爆発死惨 八
6
──後藤秀樹は空手家である。
シャツの上からパーカーを羽織っている彼の身体。そこには、無駄なく鍛え抜かれた屈強な筋肉がある。
その上、彼の様子や仕草の中には、わずかな隙も見当たらない。
玄人ならば、彼が競技だけでなく、路上での実戦も潜り抜けた強者だと見抜けるであろう。
その後藤の足は今、歌舞伎町に向かって歩を進めていた。
「……」
静かに歩く後藤の口元には、微笑が浮かんでいた。
時刻は午後六時過ぎである。
仕事帰りのサラリーマンや、店の呼び込みに努める従業員達の喧騒が、段々と大きくなっているのが分かる。
この町を訪れる度に、彼はいつも胸が躍っていた。
後藤は喧嘩が好きである。
正確に言うと、強い者との真剣勝負が好きである。
自分と同等か、それ以上の実力者を相手に、積み上げた空手の腕前を駆使して立ち向かうことが大好きなのである。
故に、この街を歩いていると、騒がしさの中から生まれたちょっとしたいざこざから、喧嘩っ早い連中が勝負を挑んでくるのではないかという、淡い期待が湧いて来るのである。
だが今日、彼がこの町を訪れたのは、喧嘩が目的ではない。友人であり、ライバルとも呼べる男との交流が目的であった。
ここ数ヶ月、彼とは連絡を取り合っていなかった。
だが今日の昼頃、突然彼から電話が来たのである。
さっき面白い奴と勝負したんだ、酒でも飲みながら、そいつの話をしよう───そんな内容であった。
声の調子は弾んでおり、その相手が余程気に入ったのだという様子が伺えた。
後藤はその申し出を、二つ返事で承諾した。友人が言う『面白い奴』に興味が湧いたというのも勿論ある。だがそれ以上に、数ヶ月会っていない友人の様子が気になった、というのも大きかった。
(あいつ、また強くなってるだろうな)
そんなことを考えながら、後藤は歩き続けた。
後藤は、これまでに幾多もの大会に出場し、優勝をもぎ取って来た。路上で勝負を挑まれても、誰にも負けたことがない。それほどの強さを手に入れてもなお、彼は毎日の稽古で、手を抜くことはなかった。
後藤が今も厳しい稽古を己に課す理由。
それは、その友人との『決着』を付ける為である。
友人とは小さい頃からの付き合いで、空手を始めたのも一緒であった。
これまでに何度も勝負をしてきたが、そのどれもが引き分けに終わっており、未だに決着が付いていない。
死ぬまでの間に、あいつとは決着を付けておきたい──彼はそう強く思いながら、いつも鍛練に臨んでいた。
今や友人との決着は、後藤の生きる意味となっていた。
おそらく、友人もそういう想いを抱いているであろう。
(飲みながら、再戦の申し込みでもするかな)
そう考えながら、後藤は大きく口を吊り上げた。
その時である。
「うおっ──」
すぐ近くから、何者かの声が聞こえた。
後藤が、通行人の誰かとぶつかってしまったのである。
「すいません。大丈夫ですか」
よろけている人物の身を案じる。
考え事に夢中になってしまった自分に非がある──後藤はそう思い、素直に詫びを入れた。
「ひ、ひひひひひ。危ねえなぁ兄ちゃん」
よろけた人物が、引き攣った笑い声を上げる。
その人物は、薄汚れたスーツ姿であった。
泥や煤で汚れており、鼻が曲がるような悪臭を放っている。
何故かスポーツ帽を目深に被っており、顔は見えなかった。
「はぁ、すいません……」
そう謝りながら、後藤は僅かに顔をしかめた。
堪らない臭いであった。
汗や油、そして他の何かが入り混じった、耐え難い臭いであった。
その臭いから、その人物がもう何日も風呂に入っていないのであろうという様子が伺えた。
(酷いな。何なんだこのおっさんは……)
臭いと吐き気を堪えようとするが、たまらず後藤は顔を歪めた。
後藤のその反応を見た男は、不愉快そうな声をあげた。
「ああ……? 何だその面ぁ?」
ポケットに入れた手を引き抜く。
その拍子に、ポケットから何かが零れ落ちた。
ジッポライターであった。
金色のジッポが地面に落ち、カツンと音を立てた。
それを気にも留めず、男が言葉を漏らす。
「ふひひ……てめぇ……俺を馬鹿にしてんのか?」
その様子に、後藤が眉をひそめる。
(参ったな……)
後藤は心の中で、そう独り言ちる。
彼は、売られた喧嘩は買う主義である。
不良やヤクザといったがらの悪い者や、何らかの格闘技を習得した者ならば特にである。
ただし、相手が素人なら話は別であった。
この因縁をつけてきた人物は、格闘技を習得するどころか、喧嘩の経験もなさそうな様子である。
はっきり言って、彼の中では弱者として分類されるような人物であった。
後藤は喧嘩は好きである。だが、弱いものいじめは大嫌いであった。
己が身につけた力は、強者と闘うためのものであると心得ている。
弱者をいたぶるなど、空手家失格だと思っていた。
故に、この男に拳を振り上げるような真似はしたくなかった。
それに、もしこのまま喧嘩になれば、この男に大怪我を負わせてしまうかもしれない。
そうなってしまっては面倒だ──後藤はそう思っていた。
彼には友人との約束がある。
それがお流れになってしまうことだけは避けたかった。
(適度にあしらって、その隙に逃げるか……)
そう考えていると、男がぽつりと呟いた。
「ふひ。いひひ。うひひひひ。……ナメやがって」
そしてゆっくりと、後藤に向かって右手をかざした。
「……!」
男のその行動に、その奇妙な雰囲気に、後藤は思わず身構えた。
しかし次の瞬間、後藤は己の胸に、息苦しさが込み上げるのを感じた。
同時に──目の前の男が、怒りと歓喜の入り混じった声を放った。
「死ねよ……!」
──それが。その悪意と殺意に満ちた言葉が。
後藤英樹がこの世で耳にした、最期の言葉であった。
次回は、月曜日の午前10時に投稿する予定です。




