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魔拳、狂ひて  作者: 武田道志郎
第十話『祖父の現影』
161/310

祖父の現影 三十五

 お待たせして申し訳ございません。

 それでは、宜しくお願いします。

23

『『『──殺せ──殺せ──』』』


 闇の中で、声が何度も響き渡る。

 複数の男達の、怨念の声による大合唱。

 それらが先程から幾度も、闇の彼方から聞こえ続けていた。


「………………」

 それらの合唱を、泣き疲れた明日香は、ぐったりとした様子で聞き続けていた。

 その表情に、そしてその瞳に、もはや生気は感じられない。

 涙の乾いた跡が残る、虚ろな表情。そこにあるのは、地獄へと叩き落とされたような絶望のみであった。


 天から延びる蔦や根のような何かは、先程以上に本数を増やし、彼女の体に幾重にも絡みついている。

 タールのような粘度を持った泥も、あれから凄まじい勢いで積り続けていた。

 最初は足元ほどのかさしかなかったが、今や明日香の首元にまで達していた。

 現在、泥による空間の浸食は止まっている。しかし、それは所詮、一時的な停止に過ぎない。あと少しすれば、再び泥は積り始めるであろう。

 蔦と泥の拘束によって、既に明日香は、僅かな身動きも出来なくなっていた。


 しかし、もし仮に身動きが出来たとしても、明日香は脱出を試みるようなことはしなかったであろう。

 何故なら──今の明日香には、生きる気力など残されていなかったから。


『『『──殺せ──奴を──殺せ──』』』


 また、あの声が闇に反響した。

 明日香に報復を強いる、恨みと憎しみに塗れた声。

 その声の中には、愛する祖父──廉太郎のものも含まれていた。


「……おじい……ちゃん……」

 ぽつりと、明日香が呟く。

 ──聞きたくなかった。

 ──こんな祖父の声など、聞きたくなかった。

 明日香がそう思うと、乾いたはずの涙が、じわりと目に湧き上がってきた。


 ──明日香にとって、東條廉太郎とは、慈愛に満ちた心優しき人物であった。

 常に笑顔を絶やさず、他人のことを思いやる。

 明日香に何かがあった時には一目散に駆け付け、悩んでいる時には相談に乗ってくれる──そんな人物であった。 


 とはいえ、時には廉太郎も叱ることがあった。

 明日香がやってはいけないことをしてしまった時、廉太郎は恐ろしい顔をして、明日香のことを叱った。

 幼い頃の明日香は、初めてその顔を見た時、思わず泣き出してしまった。

 おじいちゃんに、嫌われてしまった──そう思い、とても悲しい気持ちになったのである。

 しかし、今の明日香になら、理解することが出来た。

 あの時の廉太郎は、明日香が憎くて叱っていたわけではないということが。

 自分のことを大切に思っているからこそ、辛い気持ちをグッと堪え、心を鬼にして叱ったのだということが。

 廉太郎が、本当に心の優しい、孫想いの祖父であったということが。


 しかし──現在。


『『『──恨め──憎め──呪え──』』』


 闇の奥深くから聞こえてくる廉太郎の声からは、生前の優しさは微塵も感じられなかった。

 そこにあるのは──どす黒い感情。

 生前の廉太郎からは考えられないほどの邪気に満ちた、純粋なる憎しみのみであった。

 その声を聞くだけで、明日香の心は、悲しみで引き裂かれそうになっていた。

 あの優しかった祖父が、こんなにも憎悪に満ちた声を出すなんて──明日香は、そう思った。


 そして──そうやって心を痛めている傍らで、明日香は、一人の男のことを考えていた。

「……青木……さん……」

 ぽつりと、その男の名を呟く。

 祖父が、実の孫のように大切にしていた男の名を。

 その祖父を、無慈悲に殺害した男の名を。

 祖父のことを疎ましく思い、殺害出来ることを心から喜んでいた男の名を。


「……どうして……?青木さん……」

 再び、明日香は震える声で呟く。

「……どうして……おじいちゃんを……騙したの……?」

 明日香のその呟きは、悲痛な問い掛けであった。

 この場にいるはずのない、祖父の仇に対しての。


 ──廉太郎は、衛に対して家族のような情を注いでいた。

 衛もまた、そんな廉太郎の厚意を、有り難く受け取っていた。

 衛本人がそう語っていたから、明日香はその言葉を信じていた。

 廉太郎がそうであるように、衛も廉太郎を大切に思っているのだ──そう思っていた。

 そう、思っていたのに──。


「……酷いよ……青木さん……」

 悔し涙を流しながら、明日香はそう漏らした。

 ──信じていた。

 ──信じていたのに。

 そう思うだけで、明日香の心に、負の感情がじわりと湧き上がった。


 ──きっと衛には、何か事情があるのだ。

 もしかしたら、誰かを庇おうとしているのかもしれない。

 何か事情があって、廉太郎を殺したと嘘を吐いているのだ。

 ほんの少し前まで、明日香は必死に、己にそう言い聞かせていた。

 そう言い聞かせ、衛のことを信じようと務めていた。


 しかし──明日香は、現実を目の当たりにしてしまった。

 衛は心の中で、廉太郎のことを嫌っていた。

 自身に関わり合おうとする廉太郎のことを毛嫌いし、疎ましく感じていた。

 だから、衛は心から喜んでいた。

 廉太郎を、嬲り殺せることを。

 廉太郎に、自身の想いを吐き出したことを。

 その時の光景を、明日香は己の目で見てしまった。

 あのような光景を見てしまっては、もはや明日香に、衛を信じぬく気力を持ち続けることなど出来なかった。


『『『──恨め──憎め──呪え──』』』


 闇の深淵からは、依然として憎悪の合唱が聞こえてくる。

 その中にはやはり、廉太郎の声もあった。

 ──あの優しかった祖父が、これほどまでに恨めしい声を出すなんて。それほどまでに、衛が廉太郎に与えた死と絶望は、どす黒いものだったのであろう──明日香はそう思い、怒りと悲しみ、そして絶望を募らせた。


