祖父の現影 五十三
『…………』
剣一郎は、残心の構えをとった。
剣次郎、そして剣三郎も、同様に残心する。
衛を中心に取り囲む三つの人影は、そのまましばらく構え続けた。
青木衛がどんな行動を起こしても対応できるよう、鋭く睨みながら待ち構え続けていた。
一方の衛は──動かない。
頭を垂れたまま、全く動かない。
その目は虚ろで、生気が全く感じられない。
瞳はもはや、何も映してはいない。
『…………』
『…………』
『…………』
構え太刀三兄弟はまだ、そのまま構え続けていた。
構えたまま、ピクリともしない衛を警戒し、睨み続けていた。
一分か、二分か。あるいは、もっと長い間であったか──。そのくらいの時間が経って、ようやく三人は、構えを解いた。
そして、悟った。──青木衛の命は、潰えたのだ──と。
『……どうだ、魔拳よ。己が肉体が死を迎えた気持ちは』
冷酷に、剣一郎が尋ねる。
衛がもはや何も答えぬことを──物言わぬ屍と化したことを承知しながら。
『それが、死だ。何も出来ず、何も見えず、何も言うことが出来なくなる。それが、死というものだ。我ら兄弟が、かつて貴様に押し付けられた、理不尽極まりない贈り物だ』
そう語りながら、ゆっくりと衛のもとへと歩み寄る。
『だがしかし……。貴様は私に、それ以上に許せぬ行いをした。……我ら兄弟の誇りを汚すという、決して許せぬ行いをな』
冷たい調子であった剣一郎の声。
それに──静かに怒気がこもった。
『……あの時の屈辱は、決して忘れることが出来ぬものであった……。……幾多もの猛者共との果し合いを、共に乗り越えて来た同胞達……。……それを……その我らの誇りを……!貴様は侮辱し、虫けらを踏みにじるかの如く汚し、その末に我らを殺めたのだ……!』
声を荒げながら、剣一郎はそう言った。
そして足を止め、右手に握る刀を、衛の胸元へと突き付けた。
『その時の怒りが、憎しみが!貴様に分かるか、魔拳よ!!』
もう一度、剣一郎が怒鳴った。
衛に突き付けた右手の刃が、憤怒によって小刻みに震えている。
いつ手元が狂い、衛の身体に突き立てられてもおかしくはなかった。
しかし──それでも衛は、何の反応も示さなかった。
剣一郎の罵倒を受けても、何も答えない。
ただ膝を付いたまま俯き、地面の一点を見つめ続けていた。
もう、ピクリとも動かなかった。
「…………」
その様を、剣一郎は刃を突き付けたまま見つめていた。
しばらくそうした後、浅い溜め息を吐く。
そして、ゆっくりと刃を下した。
『……。やはり……死んだ、か』
剣一郎がそう呟いた。
その声には、普段通りの冷たさが戻っていた。
『……ハッ。呆気ねェもンだな、案外』
淡々と、剣次郎もそう言葉をこぼす。
『……先の戦のように、また何かを狙っておるのではないかと思ったのだが、どうやら我らの考え過ぎだったようだな』
剣三郎が、拍子抜けしたような調子で語った。
──物足りない。
恨みを晴らすには、まだ足りない。
もっと、苦痛を与えてから殺したかった。
もっと、惨たらしい方法で殺したかった。
それなのに、これでもう終わりなのか──そう思っていた。
心のどこかで、構え太刀三兄弟は、確かに不満を感じていた。
『……まあいい。首を斬り落とした後、つどいむしゃと合流するぞ』
『ああ』
『承知した』
剣一郎の言葉に、弟達は静かな声で答えた。
二人の返答を聞いた後、剣一郎は、蜻蛉の構えをとった。
無論、衛の首を斬り落とすためである。
この一太刀で、衛の首は宙を舞い、胴体に永遠の別れを告げることになる。
それで、つどいむしゃが抱き続けていた悲願は成就される。
『…………』
剣一郎は、意識を集中させる。
心の中にくすぶる不満の心を払いのけ、衛の首元に狙いを定める。
やがて、刀と精神の狙う先が合致し──
『──ッ!!』
──その刹那、剣一郎は、刀を振るった。
──刃が大気を裂く。
裂きながら、空間を進む。
そうやって、衛に向かっていく。
刃が、衛の首へと距離を詰めていく。
そして──。
──ぞくり──。
『…………っ!?』
──剣一郎が、刃を止めた。
衛の首に到達するまで、あと三ミリというところで、剣一郎は刀を振る手を静止させていた。
全身に怖気が走り、無意識の内に、斬撃を止めていた。
『……!?おい!どうしたンだよ兄……え……!?』
『一体何が……っ……!?』
次男と三男が、兄の異変に気付き声を掛けた。
が、次の瞬間、彼らの体にも、凍り付くような冷気が襲いかかっていた。
そして──気付いた。
消失したはずの衛の生命の鼓動が甦ったことに。その鼓動が、周囲の空気を震わせていることに。
──ドクン──。
空気が震える。
衛の体が、僅かに震えた。
──ドクン──。
空気が震える。
地面についていた衛の膝が、立ち上がるために動いた。
──ドクン──。
空気が震える。
右足の裏が、地面に触れた。
──ドクン──。
空気が震える。
