妖花絢爛 三十八
「そ、其方、何をしておる! 離れよ、その桜に触れるな、離れぬか!!」
桜花は狼狽しながら、桜の傍らに佇んでいる雄矢を叱りつけた。
「ああ? 桜ァ? こいつがどうかしたのか──よッ!!」
雄矢はそう言いながら、そびえ立つ桜の幹を目掛け、渾身の右正拳を叩き込んだ。
「ッ……! ギャアアアアッ!!」
直後、桜花が激しく悶え苦しみ始めた。
まるで、殴られた桜の痛みを代弁するかのように。
「お、おのれ……! よくもその桜に! 我が愛しの桜に傷を付けたな! まずは其方から血祭りに──!!」
怒り狂う桜花の体が、うっすらと消え始める。
同時に、妖桜に咲いた花が、その輝きを強め始め──。
「うりゃあッ!!」
──その時、雄矢が右の回し蹴りを、妖桜の幹に向かって叩き込んだ。
すると、妖桜の強い発光現象が止み、元の明るさへと戻った。
「ギャアッ!?」
直後、桜花の悲鳴が上がる。
彼女の体は、直前のように薄れておらず、はっきりとした姿を現していた。
「お、おのれ……其方……!!」
桜花はその場で膝をつき、腹を押さえる。
そして、憎悪と殺意を瞳に滾らせ、雄矢をキッと睨みつけた。
しかし──雄矢は怯まなかった。
桜花の視線をしっかりと受け止めた上で、依然として勝ち誇ったような表情のまま、桜花を見下ろしていた。
「ヘッ、やっぱり思った通りだったな。アンタが消えたり現れたりする時に、このデカい桜の花の輝きが一瞬強くなるんだ。それを見て、妙だと思ったんだよ。まるで、この桜がアンタの行動に反応してるように感じたからな。……それで、考えたのさ。『この桜を攻めれば、何か状況が変わるんじゃねえかな』──ってなァッ!!」
言い終わると同時に、雄矢がまた桜に向かって右拳を打ち込んだ。
「ぐ──ギャアアアッ! あ、が、ぁあああ……!」
桜花が悲鳴を上げ、その場に倒れ伏し、身を捩って苦しみ喘いだ。
その様を見た雄矢は、鼻を一つ鳴らした。
「俺は最初、『妖桜が術を使って、アンタの姿を消しているんじゃねえか』って思ってたんだ。だが、違ったみたいだな。俺は妖怪についてはド素人だが……それでも、てめえのその反応を見れば一目瞭然よ。……つまり!!」
「キャアアアアッ!?」
雄矢がまた妖桜に攻撃を加える。
桜花は倒れたまま、自身の身に走る激痛に悲鳴を上げた。
「この妖桜自体がァッ!!」
「ガアアアッ!!」
「桜女郎のォッ!!」
「イヤアアアアアッ!!」
「本体ってこったァアアアアッ!!」
「ギャアアアアアアアッ!!」
雄矢は何度も──何度も何度も、妖桜に向かって自慢の空手を振るった。
その度に、桜花は苦しみ、口から絶叫を迸らせた。
美しい着物が汚れることすら気にせず、土の上をのたうち回っていた。
「あ、あ、あ、ああああ……。痛い……痛い……! 痛い痛い痛い……! おのれ、おのれ虫けらどもぉぉぉ、ううううう……!」
桜花は上体を起こし、子どものように泣きじゃくりながら、弱々しい目付きで雄矢を見た。
その両目からは、真っ赤に染まった血の涙が止めどなく溢れ出ていた。
髪は乱れ、着物は土で汚れ果てている。
その姿からは、あの美しく優雅な姿の面影は、欠片ほども感じられなかった。
直後──桜花の目付きが、再び殺気を帯びたものへと変貌する。
よろよろと立ち上がり──そして、吠えた。
「よくも、我が桜に向かってえええええええ!」
同時に、雄矢に向かって進み始めた。
始めはふらふらとした足取りであったが、その速度は徐々に上がり始め、短距離走の選手の全力疾走と並ぶ速度へと達していた。
「クッ……!」
──このままでは、あと数秒でこちらに到達する。
そう判断した雄矢は再び、妖桜に向かってラッシュを敢行する。
しかし、桜花の進撃は止まらない。
時折、身を捩り速度を落としたが、それでも足を止めることなく、痛みを憎悪で塗り潰し、堪えながら進み続けている。
「死ィぬゥがァよいわァァアアアアアッ!!」
桜花が叫び、汚れた鉄扇を掲げる。
そして、そのまま雄矢に振り下ろそうと進み続け──
「アアアアアア──む!?」
