人喰いタクシー 四(完)
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三塩山内。『整備された山道』と言うにはあまりにも粗末な、ひび割れたコンクリートで出来た、歩行者用の緩やかな坂。
その上を、一台のタクシー車輌が駆け上がっている。
車輌の正体は、つい先ほど一人の乗客を乗せ、安全運転でこの山のふもとに辿り着いた、あの人喰いタクシーである。
しかし、その走る姿は、これまでのような安全を心掛けた丁寧なものとは全く違う。
エンジンは獣の如く唸りを上げ、タイヤは凄まじい速度で回転し、車体は上下左右に激しく揺れている。
人喰いの名に相応しい、恐ろしさと暴力性を感じさせる暴走であった。
一体何故、このように様変わりした運転が行われているのか。
その理由は、タクシー車内にて、激しい乱闘が繰り広げられていたからである。
否──『乱闘』と言う言葉は、この場合適切ではない。
正しく言い換えるならば、『乗客がドライバーを一方的に殴り付けている』という言葉の方が適切であった。
その乗客──退魔師・青木衛は、後部座席から身を乗り出し、運転席に座っているドライバーの首を、運転席越しに右腕で裸絞めにしていた。
その状態で、ドライバーの横っ面に、左フックを執拗に叩き込んでいた。
「フンッ!!かぁッ!!」
「ぶ……!アが……!?」
衛の拳打が顔面に突き刺さる度に、ドライバーの腐った顔は裂け、皮膚の上の蛆は潰れ、骨は軋み、口から苦悶の声が漏れた。
そして、徐々にアクセルを踏む力は増し、速度もまた上昇していった。
しかし、いくら加速しても、逃れることは叶わない。何故なら敵は、この車内にいるのだから。
「く──ッ!!うおらァッ!!」
「ッぶ……!!」
さらに突き刺さる拳打。
ドライバーは痛みに耐えかね、思わずハンドル操作を誤ってしまう。
「っ!?」
車内が大きく揺れ、その衝撃で、衛の打撃が強制的に一時中断された。
タクシーは一度右へ曲がり、直後、大きく左へと進路をとる。
そこは、山道ではなかった。
山道の端にある、鬱蒼と生い茂る木々の間に出来た、獣道。
車一台通れるかどうかといった大きさの、小さな抜け道。
偶然にもタクシーは、その獣道に突っ込み、更に暴走を続けた。
周囲の木の枝や幹にぶつかり、車体が歪み、傷付いていく。
左後部座席側のドアが、何度も木にぶつかった衝撃で開いていた。
凸凹とした地面の上を通る度に、車体は激しくバウンドを繰り返す。
狭い車内もまた、その影響を受け、人や物が激しく揺さぶられていた。
「っ──邪魔ァッ!!」
衛が、運転席のヘッドレストを両手で引き千切る。
障害物が無くなり、ドライバーの後頭部が露わとなった。
「オラアアッ!!」
そこに衛は、今度は両拳で、情け容赦なく連打を叩き込んでいく。
「……が……!」
後頭部を襲う鈍痛に、ドライバーが目を閉じて苦しむ。
何とか堪え、目を開いて前を見た。
直後、ドライバーの視界に、獣道を遮るような大きな木がそびえ立っている光景が映った。
「がァ……!!」
連打の痛みを堪えながら、ドライバーは右にハンドルを大きく回し、急ブレーキをかける。
「くッ!?」
衛の体が遠心力によって大きく揺さぶられ、左へと転がる。
タクシーは、狭い獣道の中でドリフトを行う形となり──巨木に助手席側のドアがぶつかり、ようやく停止した。
「がっ!!」
巨木にぶつかった衝撃で、衛の体は開いていた左後部座席のドアから放り出された。
すぐさま受け身をとり、濡れた地面を転がって体勢を整えつつ、タクシーを睨んだ。
タクシーはタイヤを激しく回転させ、衛から逃亡しようとしていた。
「待て!!」
衛が叫び、車体に跳び付くようにしがみ付いた。
同時に、タクシーは再び爆音を上げ、細々とした木々を弾き飛ばしながら走り出した。
「ぐ──っ──ぉ──!!」
車の激しい振動を全身で感じながら、衛は四つん這いの姿勢で車の屋根によじ登る。
そして、丁度運転席の真上の辺りまで辿り着くと──
