祖父の現影 三十五
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『『『──殺せ──殺せ──』』』
闇の中で、声が何度も響き渡る。
複数の男達の、怨念の声による大合唱。
それらが先程から幾度も、闇の彼方から聞こえ続けていた。
「………………」
それらの合唱を、泣き疲れた明日香は、ぐったりとした様子で聞き続けていた。
その表情に、そしてその瞳に、もはや生気は感じられない。
涙の乾いた跡が残る、虚ろな表情。そこにあるのは、地獄へと叩き落とされたような絶望のみであった。
天から延びる蔦や根のような何かは、先程以上に本数を増やし、彼女の体に幾重にも絡みついている。
タールのような粘度を持った泥も、あれから凄まじい勢いで積り続けていた。
最初は足元ほどのかさしかなかったが、今や明日香の首元にまで達していた。
現在、泥による空間の浸食は止まっている。しかし、それは所詮、一時的な停止に過ぎない。あと少しすれば、再び泥は積り始めるであろう。
蔦と泥の拘束によって、既に明日香は、僅かな身動きも出来なくなっていた。
しかし、もし仮に身動きが出来たとしても、明日香は脱出を試みるようなことはしなかったであろう。
何故なら──今の明日香には、生きる気力など残されていなかったから。
『『『──殺せ──奴を──殺せ──』』』
また、あの声が闇に反響した。
明日香に報復を強いる、恨みと憎しみに塗れた声。
その声の中には、愛する祖父──廉太郎のものも含まれていた。
「……おじい……ちゃん……」
ぽつりと、明日香が呟く。
──聞きたくなかった。
──こんな祖父の声など、聞きたくなかった。
明日香がそう思うと、乾いたはずの涙が、じわりと目に湧き上がってきた。
──明日香にとって、東條廉太郎とは、慈愛に満ちた心優しき人物であった。
常に笑顔を絶やさず、他人のことを思いやる。
明日香に何かがあった時には一目散に駆け付け、悩んでいる時には相談に乗ってくれる──そんな人物であった。
とはいえ、時には廉太郎も叱ることがあった。
明日香がやってはいけないことをしてしまった時、廉太郎は恐ろしい顔をして、明日香のことを叱った。
幼い頃の明日香は、初めてその顔を見た時、思わず泣き出してしまった。
おじいちゃんに、嫌われてしまった──そう思い、とても悲しい気持ちになったのである。
しかし、今の明日香になら、理解することが出来た。
あの時の廉太郎は、明日香が憎くて叱っていたわけではないということが。
自分のことを大切に思っているからこそ、辛い気持ちをグッと堪え、心を鬼にして叱ったのだということが。
廉太郎が、本当に心の優しい、孫想いの祖父であったということが。
しかし──現在。
『『『──恨め──憎め──呪え──』』』
闇の奥深くから聞こえてくる廉太郎の声からは、生前の優しさは微塵も感じられなかった。
そこにあるのは──どす黒い感情。
生前の廉太郎からは考えられないほどの邪気に満ちた、純粋なる憎しみのみであった。
その声を聞くだけで、明日香の心は、悲しみで引き裂かれそうになっていた。
あの優しかった祖父が、こんなにも憎悪に満ちた声を出すなんて──明日香は、そう思った。
そして──そうやって心を痛めている傍らで、明日香は、一人の男のことを考えていた。
「……青木……さん……」
ぽつりと、その男の名を呟く。
祖父が、実の孫のように大切にしていた男の名を。
その祖父を、無慈悲に殺害した男の名を。
祖父のことを疎ましく思い、殺害出来ることを心から喜んでいた男の名を。
「……どうして……?青木さん……」
再び、明日香は震える声で呟く。
「……どうして……おじいちゃんを……騙したの……?」
明日香のその呟きは、悲痛な問い掛けであった。
この場にいるはずのない、祖父の仇に対しての。
──廉太郎は、衛に対して家族のような情を注いでいた。
衛もまた、そんな廉太郎の厚意を、有り難く受け取っていた。
衛本人がそう語っていたから、明日香はその言葉を信じていた。
廉太郎がそうであるように、衛も廉太郎を大切に思っているのだ──そう思っていた。
そう、思っていたのに──。
「……酷いよ……青木さん……」
悔し涙を流しながら、明日香はそう漏らした。
──信じていた。
──信じていたのに。
そう思うだけで、明日香の心に、負の感情がじわりと湧き上がった。
──きっと衛には、何か事情があるのだ。
もしかしたら、誰かを庇おうとしているのかもしれない。
何か事情があって、廉太郎を殺したと嘘を吐いているのだ。
ほんの少し前まで、明日香は必死に、己にそう言い聞かせていた。
そう言い聞かせ、衛のことを信じようと務めていた。
しかし──明日香は、現実を目の当たりにしてしまった。
衛は心の中で、廉太郎のことを嫌っていた。
自身に関わり合おうとする廉太郎のことを毛嫌いし、疎ましく感じていた。
だから、衛は心から喜んでいた。
廉太郎を、嬲り殺せることを。