左足の裏が、地面を踏み締めた。
──ドクン──。
空気が震える。
しっかりと立ち上がり、両足が地面を力強く踏み締めた。
──ドクン──。
空気が震える。
それに同調するように、前屈みになった衛の体が、ビクンと震えた。
その時──
『………………!』
──衛の姿が、消えた。
そして、次の瞬間。
『…………!?』
──剣一郎の刀と両腕が、宙を舞った。
『あ、兄貴ッ!!』
『おのれ!一体何が──』
剣次郎、剣三郎が動揺する。
背後から見ていた彼らにも、何が起こったのか分からなかった。
『ぐ……!馬鹿……な……奴は、死んだ……はずでは……!?』
剣一郎は、苦悶を堪えながら呟く。両腕には、肘から先がない。
直後、剣一郎の傍の地面に、宙から落ちてきた刀が突き刺さった。柄の部分には、もやもやとした黒い影が絡み付いていたが、ゆっくりと空気の中に溶けていき、消滅した。その消滅した影こそが、切断された剣一郎の両腕であった。
『クソが……!一体どこに行きやがっ──!』
剣次郎は、己の背後から凄まじい圧が放たれているのを感じ取った。
弾かれたように振り向き、小太刀を構える。
遅れて剣三郎も、そして剣一郎も、背後を見た。
そこには──
「…………っ……ゲホッ……ゴ……!!」
──消えたはずの衛が、血を吐き出しながら佇んでいた。
その体は、依然として満身創痍。
動くことはおろか、立つことすらままならないほどの深い傷が、そこかしこに刻み込まれている。
それらの傷が──急速に塞がり始めた。
胸元。
腕。
大腿部。
全身の、至る所の傷。
肉と肉の間に刻み込まれた、グロテスクな切創の隙間。その隙間の中に広がる闇。
その奥から、新たな肉と血の管が生成されていく。
『なッ……!?』
『これ、は……!?』
剣次郎と剣三郎は戦慄した。
剣一郎もまた、目の前の人間に起こっている超常現象が信じられず、唖然としている。
──動けない。心の奥底に生じた、言葉に出来ない恐怖が、動くことを拒んでいる。
「……う……げッ……えほッ……!!」
その間にも、衛の肉体の治癒は進行していた。
みるみるうちに、切創が盛り上がり、塞がっていく。
地割れの如き皮膚の谷間が、肉という名の土で埋められていく。
そして遂に──衛の全身の傷が、完全に塞がれた。
身にまとう衣服はボロボロに斬り裂かれたままであったが、そこから覗く皮膚には、僅かな傷跡しか残っていなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
荒い呼吸を繰り返す衛。
俯いているため、その表情は分からない。
どんな表情を浮かべているのか、そこにどんな感情が現れているのか、構え太刀三兄弟には見えていないため、全く分からない。
「…………はぁ…………はぁ…………。……何が……『誇り』だ……」
衛が呟いた。
空気が凍てつくほどの、冷たい声であった。
「……何が……『怒り』だ……何が……『憎しみ』だ……」
呟きながら、衛は更に、自身の中の炉へと蒔を送り込む。
構え太刀三兄弟が犯した行いを。これからやろうとしていた行いを。呼び覚ました記憶の中から、憎悪を引きずり出し、心の中へと注ぎ込んでいく。
「……何が……『貴様に分かるか』だ……」
──三人の剣術家を襲撃し、立ち合いと称して惨たらしく殺した。
──自分勝手な思惑のために、平和だった渋谷を地獄へと変え、多くの人々を斬り殺し、未来を奪った。
──残された人々の心を深く抉り、悲しみと絶望を与えた。
そして──つどいむしゃと結託し、廉太郎と明日香の心と命を弄んだ。
『……グ……貴様……一体……!?』
苦痛と戦慄に震えながら、剣一郎が声をこぼした。
──分かっていなかった。
剣一郎も、剣次郎も、剣三郎も、分かっていなかった。
青木衛の身に、一体何が起こっているのかを。
「そんなもの……!」
──これこそが、衛に残された『術』。
条件を満たすことで発動する、正真正銘、最後の切り札。
一──自身の肉体が重症を負い、死に瀕している状態であること。
二──抗体と体力を、極限まで消耗している状態であること。
そして、三──自身の心が、狂おしいほどの感情で満たされた状態であること。
この三つの条件が揃った時に起こる、諸刃の剣とも呼べる超常現象。
即ち──
「そんな、下らねえもの……!!」
──抗体の、『暴走』。
「分かる訳ねえだろうがアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
庭中に響き渡る、耳をつんざくような凄まじい怒号。
同時に全身から溢れ出す、おびただしいほどの禍々しき赤光。
抗体の炎をまといし地獄の魔人が今、邪悪なる三匹の外道を抹殺すべく、咆哮を上げながら突撃を開始した。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」




