妖花絢爛 十八
14
──薄暗い闇に包まれている、一つも遊具のない寂れた公園。
その中央に、精悍な顔つきの青年の姿があった。
筋骨隆々──そんな言葉が似合う体つきである。
彼がまとう、ブラウンのジャケット。その下には、岩のような筋肉が隠されている。
身長は、百八十センチを超えている。日本人の中では、高身長の部類に入る背丈であった。
鍛え抜かれたその巨体からは、強者の気配がはっきりと漂っていた。
「……」
青年は、奇妙な立ち方をしながら、鋭い目付きで、虚空の一点を見つめていた。
両足は、踵をやや外に向け、爪先を内側に向けている。そうしながら、右足を、左足よりもやや前に出し、地面をしっかりと踏み締めている。
両腕は、ハの字を逆の形にしているかのように、胸の前に並べ、拳を力強く握っている。
三戦立ち──剛柔流などの空手道における、基本となる立ち方である。
「……スゥゥ……ッ……」
青年は、鼻で深く空気を吸い込む。
同時に、腰に引き寄せるように、左腕をゆっくりと引いていく。
直後、右拳を開いて掌へと形を変えながら、外回しに回しつつ、ゆっくりと体に引き寄せる。
その後、右掌を前に出し、今度は内側に回した後、体に引き寄せる。
「……コホォォ……ッ……」
そして、腹の底から絞り出すように息を吐きながら、右掌をゆっくり前に突き出す。
「……スゥゥ……ッ……」
もう一度手を引き寄せ──
「……コホォォ……ッ……」
──掌の指先を下に向け、再びゆっくりと突き出す。
その後も、青年は、空をなぞるような動きで、右掌を操っていく。
──『転掌』と呼ばれる、剛柔流の型であった。
やがて、青年は右掌による一通りの動作を終えた。
すると今度は、左足を内股気味にしながら、一歩前へ踏み出した。
そして、今度は左掌で、右掌と同じ動作を行おうとした。
だが──
「……はぁ」
──青年は動作をやめ、溜め息を吐いた。
先ほどまでのような気合いの込められた呼気とは、まるで違う息であった。
「……駄目だ。やっぱ型稽古の時は、胴着じゃなきゃ身が入らねえや」
青年は顔をしかめながら、そうひとりごちた。
──青年が胴着姿でないのには、理由があった。
この日、青年は新宿で開催された、とあるイベントへ行っていた。
と言っても、目的はイベントに参加することではない。彼の目的は、イベント会場の設営、及び撤去のアルバイトであった。
作業内容は、設営道具や機材といった荷物の搬入・搬出がメインである。当然、荷物はかなりの重量である。一般的な成人男性でも、運ぶのには苦労するくらいである。そのため、給料は高めに設定されていた。
この求人情報を目にした青年は、すぐに申し込みを行った。
日頃の鍛錬により、体力には自信がある。重労働とされているこの仕事も、自分にとっては、いつもと内容を変えた鍛錬でしかない。
その上、給料は通常のアルバイトよりも相当高い。
体が鍛えられる上に、金まで貰える。これ以上の好条件があるものか──青年はそう思い、このアルバイトに参加したのである。
しかし──実際に働いてみると、期待外れであった。
給料に不満があったわけではない。
それどころか、責任者には感謝してもしきれないくらいであった。
なにしろ、自慢の体力を駆使して活躍出来たため、責任者からやや多めに給料を貰えたのだ。
故に、給料面は非常に良かった。そこに文句はない。
彼が不満に思ったのは、予想よりも仕事が楽で、あまり鍛錬にならなかったことである。
人並外れた体力を持つその青年は、他の者よりも多く働いたにも関わらず、全く疲労していなかった。
青年にとってはむしろ、普段の鍛練のほうがハードなくらいであった。
結果、作業が終了し、他の者が疲労によってぐったりとした姿を見せる中、ただ一人、その青年のみ拍子抜けした顔で帰ることとなった。
帰路についた青年は、途中で目についたラーメン屋に立ち寄った。