廉太郎に、自身の想いを吐き出したことを。
その時の光景を、明日香は己の目で見てしまった。
あのような光景を見てしまっては、もはや明日香に、衛を信じぬく気力を持ち続けることなど出来なかった。
『『『──恨め──憎め──呪え──』』』
闇の深淵からは、依然として憎悪の合唱が聞こえてくる。
その中にはやはり、廉太郎の声もあった。
──あの優しかった祖父が、これほどまでに恨めしい声を出すなんて。それほどまでに、衛が廉太郎に与えた死と絶望は、どす黒いものだったのであろう──明日香はそう思い、怒りと悲しみ、そして絶望を募らせた。
やがて、闇に包まれた天から、再びねっとりとした泥が降り注ぎ始めた。
下に溜まった泥の上に降り積もり、徐々に固くなっていく。あと数分と経たぬ内に、泥は明日香の頭頂部にまで達し、彼女を完全に埋めてしまうであろう。
しかし、明日香の心にはもう、焦りも恐怖も沸き上がらなかった。
──どうでもいい。
──もう、何もかもどうでもいい。
明日香はそう思いながら、抵抗することもなく、虚ろな目で泥を受け入れていた。
──もう、疲れた。
生きることに、疲れてしまった。
死んでしまおう。
このまま泥に埋もれて、そのまま消えてしまおう。
どうせ、もう家族は一人もこの世にはいない。
だったら、家族が待っているところに行ってしまおう。
──どうして、信じてしまったんだろう。
どうして、兄のように思ってしまっていたんだろう。
祖父が孫のように思っていた人だから、自分にとっては兄のようなものだ。
だから、自分は一人ぼっちじゃないんだ。
自分の家族が、生きているんだ。
心細く思う必要はないんだ──どうして、そんな風に考えてしまったんだろう。
勝手にそう思い込んで、簡単に信用して、その結果がこれだ。
結局、自分は一人ぼっちだったんだ。
家族はもう、一年前のあの日からいなかったんだ。
どうして、そんな風に思ってしまっていたんだろう。
──死んでしまえ。
こんなにも生きるのが辛いなら、もうやめてしまえ。
生きている間、こんな孤独と絶望がずっと続くのなら、もう呼吸など止めてしまえ。
あたしなんて、こんな暗闇の中で泥に埋もれて死んでしまえ──。
明日香の心に、そのような自暴自棄な考えが、幾つも浮かんだ。
それらの甘く残酷な誘いに、明日香は静かに身を委ねた。
「……おじいちゃん」
明日香は最後に、大好きだった祖父の名を、ぽつりと呟いた。
そして、静かに瞼を閉じた。
視界いっぱいの暗黒を、更に暗い闇が塗り潰した。
そうやって、自身が泥に埋もれ、息絶える瞬間を、静かに待ち続けた──。
『『『──恨め──憎め──呪え──』』』
──頭上で、あの声が鳴り響いている。
『『『──殺せ──殺せ──殺せ──』』』
憎悪と殺意に満ちた声が、衛への復讐を訴えている。
その声に混じり──
『……香……!』
──声が、聞こえた。
『明…………香……!』
誰かが、呼んでいる──明日香は、そう思った。
最初は、誰の声なのか分からなかった。
頭がぼやけており、上手く回らなかった。
しかし──どこか、聞き覚えのある声であった。
懐かしく、聞いているだけで安心するような、そんな声であった。
『……明日香……!』
(誰の……声なの……?)
明日香はまどろみながら、思い出そうとした。
その声を発する者を。
優しさと頼もしさを感じる、その聞き覚えのある声の持ち主を。
『『『──殺せ──奴を──殺せ──』』』
その最中に、またしても憎悪の合唱が鳴り響く。
どろどろとした負の感情を混ぜ込んだ、無数の男の声。
それらが、またしても空間を満たし、支配していく。
──その時であった。
『目を覚ませ、明日香──!!』
「……え!?」
憎悪の声を吹き飛ばすほどの、勇ましい一喝。
その声に、明日香は目を開く。
そして、声のした方向──頭上へと目をやった。
明日香の視線の先には──天からこちらに向かって舞い降りる、何かの姿が。
この空間の中でも、『それ』は周囲の闇に塗り潰されることなく、はっきりと存在していた。
「……?」
次第に、舞い降りる『それ』のシルエットが露わになっていく。
──人間であった。
道着を身に纏っていた。
両手には、逆手に持ち、刃を下へと向けた刀が握られていた。
そして、顔は──顔は──。
「……!!」
──明日香の両目に、涙が滲んだ。
それは、先程までの絶望の涙ではない。
喜び。歓喜の涙であった。
──理解したのである。
その人物の正体を。
──安心したのである。
彼が、駆け付けてくれたことに。
そして何より──嬉しかったのである。
もう生きている間に、会うことは出来ないと、明日香は思っていたから。
「……ぅ……ぁ……ぁぁ……!」
明日香は、ボロボロと涙を流しながら、口を開いた。
そして、叫んだ。
その人の名を。
世界で一番大好きな人の名を。
「おじい……ちゃん……っ!!」
祖父の──東條廉太郎の名を。
次は、明日の夕方~夜頃に投稿する予定です。