「──っらあああっ!!」
再び、攻撃を再開。
屋根に向かって、左肘を何度も叩き込む。
鉄で出来た屋根は、肘が一発当たるごとに、クレーターの如く凹んでいく。
そして、クレーターが直径三十センチほどの大きさに達した時──
「うりゃあッ!!」
左手を貫手へと変え、中心に向かって突き込んだ。
左手は屋根を突き破り、タクシー車内に潜り込み、ドライバーの左耳を削ぎ落としていた。
直後、衛は左手を素早く引き抜く。
手刀によって開いた、横長のスリット。そこに衛は、両手の指をかけた。
そして、自らの肉体に強化の術を施し、スリットを無理やりこじ開けていく。
「っ……お……お……おっ!!」
みしみしと音を上げながら、屋根に大穴が空いていく。
そこから見えたのは、左耳のあった場所を左手で押さえながら、右手でハンドルを操作し、穴の開いた天井を仰ぎ見ている、死人のドライバーの姿であった。
その顔面に──
「おおおおっ!!」
──衛は、素早く右拳を叩き込んだ。
「ぶ……!?」
ドライバーの腐った鼻が、ぐしゃりと潰れた。
「らあああっ!!」
「が……!?」
続けて第二打。
多くの乗客の肉を噛み千切った前歯が、粉々に砕け散る。
──三打。
──四打。
──五打。六打。七打。
隕石の如き衛の右拳が次々に叩き込まれ、ドライバーの腐った顔を変形させていく。
その時──
「っ!?」
──タクシーが、また大きく跳ね上がった。
これまでで、一番大きな揺れである。
その衝撃で、衛の体が一瞬宙に浮き、再び屋根に着地。
直後、タクシーが左へと大きく曲がり、上を目指して加速を始めた。
タクシーは再び、あのひび割れたコンクリートの道を走っていた。
獣道や木々を掻い潜り、この山道に復帰したのである。
──タクシーは、更に加速を掛ける。
現在、時速八十キロ。
車体はがたがたと揺れ、屋根の上にしがみ付いている衛の身体も、そのまま弾き飛ばされてしまいそうなほどに震えている。
直後、タクシーが急ブレーキをかけた。
「ぐっ!!」
衛の小柄な体が、前方へ投げ出される。
十メートルほど先のコンクリートに叩き付けられ、そこからごろごろと転がる。
更に転がり続け──二十メートルほど先で、ようやく停止した。
そのまま──両者は全く動かなかった。
衛は倒れ伏したまま、ピクリともしない。
ドライバーは、運転席に座ったまま、濁った両目で、倒れている衛を呆然と見つめていた。
しばらくそのまま、両者はその場に留まっていた。
──数秒後、変化があった。
「…………っ」
──衛が、動いた。
俯いたまま、地面に両手をつき、両足に力を込める。
そのまま、ゆっくりと。ゆっくりと立ち上がる。震える体に力を込め、ゆっくりと──しかし、しっかりと立ち上がる。
そして、顔を上げ──ドライバーを見た。
「…………」
──衛の額が、割れていた。
額の皮膚が裂け、その傷口から、真っ赤な血が滝のように溢れていた。
その傷口の下の辺りには、同じくらい真っ赤な目があった。
怒りと、憎しみと、殺意に塗れた怪物の瞳が、ドライバーの首を狙っていた。
「…………!!」
その時、ドライバーの目に変化が起こった。
白く濁った死者の瞳。
その瞳に──恐怖と怒りが宿った。
死と狂気によって隠された意志に、初めて人であった頃の感情が甦った。
直後、再びタクシーのエンジンが唸り声をあげた。
衛が佇んでいるのは、坂道の上。タクシーの位置は、坂道の下。このまま全速でバックを行い、緩やかな坂道を下れば、逃走出来るかもしれなかった。
しかし、タクシーからバックをする気配は感じられなかった。それどころか、衛を全速力で轢殺しようとする気迫が伝わって来た。
「…………」
衛は、人喰いタクシーのドライバーを、じっと睨み続けていた。
そのまま、無言で低い姿勢をとり、身構える。
直後──衛の右足から、赤い光が零れ始めた。
超常的な力を打ち消すことの出来る、衛の身体に秘められた特殊な気、『抗体』の輝きである。
光は、そのまま右足を包み込み、強い輝きを放ち始めた。
