スクルトーレ・モーストロ 二
2
「──ああああああああああっ!!」
断末魔の如き絶叫を上げながら、ルチアーノはソファーから跳ね起きた。
顔面は血の気が失せて蒼白になっており、肌の上には大粒の汗が無数に張り付いていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!?」
荒い息を繰り返しながら、ルチアーノは混乱した様子で周囲を見回した。
──暗いが、森の中ではない。今は、数ヶ月前の『あの夜』ではない。
ここは、自身の住処だ。あの森とは違って安全な、自慢の隠れ家だ──そのことを理解し、ルチアーノは大きく安堵の息を吐き出した。
「……クソッ」
安堵した直後、ルチアーノは苛立たし気に悪態をつき、ソファーから立ち上がった。
そして、テーブルの上に置いてある瓶を手に取り、中の安酒を勢いよく呷った。
最悪な夢であった。
あの夢を見るのは、今回が初めてではない。
何度も何度も、あの夢を見た。
数ヵ月前の、あの雨の夜──西洋人形の妖怪を追い掛ける最中、怪物の如き退魔師の襲撃を受けた、あの時から。
それ以来、ルチアーノはトラウマに苦しみながら、惨めな生活を送っていた。
腕を折られたせいで、妖術を使えず、ろくに獲物も襲えない。
退魔師や、他の妖怪の襲撃に怯えながら、ネズミのようにこそこそと隠れて生きていかなければならない。
全てはあの退魔師と、自分の申し出を突っぱねた西洋人形のせいだ──トラウマに苛まれる心の裏側で、ルチアーノはそんなことを考えながら、憎悪の炎を燃やし続けていた。
しかし、そんな生活も終わりを迎えた。
退魔師に複雑に折られた右腕は、正常な形を取り戻した。
手先も、かつてのように自由に動かせるようになった。
右腕さえ治ってしまえば、あとはルチアーノの思いのままであった。
生活も。狩りも。──そして、復讐も。
「……ふう」
酒を飲み干したルチアーノは、空き瓶を床に放り捨てる。
一泊した後に響き渡る、ガラスの割れる音。
それとほぼ同じタイミングで、高く小さな悲鳴が聞こえた。
女の叫び声であった。
「……」
ルチアーノは、ふらふらと壁まで歩み寄り、そこに設置してあるスイッチを押した。
途端に、薄暗かった部屋の中が、光で照らし出された。
──広い部屋の中央には、九体のブロンズ像が置かれていた。
それぞれ、ポーズが違っている。
両手を前に掲げて制止を促すようにしているもの、頭を抱えてしゃがみ込んでいるもの、へたり込んだまま後退ろうとしているもの。様々なポーズの像が並んでいる。
共通するのは、九体とも女性の姿をしていること。
そして、九体全てが、恐怖の表情を浮かべていること。
それら九体の傍らに──ブロンズ像ではない何かがいた。
ワンピース姿の女性である。
天井から吊るされたロープで、頭の上で両手首を縛られたまま立たされていた。
騒がないよう、強力なガムテープで口を覆い隠されている。
怯えの色に染まった瞳の下には、涙の乾いた跡が残っていた。
「……再開だ」
ルチアーノはそう呟くと、女性のガムテープを勢い良く剥がした。
「──!」
女性の口から、声にならない小さな悲鳴が迸った。
瞳の中の怯えの色に、恐怖の色が溶け込んだ。
「い、いや……やめて……! 助けて……!」
女性が、涙を浮かべながら命乞いをする。
「お願い……助けて……! 『この人たち』みたいになりたくない……!」
ルチアーノは、無精髭の生えた口を、女性の耳元に近付けた。
「シーッ……静かに。手元が狂う」
無感情な声で、そう囁く。
そして、左手を女性の腹部にあてた。
ゆっくり、指先で女性の体の上をなぞっていく。
指は、腹から胸へ。胸から首、そして顎へ。
そのまま、顎を指先で軽く引き、女性の目を見て──右の手で、平手打ちを見舞った。
「きゃっ!?」
部屋の中に、乾いた音と、悲鳴が響いた。
「っ!」
「ひっ!?」
返す手で、もう一度平手を見舞う。
少女の瞳の中の恐怖は、顔全体を経由し、やがて全身へ、震えとなって広がっていった。
「……ふむ。いいぞ」
ルチアーノはそう呟きながら、女性の頬を右手でゆっくりと撫でた。
「……恐いか。いいぞ。お前の中の恐怖が広がっていくのが分かる。その調子だ」
「ひ……ひ……!?」
女性は、恐怖に顔を引きつらせながら、そのまま撫でられ続けた。
その姿には、抵抗しようという意志も、反抗的な感情も感じられなかった。
ルチアーノが次に何をしてくるのか分からぬまま、怯えて身構えることしか出来ない様子であった。
「……だが、やはり」
──不意に、ルチアーノの表情に苛立ちの色が差した。
直後、右手を女性の頬から離し、彼女の足元へかざした。
「……絶望が足りない」
──次の瞬間、ルチアーノの右手から、サッカーボール大の物体が放出された。
