スクルトーレ・モーストロ 十二
「……ルチアーノ……?」
衛の表情に、僅かな驚きと、怒りの感情が差した。
己に向けられた感情ではないことを分かってはいたが、それを見たマリーは、無意識に一瞬怯んだ。
「ルチアーノって……彫刻家の妖怪のルチアーノか?」
何かを押し殺したような声で、衛が尋ねる。
「……グスッ……衛のところに行く前にね。……あたし、ルチアーノに襲われたの。一回じゃなくて、何回も。最初は一人であたしを襲いに来たんだけど、そのうち、他の妖怪とチームになって、あたしを襲ってきたの」
「……庄吉とポチか」
「……うん」
──言いたくなかった。
あの頃のことを思い出すだけで辛いから、教えたくなかった。
そのことを察していたのか、今日までの間、衛もあの頃のことを積極的に聞こうとしなかった。
だが──ここまで来たら、マリーはもう打ち明けずにはいられなかった。
「……ルチアーノは、どうしてそこまでお前にこだわったんだ?」
「……あたしを、最高の作品にしたいって言ってた」
「……ブロンズ像にするために、お前を狙ってたのか」
「……うん。その時に、言われたの。『お前は低級妖怪だ」って……。『まともな妖術すら使えない、何の役にも立たないゴミのような存在だ』って……」
あの時に聞き、夢に見るほどに刻み込まれた言葉を口にする。
「……」
衛は、マリーの目を見ながら、無言で聞いていた。
口は堅く結ばれ、顔は強張り、わずかに震えていた。
「……あ、あたしのこと……『何の価値もない役立たずだ』って……! あ、あたしの命が……『ちっぽけだ』って……!」
話しているだけで、みるみるうちに涙が溢れ、頬に向かって零れていく。
一旦は落ち着いたはずの嗚咽も、またせきを切ったように出始めた。
──不意に、ギリッという音が聞こえた。
衛が歯軋りをした音であった。
結ばれた口が歪み始め、生じた隙間から、歯が覗いていた。
「っ……、あの野郎ッ……」
衛は、憎しみに満ちた顔をマリーから背けながら、小さくそう吐き捨てた。
「……その時のこと……たまに、夢で見るの……! さ、最近は、何度も見るようになって……!」
「……昨日見た夢も、その時の夢だったのか」
衛は再びマリーの目を見て、震える声で尋ねた。
泣きじゃくりながらも、マリーはゆっくりと頷いた。
「……ゆ、夢で見る度にね……。あたし、すごく悲しくて、怖くなって……。あいつがまた、あたしを拐いに来るんじゃないかって思って……。……だ、だから、頑張って、妖術覚えて、あいつを見返してやろうって思って……。……でも、結局使えなくって……! それで、また夢で見て……! 『ゴミだ』って、『役立たずだ』って言われて……! それで、また、嫌な気持ちになって……! あたし……あたし……うっ……ひぐっ……うううっ……!」
止めどなく溢れる涙が視界を覆い尽くし、衛の顔が歪んで見えてきた。
両腕で目をごしごしと拭うが、涙は止まらない。
何度拭っても、大粒の涙が零れていく。
堪らずマリーは、両腕で目を覆い隠し、顔を伏せてしゃがみ込む。
そして、嗚咽と共に、心の奥底から、言葉を絞り出した。
「あたし……あたし、悔しい……っ……! ……グスッ……ううっ……うわああぁぁ……!」
マリーは泣いた。
本心と共に溢れ出した感情を止めようともせず、その場にうずくまったまま咽び泣いた。
そうしながら、泣くことしか出来ず、何の役にも立てない自分の無力さに、ますます悔しさを感じていた。
「……マリー」
衛が、マリーを抱き寄せる。
先ほどよりも強く──しかし、優しく抱きしめる。
「……大丈夫。大丈夫だ。……大丈夫」
「うううっ……! うわぁぁぁぁぁぁぁ……!」
