妖花絢爛 十一
9
衛が起床したのは、午前十時を回った頃であった。
布団に入った衛は、しばらく眠りに落ちることが出来なかった。一時間たって、ようやく衛の瞼が重くなってきた。
そのため、この日の睡眠時間は、およそ二時間。お世辞にも十分とはいえない。あとでシェリーが知れば、また母親か姉のように叱って来るであろう。
しかし、衛には安眠することなど出来なかった。
衛は日頃から眠りが浅い。その上、夢見も悪い。熟睡出来ないことなど、しょっちゅうである。
そして今日は、いつにも増して眠れなくなる理由があった。
それは当然、朽木人間について考えていたからである。
昨日のおでん屋訪問、敵との遭遇にて、衛の中の朽木人間に対する疑問は大きく膨れ上がっていた。
そのことが頭の中にもやもやと残り続け、結局眠れなかったのである。
このまま浅い眠りで時間を消耗するより、起きて食事をしたほうが気も休まるのでは──衛はそう思い、布団から出ることにしたのである。
起床した後、衛はすぐにシャワーを浴び、寝汗とわずかな眠気を体から洗い流した。
それから、自身の体を乾かし、食事の用意をすることにした。
衛が味噌汁を作り始める頃になると、二人は自然に起床し、瞼を擦りながらリビングに姿を現した。彼女たちは、プリンセスで既にいくらか眠っていたため、そこまで眠らなくてもよかったようであった。
その後三人は、朝食と言うには遅く、昼食と言うには早い食事を済ませた。
そして、しばらく腹が落ち着くまで待った後、三人は書斎に入り、本棚の資料に手をつけ始めた。
調べる対象は、当然朽木人間について。もしかしたら、何か資料に朽木人間について記載されていて、自分たちはそれを見落としていたのかもしれない。そんな一縷の希望に託して、三人は手分けして、資料を読み始めたのである。
しかし──
「……見つからねえな」
「……わしもじゃ」
「……あたしもー」
──床に座り込んだ三人はそう呟くと、同時に溜め息を吐いた。
衛の住居に存在する、全ての妖怪関連の書籍。
それら全てを、三人は注意深く目を通していった。
だが、結局彼らは、朽木人間らしき妖怪についての情報を見つけることは出来なかった。
衛はふと、机の上の置時計に目をやる。
時計の時刻は、午後四時を指していた。
昼食をとることも忘れて、気が付くと六時間も没頭していたことになる。
「もう夕方か……」
うんざりしたように、衛がぼやいた。
成果は得られず、疲労だけが残った。堪らず三人は、また同時に溜め息を吐いていた。
──その時、机に置いてあった衛のスマートフォンが、電話の着信を知らせ始めた。
「ん?」
仕事の依頼であろうか。そう思った衛はスマートフォンを掴み、画面を覗く。
「……!」
直後、衛が驚いたように、軽く目を見開いた。
画面に表示されているのは、山崎の名ではない。
女性の名前──『御堂綾子』という人名であった。
「綾子……あいつ、帰って来てたのか」
衛が呟く。
その小さな声に反応し、マリーと舞依が寄ってきて、画面を覗き込んだ。
「……『御堂綾子』?」
「ぬしの知人か?」
「ああ。『海外に行く』って言って、それっきり連絡が取れてなかったんだ」
衛はそう言うと、電話に応対すべく、スマートフォンの画面をフリックし、耳にあてた。
「もしもし、綾子か」
『おおーっ衛! おっひさー!』
女性の大声がスマートフォンから鳴り、書斎全体に響き渡る。衛は思わず顔をしかめ、一瞬スマートフォンから耳を離した。
「うっせ……って、おひさどころじゃねーよ。やっと帰ってきたのか」
『やっとって何さやっとってー! 本当は半年くらいいたかったんだぜー? むこうには興味深い怪物の噂がいっぱい流れててねー! もっと色々調べたかったんだけど、それを堪えて、たったの三ヶ月で切り上げて帰ってきたんだよー?』