──その足が、止まった。
雄矢に到達するまで、残り十メートル。
そこで、桜花は完全に静止した。
──そして、次の瞬間。
「おのれ、逃がすかァアアアアッ!!」
突如、桜花がそっぽを向き、明後日の方向に向かって走り出した。
そして、妖桜と雄矢から二十メートルほど離れた場所で停止。
そのまま、振りかざした鉄扇を、力任せに振り下ろした。
「よくも、よくも我が桜に向かって! 喰らえ、喰らえ虫けら! 喰らえェエエエッ!!」
絶叫を上げ、何度も何度も、鉄扇を振り下ろす。
何もない場所に向かって、執拗に降り続けている。
その姿を、桜の傍らの雄矢は、呆気にとられた表情で見ていた。
「ははははは! どうした虫けら! 先ほどまでの憎たらしい顔はもうせぬのか! 良い気味だ! そら、喰らえ、喰らえッ!!」
桜花が笑い、もう一度鉄扇を振り下ろした。
そこには、誰もいない。
何もない、誰もいない場所に向かって、何度も鉄扇を振り続けている。
しかし──今の彼女には、額が割れ、鮮血を迸らせながら苦悶する雄矢の姿が、目の前にいるように見えていた。
桜花は、その雄矢がまやかしであることにも気付かず、ただ力任せに鉄扇を振り続け、狂ったように笑い声を上げていた。
桜花の笑い声を聞きながら──その影で、苦痛を堪えながら微笑む者がいた。
シェリーである。
彼女こそが、桜花に異変をもたらした犯人であった。
現在シェリーは、体に妖桜の根が絡み付いた状態で埋められている。
雄矢が語った桜花の正体を聞いた彼女は、すぐさま自らの超能力『D.I.T.H.』を使用し、体に絡んだ根から妖桜を経由して、桜花の心の中に侵入。
そして、桜花の目に、雄矢の幻覚が見えるよう、細工を施したのである。
「喰らえ、喰らえ、喰ら──む? な、何!?」
その時、桜花が空を叩く動作を止め、周囲をキョロキョロと見渡し始めた。
雄矢の幻覚が、桜花の視界から消え失せてしまったのである。
シェリーは妖桜に生気を吸われたことで、体力を消耗していた。
そのため、数秒ほどしか能力を使用することが出来なかったのである。
しかし──それで充分であった。
数秒でも、十分な時間稼ぎになった。
あとは、彼女たちが引き継いでくれる──シェリーはそう思いながら、自分を守ってくれていた二人の人形妖怪を見た。
「おーい! こっちよ、このおばさーん!!」
マリーが、桜花に向かって若干芝居かかった挑発を行う。
「……! 誰だァアアア──!!」
凄い剣幕で、桜花がマリーへと顔を向けた。
次の瞬間──
「今よ舞依!」
「ぬううううん……!」
回復した妖気を使い、舞依が念力を発動する。
標的は、こちらを向いたばかりの桜花の顔。
投擲する物体は──マリーが地面の土を丸めて作った、人頭大の泥団子。
「うおりゃああああっ!!」
空洞に響き渡る気合いの咆哮。
それとともに放たれる泥団子の砲弾。
気付いた桜花は、姿を消そうとしたが──
「オラァッ!!」
「ぐうッ!?」
──雄矢による桜への打撃の痛みで、姿を消すことが出来ない。
そのまま、泥団子は真っ直ぐに宙を突き進み──
「あぶッ──!?」
──桜花の顔面にへばり付き、彼女の体を勢いよく吹き飛ばした。
「やった、ナイスよ舞依! ざまーみなさい、この性悪女!」
「女の生気がたっぷり含まれた土での泥パックじゃ! 死化粧前のお肌のケアにはちょうどよかろう! ふはははははは!」
両者は溜飲が下がったような清々しい笑顔を浮かべながら、桜花に挑発を繰り返す。
「ぶッ──お、おのれ……忌々しい雑魚妖怪の分際でェッ……!」
桜花はわなわなと震えながら、顔面にへばり付いた泥を剥がし、口の中のものを吐き捨てた。
そして、マリーと舞依を抹殺しようと考え──その直後、雄矢の存在を思い出した。
雑魚の挑発に乗っている場合ではない。
今すぐあの虫けらを殺し、桜を守らねば──そう思い、桜花は妖桜を見た。
そのすぐ傍らには、やはり雄矢がいた。
ちょうど、再び妖桜への攻撃を再開しようとしているところであった。
「く……!」
泥と血涙と憤怒に塗れた表情で、桜花が足を踏み出す。
