夢幻指弾 十六
13
颯人と別れた後、衛たちは途中でコンビニに立ち寄り、自宅へと戻った。
帰宅した頃には、既に12時を回っていた。
三人は朝の残りものと、コンビニで買った弁当を広げ、昼食をとった。
昼食を堪能すると、三人は各々、自由に午後を過ごすこととなった。
マリーはマンションに住む別室の子どもたちと外へ遊びに。舞依は近所の公園へ老人たちとのお茶会に。
そして衛は、自室にこもり、颯人から受け取ったデータを閲覧することにした。
緑茶を注いだ湯飲みをデスクの上に置き、椅子に腰掛けながら、パソコンの電源を入れる。
普段使用しているパソコンではなく、オフラインのノートパソコンである。
完全に起動したことを確認した後、颯人から受け取ったUSBメモリを、パソコンのUSBポート部に接続する。
颯人の話によると、解らないことが多く、カプセルに残ってた液の量が少な過ぎて、満足に調べることが出来なかったそうだが──少なくとも、『何の収穫もなかった』という結果には到っていないはずだ。
このデータの中に、どれほどの情報が秘められているのであろうか。
まるで、パンドラの箱でも開けようとしているような気分であった。
「……よし」
衛は意を決し、そのファイルを開き、読み進めていく。
衛が最初に強く興味を示したのは、成分分析の結果である。
あれほどの能力強化を施す薬物など、見たことも聞いたこともない。
一体どんな成分で出来ているのか、非常に気になっていた。
しかし、そこには衛が満足するような詳細な結果は記載されてはいなかった。
成分の1割が、成長ホルモンやステロイドホルモンなど、肉体に変化を及ぼすもの。そして残りの8割を占めている成分は、『解析不能』となっていた。
朝の颯人との通話をもう一度振り返る。
液の量が少なく、十分な調査が出来なかったらしい──そう言っていた。
ならば、研究サンプルとなるあの液体が再び手に入れば、この解析結果ももっと明瞭になるのだろうか。
最も、またあの液を使う敵と闘うのは、ご勘弁願いたいところなのだが──そう思いながら、衛はファイルを読み進めていく。
そうしていると、また衛が特に興味を示す項目があった。
「……これは」
それは、『PSIラット』を使用した実験の結果であった。
PSIラットとは、超能力実験の一環として生み出された、実験用の大型ネズミである。
外見は通常のラットと似通っており、温厚な性格で動きはやや緩慢だが、『発現剤』という特殊な薬液を投与することによって、一時的に念動力の能力を使うことが出来るのである。
とはいえど、使用できる力は強くはない。せいぜい、おがくず等の軽いものを数秒ほど浮かせる程度のものである。実験時に暴れたり、脱走した場合を考慮し、極めて弱い能力しか使えないように生まれつき調整してあるのである。
今回の実験は、PSIラットに発現剤を投与し、直後にあの黒い液体を少量投与。
そして実験用の強化スチール製ケージに、液を投与していない別のラットの個体と共に収容。さらにケージごと強化プラスチック製の飼育槽に入れて観察する、というものであった。
今回注入したラットは6匹。それぞれに、AからFまでのアルファベットを振って観察を行っていた。
本来ならばもっと多くの個体を使用して実験を行うが、カプセルに残っていた黒液はほんの僅かしかなかったため、6匹のみで行うと注釈が記入してあった。
(……まあ、これは仕方ないよな)
──小さくため息をつく。
気を取り直して読み進めていくと、各個体に生じた変化が記載されていた。
A──23秒後に変化あり。狂暴化。念動力、咬合力が向上。46秒後、同ケージ内の別個体の頸椎を念動力で骨折させ殺害。1分16秒後、殺害した別個体の尻尾と右後脚を歯で切断。2分41秒後に吐血、間もなく死亡。
B──36秒後に変化あり。狂暴化。念動力、脚力が向上。59秒後、同ケージ内の別個体の両脚を念動力で破壊。1分21秒後に心停止、間もなく死亡。
C──14秒後に変化あり。狂暴化。念動力が向上。27秒後、同ケージ内の別個体を浮遊させ、ケージの格子に叩きつける。51秒後に錯乱状態。1分37秒後、念動力で自身に行使、ケージの格子に突進。1分57秒後、頭部が破裂し死亡。
