夢幻指弾 四
4
「ただいま」
青木衛が、日課の朝の鍛練を終えて帰宅したのは、朝8時前のことであった。
普段ならば、衛はもう少し遅くに帰ってくる。
本日、練習を早く切り上げて帰宅した理由は、とある重大な仕事を請け負っていたためである。
それは、その日一日を問題なく、健康に過ごすために必要な栄養補給の支度。
即ち──本日の朝食当番である。
マリーと舞依の姿は居間にはない。どうやらまだ寝ているらしい。
彼女達の部屋に向かうと、案の定すやすやと布団の中で寝息を立てていた。
それを確認すると、風呂場に向かい、今朝の献立と昨晩の残り物について考えながらシャワーで汗を流す。
そして、素早く着替え、ドライヤーで髪を乾かし、すぐに台所に立った。
まず、塩鮭の切り身を3枚用意し、魚焼きグリルに並べて火を着ける。
次に、鍋に水を張り、出汁の顆粒を入れて火にかける。
その合間に、鍋に入れる具材を包丁で素早く切った。
具材は白菜と豆腐、油揚げである。
鍋が煮立ち始めたところに、具材を入れる。グツグツと音を立てていた鍋が、また先ほどのように静かになった。
鍋が再び煮立ち始める前に、冷蔵庫を開けた。
中から取り出したのは、ラップに覆われた2枚の皿。
それぞれ、豚肉の生姜焼きと、ほうれん草のごま和えが入っている。
どちらも昨日の夕食で作ったのだが、作りすぎてしまい、結局余ってしまったのである。
その内の片方、生姜焼きの皿を、ラップで封をしたままレンジに入れて加熱。
もう片方のごま和えは、そのままラップを剥いで、テーブルに置いた。
それから、魚焼きグリルを開け、鮭の切り身を裏返した。
焼き具合を目視確認──今のところ、焼き加減に問題はない。またグリルを閉じる。
直後、チン、という音が響いた。
呼び声に応じ、すぐにレンジのそばに向かい、中から皿を取り出す。
ラップを剥がすと、食欲を刺激する甘い生姜の香りが、湯気と共にふわりと浮かび上がった。
そうしている間に、鍋が再び煮立ち始めた。
火の勢いを弱め、具材の煮えたお湯の中に、味噌を溶きながら入れる。
市販の白味噌と、ご近所さんから頂いた自家製の赤味噌。それぞれ、2:1の割合で溶き入れる。
味噌がよく混ざった後、おたまで汁を少量すくい、小皿に移して味を確かめる。
──丁度いい。
その時、助手たちの部屋の扉が開く音が聞こえた。
出てきたのは、パジャマ姿の舞依であった。
「おはようさ~ん」
「おう、おはよう」
「ん~♪ めっちゃいい匂いがしとるのう。今日の味噌汁の具は何じゃ?」
「白菜と豆腐と油揚げ」
「うわぁ、聞いただけで絶対美味いって分かる。白菜はたっぷり入っとるじゃろうな?」
「当然。仕上げにネギは入れるか?」
「もちろん!」
そう言うと、舞依はニコニコしながら洗面所へと向かって行った。
舞依の要望を受け、衛は冷蔵庫からタッパーを取り出す。刻んで保存しておいた、薬味ネギ入りのタッパーである。
同時に、パック入りの納豆を取り出す。
ネギのタッパーはキッチンの横に。納豆は、テーブルまで持って行く。
そして再びキッチンに戻り、魚焼きグリルを開いた。
──身は赤く、皮はパリッと。極端な焦げは全く見当たらない。完成である。
「ふわぁ~。おはよう……」
その時、パジャマ姿のマリーが部屋から現れた。
髪はボサボサで、寝ぼけ眼をこすっている。
「おう、おはよう。もうメシ出来たぞ。舞依が今顔を洗ってるから、その後に洗面所を使いな」
「その前におしっこ……」
「分かった分かった、急いでトイレ行ってきな」
「漏れそう……」
「マジで急いで行ってきな!」
のろのろとトイレに向かうマリーを案じつつ、食器棚から3枚の皿を取り出し、大皿の塩鮭を1枚ずつ乗せる。
直後、マリーと入れ違いで、舞依が姿を現す。
寝ぼけ気味のマリーと違い、しっかりと目を覚ましていた。
「ふぅ、さっぱりした!」
「マリーの奴、ちゃんとトイレ入ったか? すごく寝ぼけてたけど」
「うむ、ちゃんと入った。あそこまで行けば漏らしたりせんじゃろ。あ、配膳手伝おうか?」
「ああ、頼むよ」
汁物用の茶碗を用意し、その中に味噌汁を注ぐ。仕上げに、味噌汁の表面にネギを少量乗せる。
それらをお盆に乗せ、テーブルまで持って行き並べる。
箸やご飯の茶碗は、既に舞依が用意してくれていた。
それから、温め直した生姜焼きをテーブルへ持って行く。
炊飯器も、テーブルの上へ。
蓋を開けると、ふわりと湯気が舞い上がり、中からふっくらとしたほかほかの白飯が姿を現した。
そこにしゃもじを入れ、軽く混ぜる。
そして、3人分の茶碗によそった。米の硬さも丁度良いようである。
「あー、スッキリした」
準備が出来上がった頃に、マリーが戻ってきた。
まだ眠そうではあったが、先ほどよりも意識はしっかりとしているようであった。
「漏らさなかったじゃろうな?」
「漏らさないっつーの! ちょっとヤバかったけど」
「ヤバかったのかよ……」
「そんなことより、早く朝ご飯食べようよ! あたしもうお腹ペコペコー!」