ただの人間でありながら、現時点で一番の脅威となっている男を殺すために。
だが──
「おい」
「う!?」
──桜花は、前へと進めなかった。
地獄の底から轟くような声と共に、桜花の体が後ろへと引っ張られたのである。
思わず桜花は、恐る恐る背後を見た。
──そこに、衛の顔があった。
仲間の時間稼ぎのおかげで、僅かながら疲労が回復したのである。
衛は、猫の首根っこを掴むかのように、着物の後ろ襟を鷲掴み、桜花を捕らえていた。
そして、半開きになった目で桜花を見つめ、静かに口を結んでいた。
そこから読み取れる感情は、『無』。
何を考えているのか、何をしようとしているのか全くわからない、『無表情』という名の表情が、衛の顔に貼り付いていた。
「……好き放題やってくれたな」
衛が呟いた。
その声色は、表情と同じく感情を読み取れないほどの、低く、冷たい声であった。
「は、離せ醜男! この手を──」
「……貴様は、許せねえことを散々しでかしてくれた」
「え?」
「……俺の仲間を拐い、危険な目に遭わせた。……俺だけでなく、俺の仲間にも攻撃し、怪我を負わせてくれた。……おまけに、醜男醜男と、人が気にしてることを何度も言ってくれた。……だが」
その時──衛の両目が、大きく見開かれた。
無表情という名の仮面が崩れ落ち、悪鬼羅刹と並べても遜色ないほどの憎悪に満ち溢れた表情が、衛の顔に具現した。
「俺が何より、一番許せねえのは……!!」
「ひ、ひっ──!?」
「私利私欲のために、多くの女性の心と命を弄び!! それを心の底から嘲笑ったことだ!!」
衛は怒号を上げると、左手で帯の後ろを掴み、両腕に力を込め、桜花の体を持ち上げた。
「な、なな!? は、離せ、離さんか──う、ぐゥッ!」
桜花は宙に掲げられたまま、じたばたともがいて逃れようとする。
しかし、衛の両手が着物をしっかりと掴んで離さない。
一度姿を消そうにも、雄矢が未だに妖桜を攻撃しているため、痛みで消えることも出来ない。
衛は桜花を掲げたまま走り始めた。
彼が何をしようとしているのか、桜花には全く理解できなかった。
──彼の足が、枯人となった女性が這い出て来た、深い穴の前で立ち止るまでは。
「そんなに肥料が欲しいなら──!」
「お……!? お、お、お、お!?」
衛は、その穴を目掛け──
「てめえが肥料になりやがれェエエエエエエエッ!!」
「お、あああああッ!?」
──咆哮とともに、桜花の体を叩き込んだ。
「こ、これは……!? ぐ、ぐぅっ! だ、出せ醜男!! ぐッ、ここから出さぬかァッ!! ガアアアッ!!」
桜花の体は、爪先から肩に掛けて、穴の中に埋め込まれていた。
何とか這い出ようと肩を揺らすが、完全に穴の中にすっぽりとはまっており、びくともしない。
「そこが貴様の特等席だ。しっかりと目に焼き付けろ。貴様の愛する桜が迎える、最後の姿をな!!」
桜花を見下ろしながら、衛はそう吐き捨てた。
そして、巨大な木に向かって打撃を続けている雄矢を見た。
「はぁ……はぁ……。畜生、殴り応えはあるけど、これじゃあ夜が明けちまうな……!」
雄矢はそういい、額の汗を力強く拭った。
妖桜の幹には、雄矢の打撃痕が無数に刻まれている。
しかし、妖桜は依然として、地面にしっかりと根付いたままであった。
「おーい衛! ちょっとは回復出来ただろ! 桜に抗体流し込んで、全部終わらせちまえ!!」
「ああ、任せろ!!」
衛が応じ、助走をつける構えをとるべく、右足を後ろに引いた。
その足に、抗体の赤い光が灯る。
最初は弱々しい輝きであったが、徐々に炎が燃え上がるかの如く強まっていく。
「──ッ!!」
そして──衛が駆け出した。
右脚が地面を踏みしめる度に、赤い輝きの残滓が足跡のように地面に刻まれていく。
「や、やめろ! 頼む、止めてくれ! それだけは止めて、止めてええええっ!!」
遠のく衛の後ろ姿に向かって、桜花が命乞いの悲鳴を上げる。
しかし、衛は止まらない。
トドメの一撃を見舞うべく、徐々に加速をつけながら、巨大な桜の怪物に向かって疾走していく。
