祖父の現影 二十六
19
「…………ん…………」
──まどろみの中で、明日香はどろついたものを感じ取った。
生暖かく、じっとりと湿った空気が、彼女の周囲を包み込んでいる。かび臭さと、居心地の悪さ。それらが混ざり合い、吐き気をもよおすような何とも言えない不快感を醸し出していた。
それに耐え切れなくなった明日香は、眠りから覚め、両の瞼を開いた。
「……ここは──」
目を開けると、そこは闇の中であった。瞼を開く前と後の光景が同じであったため、明日香は一瞬、『自分は本当に目を開いているのか』と己に問い掛けていた。それほどまでに、見渡しても見渡しても、辺り一面は黒い闇であった。
そんな闇の中で──己の姿のみ、唯一見ることが出来た。視線を落とすと、手や、胸や、腹や、足が、はっきりと見えた。自身の体だけが、何故か闇に覆い隠されておらず、はっきりと見ることが出来た。闇の中で見えるのは、ただそれだけであった。
「……?……何……これ……?」
その時。明日香は、己の身体にまとわり付いている『それ』の存在に気付いた。
「……これ……植物……?」
彼女の身体には、植物のような何かがまとわり付いていた。一見するとそれは、植物の根のように見えた。また、蔦のようにも見えた。細く、それでいてしなやかな紐のようなものが、明日香の身体に絡んでいた。
「ん……っ」
明日香はその根(と仮定した何か)を掴み、己の身から取り払おうと試みた。
が──根は、素直に取り払われようとはしなかった。どけようと横にずらしても、元の位置にすぐに戻る。千切ろうとしても、断たれる気配は全くない。
その後も明日香は、何度もその根を千切ろうとした。しかし、何度やっても、根は一向に除去出来なかった。予想以上に柔靭な作りで出来たものらしく、引っ張っても根は千切れなかった。
(あたし……確か、道場にいたはずじゃ……?)
明日香は、自身に絡みつく根と格闘しながら、ふとそんなことを考えていた。そして、目覚めたばかりで上手く回らない脳に鞭打ち、直前までの記憶を思い出そうとする。
学校が終わり、帰宅し、そして衛がやって来て、そこで祖父のことを──
『──聞くんだ、明日香ちゃん!!──』
「……っ!!」
その時、明日香の耳の中で、衛の怒鳴り声が甦る。無意識の内に、根を除去しようという動きを止めてしまっていた。
『東條廉太郎先生を、この道場で殺した犯人は──!他の誰でもねえ!!この俺だ!!』
「ひ……っ!」
引き攣ったような声が、明日香の口から飛び出す。
──思い出した。
明日香は、少し前の出来事を──衛の口から告げられた真実を、思い出した。
祖父が、退魔師という仕事をしていたことを。祖父は、つどいむしゃという妖怪に取り憑かれていたことを。そして──その祖父を、衛が殺害したことを。
「……青木さん……」
明日香は、祖父を殺めた男の名を、ぽつりと呟く。そして、考えた。青木衛は、本当に祖父を殺したのであろうか──と。
(どうして……?青木さん……)
苦悶の表情を浮かべながら、明日香は考え続ける。
衛は、廉太郎のことを本当に慕っていた。友として、同業者として、そして何より、家族として。明日香には、それが分かった。衛の言葉の節々から、廉太郎に対する想いが伝わってきたからである。そんな衛が──そんな敬意と信頼を持っていたはずの人間が、本当に廉太郎を殺すことが出来るのであろうか。
衛は言った。情けなど邪魔なだけだ──と。冷酷な調子で、確かにそう言った。
あれが、彼の本性なのであろうか。明日香と親し気に話していた青木衛。実は、その姿は仮の姿で、本当はあの冷酷な青木衛こそが、本来の姿なのであろうか。
──いくつもの疑問が、明日香の頭の中に湧き上がる。答えの見つからぬ疑問であることは分かっている。それでも、疑問を抱かずにはいられない。そのまま彼女は、何度も何度も、湧き上がり続ける疑問と格闘し続けた。
──その時。
「……ん?」
ふと下を見る明日香。その瞳に、何かが映った。
それは──泥であった。彼女の足元に、紫色の泥があった。泥の厚みは、約一センチほどであろうか。この闇の空間の足元全てに、泥は平らに広がっていた。
「……これは──」
そう呟き、明日香は恐る恐る、右足を上げようとした。
すると、その紫の泥は、凄まじい粘着性を発揮しながら、彼女の足にべっとりと、ねっとりとへばり付き続けた。それはまるで、足の裏から一向に剥がれようとしないガムのようであった。
「……!」
その光景を見て、明日香の背筋に、怖気が走った。嫌な予感がした。何故だか分からないが、とてつもなくまずい予感がした。
──考えるのは後回しだ。今は、何とかこの空間から脱出しなくては──。
そう思った明日香は、自らにまとわり付く根と、再び格闘し始めた。何とかこの根を引き剥がし、脱出しようともがき続けた。
しかし──根は一向に剥がれることはなかった。それどころか──もがくことに夢中で、明日香は気付かなかったが──根はますます、明日香の身体に深く根付き始めていたのである。




