋で待っている間、秀児は様々な方法で暇を潰そうと試みていた。
野口や手下たちに対して、これまでの憂さ晴らしをするかのようにいたぶったり。人質として捕らえた子どもたちを脅したり。到着した颯人を徹底的にいたぶるイメージトレーニングをしたり。
多くの手段を用いて、空き時間を有意義なものにしようとしていた。
そして、颯人がここに到着した際に、最高の状態で迎え撃つことができるよう、己のテンションとコンディションを高めようとしていた。
しかし、待てども待てども颯人は来ない。
実のところ、颯人と電話してから少ししか時間は立っていなかった。だが、秀児にとってはそのわずかな待ち時間でも、永遠に続いているかのように感じられた
──その時、聞き覚えのある声が部屋に響いた。
「やあ。随分と退屈そうじゃないか」
「あ? ……おお、アンタか」
秀児が顔を向けると、いつの間にか部屋の隅に一人の男が佇んでいた。
協力者──白いローブの男である。
その姿を見ただけで、秀児の呆けた表情に、幾分か生気が戻った。
「確かに退屈だなァ。野口と兵隊どもをいじめンのも飽きちまったからな。早くクソボケ颯人クンが来てくンねェかなァ」
「フフ、余裕そうだね。その様子だと、準備は万全らしいね」
「まァな。兵隊もたっぷりいるし、人質のガキもいる。早くあの野郎が苦しむ顔が見てェわ」
秀児はそう言いながら懐からカプセルを取り出し、首筋に打ち込んだ。
チクリとした痛み。それから、冷たい液体が体の中に滑り込んでくる感覚が伝わってくる。
「すっかり慣れたようだね。薬も体に馴染んでいるように見える」
「まァな。これで残りはあと二本だ」
「体に異常は?」
「全くねェ、絶好調だ。打つ度に能力が強くなっていくのをビンビン感じるよ。もうあの野郎には負けやしねェ」
「頼もしい限りだ。私も、遠くからじっくりと見物させてもらおう。……それでは、盤石を期すために餞別を送ろうか」
そう言うと、ローブの男は、懐から何かを取り出した。
「……何だこれ?」
秀児が眉をひそめ、差し出されたものをまじまじと見る。
それは、秀児が受け取ったものと同じカプセルであった。
しかし、中に入っている薬液が、少々異なっていた。
これまで秀児が使っていたものも黒色だが、どちらかといえば灰色に近い色であった。
だが、今差し出されたものは、それらよりももっと黒々とした色をしている。まるで、この世のありとあらゆる黒いものを煮詰めて、より濃く深いものを抽出しているかのように見えた。
漆黒──この言葉がふさわしい、純粋なる黒色であった。
「君に渡した薬の原液さ。これまで君が使っていたものは、これに色々な成分を混ぜ込んで薄めたものなんだ。これは純度100%。効果は、君に渡した薬とは比べ物にならないほどに高い」
「こんなのがあったのか。そンならこっちの方をくれれば良かったのに」
「人の身にはあまりにも強過ぎるんだ。いきなりこれを打つと、人体が耐え切れず、副作用を起こす可能性が高い。適合率の高い君でも、もしかしたら耐えられないかもしれないと思ってね。だからこそ、先に渡した10本の強化薬で、体に慣れさせる必要があったんだよ」
「フーン。……で、いくらだよこれ?」
「いらないよ」
「は?」
「サービスだ。遠慮なく受け取ってくれ。ただし、くれぐれも用法だけは守るように頼むよ」
「……」
秀児は、男が差し出したカプセルを受け取り、凝視した。
中に入った液体は、闇を思わせるほどに濃く深い。
まじまじと見つめるだけで、その液の黒色に吸い込まれるような気がしてきた。
「……なァ、アンタ。何でそこまでしてくれンだ?」
「ん? 疑っているのかい?」
秀児が尋ねると、男は微笑を浮かべたままそう尋ね返した。
「違ェよ、純粋な興味ってヤツだ。俺とアンタはビジネスの関係のはずだ。もう少しドライに付き合ってもいいはずなのに、ここまでサービスしてくれる。至れり尽くせりだ。どうしてそこまでしてくれる?」
柄でもなく、真剣に尋ねる秀児。
その様子を察したのか、ローブの男の口元から笑みが消えた。
「……君ならこれを使いこなせる。そして、我々の期待に応えてくれる。そう信じたから渡すんだ。それが理由じゃ不満かい?」
「……」
秀児は、男の顔をジッと見つめ返した。
ローブの影で、その奥に隠れている目は見えなかった。