 やがて、闇に包まれた天から、再びねっとりとした泥が降り注ぎ始めた。

 下に溜まった泥の上に降り積もり、徐々に固くなっていく。あと数分と経たぬ内に、泥は明日香の頭頂部にまで達し、彼女を完全に埋めてしまうであろう。


 しかし、明日香の心にはもう、焦りも恐怖も沸き上がらなかった。

 ──どうでもいい。

 ──もう、何もかもどうでもいい。

 明日香はそう思いながら、抵抗することもなく、虚ろな目で泥を受け入れていた。


 ──もう、疲れた。

 生きることに、疲れてしまった。

 死んでしまおう。

 このまま泥に埋もれて、そのまま消えてしまおう。

 どうせ、もう家族は一人もこの世にはいない。

 だったら、家族が待っているところに行ってしまおう。


 ──どうして、信じてしまったんだろう。

 どうして、兄のように思ってしまっていたんだろう。

 祖父が孫のように思っていた人だから、自分にとっては兄のようなものだ。

 だから、自分は一人ぼっちじゃないんだ。

 自分の家族が、生きているんだ。

 心細く思う必要はないんだ──どうして、そんな風に考えてしまったんだろう。

 勝手にそう思い込んで、簡単に信用して、その結果がこれだ。

 結局、自分は一人ぼっちだったんだ。

 家族はもう、一年前のあの日からいなかったんだ。

 どうして、そんな風に思ってしまっていたんだろう。


 ──死んでしまえ。

 こんなにも生きるのが辛いなら、もうやめてしまえ。

 生きている間、こんな孤独と絶望がずっと続くのなら、もう呼吸(いき)など止めてしまえ。

 あたしなんて、こんな暗闇の中で泥に埋もれて死んでしまえ──。

 明日香の心に、そのような自暴自棄な考えが、幾つも浮かんだ。

 それらの甘く残酷な誘いに、明日香は静かに身を委ねた。


「……おじいちゃん」

 明日香は最後に、大好きだった祖父の名を、ぽつりと呟いた。

 そして、静かに瞼を閉じた。

 視界いっぱいの暗黒を、更に暗い闇が塗り潰した。

 そうやって、自身が泥に埋もれ、息絶える瞬間を、静かに待ち続けた──。


『『『──恨め──憎め──呪え──』』』


 ──頭上で、あの声が鳴り響いている。


『『『──殺せ──殺せ──殺せ──』』』


 憎悪と殺意に満ちた声が、衛への復讐を訴えている。

 その声に混じり──


『……香……!』


 ──声が、聞こえた。


『明…………香……!』


 誰かが、呼んでいる──明日香は、そう思った。

 最初は、誰の声なのか分からなかった。

 頭がぼやけており、上手く回らなかった。

 しかし──どこか、聞き覚えのある声であった。

 懐かしく、聞いているだけで安心するような、そんな声であった。


『……明日香……!』


(誰の……声なの……?)

 明日香はまどろみながら、思い出そうとした。

 その声を発する者を。

 優しさと頼もしさを感じる、その聞き覚えのある声の持ち主を。


『『『──殺せ──奴を──殺せ──』』』


 その最中に、またしても憎悪の合唱が鳴り響く。

 どろどろとした負の感情を混ぜ込んだ、無数の男の声。

 それらが、またしても空間を満たし、支配していく。


 ──その時であった。


『目を覚ませ、明日香──!!』


「……え!?」

 憎悪の声を吹き飛ばすほどの、勇ましい一喝。

 その声に、明日香は目を開く。

 そして、声のした方向──頭上へと目をやった。


 明日香の視線の先には──天からこちらに向かって舞い降りる、何かの姿が。

 この空間の中でも、『それ』は周囲の闇に塗り潰されることなく、はっきりと存在していた。


「……?」

 次第に、舞い降りる『それ』のシルエットが露わになっていく。

 ──人間であった。

 道着を身に纏っていた。

 両手には、逆手に持ち、刃を下へと向けた刀が握られていた。

 そして、顔は──顔は──。


「……!!」

 ──明日香の両目に、涙が滲んだ。

 それは、先程までの絶望の涙ではない。

 喜び。歓喜の涙であった。

 

 ──理解したのである。

 その人物の正体を。

 ──安心したのである。

 彼が、駆け付けてくれたことに。

 そして何より──嬉しかったのである。

 もう生きている間に、会うことは出来ないと、明日香は思っていたから。


「……ぅ……ぁ……ぁぁ……!」

 明日香は、ボロボロと涙を流しながら、口を開いた。


 そして、叫んだ。

 その人の名を。

 世界で一番大好きな人の名を。


「おじい……ちゃん……っ!!」


 祖父の──東條廉太郎の名を。

 次は、明日の夕方~夜頃に投稿する予定です。

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