衛は、赤子をあやす親のように、マリーに語り掛けた。
その声を聞きながら、マリーは衛の胸の中で、ひたすらに泣いた。
胸中に溜まった嫌なものが、泣き声と共に飛んでいくまで、声を上げて泣き続けた。
「……マリー。俺の目を見ろ」
衛が、そう言った
ひとしきり泣いて、嗚咽が弱まり始めた頃であった。
「……ひっく……ううっ……!」
マリーは、衛の言葉に素直に従い、彼の顔を見た、
若干赤くなっている彼の目からは、ルチアーノに向けられた憎しみの感情は消えていた。
その代わりに、優しさと思いやりの意志が感じられた。
「いいか、マリー。お前はゴミでも役立たずでもない。お前は俺の立派な助手だ。ルチアーノみてえなクソ野郎の言葉なんざ真に受けるな。……それに、お前は妖術が使えないんじゃない。お前の中には才能が眠ってる。今はまだ、その才能が使えてないだけだ」
「ぐすっ……いいよ……無理に、慰めてくれなくても……。あたしなんて、どうせ……」
「無理に慰めてる訳じゃねえよ。昨日の夜、舞依が言ってたんだ。『マリーは、誰かを傷付ける術は向いてないけど、誰かを助けるための術に関しての才能はずば抜けてる』って」
「……え……? 舞依が……?」
衛の言葉が信じられず、目を見開く。
「お前の前では言わなかったけど、あいつは素直にお前のことを褒めてたよ。お前に厳しいこと言ってたのも、何とかして、お前に術を使えるようになってもらいたかったからなんだ」
「……そう……だったの?」
「ああ。あいつがあれだけ褒めるんだ。お前には、何か才能が眠ってると思う。きっと今のお前は……例えば……そう、あれだ。ジャムの瓶みたいな状態なんだろうと思う」
「ジャム?」
「そうだ。えっと……ここにジャムが詰まった瓶があるとする。甘くてめちゃくちゃ美味い、最高級のジャムだ。そのジャムを味わうためには、まず蓋を開けなきゃいけない。……けど、蓋がかたくて開けられない。ジャムを食べるためには、何か工夫をして、その蓋を開けなきゃいけない。温めるとか、力自慢の誰かに開けてもらうとかな」
衛はぎこちないジェスチャーを交えながら、そう解説する。
マリーはその姿を、ぽかんとした顔で見ていた。
「……きっとさ、それと同じだよ。お前という瓶の中に、才能っていうジャムが詰まってる。けど、何かがかたく蓋をしてて、中身が出なくなってるんだ。……だから、どうにかして、蓋を開けなきゃいけない」
「……どうやって? 温めるの?」
「ひょっとしたらな。本当のところは分からない。これから探すんだよ。時間はかかるかもしれないけどな。……大丈夫。皆で考えよう」
そう言いながら、衛はぎこちなく微笑んだ。
固く、不自然さが拭えない笑みであったが、その顔を見ていると、何故か胸のつかえが取れていく気がした。
「……さぁ、雨も小降りになったことだし、家に帰ろう。綾子たちも待ってるだろうしな」
衛はそう言うと、遊具の外へ出て、空を見上げた。
彼の言う通り、あれほど激しかった雨は、いつの間にかまばらになっていた。
「……そういえば、綾子ちゃんたち、どうして家に来てたの?」
マリーも遊具から出ながら、家を飛び出した時に綾子たちとすれ違ったことをふと思い出し、そう訊ねる。
「お前のためだよ」
「あたしの?」
「ああ。昨日、舞依が提案したんだ。『マリーの元気がないから、マリーと仲のいい人たちを呼んで激励会を開いてやらないか』って」
「……激励、会」
「皆、お前のことが心配なんだよ。綾子も、雄矢も、シェリーも。もちろん、舞依や俺もな。皆、お前には元気でいて欲しいんだよ。だから──ああもう、泣くな泣くな」
