スクルトーレ・モーストロ 二十九
16
──マリーは、もう我慢出来なかった。
雄矢とシェリーがブロンズ像にされ、衛が殺されそうになる光景を見て、衝動的に部屋の中に飛び込んでいた。
自分だけ安全な場所に隠れていることなど、もう出来なかった。
「……お願い……もう、やめて……!」
マリーが、震える声で訴える。
声だけではない。目も、顔も、足も──全身が恐怖によってぶるぶると震えている。
怖かった──逃げ出したかった。
しかし──恐怖ですくんでも、マリーは逃げるわけにはいかなかった。
自分のせいで、仲間たちが危機に瀕している──その事実から、マリーが目を背けるわけにはいかなかった。
「おオ……少女よ……少女ヨ……! そコにいタか……!」
ルチアーノの中から立ち上っていた憤怒が消え失せる。
代わりに歓喜と恍惚の感情が表れ、無意識に衛を掴んだ手を放していた。
「ガッ……ゲホッ、ゲホッ──!」
衛は床の上に崩れ落ち、その場で酷く咳き込んだ。
立ち上がろうとしているのか、その場でもがいていたが、疲労と酸欠により、すぐに動くことは出来ないようであった。
──分かっていた。衛がすぐに立ち上がれないことは、これまでの闘いの流れを見ていたので、理解していた。
だが、こうしてルチアーノの意識を逸らすことさえ出来れば、衛も少しは回復出来るはず──心の奥底で、マリーはそう考えていた。
「待ちかネたぞ、少女よ……! 最初かラ素直に出て来てクレれば、私も無駄ナ苦労ヲせずニ……いヤ、もウ全て水に流ソう。こウシて、君自身が私ノ前に姿を現しテくれタノだかラな」
上機嫌になったルチアーノは、衛をその場に放置し、マリーのもとへ歩み寄る。
「さア、少女よ……! 私ノ作品とナるのだ……! 君なラば、間違いナく私の最高傑作に生マれ変わルコとが出来るハずだ!!」
マリーの前で立ち止まったルチアーノは、そう言って目を細めた。
そして、その場でマリーの返答をじっと待った。
「……そ、その前に。話を聞いて」
「……何?」
マリーの言葉に、ルチアーノが目を丸くした。
「お……お願い。舞依を、返して。……あたしの仲間を、これ以上傷付けないで」
恐怖を堪えながら、マリーはそう言った。
ゆっくりと。しっかりと。
己の願いが、ルチアーノに伝わるように、確かにそう言った。
「……」
ルチアーノは、何も答えなかった。
目を丸くしたまま、マリーをきょとんとした顔で見ていた。
それから、数秒経過し──ようやく、ルチアーノが口を開いた
「……は?」
たったそれだけの──言葉というにはあまりにも短過ぎる、不快感を露わにした声が、怪物の口からこぼれた。
──その時、マリーの体に、何かが巻き付いた。
直後、風と浮遊感を感じ──全身が、固い床の上に叩き付けられていた。
ルチアーノに体を掴まれ、衛がいる側とは反対の壁に、放り投げられたのである。
「うッ──ガ、ハッ……!? ゲホッ、ゲホッ……!」
衝撃に悶えながら、マリーは激しく咳き込んだ。
視界が激しく揺れている。
床に打ち付けた箇所が、鈍い痛みを放っている。
「ああ、少女、少女ヨ……。君はまダ、己の立場を理解しテいなイようだナ……」
ルチアーノの猫なで声が、ゆっくりと近付いて来る。
恐らく、苛立ちを隠すために、無理やり作り笑いを浮かべながら歩み寄っているのであろう。
投げられた衝撃で軽いパニック状態になっていても、その様子だけは簡単に想像できた。
「……君ハ、私の『物』だ。物が持ち主ニ口答えナどしテは駄目ダろう?」
「うっ……」
マリーは、身体中の痛みを我慢しながら、上体を起こした。
すぐそばに、青銅の怪物の姿があった。
案の定、強張った笑みを浮かべていた。
「さア、少女よ。モう一度言うゾ。私のもトへ来るノだ。そシて、私の最高傑作へと生マれ変わレ!」