緑青色をしたそれは、揃えられた女性の両脚に向かって凄まじい速度で直進し、激しい音を立てながら着弾した。
「きゃああああっ!」
女性は一際大きな悲鳴を上げながら、苦痛により表情を歪めた。
直後に、その表情に戦慄が表れた。
──女性の足が、青銅へと変わっていた。
ルチアーノが放った物体が、直撃した箇所。
その周辺が、ブロンズでコーティングされた状態に変わっていた。
「ひ──!?」
女性が声を引きつらせる。
それと同時に、無機物と化した足に、更なる変化が生じた。
緑青色に変わっている箇所が、範囲を拡大し始めたのである。
爪先から、膝へ。
膝から太腿。
そして、脚の付け根、腹部。
まるで、水溜りに浸したハンカチが、ゆっくりと水気を吸い込んでいくかののように、女性の体をブロンズが侵食しているのである。
「い、いや、いやあああっ! や、やめ、助けてっ、助けて……!」
泣き叫びながら、激しく取り乱す女性。
そんな彼女の左肩に、ルチアーノは右手をかざした。
──次の瞬間、ブロンズ弾を射出。
直後、今度は女性の右肩に手を向け、もう一発撃ち込んだ。
「きゃああああっ!!」
女性の両肩が、ブロンズへと変質する。
そこを源とし、胸が、吊り上げられた腕が、身にまとうワンピースまでもが、みるみるうちに無機質な物体へと変わっていく。
もはや、彼女の肉体でブロンズ化していない箇所は顔のみ。
そこさえも青銅の物体へと変わってしまえば、彼女は完全なブロンズ像と化す。
「や、いや、いやあああっ! お母さん! 助けて、お母さん、助け……!」
「……何、怯えることはない」
ルチアーノは、狂乱する女性の頭を撫で、再び耳元で囁いた。
「お前は死ぬわけではない。私の手で、生きたまま彫像へと変わるだけなのだ。時が来れば、お前を元の人間に戻してやろう」
そう言うと、ルチアーノは女性の目を見つめた。
涙で潤った女性の瞳に、僅かな希望が芽生えつつあるのが分かった。
その様子を確認したルチアーノは、静かに微笑み──低い声で呟いた。
「……まあ、その時が来ることはないがな」
「……えっ」
「……お前はもう人へは戻れん。生きることも死ぬことも出来ぬまま、私の作品として現世に留まり続けるがいい」
そう言うと、ルチアーノは女性のほうを向いたまま、後ろに数歩下がった。
「……いや」
女性が呟いた。
その姿に、芽生えかけたはずの希望など残ってはいなかった。
代わりに──深い恐怖と絶望が、女性の顔と瞳に刻み付けられていた。
「いや、お願い、助け──」
──直後、ルチアーノは最後の一発を撃ち出した。
弾は、唯一ブロンズ化していなかった顔面に直撃し、小さな粉塵を撒き散らす。
粉塵が薄れていくと──そこには、ワンピース姿の女性の全身像があった。
女性の彫像には、希望を崩され、絶望の淵へと叩き落された瞬間の表情が浮かんでいた。
「……」
ルチアーノは無表情で、再び彫像と化した女性に歩み寄った。
そして、絶望の表情を浮かべている顔を、右手で優しく撫でた。
しばらくルチアーノは、女性の顔を撫で続けた。
「……違う」
不意に、ルチアーノが震える声で呟いた。
何かを踏ん張って堪えるような声であった。
「……違う。……違う、違う!!」
その時、ルチアーノが怒号を放った。
表情に浮かぶのは、苛立ちから生じた激しい怒りの感情であった。
「違うのだ! 恐怖も絶望も、全く足りていないではないか!! 何故作れない!! 何故私には作れないのだ!! 何故だ!?」
怒鳴り散らしながら、ルチアーノは女性の額に、自らの額を打ち付けた。
そして、希望を打ち砕かれたまま固められている女性の瞳を、激しく睨みつけた。
「やはり、この女どもでは駄目だ!! 駄目なのだ!! 私が表現したいものは、この女どもでは生み出せんのだ!!」
そう叫ぶルチアーノの目から、一筋の涙が流れ落ちた。
透き通った涙ではない。
赤黒く輝く、どろどろとした血涙であった。
「……やはり……あの少女でなければ駄目だ……! 彼女をモデルに使わなければ、私の満足する作品は完成しない……!!」
ぶつぶつと呟き、背後の壁に向かって早足で歩く。
「彼女が浮かべる、恐怖と絶望の表情は格別だ……。彼女を絶望の奥底に叩き落せば、素晴らしい傑作が完成するはずだ……。そのためにも──」
ルチアーノが、壁のすぐそばで立ち止る。
目の前にあるのは、壁に貼られた、一枚の真新しい写真であった。
──そこに映っているのは、三人の人物。
ルチアーノが追い求める、西洋人形の妖怪である少女。
その友人の、市松人形の妖怪。
そして──数ヶ月前に、ルチアーノたちを襲撃した、あの魔拳の退魔師であった。
「──あの少女は、私がいただく……!」
唸るようにそう言うと、ルチアーノは写真の真横に、拳を叩き付けた。
次回の投稿日は未定です。目処が立ち次第、あらすじ冒頭のお知らせに追記いたします。