「三ヶ月を『たったの』とは言わねえよこの妖怪バカ。……って、そんなことはどうでもいいんだ。お前、今日時間あるか?」
『おっ! 話を急いでるねえ。もしかして、またこの私の意見を乞いたいのかい?』
わくわくとした声が、受話口から零れる。
「ああ。手持ちの資料やら、お前から借りた本やらを調べてみたんだが、まったく載ってないんだ。お前の頭を借りたい。頼めるか」
『それは興味深い! ならば私に任せたまえ! 実を言うと、こっちに帰ってから暇で暇で堪らなかったんだ! いやぁ、衛が何か事件を抱え込んでないかと思って電話してみたんだけど、大正解だったよ! という訳で、今日は一日中家でダラダラしてるから、そっちの都合に合わせるよ! そんじゃ、また後でねー!』
そう言うと、相手の女性は極めて軽い挨拶を返しながら、一方的に電話を切った。
「よし……それじゃあ、今から港区に行くぞ。綾子に会って、朽木人間について相談してみよう」
電話を耳から離すと、衛は傍らのマリーと舞依にそう話し掛けた。
二人は怪訝な顔で、衛の顔を見つめていた。
「……? どうした」
「あ、うん。それはいいんだけど……その『綾子』って人、誰?」
「そうじゃそうじゃ。やたら親密に話しておったが……って、もしやぬしの恋人か?」
「えっ!? まじで!? 衛にも彼女いたの!?」
マリーと舞依が、衛に詰め寄る。
妙にわくわくとした顔である。調べ物をした疲れなど、そこからは微塵も感じられなかった。
「何でそう楽しそうなんだ。綾子は彼女じゃねえよ。あいつは──」
──その時、またしても衛の電話が鳴った。
「ん?」
綾子が何か言い伝え忘れたのであろうか。衛はそう思い、再び画面を覗いた。
しかし、そこに表示されていたのは、御堂綾子のものではなかった。
「……山崎さんからだ」
「おお!ということは──」
「あたしの出番!?」
「かもな」
顔を明るくした二人に短く返事をすると、衛は電話に出た。
「はい、青木です」
『よう、山崎だ。待たせて悪かったな。捜査やら何やらで色々立て込んでてな』
衛の耳に、山崎の声が入り込む。酷く疲れている声であった。
「いえ、お仕事お疲れ様です。……それで、失踪者の私物の件、どうなりましたか」
『ああ。数人分の私物なら用意できた。ネックレスや化粧道具なんかを、いくつか持ち出してる』
「ありがとうございます。無理を言ってしまってすみません」
『大したことじゃないさ。……だが、実はこれから会議が入っててな。何時に終わるのかは分からんが、取り敢えず、お前たちに貸しに行けるのは、夜頃になりそうだ』
「分かりました。ならその間、我々は港区まで行ってきます」
『港区に?何かあるのか?』
山崎が、電話越しに不思議そうな声を漏らした。
「実は、妖怪にについての研究をしている友人が、白金台に住んでいまして。朽木人間について何か知っていないか、これから直接会って訊いてみようと思ってるんです」
『なるほどな。……なら、会議が終わった後に連絡するから、そっちで落ち合おう。それで大丈夫か?』
「はい、分かりました」
『よし。じゃあ、また後でな』
山崎のその言葉を最後に、両者は電話を打ち切った。
「……まあ、綾子ってのは、今言った通りの奴だ」
傍らで電話の内容を聞いていた二人に、衛はむっつり顔でそう言った。
「色々と変な奴だが、妖怪への造詣は深いし、長い付き合いだから信頼出来る。あいつなら何か心当たりがあるかもしれない。ひとまず、綾子の家に行ってみようぜ。その後に、山崎さんと合流して、失踪者の私物を貸してもらおう」
「「……」」
衛の説明と提案を、マリーと舞依はきょとんとした顔で聞いていた。
その後、深い溜め息を吐き、落胆したような様子で言った。
「「な~んだ……衛の彼女じゃあないのか……」」
「何でお前らはやたらとそっちに話を持っていきたがるんだ……」
衛は顔をしかめ、頭をかいた。




