人喰いタクシー 一
1
午前一時五十七分。
一人の女が、人気のない夜道を歩いていた。女は肩を落とし、数歩歩くごとに一度、深い溜め息を吐いている。その顔には、肉体に疲労が溜まっていることを決定付けるかのように、隈が浮かび上がっていた。
じっとりと湿った、六月の夜の空気。それが、残業でくたくたに疲れ果てた女の体を更に蝕む。周囲に灯りはほとんどない。その光景が、女の憂鬱な気持ちを、より一層暗いものにした。
──大学を卒業し、今の会社に就職して、二年が経った。その二年もの間、ずっと同じことの繰り返しだ。
パソコンを睨みつけ、キーボードを叩き、必要な書類を作る。上司の雷とセクハラに胃を痛め、同僚との関係に頭を悩ませ、安い賃金を得るために仕事に励む。その上、自分の仕事ではない厄介ごとを無理やり押し付けられ、結局帰るのはこの時間。
もううんざりだ。何故、こんなつまらないことをしなければならないというのか。大学時代に夢見ていた、明るい社会人生活は、一体どこに行ってしまったというのか──女はそう思いながら、また一つ、大きなため息を吐いた。
「……もう嫌だ。歩きたくない」
女は立ち止り、ぼそりとそう言った。
もう一歩も歩きたくない。すぐにでもアパートに戻って、サッと汗を流して眠りたい。明日も仕事なのに、これ以上疲れるようなことなどしたくはなかった。
すると、僅かな灯りと共に、背後から何かが近寄って来る気配を感じ取った。
女が振り向くと、その視線の先に、ゆっくりとした速度で、こちらを追い抜こうとしている一台の車があった。
薄汚れたタクシー車輌であった。
「……もういいや。タクシー使っちゃえ」
女は、力なくそう呟き、そのタクシーに向かって片手を掲げた。
直後、ゆっくりと進行していたタクシーは、更に速度を落とし始めた。
やがてタクシーは、女の傍らで停止。直後、左後部座席側のドアが、独りでに開いた。
「よいしょ……っと」
女はゆっくりと、開いたドアから座席に入り込み、腰を下ろした。
帽子を目深にかぶった運転手は、女に向かって振り向くことすらせず、前方を無言で見つめていた。
「えっと……三丁目のアパート。エスポワール上尾ってとこまで」
女は気だるげに、自分が住んでいるアパートの名を運転手に伝えた。
「……ハい……」
運転手は前を見つめたまま、短く返事をした。低く、掠れた声であった。
それが終わると、タクシーはまた、ゆっくりとした速度で発進した。
「…………」
タクシーが動き出すと、女の瞼が、次第に重くなっていった。
ゆっくりと座席が揺れる感覚が心地よい。両目の焦点が合わない。首がこくりこくりとし始める。
女は、襲いかかる睡魔に抵抗することなく、身を委ねた。しばらくすると、俯いている女の口から、気持ちよさそうな寝息が零れ始めた。
──タクシーは、ゆっくりと動き続けている。
三丁目のアパートを目指して。
無口なドライバーと、居眠りをしている乗客を乗せて。
法定速度を守りながら、ゆっくり、ゆっくりと進んでいく。
やがて──タクシーが、前進を止めた。
「……オ客さマ……」
ドライバーが、掠れ声で女に呼び掛ける。
「……到着いたシまシた……」
「…………?……ん、ぅ……」
女は目をこすりながら、窓の外を見た。
そこにあるのは、見慣れた建物と景色。彼女が住まうアパート、エスポワール上尾であった。
「あ、はい……ありがとうございます」
女は運転手に礼を言うと、鞄から財布を取り出しながら尋ねた。
「えっと……おいくらですか……?」
「……それでは……」
運転手の言葉に、女が何気なく顔を上げた。
視界に映り込んでいるのは、相変わらず前を向いたままの運転手の姿だ。
その運転手が──初めて振り向こうとした。
ゆっくりと。
ゆっくりと、自分の乗客の顔を見るために、帽子を取りながら、座席に向かって振り返った。
そして、運転手の顔が初めて露わになり──
「え」
──その顔を見た女は、思わず凍り付いていた。
「……お命……」
「えっ」
「……ちョうダイいたシまあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
皆様、お久しぶりです。お待たせして申し訳ございません。
次回は、明日の20~21時頃に投稿する予定です。