まるで、松明の先端で燃え盛っている炎のように。
両者はそのまま睨み合い──ドライバーが、先に動いた。
「…………!」
タクシーのエンジンが、一際大きな唸り声をあげた。
同時に、ギャルルルルル、という凄まじい摩擦音を放ち、タイヤが猛回転を始め、前へと進み始める。
「……ッ!」
衛は、思い切り歯を食いしばる。
抗体がまとわり付く右足を後ろへ下げ、地面を思い切り踏み締めた。
──タクシーは、急激に加速をかけながら、坂道を駆け上がって来る。
前方で待ち受ける、凶悪な乗客を排除するために。
死後も頑なに守り続けたルールを投げ捨て、その乗客を跳ね飛ばすためにアクセルを踏みつける。
「…………ッ!!」
衛は、逃げなかった。
それどころか、こちらに突っ込んでくるタクシーに向かって駆け出す。
赤く輝く右足が、地面を踏み締める度に、炎の足跡のような赤い残滓が刻まれる。
無数の足跡を残しながら、迫り来る鋼鉄の獣へと、全速力で立ち向かっていく。
そして──衛が、跳んだ。
右足を振り子のように高く振り上げ、それにつられるように体が浮き、左足で地面を蹴って跳躍。
宙へと浮かび上がる最中、抱え込むように両脚を曲げ、力を溜める。
そして、タクシーに衝突する寸前に──燃え上がった右足を、槍のように思い切り突き出した。
──武心拳における跳躍技法の一つ。
足に気を収束させて放つ、強烈な跳び蹴り──その名は、『疾空脚』。
「うおりゃああああああああああああああああ──!!」
衛の右足は──
「──ああああああああああああああああああ──!!」
──フロントガラスを突き破り──
「──ああああああああああああああああああ──!!」
「!!」
──ドライバーの頭部を爆散させ──
「──ああああああああああああああああああ──!!」
──リアガラスを粉砕し──
「──あああああああああああああああああああっ!!」
──コンクリートの地面を踏み締め、力強く着地していた。
「ッ……!!」
着地後、衛は素早く立ち上がり、タクシーの方へと向き直る。
そして、残心を決めつつ、敵の生死を見極めようと試みた。
──タクシーは、頭部を失ったドライバーを乗せたまま、しばらく坂道を上り続けた。
しかし、ドライバーの亡骸が、溶けるかのように消滅すると、次第に減速を始め、真っ直ぐであった進行方向も、徐々に蛇行運転気味な動きに変わっていく。
やがて人喰いタクシーは、道脇にあった大きな溝へと脱輪し、停止。
そのままエンジン音は小さくか細いものになっていき──数秒後、完全に沈黙した。
直後、力尽きたタクシー車輌が、急激に錆び始めた。
戦闘が始まる直前までは、通常のタクシー車輌と見比べても遜色なかったはずの外装。
しかし、そんなタクシーの姿は今や見る影もなく、数十年前に乗り捨てられた廃車のようになり、哀れな姿を晒していた。
「…………」
衛はしばらく、その廃車を睨んだまま構え続けていた。
タクシーにこれ以上の変化が起こらないことを悟ると、ようやく構えを解いた。
「…………」
しばしの沈黙の後、額から溢れる血を、手の甲で拭う。
だが、まだ出血は完全に止まっておらず、一拍置いた後、傷口から再び血が滲み始めた。
血が止まるのを待つことなく、衛は踵を返し、その坂道を降りていった。
降っていく間、衛は一度も振り返らなかった。
錆と泥で酷く汚れたその棺桶は、とうとう動くことはなかった。
後部座席のシートの上には、噛み砕かれた人骨の欠片が散らばっていた。
第十一話 完
これで、今回のエピソードは完結です。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
ちなみに次回についてですが、中編~長編くらいの長さのお話になるのではないかと思っております。
また、新エピソードの執筆のため、これより再び休載期間に入ります。
皆様にはまたご迷惑をお掛けしてしまいますが、何卒ご了承ください。
それでは、次回もよろしくお願いします。