D──9分21秒後に変化あり。狂暴化。念動力、咬合力、脚力、瞬発力が向上。11分31秒後、同ケージ内の別個体の腹部に噛み付き、動きが鈍くなったところを念動力で圧殺。死骸は原型を留めず。13分36秒後、格子に突進し、大きく歪ませる。16分57秒後、強化ケージを念動力により内部から破壊。周囲の強化プラスチック製ケースを破壊しようとしたため、止む無く有毒ガスを散布。17分21秒後に痙攣。19分47秒後に死亡を確認。副作用の類は確認できず。
E──31秒後に変化あり。狂暴化。念動力、咬合力、脚力が向上。ケージ内の別個体の左前足を歯で切断。1分11秒後、ケージの隅を俊敏に走り回り始める。2分16秒後に吐血するが、尚も走り続ける。2分42秒後に死亡。
F──21秒後に変化あり。狂暴化。念動力、咬合力が向上。46秒後、念動力により同ケージ内の別個体の心臓を破裂させ殺害、死骸を捕食し始める。2分6秒後に吐血した後、眼球が破裂。間もなく死亡。
「……んん……」
衛が無意識に小さく唸る。
こうして比較してみると、黒液を投与したAからFの全ての個体に、変化が起こっている。
変化の起こる時間も、変化の内容も個体によって違いはあるが、どの個体も温厚な性格のPSIラットとは思えないほどに獰猛な生物に変じている。
共通しているのは、性格の狂暴化と、念動力の向上である。
また、脚力や咬合力など、個体ごとに内容は異なるが、身体能力の向上が見られる。
さらに、投与して一定の時間が経過すると、吐血や錯乱などの副作用と思しき症状を発症した後に死亡している。
ただし、一匹だけ、これらの例から外れている個体がいた。
──Dの個体である。
他の個体と比較すると、この個体のみ変化が起こるまで非常に時間がかかっているが、身体・念動能力は他の個体以上に向上している。
その上、他の個体が副作用と思しき症状によって数分後に突然死しているのに対し、この個体のみが長時間生き続け、ケージ内で暴れまわっている。
そしてその末に、ケージを完全に破壊し、周囲を覆う飼育槽を破壊しそうになったため、強制的に殺処分されている。
ケージの格子は強化スチール製、飼育槽は強化プラスチック製である。通常のPSIラットの念動力では、どちらも破壊出来るものではない。
──もし仮に、このDの個体が殺処分されることなく、そのまま観察が続けられていたのだとしたら、一体どうなっていただろうか。
副作用の起こる時間が、この個体のみ遅かっただけで、他の個体と同じく死を迎えていたのだろうか。
それとも、そのまま飼育槽を破壊するまで、強化された肉体と超能力を用いて暴れ狂い続けたのであろうか。
(……何なんだ、この液体は……)
一体誰が、こんなものを作り出したというのか。
比較的温厚なはずのPSIラットが、微量の液体を打ち込まれただけで、まるで危険な害獣同然になってしまった。
もし仮に、これを超能力者や妖怪に使用したとしたら、一体どうなってしまうのか。
──衛は、その答えを知っていた。
彫刻家の妖怪の身に起きた、恐るべき変貌。
人の形を留めていた妖怪が、この液体を投与したことによって、人間とかけ離れたおぞましい姿に変異してしまった。
その光景が、今も衛の脳にこびりついていた。
そしてその光景は──数年前に衛が経験した、悪夢にも等しい記憶を呼び覚ましそうになった。
「……」
喉の渇きを感じた衛は、唾を飲み込もうとした。
しかし、口の中は酷く乾いており、一滴も唾液が出る様子はない。
それからすぐに、机の傍らに緑茶があることを思い出し、口をつける。ぬるくなったほろ苦いお茶が口の中に満ち、するりと喉を通って流れ落ちていく。
だが、潤った心地はせず、むしろますます乾いていくような錯覚がした。
──心臓がやかましい。
太鼓を激しく打つような音がドンドンと鳴り響き、体内から伝わってくる。
その時になって、ようやく衛は、己が緊張していることを自覚した。
何者かがこんな代物を作っているという憤りと、既に複数の者にばら撒かれているのではという戦慄。
それらが一緒くたになって、言いようのない危機感となって、衛の心を蝕もうとしていた。
──その時、衛のスマートフォンが振動と共に音を発した。
メールの受信音──衛はパソコンから目を離し、スマートフォンのスイッチを入れる。
差出人は颯人であった。題名はない。
どうしたのだろうと思い、ほんの少しだけ眉をひそめる。
そしてすぐに、メールをタップした。
普段の颯人の雰囲気に似つかわしくない、妙に丁寧な文章が書いてあった。
『すみません、あの後、奴が逃げ出しました。明日、そちらにお邪魔しても大丈夫ですか』




