スクルトーレ・モーストロ 三十一
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「あ、あああ……あ、たし、なんて、あたし、なんて……! あたしなんて、死んじゃえばよかったんだ……!」
マリーが、その言葉を叫んだ刹那──
「──!!」
──衛は、頭を思い切り殴られたかのような感覚を覚えた。
──世界が凍り付く。
──頭が割れるように痛む。
──心臓の鼓動が激しさを増す。
──己が己でないもののように感じる。
視界がぼやけ、意識が遠退き──あの日の記憶が甦る。
──自殺──。
──遺影──。
──机の上の花瓶──。
──涙の乾いた痕が残る手紙──。
──『僕なんて、死んでしまえばいい』──。
──絶望──。
──耳障りな笑い声──。
──侮蔑の笑顔──。
──憎悪──。
──憎悪──。
──殺意──。
「……ッ!! ハァ……ハァ……!」
──気がつくと、衛は両手を床について俯いていた。
視線の先にある、床の一点。
そこに──ぼたぼたと赤い滴がこぼれ落ちた。
右手で目元に触れる。
──赤い涙。血涙であった。
「クッハハハハハハハ! そウだ、それダ、ソれだ!! そノ顔が見たかっタのだ私は!」
室内に響く愉快そうな高笑いを聞き、衛は顔を上げた。
反対側の壁際に、一つのブロンズ像と、二つの人影があった。
ブロンズ像へと変えられ横たわる舞依、涙を流しながら詫びる舞依。
そして──彼女達を嘲笑しながら、演説をするかのように口を動かし続けるルチアーノの姿。
その光景を見た瞬間──衛の全身から、凄まじい熱が生じ始めた。
怒りが、憎しみが、肉体を循環する血液を沸騰させていた。
「……ッ!!」
歯を食いしばる。
両拳を握り締める。
足の裏で床を踏みしめ、立ち上がる。
心に生じた激情を振り絞り、己の力へと変える。
体力は、先ほどよりも回復していた。
マリーが時間を稼いでくれたおかげで、摂取した食料の栄養が完全に吸収されたようであった。
とはいえ、万全なコンディションではない。強化術を使えるほど、回復はしていないようである。
だが──『最後の手段』を使うには十分な回復量であった。
「恐怖と絶望、そレらが絶対的な比率で交わり合い、最高に調和した君のソの顔が!! 素晴らしい、素晴らしイぞ!!」
ルチアーノは、相変わらず演説を続けていた。
その上機嫌な声を聞いているだけで、衛のはらわたは更に煮えくり返っていった。
「……スーッ……」
静かに息を吸いこみながら、衛は足を踏み出す。
一歩一歩確実に、ルチアーノの背後へと歩み寄る。
そうしながら、気を練り始める。
全身の抗体を右拳に集め、更に凝縮させていく。
「さア、これで最期だ少女よ! 何の存在価値モなかった君が、よウやく役に立てる時が来たノだ!!」
歩み寄ったことで、ルチアーノの大声が、更に大きく耳に入るようになった。
衛は、今すぐにでも怒鳴り付けてやりたいという衝動を、必死に堪えた。
その怒りの感情を──己の両足に注ぎ込む。
一歩前に踏み出すごとに、床の表面に、抗体の赤い残滓が、足跡のように刻まれる。
やがて、ルチアーノの背後で立ち止った。
左足を前に、右足を後ろに。
前足に三、後ろ足に七の割合で重心をかける。
そして、比較的青銅の突起物が少ない箇所──即ち、ルチアーノの腰に狙いを定め、構えた。
「恐怖と絶望の表情を浮カべたまま、私の作品トして永久に生き続けるガいい!! ソして私は、こノ偉大なる最高傑作の創造主とシて──」
──もう、我慢できなかった。
衛は、腹と胸に溜りに溜まった、禍々しいほどにどす黒い感情を二文字の言葉に込め、唸るように呟いた。
「おい」
その瞬間──衛の体が、急加速した。
──すり足。
──二つの光の線が床に描かれる。
──半歩前へ。
──放たれる右拳。
──床を踏みしめる。
──直撃の瞬間、重さと速度が拳に乗る。
そして──
「え──がッ!?」
──凄まじい炸裂音が、室内に響き渡った。
「あ……? ぐ……?」
ルチアーノが身を屈め、その場にうつ伏せで倒れ込んだ。
腰を覆う青銅の鎧に、拳大の穴が穿たれ──青黒く変色した皮膚が露出していた。
「黙ってろ」
衛は、倒れ伏すルチアーノを蔑みの目で見下ろしながら、そう吐き捨てた。
「ぬ……グ……お……!?」
ルチアーノは床に倒れたまま、苦悶の声を上げた。
立ち上がろうと、床に両手をつく。
──が、立ち上がれない。
何度も身を起こそうとしていたが、体がいうことを聞かないらしく、その場で苦し気にのたうっていた。
「な、何が起コった……!? 体が、動かヌ……!!」
「大量の気を流し込んだのさ。デカい一撃で、お前の鎧をぶち破ってな。今のお前の体内では、俺の気が鎧で何度も跳ね返りながら暴れまわってる。さぞかし苦しいだろうよ。おかげで、こっちはこのザマだがな」
そう言うと衛は、今しがた打ち込んだばかりの右拳を掲げて見せた。
──それは、拳と呼ぶには、あまりにも痛々しい形をしていた。
黒鋼改に包まれた拳は、腐って潰れた果物のように、歪な形に変形していた。
手首は、グローブの内側から流れ出るどろどろとした血で、真っ赤に染まっていた。
全て、今放った打撃によって負ってしまった怪我によるものであった。
──『仙歩崩拳』。
足に込めた気の力によって凄まじい速度で踏み込み、突進の要領で放つ、武心拳の強力な突き技である。
衛はこの技を用いて、青銅の鎧を突き破り、拳に収束させた大量の抗体を、ルチアーノの皮膚の上から流し込んだのである。
しかし、その代償もまた大きかった。
鋼鉄すらも上回るほどの強度を秘めた、ルチアーノの青銅。それに、仙歩崩拳を打ち込んだことで、衛の拳は耐えられず、破壊されてしまったのである。
だが、その捨て身の一打によって、衛もまた、ルチアーノに深刻なダメージを与えることに成功したのであった。
「そ、そンな、馬鹿な──ぐわっ!?」
「どけ」
悶え苦しむルチアーノを、衛は足の裏で雑に押し蹴り、横に転がした。
「俺はマリーに話がある。しばらくそこで苦しんでろ」
衛はそう言うと、舞依の傍らに座り込んでいるマリーに顔を向けた。
「……衛……?」
マリーは、虚ろな眼で衛を見上げた。
泣き腫らし、涙まみれになったその顔を見て、心が張り裂けそうになる。
衛は、そんな己の心に喝を入れ──マリーに、力強く語り掛けた。
「……諦めるな、マリー。舞依を治す方法なら、もう一つある」
「……え……!?」
嘆きに囚われていたマリーの顔に、驚きが広がる。
その一瞬、絶望に染まった彼女の瞳に、小さな光が宿ったことを、衛は見逃さなかった。
「ど、どうやって……!?」
「お前だ」
「……え?」
「お前だよ。舞依から教わった治癒術──それを使って、ルチアーノの術を打ち破るんだ」