そして、十分な加速をつけて跳躍し──
「でやァアアアアアアアアアッ!!」
──妖桜の幹に、疾空脚を叩き込んだ。
「──ッ!! イヤアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
桜花の悲鳴が周囲に轟く。
同時に、桜色の輝きを帯びた妖桜が、禍々しい赤光に包み込まれた。
抗体が桜の幹を、枝を、そして咲き誇る花々を分解し、塵へと変えていく。
「あ、あ、あああああ……!」
その時、桜花にも変化が生じた。
穴にはめ込まれ、突き出た桜花の頭部が、モザイクがかかっているかのように、あやふやな姿へと変わっていく。
同時に、未だに蠢いている数体の枯人にも、終わりの時が訪れた。
朽木のように干からびた体が震えたかと思うと、急速に体が崩壊し始めた。
そして、粉塵を上げながら壊れ──その場で粉々に砕けていた。
生ける屍は、これで全て、真の死を迎え入れたのである。
「き、消える……私が、桜が、美が、消えていく……! こ、こんな、こんな、人間どもに、わ、私が、私があああああ……!」
桜花は、自らの体が分解されていく痛みと恐怖を味わいながら、激しくむせび泣いていた。
そして、血涙が零れ続けるその瞳に、再びほの暗い殺意の灯火が宿った。
「口惜しや……口惜しや……! こうなれば……せめて、其方らを道連れに……!」
桜花がそう呟き、最後の力を振り絞る。
直後、穴の縁が崩れ、その隙間から右腕が這い出てきた。
「……!」
雄矢はその様子に気付き、すぐさま振り返った。
──衛は今、なけなしの体力を振り絞った攻撃により、再び地面に膝をついている。
桜花を止められるのは、もはや雄矢しかいなかった。
「往生際が──!」
雄矢は叫び、全速力で駆け出した。
その勢いのまま、穴に埋まった桜花を目掛けて跳躍。
桜花が、ひきつった顔でこちらを見上げている姿が見えた。
そこへ、落雷の如き右正拳の一撃を──
「──悪いんだ、よォォッ!!」
──着地と同時に、豪快に叩き込んだ。
「ぶ──ギャァァァァ! アアアアアアアアアアアッ……!!」
桜花が断末魔の叫びを上げた。
悲哀と怨念のこもった、凄まじい叫び声であった。
雄矢の一撃により、分解され始めていた桜花の顔が、更に荒いモザイク状の姿へと変わっていった。
そのまま、桜花は姿を保てなくなり──塵と化し、四散した。
穴の奥底にも、桜花の残りカスはなかった。
二度と桜花は、空洞内に姿を現すことはなかった。
「衛、大丈夫か!」
雄矢は、桜の傍で腰を下ろす衛に素早く駆け寄った。
「ほら、立てよ。早く生き残った人たちを助けて、こんなとこからとっととおさらばしようぜ」
「はあ……はあ……。……ああ、そうだな……」
衛は、荒い呼吸を繰り返しながら、そう答えた。
そんな彼に、雄矢は肩を貸し、桜に背を向けて歩き始めた。
「クソ……腹が減った……」
「ああ、俺もだよ。後でメシ行こうぜ。お前の奢りでな」
「フン……別に構わねえが……高いもんばっかり頼み過ぎるんじゃねえぞ……」
「おいおい、お前金持ってるじゃねえか。少しくらい奮発して──って、おお……」
衛を支えながら歩く雄矢が、不意に振り向き、足を止めた。
「……おい。見ろよ衛」
「ん……?」
雄矢に促され、衛もまた振り向く。
そして、わずかに目を見開いた。
そこにあったのは──正しく、絶景であった。
抗体に包まれた桜は、枝に咲いたいくつもの花を次々に散らせ、最期の時を迎えていた。
ひらひらと宙を舞い踊る無数の花びらも、その一枚一枚に抗体の輝きが宿っていた。
赤く燃える花びらは、ゆっくりと地に落ちると同時に、粉雪のように地面に溶け、消えていった。
世にも奇妙な、真っ赤な桜吹雪。
その幻想的な光景に、両者はしばし、目を奪われた。
「見事な桜吹雪だな。こうして見ると、化け物桜も中々綺麗じゃねえか」
「よせよ。どうせ見るなら普通の桜か、遠山の金さんのほうがいい」
「ヘッ。違いねえや」
疲労困憊した衛の答えに、雄矢は思わず苦笑した。
次回、『妖花絢爛』完結です。