マリーはそう言いながら、並べられた料理の数々を見て、顔をふにゃりと和らげた。
本当に、我慢の限界らしい。彼女だけでなく、衛や舞依も同様であった。
「よし、じゃあ食おう」
衛はそう言うと、丁寧に両手を合わせた。
マリーと舞依も、同じく手を合わせる。
「「「いただきます!」」」
はっきりとした3人の声が部屋に響き、同時に箸を手に取った。
──最初に、味噌汁に口をつけた。
甘い味噌と出汁の風味が口に広がり、口の中を湿らせる。
次に、白飯を少量取り、口に入れる。
ほくほくとした飯を噛むごとに、米の甘みが染み出し、残った味噌汁の風味と混ざり合う。
それから、鮭の身を軽くほぐし、丁寧に骨を取り除いてから、身の一片を箸で掴んで口にする。
魚肉の旨味と塩気、油が食欲を刺激し、唾液がじわりと湧き始めた。
もう一度、ほぐした鮭を掴む。
今度は直接口に入れず、飯の上へ。
そして、飯と一緒に口の中に入れる。
更にもう一口、飯を口に入れて頬張る。
鮭と飯、両方をしっかりと噛み、良く味わってから、喉の奥へと通す。
再び味噌汁に口をつける。
今度は汁だけでなく、具も口に入れる。
甘い味噌と、柔らかい油揚げと豆腐、シャキシャキとした歯ごたえのある白菜、爽やかで香りの良いネギが口の中で調和する。
──飯が欲しい。
己の欲求に従い、飯を軽くかき込む。
気が付くと、お椀から飯が姿を消していた。
すぐにそばの炊飯器の蓋を開け、お代わりをよそう。
2杯目の最初のお共は、テーブル中央のおかずに決めた。
昨日の夕食を楽しませてくれた、豚肉の生姜焼き。
マリーも舞依も生姜焼きが好きだ。自分も好きだが、2人に多めに残してやろう。
そう思い、その中から1切れだけを取り、飯の山の上に軽く乗せ、茶色のタレをゆっくりと飯に染み込ませる。
そうした後に、豚肉を口の中に潜り込ませ、しっかり、じっくりと咀嚼する。
昨晩のおかずだが、味は全く落ちていない。
それどころか、一晩寝かせたおかげで味が更に濃くなっている。
もっと米を寄越せ──己の口と胃が必死にそう訴えかけている。
じゃあくれてやるよ──タレの染みた飯を、2度かき込む。
タレが絡んだ米の美味さに、たまらず愛おしさが込み上げて来る。
「衛、お代わり!」
「はいはい」
「あ、わしもお代わり」
「はいよー」
主人に遅れて、助手たちがお代わりを要求してくる。
衛は一旦箸を止め、助手たちの分のお代わりを快くよそってやる。
そして、再び食事を再開した。
そろそろ、さっぱりしたものを口にしたい。
そう思い、生姜焼きの横に並んでいる、ほうれん草のごま和えに手を付けた。
皿の上のほうれん草を多く掴み、己の皿に乗せる。
そこから少量を飯の上に乗せ、飯と一緒に頬張る。
ほうれん草のほのかな苦みと、ごまだれの甘みと香ばしさが口の中に広がっていく。
もう一口、白飯を口へと運び、ゆっくりと味を噛み締める。
更に、残った鮭の切り身も口に入れる。
飯を一口。
残った鮭の皮を取り、パリパリと噛む。
更に飯を一口。
残った味噌汁を具と共に味わい、茶碗の飯を全て口に入れる。
──まだ食べたい。
案の定そう思い、衛は傍らのお盆を手に取った。
「味噌汁のお代わりどうする?」
「あ、食べたい」
「わしも頼む」
二人に訊ね、3人分のお椀を盆に乗せ、キッチンへ向かう。
鍋の中の味噌汁をお椀に移し、またネギを乗せる。
それからテーブルに戻り、味噌汁のお椀をそれぞれの席に戻す。
そうした後に、衛は3杯目の白飯を茶碗によそった。
締めの内容はもう決めていた。
未だに手を付けず残していた納豆である。
パックを開け、シートを丁寧に剥がし、甘いタレを全体にまんべんなくかける。
それから、箸で丁寧に、しっかりとかき混ぜる。
そして、十分な粘り気が出たことを確かめてから、飯の上にがばっとかけた。
まず、味噌汁で口の中を潤す。
それから、納豆の乗った飯を一すくいして、口へと運んだ。
甘いタレと粘り気、独特の匂いが衛の口内を満たす。
小さい頃はあまりこの食感が得意ではなかったが、大人になった今ではもうやみつきである。
我慢できず、衛は納豆飯を下品にならない程度に勢いよくかき込んだ。
途中で一度箸を止め、味噌汁を半分ほど胃に納める。
そうした後、再び納豆飯に手を付け、最後までかき込む。
そして、ゆっくりと咀嚼して飲み込み、残った味噌汁を全て飲み干した。
「フーッ……」
ゆっくりと息を吐く。
身体が温かい。
満たされた──そんな気持ちになった。
マリーと舞依に目を向ける。
丁度、二人の席の料理も空になっていた。
中央の生姜焼きとほうれん草の皿にも残りはない。
二人もまた、表情に満足感が浮き出ていた。
特に合わせた訳でもなく、3人は同時に両手を合わせ──
「「「ごちそうさまでした!」」」
──そう口にした。
11/6追記
申し訳ありません、魔拳の続きですが、諸事情により更新が遅くなりそうです。
ご迷惑をおかけしますが、もうしばらくお待ち下さい。




