人喰いタクシー 三
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──それから、二日が経った。
その日の夜は、雨の雫がしとしとと降り注ぐ、蒸し暑い夜であった。
「…………」
人喰いタクシーのドライバーは、安全運転を心掛けながら、愛用のタクシーで街を回っていた。そうしながら、このタクシーに乗りたいと望むものを、探し求めていた。
生前からそのドライバーは、真面目で誠実なのが取柄であった。法定速度をしっかり守り、道路標識は見逃さない。一時停止と目視確認、信号無視などもっての外。そして何より、お客様の要望を第一とすること。それが、彼が生前から固く守り続けているルールであった。
彼は今も、そのルールを守りながら、隔日でタクシー業に励んでいた。自分が死んでいるということにも気付かず、このタクシーを運転し続けていた。
安全を心掛けて、タクシーを運転する。そうしながら、乗車を希望する客を探す。客を乗せたら、目的地まで確実に送り届け、到着したら代金を頂く。
何もおかしいことはない。やましいことも、後ろめたいこともない。何故なら、悪いことなど一切していないのだから。真面目に、誠実に、彼はタクシー業務を行っているに過ぎなかった。
「…………」
無言で運転を続けるドライバー。視線の先にあるのは、フロントガラス越しに見える、夜の街の姿であった。
歩行者は、誰もいない。
対向車線上には、車の影はない。
ミラーに目をやる。後続車両も見当たらない。
フロントガラスが雨粒に塗れ、前方の視界が悪くなった。直後、作動させているワイパーが水を切り、再び視界が良好となる。
そして再び、乗車を希望する者の姿がないか確認する。
──それらを何度も何度も繰り返しながら、彼は夜の街を、安全運転で走っていた。
すると──
「…………!」
──ようやく、人影を発見した。
前方、数十メートル程先の道路脇。そこに、傘もささずに佇んでいる、小さな人影があった。
幸運にも、乗車を望む客らしい。その人影に近付くに連れて、黒い手袋をはめた手をあげていることが分かったからだ。
──その人影は、青年であった。
妙に目付きが悪い。眉間には皺が寄っており、瞳は闇のように黒く濁っている。
体格は小柄であった。しかし、貧弱さは感じない。ジャケットをまとうその体は、アスリートのような引き締まった体をしていた。
そんな青年が、この雨の中傘もささずに、道端でタクシーを待っていたのである。
「…………」
ドライバーはウィンカーを点滅させると、緩やかに速度を落とし、その青年の傍らで停車した。
そして、運転席脇に備え付けてあるレバーを引き、後部座席の扉を開く。青年を迎え入れるために。
「…………」
青年は、無言で後部座席に乗り込んだ。
そして、右側の座席に座り、シートベルトを締めた。
「三塩山のふもとの広場まで」
青年が、行き先を告げた。低く、冷静ではっきりとした声であった。
「……ハい……」
青年の言葉に、ドライバーは小さく返事をした。
そして、右のウィンカーを点滅させると、緩やかにアクセルを踏み、発進を始めた。
「…………」
青年は、無言であった。
口を結んだまま両腕を組み、静かに両目を閉じている。
「…………」
運転手もまた、無言であった。
口を開くことなくハンドルを握り、速度を守って運転している。
そのまま、どちらも一度も口を開くことなく、タクシーは夜の町を通り抜け、目的地を目指して向かっていった。
──それから十五分。
タクシーは何事もなく、目的地──三塩山のふもとに辿り着いた。
三塩山は、この田舎町の端にある小さな山である。
高さはそれほどなく、傾斜も緩やかだが、滅多に訪れる者のいない場所である。
山のふもとには、まばらに草が生えている広場がある。広場には、電灯もトイレもない。駐車場としての機能を果たすための白線もない。
その広場の端で、タクシーはゆっくりと減速し、やがて停車した。
「……到着いたシまシた……」
タクシーを停止させると、ドライバーは前を向いたまま、後部座席の客にそう告げた。
「ありがとうございました」
乗客は、落ち着いた様子でそう言った。降りようとする様子も、財布を取り出そうとする仕草もない。先ほどまでと同じように、両腕を組んだまま座り続けていた。
「……それでは……」
ドライバーが、ゆっくりと帽子のつばに手をかけた。
乗客に要求しようとしているのである。この人喰いタクシーに乗車した代償を。いつも通り、乗客から貰ってきた利用料を。
──早く受け取らなければ。早く利用料を、この口で受け取らなければ。
狂気というカーテンで覆い隠されたドライバーの意識。その隙間から、そんな考えが零れていた。
「……おイノ──」
「その前に」
その時、乗客の一言が、ドライバーの要求の言葉を遮った。
「…………?」
ドライバーが、言葉をこぼすのを止めた。そのまま、乗客の次の言葉を待つ。
「……その前に。もう一ヵ所、行って頂きたい所があるんです」
「……もウ……一ヵ所……?」
ドライバーは、乗客の言葉を反復した。
乗客からの要望である。お客様からの要望は、可能な限り受け止めなければ。そう思い、ドライバーは帽子のつばから手を離した。
そして、乗客に尋ねた。その乗客が望む場所を。
「……どチラで……しョうか……?」
「『あの世』です」
「……アの……世……?」
ドライバーが、また反復する。
「ええ。あの世です。……ですが、逝くのは私ではありません」
青年は、静かで落ち着いた言葉を、そこで区切った。
そして、一呼吸分の間を置いた後──どすの効いた声で言った。
「逝くのは、てめえだ」
その時、タクシー車内の空気が一変した。
静かで落ち着いた空気が一瞬で煮え立ち、地獄のような熱さを孕んだものになった。
「…………!?」
それを感じ取ったドライバーは、反射的にルームミラーに目をやった。
そこには、右後部座席に座っている乗客の姿があった。
乗客は、腕を組むことを止め、両目を開き、ミラー越しにドライバーを睨みつけていた。
先程のような、濁った瞳ではない。殺意に満たされた恐ろしい瞳が、眼前の獲物に照準を定めていた。
「魔拳、参上」
その言葉が耳に入った直後、ドライバーは弾かれたように背後に向かって振り向いていた。
その視界いっぱいに──乗客の鬼のような形相と、黒い拳が映った。
次回、完結です。
明日の20~21時頃に投稿する予定です。