ルチアーノは、先ほどよりも語気を強めて言った。
その言葉を耳にして、マリーの頭の中に、あの雨の夜の記憶が甦りそうになる。
しかし、マリーはそれを振り払うかのように強く頭を振り、震える声で言った。
「……そ……その前に、舞依を──がっ!?」
マリーが言い終わるよりも早く、ルチアーノは彼女の首を掴んだ。
そのまま、窒息しない程度の力を込めて、首を絞めてくる。
「何故だ……? 何故分かラない……?」
「ぐ……ぐ……!」
「何故私の言うコとを聞いてクれない……? 私の作品にナるコとよりも、あノ着物の少女に会ウことガ大事なのカ……!?」
怒りと焦燥感を交えた形相で、マリーにそう囁きかけた。
そのまま、彼女の首を掴み続け──握りつぶすかと思いきや、不意にその手を放した。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
「……ふン。まア良い。そんナにあの着物の少女に会いたいのならば、会わせてやろう」
「ゲホッ……え!?」
マリーの心に、一瞬だけ安堵の輝きが灯る。
「ほ……本当? 舞依に、会わせてくれるの!?」
「ああ。会わセてやろうトも」
ルチアーノは、口の端を歪めながら、そう答えた。
「会いタいかね?」
「あ、会いたい……ど、どこなの……!?」
「『どコ』?」
「そう、どこ……!? 舞依は今、どこにいるの……!?」
「『ドこ』……? 『どこ』ダと……? ……ク、ククククク……!」
ルチアーノは、心底愉快そうに、低い笑い声を口からもらした。
「な、何がおかしいの……!?」
「クククク……! こレが笑わズにいラれるもノか……!」
ルチアーノは、笑いを必死になって抑えようとしていた。
そして、ひとしきり笑い終えた後、ねっとりとした口調で言った。
「──あノ着物の少女なラば、既ニ君の隣ニいるデはなイか」
「……え?」
一瞬──マリーの思考回路が、完全に停止した。
ルチアーノの言った言葉が、全く理解できなかった。
何故なら、隣には舞依の姿はなかったからである。
あるのは、この部屋の中に置いてあったものと思しき、裏返っている机の残骸のみ。
衛達がこの部屋に突入する直前まで、ルチアーノはこの部屋で暴れていた。この机は、恐らくその時に壊されたものであろう。
その机を──ルチアーノが、おもむろに掴んだ。
「分カらナいか……? なラば、見せテやろう」
そう言って、ゆっくりと、机を持ち上げた。
そこには──緑青色の物体が、下敷きになっていた。
青銅。ブロンズ像である。
幼い少女をモデルにした作品のようであった。
着物姿であった。
よく見ると、胴体と足首を、縄で縛られているようであった。
両目を、力強く瞑っていた。何かに怯えるかのように──あるいは、己の最期を悟ったかのように。
その顔に──その表情を浮かべている少女の顔に、見覚えがあった。
「……違う」
マリーが、か細い声で呟いた。
「……嘘よ」
──認めたくなかった。
このブロンズ像が何なのか、『誰』なのかを、認めたくなかった。
このブロンズ像の正体を認めさえしなければ、現実から逃避出来るかもしれないと思ったから。まだ、舞依が無事なまま、どこかに監禁されているという可能性が残り続けると思ったから。
「嘘だ……。嘘だ、嘘だ……!」
マリーは必死に、己の心に抵抗した。
認めてはならないと、己自身に訴えた。
しかし──認めざるを得なかった。
どれだけ否定しようとも。現実から目を背けようとも。
このブロンズ像の顔を──ここにいる誰よりも、マリーは知っていた。
彼女は──このブロンズ像の正体は──
「舞依……!」
──ルチアーノに連れ去られた、舞依の成れの果てであった。
次回は、木曜日か金曜日に投稿する予定です。




