妖花絢爛 三十五
──その瞬間、空洞内の時が止まった。
主人や己たちを脅かす者に向かっていく枯人たち。
妖桜に生命力を吸われ、苦悶する女性たち。
念力のために、妖気を練ろうとしていた舞依。
主人の闘いを、固唾を飲んで見守っていたマリー。
苦しみ喘ぎながらも、耐え忍んでいたシェリー。
未だ鉄扇を受け止めつつ、憐みの表情を浮かべ続ける衛。
そして──嘲笑を浮かべたまま固まっている、言葉を投げ掛けられた張本人の桜花。
唯一の例外は、妖桜へこそこそと歩を進み続ける、進藤雄矢のみであった。
彼以外の全てのものが、瞬間的に凍り付いてしまったかのように静止していた。
「…………。…………。…………は?」
沈黙を最初に破ったのは、桜花であった。
顔には未だに笑みが浮かんでいたが、目は見開かれ、頬はぴくぴくと引きつっていた。
「……い、今……な、何と、お、お仰ったのかしら……?」
「『ババア』っつったんだよこの『ババア』。 耳が遠くなってんのか『ババア』」
「ば……ばば……!?」
桜花は、金魚のようにぱくぱくと口を開く。
自分がぶつけられた言葉の意味が、まるで理解出来ないとでもいうように。
その隙に衛は、温存していた抗体を練り、全身に循環させ始めた。
そうしながら、桜花への罵倒を継続した。
「おう、『ババア』だ『ババア』。パッと見て『若くてすげえ美人だ』と思ったけど、よく見たらただ念入りに若作りしてるだけのブスじゃねえかこの『ババア』」
「わ……わか……づく……ブ……ス……!?」
桜花の表情から笑みが消えた。
怒りの奔流を堪えるかの如く、歯をギリギリと噛み締めて、額とこめかみに筋が浮かび上がっていた。
衛は、桜花の表情を見ても、罵倒をやめなかった。
それどころか、内容をより過剰にしながら、一層ねっとりとした口調で、桜花を煽り続けた。
「しかもあれだ……近くで見たら、皺の跡残りまくりじゃねえか『ババア』。おまけに粉まで吹いてんじゃねえか『ババア』。しっかり肌のケアしろよ『ババア』。厚化粧でごまかしてんじゃねえよ『ババア』。歳考えろよ、このブスでアバズレな『クソババア』」
「な……ッ……ぐ……こ、こ……の……この……!!」
わなわなと、桜花が震え始めた。
白く透き通った美しい肌が紅潮し、両の目尻が天を衝かんばかりに吊り上がる。
やがて──桜花の中で煮え滾っていた怒りは、最高潮に達した。
「こンの──」
右の鉄扇に込めた力を抜き、受け止めている衛の両腕から素早く離す。
そして、それを高らかに振り上げ──
「──愚かで醜悪な人間めがァァアアアアアッ!!」
──憎悪の絶叫と共に、衛に向かって振り下ろした。
(今だ!!)
振り下ろされた鉄扇を、衛はギリギリまで引き付けた後、わずかに横へ移動して回避。
同時に、全身を循環する抗体を用い、身体強化の術を肉体に施す。
直後、二つの鉄扇による横薙ぎの打撃が、衛を強襲する。
衛は上体を傾けスウェーし、これらを躱した。
強化術を施していなければ、反応と行動が共に遅れ、負傷していたであろう。
「よくも!! 私に!! 私に向かって!! よくも!!」
力任せに鉄扇を叩き付けて来る桜花。
衛はそれらを躱し、あるいは捌く。
対応が遅れた攻撃は、腕で受け止めた。
身体強化により肉体の強度は上がってはいたが、それでも骨が軋む音が聞こえた気がした。
「貴様、貴様! 美しい私に向かって! 万物の頂点に立つ私の美に向かって! 何と申した! 申してみよ醜男! 取り下げることなど許さぬぞ醜男!! その口と醜い顔を引き裂いてくれるわァアアアアーッ!!」
「何キレてんだ『ババア』。もしかして図星を突かれてちっぽけなプライドに傷でも付いたか『ババア』。そりゃあ悪かったな『ババア』。謝るよババア。許しておくれよ『クソババア』」
「ぬゥ──オオオーッ!! おのれェエエーッ!!」
ババアババアと連呼されたことにより、桜花のボルテージが更に急上昇する。
もはやその顔に、あの妖艶な美貌など残っていなかった。
彼女の顔にあるのは、憎悪と殺意によって禍々しく歪んだ、般若の如き形相であった。
更に激しさを増す攻撃を、衛は強化した肉体を駆使して、的確に防いでいく。
そうしながら、衛は内心ほくそ笑んでいた。
──桜花は、自身の美貌に絶対的な誇りを持っている。
己こそが最上の美たる存在であり、美の化身であると考えている。
故に桜花は、己の美が汚されるような行為を絶対に許さない。
衛が泥を蹴り飛ばして着物を汚したり、衛が言い放った『アバズレ』という言葉に激昂したのが、何よりの証拠だ。
ならば、その誇りを汚してやれば──思い切り罵倒し、挑発してやれば、更に激昂するのではないか。
そして激昂した末に、衛に対して怒り狂い、周囲が全く見えなくなるのではないか──そう考えたのである。
結果──桜花は衛以外が見えぬほどに激昂した。
衛の目論見は、見事に当たった。
否──当たったどころではなかった。
それどころか、大成果を挙げたといっても過言ではなかった。
何故なら、桜花の行動が、比較的読みやすくなったためである。
桜花の攻撃は、より激しさを増し、速度・威力ともに凄まじいものとなった。
しかし、消失と出現の際に、僅かに隙が生まれ始めたのである。
この僅かに生じた隙と、身体強化により──反撃を行うことは出来なかったが──桜花の出現に備える時間が出来、衛は攻撃を防ぎやすくなったのである。
(……行ける。この調子なら、もうしばらくは持つはず。その間に、あいつが事を起こしてくれるはずだ)
衛は神経を研ぎ澄ませ、桜花の攻撃を素早く防御する。
──鉄扇による刺突。
横に受け流していなければ、左目が使い物にならなくなるところであった。
──桜花の姿が、また消失する。
その隙に、足を動かし続けている雄矢を見た。
──雄矢もまた、衛の闘う姿を見ていた。
(こいつは引き受けた。雄矢、後は頼むぞ……!)
衛は頷き、心の中で、友にそう呼び掛けた。
そして、すぐさま周囲を探り、桜花の出現に備えた。
──抗体が暴走していない状態で行使する、身体強化術。
そのタイムリミットまで、残る時間は、あと僅かであった。