しかし、一つだけ分かったことがあった。男の言葉が真剣で、冗談や侮蔑の感情など欠片もこもっていないことが。
「……いや、充分だ」
秀児は素直にそう答えた。
そして、わずかに目を伏せ、穏やかな笑みを浮かべた。
「そンじゃあ、信頼に応えるために頑張らせてもらいますかねェ。サービスも受け取ったことだし、本気でやンねェとな」
「期待していいんだね」
「大いにしてくれや。アンタからもらったコイツで、派手に大暴れしてやるよ。これからもな」
──その時、大部屋の外からドタドタと足音が聞こえてきた。
「おっと、誰か来たね。それでは、私は退散させてもらおう。健闘を祈ってるよ」
そう言うと、ローブの男の姿が、ゆっくりと透け始めた。
次第に、空気に溶けるように姿が薄れ──跡形もなく消えた。
まるで、初めからそこには誰もいなかったかのように。
直後、荒々しくドアが開かれた。
入ってきたのは、肩で息をする野口であった。
その顔には、昨晩までの驕り高ぶった様子は微塵もない。
代わりに、極度の疲労と怯えが表情に貼り付いていた。
「よう、ご苦労さん野口ィ。颯人は来たかァ?」
「う……。いや、まだ──ウッ!?」
秀児は間髪入れず、野口の鳩尾に拳をねじ込む。
野口はしかめっ面を一層歪め、その場にしゃがみ込んだ。
「『まだ』じゃねェだろ『まだ』じゃ。あ? いつになったら秀児は来るんだよオイ。ああ?」
「そ、そんなの分から──ばッ!?」
野口が言い終わるより先に、秀児は膝蹴りを叩き込む。
鼻っ面を膝で打ち抜かれ、野口はそのまま後ろに倒れ込んだ。
「ヒヒッ──」
秀児は低い声で笑うと、足元に転がる野口の腹を蹴った。何度も蹴りを見舞い、それに飽きたら踏みにじった。
怪我をしない程度には手加減をした。颯人が来た時に、使い物にならなくなっていたら困るからである。
そうやって、野口をひとしきりいたぶった後、秀児はまた退屈そうにパイプ椅子に腰掛けた。
足元に転がる野口の顔には鼻血が滴っており、床と服を真っ赤に染めていた。
「ムカつくよなァ野口ィ。格下だと思ってた奴から見下されてアゴで使われンのはよォ。ああ?」
「ウッ……」
野口は、苦悶の声とともに何かを呟いた。か細い声だったためよく聞こえなかったが、秀児に対する憎しみの言葉であったに違いない。秀児を弱々しくも睨み返している目が、何よりの証拠であった。
その顔を見た秀児の背筋に、ゾクゾクとした感覚が駆け上がってくる。
静まったはずの嗜虐心が、興奮とともに再び呼び起こされたのである。
「何だァ? そのツラはよォ──」
秀児はサディスティックな笑みを浮かべながら、無様に這いつくばっている野口にゆっくりと歩み寄った。
そして、顔を強ばらせた野口によく見えるよう、足を振り上げ──。
「……ああ?」
──その時、秀児のスマートフォンが着信音を発し始めた。
1階で待機している手駒の一人からである。
やっと来たか──期待に、秀児の胸が恋焦がれた女子のように跳ね上がる。
「もしもォーし。颯人は来たかァ?」
ニヤニヤと笑いながら通話に応じる。
直後、スマートフォンの奥から、酷く狼狽した声が返ってきた。スピーカーモードにせずとも周囲に聞こえるような大声であった。
『ち、違うッス! 話で聞いてた奴とは別の野郎が乗り込んできたンスよ!』
「……はァ? 誰だよそいつ?」
『知らねえッスよ! 黒いジャケット着たグラサンのチビが、野口さんを出せって大暴れしてるンスよ!』
「あ? 野口だァ?」
秀児は一瞬怪訝な顔を浮かべた後、野口を見やる。
対する野口は、知らないとでもいいたげな困惑した様子で首を横に振った。
そして次の瞬間、スマートフォンから怒号が響き渡った。
『野口ィッ!! どこ行きやがったゴラァッ!!』
──凄まじい敵意と殺意に満ち溢れた、天地を揺るがすかの如き大音声。
その迫力に、野口が──そして秀児までもが、目をギョッと見開いた。
『ヒッ! た、助け──ギャッ!?』
電話から悲鳴と、けたたましい音が聞こえた。
そして、再び放たれる怒号。
『隠れても無駄だぞ野口ィッ! 今日こそてめえのやらかしたツケを払わせてやる!! 出てきやがれェッ!!』
それから、何かが壊れるような音が鳴り響いた後──ツー、ツー、という音しか聞こえなくなった。
「……何なんだ、一体?」
困惑したまま、秀児はそう呟いた。
不気味なビジートーンが、電話から未だに鳴り響いていた。