そこで、チャーシュー麺大盛、餃子二人前、炒飯という、普段よりも何倍も豪勢なディナーをとった。
しかし──夕食を終えて店を出ても、青年の心は、未だ満たされなかった。
腹は満たされた。心が満たされていなかった。
十分に体を動かした──その実感が、体の中には全くなかった。
なので、少しでも体を動かそうと、自宅へ帰る前に、近所の公園に立ち寄った。
故に青年は、私服で型稽古を行っていたのである。
「ん……っと」
青年は、軽く伸びをし、ふと、彼方に目をやる。
視線の先には、公園に備え付けられた、錆びが生じている時計が。
壊れかけの針は、八時十六分を指していた。
「……しゃあねえ。一端帰って、着替えてくるか」
青年は肩を落とし、呟いた。
そして、とぼとぼと公園を出ようとした──その時であった。
「……ん?」
ジャケットの胸ポケットに入れたスマートフォンが、振動している。
着信を告げるバイブレーションである。
青年は、胸ポケットからスマートフォンを取り出すと、その画面を見た。
非通知であった。
一体誰なのだろう──そう思いながら、青年はスマートフォンの画面をなぞり、耳にあてた。
「……もしもし?」
『あ、もしもし!? 良かった、繋がったぁ!』
聞こえて来たのは、バリバリという空気を叩くような音と、幼い女の子の安堵の声。
青年は、その声に聞き覚えがあった。
青年の友人のもとに、助手として居候している、二人の女の子。そのうちの一人のものだ。
「え……? ひょっとして、マリーちゃんか?」
『うん、そうよ、マリーちゃんよ!』
青年が呼び掛けると、マリーは緊迫したような調子で返答した。
その声色に、青年は嫌な予感を感じた。
「どうしたんだ、突然。何かあったのか?」
『あったも何も、大ありよ! お願い、あたしたちを助けて!』
バリバリという異音よりも大きな声で、マリーが叫んだ。
『人の命がかかってるの! このままだと、大勢の人が命を奪われて、怪物にされちゃう! 衛も、あなたの力が必要だって言ってる! だからお願い、あなたの力を、あたしたちに貸して!』
「……!」
その言葉によって、青年の眼差しが、真剣みを帯びたものになった。
目は鋭く、瞳は力強く。意志を湛えた眼光が、虚空を睨みつけた。
「……よく分からねえが、分かった。 で、俺はどうすればいい?」
『ありがとう! ひとまず合流しましょ! 今どこにいるの?』
マリーは喜びながら、青年に場所を尋ねる。
バリバリという音が、やや大きくなっていた。
「俺ン家の近くの公園だよ。衛が知ってる」
『公園……? あ、じゃあもう真下なんだ!』
「え? 『真下』って?」
言葉の意味が分からず、青年は呆けた顔をする。
『もうすぐ着くってこと! ちょっとそこで待ってて!』
「え? ……悪い、もっかい言ってくれよ!」
青年は顔をしかめながら、そう催促した。
空気を叩く音が、先ほどから大きく、強くなっているのである。
『もう着いたわよ! 上! 上!』
「え!? ごめん、よく聞こえね──ん?」
青年が叫ぼうとし──ようやく、違和感に気付いた。
電話から鳴っていた、空気を叩いたようなバリバリという音。
それがいつの間にか、自身の真上から聞こえるようになっていたのである。
「……?」
青年は、耳にスマートフォンをあてたまま、ゆっくりと空を仰ぎ見た。
そこに──
「……え!?」
──夜空をプロペラでかき回しながら浮いている、高級民間ヘリコプターの姿があった。
「はァ!?」
驚愕の声をあげる青年。
その耳に、マリーの声が入って来る。
『時間がないの! 縄梯子を下すから、それで乗り込んで!』
その声の直後、ヘリコプターのドアが開き、夜風に揺れる縄梯子が下ろされた。
「……一体、何が起こったってんだ……!?」
上空のヘリコプターが梯子を舌のように伸ばす様を見上げながら。
その青年──進藤雄矢は、そう呟いていた。




