スクルトーレ・モーストロ 三十
「あ……。あ、ああ……。ああ、ああ、あ……!」
見開いた両目から、ぼとぼとと涙がこぼれた。
大粒の涙は、ブロンズ像の上に降り注ぎ、沁み込むこともなく、冷たく硬い表面をなぞりながら落ちていった。
「舞依、舞依……! 起きて……お願い、舞依……!」
マリーは、ブロンズ像にそう呼びかけた。
そうすれば、聞きなれた声が返って来ると思ったから。
「やだ……やだよ、舞依……! お願い、目を開けて……! 起きてよ舞依……!」
呆れた声か。こちらをからかうような声か。あるいは、こちらを安心させようとするような、穏やかな声か。どれかが返ってくると思ったから。
「謝るから……! 先週、朝ごはんの当番忘れたこと謝るから……! お掃除も、もっとしっかりやるようにするから……! テレビだって、好きなの観ていいから……! だから起きて、起きてよ、舞依……!」
しかし──声は返って来なかった。
冷たく硬いブロンズ像と化した彼女の相棒は、何も答えてはくれなかった。
「ハハハハハ! 無駄ダ無駄だ! その少女ハ、もはヤ完全に私ノ作品とナった! 声くらイならばワずかに聞こえテいるカもしれンが、答えルことなドできん! ハハハハハハ!」
ルチアーノが嘲笑う。
マリーは無我夢中で、ルチアーノにすがり付いた。
「お、お願い、教えて! どうすれば治るの!? どうすれば、舞依を治せるの!?」
「ハハハハハハ! 治すダと!? 簡単だ、私自身が術を解くことダ!! だが、私には術を解くつモりはナい! つマり、この少女は一生こノままというコとだ!!」
「や、やだ……! お願い、治して! 何でも言うことを聞くから! あたしを代わりに像にしていいから! だからお願い、舞依を治して!」
「……ホう?」
ルチアーノの顔から笑みが消える。
途端に真剣な表情になり、マリーに顔を近付けた。
「……私の作品にナってくれルのか?」
「うん、うん……! もう、逃げたりしないから……!」
「……本当カ?」
「本当よ! 目的はあたしで、舞依は関係ないでしょ!? だからお願い、舞依は助け──」
「お断リだ」
「……え?」
呆けた顔で硬直するマリー。
その様子を見たルチアーノは、真剣な顔を崩し、勢いよく噴き出した。
「ブフッ! ブハハハハハハハ! 治スと思ったか、愚かナ少女よ! 誰が治してなドやるものか! こレまでに私を何度モ拒んダ罰だ! 己の考エの甘さを恥じるガいい! ハハハハハハハハハ!!」
冷たい室内に、甲高い嘲笑が響き渡る。
「……う。……うっううっ……!」
マリーの心に、怒りが。それ以上に、絶望が沸き上がった。
それらは熱い涙となり、再び彼女の目からこぼれ落ちた。
「それニしても、馬鹿な市松人形だ! 折角こノ私が下僕になルよう誘ったというノに、無下にスるとは!」
ひとしきりマリーを侮辱したルチアーノは、嘲笑の矛先を、ブロンズと化した舞依に向けた。
「私の作品ノ材料になる素質以外、全く価値がないトいうのに、それを『頑張り屋』だノ、『大事な友達』ダのと! そノ大事な友達ヲ見捨てさえすれば、コのような目に遭わずに済んダのだ! だガいい気味だ、実にいイ気味だ! この市松人形のオかげで、少女に更ナる絶望を植え付けるコとが出来た! ありガとう、愚かで哀レな古臭い市松人形の少女ヨ、ハハハハハハハハハ!!」
「……! う、ううっ……!!」
ルチアーノの言葉を聞いて、マリーの目から、更に涙が溢れ出した。
──舞依は、自分のことを友達だと思ってくれていた。認めてくれていた。
たくさん迷惑をかけて、酷いことも言った自分のことを、想っていてくれた。
そんなかけがえのない存在を、自分の問題に巻き込んで、こんな目に遭わせてしまった──その事実に苛まれ、マリーの心は、ズタズタに引き裂かれそうになっていた。
「あたしの、せいだ……!」
溢れる涙を拭おうともせず、マリーは呻くようにそう呟いた。
「あたしが、あたしが、代わりに連れ去られてれば……! あたしが、舞依たちと一緒に暮らしてなければ、こんな、こんなこと……! うう、ごめんね、ごめんね舞依、ごめんねぇ……! う、あああ……!」
マリーは、横たわった舞依のブロンズ像に縋り付きながら、ただただ詫び続けた。
答えが返って来ないことを知りながら。聞こえているかどうかも分からぬまま。友に謝罪の言葉をかけながら、己を責め続けた。
「あ、あああ……あ、たし、なんて、あたし、なんて……! あたしなんて、死んじゃえばよかったんだ……!」
「クッハハハハハハハ! そウだ、君のせいデ彼女は私の作品トなっタのだ! ああ、それダ、ソれだ!! そノ顔が見たかっタのだ私は! 恐怖と絶望、そレらが絶対的な比率で交わり合い、最高に調和した君のソの顔が!! 素晴らしい、素晴らしイぞ!!」
ルチアーノは満面の笑みを浮かべており、満ち溢れんばかりの高揚感に包まれているようであった。
追い求めていた獲物が、自分の望む表情でうちひしがれている光景。それがなによりも刺激的な興奮剤となり、彼の精神を絶頂へと到達させていた。
「さア、これで最期だ少女よ! 何の存在価値モなかった君が、よウやく役に立てる時が来たノだ!! 恐怖と絶望の表情を浮カべたまま、私の作品トして永久に生き続けるガいい!! ソして私は、こノ偉大なる最高傑作の創造主とシて──」
「おい」
「え──がッ!?」
──ほんの一瞬の出来事であった。
高らかな声で語り続けていたはずのルチアーノ。
その背後から突如聞こえた、地獄から轟くような、低く短い声。
直後に響いた、何かが砕けるような音と、ルチアーノの苦悶の声。
慟哭していたマリーは、何も見ていなかったが──周囲の音から異変に気付き、顔を上げた。
「あ……? ぐ……?」
己の身に何が起こったのか分からぬまま、ルチアーノは顔を歪め、身を屈めた。
その背後に──満身創痍の青木衛が佇んでいた。
「黙ってろ」
怒気を押し殺した声でそう言った。
地獄の鬼ですら震えあがるほどに恐ろしい、憎悪と殺意に満ちた表情が、彼の顔に具現していた。
その右目から──真っ赤な一筋の涙が伝っていた。