マリーがまた泣き出しそうな顔になったのを見て、衛は慌ててなだめた。
「……泣いたらスッキリするけど、泣いてばっかりだと、暗い気持ちになるぞ。だから、泣くのは一旦休憩だ。まずは、皆で美味いもんを腹いっぱい食おう」
「グスッ……分かった」
マリーは頷き、そのまま俯いた。
それからしばらく沈黙した後、意を決したような顔を上げた。
「……衛」
「何だ」
「……酷いこと言って、ごめんね」
「いいよ。気にしてない」
衛は、澄ました顔でそう言った。
そして、マリーを肩車すると、公園の出口に向かって歩き始めた。
「……舞依にも謝らなきゃ」
「おう。そうしとけ」
「……許してくれるかな」
「大丈夫だよ。あいつ、何だかんだで優しいからな」
「……うん」
衛の首にまたがったまま、マリーは不安げな顔で返事をした。
──マリーはそのまま、衛に肩車され、帰路についた。
外を飛び出した時は、あの公園に辿り着くまでに、永久に続くような時間がかかった気がしたが、帰るのにかかった時間は、ほんの数十分程度であった。
衛たちが住むマンションの近くまで辿り着くと、遠くに見覚えのある人影が四つ見えた。
雄矢、シェリー、綾子──そして、舞依の姿であった。
四人も、こちらの様子に気付いたらしい。
舞依が、こちらに向かって駆けて来るのが見えた。
「……さあ、肩車はここまでだ」
衛はそう言うと、肩からマリーをゆっくりと降ろした。
「……ほら、行ってきな。そんで、しっかり謝って来い」
「……うん」
緊張で、全身が強張っている。
不安で、胸が締め付けられそうだった。
マリーは、一度深呼吸をする。
新鮮な空気が体の中に入り、全身に酸素が回っていくように感じた。
「……よし」
気合いを入れるために、ぺちぺちと両頬を叩く。
それから、こちらに向かってくる舞依に負けじと、マリーも走り始めた。
二人の距離が、だんだん縮まっていく。
あと十秒もすれば、互いに顔を突き合わせる距離になる。
そこに達するまでの間、マリーは頭の中で、イメージトレーニングを行っていた。
──大丈夫、きっと上手くいく。
さっきは酷いことを言ってごめんなさい。
もう一度、妖術を教えて。
頑張って、術を使えるようになるから、もう一度、あたしにコーチをして。
そうやって、素直に謝れば、きっと許してくれる──そう思った。
あともう少しで、舞依の表情が分かるほどの距離になる。
再び、マリーの心に緊張が甦るが、それを気合いで跳ね除けた。
そして、心から謝れるように、勇気を奮い立たせながら、精一杯走った。
──直後、空から何かが降りてきた。
「えっ」
それは、マリーのすぐ目の前に着地した。
人の形をしていた。
痩せ形で、薄汚れたシャツを着ている。
髪は長くぼさぼさで、頬がこけ、剃り残した髭がある。
そして、目が明らかにおかしかった。
奥底にどろどろとした狂気をはらんだ、奇妙な目をしていた。
「……あ。……あ」
──雨が、強くなった。
マンションなどの建物が消え失せ、木が生えて来る。
木は無数に生え、やがて森になる。
舗装された道が朽ち、濡れた土へと変わっていく。
マリーの目の前の光景が、何度も夢に見た、『あの日の夜の森』へと変わっていく。
「……あ……! あ、あ、あ、あ、あ……!!」
マリーの顔が、無へ。
無はやがて大きく歪み始め、恐怖の表情へと移り変わっていく。
「……久しいな。迎えに来たぞ、少女よ」
その『妖怪』──ルチアーノは、微笑みながらそう言った。
──直後、マリーの口から、恐怖と絶望の悲鳴が放たれた。
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」




