スクルトーレ・モーストロ 九
8
滴り始めた雨粒に身を濡らしながら、ルチアーノはアパートの屋根の上に佇んでいた。
彼の血走った目は、地上の『彼女』を捉えている。
西洋人形の少女、マリー。
彼女は今、住居としているマンションから飛び出し、追われる獣の如く疾走していた。
「ようやく、この日が来たか」
ルチアーノが、小さく独りごちる。
その顔に、笑みはない。
しかし、血走った両の眼の中に、確かな高揚感と緊張が宿っていた。
「……む」
マリーから目を離し、彼女が走ってきた方向に顔を向ける。
その先に、青年の影が一つ。
──退魔師、魔拳・青木衛である。
立ち止まり、何かを探すように周囲を何度も見渡し、そして走っていた。
「く……!」
ルチアーノの顔が強張り、肌の上を冷や汗が伝う。
あの夜に目にした光景と、体験した出来事の記憶が、例えようのない恐怖となって甦ってきた。
「はあ……はあ……!」
恐怖に喘ぐルチアーノは、懐に震える手を入れ、ゆっくりと引き出した、
手の中に握られていたのは──縦に長い、円柱状のカプセルであった。
中には、タールのようにねっとりとした、黒色の液体が詰まっている。
カプセルの先端には、目を凝らしても見えないような、小さい五つの穴が空いている。
その反対側には、ポールペンに取り付けてあるような、小さなスイッチがあった。
「はぁ……はぁ……!」
ルチアーノは、カプセルの穴の空いた面を、己の首筋に押し当てる。
そして、先端のスイッチを、力強く押し込んだ。
「ぐむ……ッ!」
首筋に走る鋭い痛み。
同時に伝わってくる、皮膚を突き破り、液体が体内に流れ込む感覚。
ルチアーノの中に渦巻く恐怖と不安は、次第に興奮と安心へと変わっていく。
やがて、体の奥底から、底知れぬ何かが湧き上がって来る。
湧き上がる何かは、やがて全身を循環し、力強いエネルギーとなっていった。
「っ……はぁ……はぁ……!」
首筋からカプセルを離し、中腰で荒い息を吐く。
そして、手の中のカプセルを見た。
カプセルに空いた穴からは、細く短い五本の針が飛び出していた。
針の先端には、血と混ざり合っている黒色の液体が僅かに付着していた。
「……何も恐れることはない。『これ』さえあれば、私の邪魔をする者などいない……!」
ルチアーノはそう呟くと、口の端を歪め、低い声で笑った。
「……待っているがいい、少女よ。貴様に真の絶望を抱かせてやろう。私の求める、究極の美へと至るために。……そして──」
直後、ルチアーノの表情が、憎しみを剥き出しにしたものへと変わる。
彼の視線は、カプセルから、周囲を見渡しながら走る青木衛へ、再び移った。
「覚悟するがいい、魔拳よ……! 貴様を命を奪うのは、このルチアーノだ……!!」




