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魔拳、狂ひて  作者: 武田道志郎
第十話『祖父の現影』
150/310

祖父の現影 二十四

 投稿が遅くなって申し訳ありません。

 よろしくお願いします。


【これまでのあらすじ】

 一年前、剣術の師匠でもあった祖父──廉太郎を失った高校生、東條明日香。

 彼女は、祖父を失ったあの日から、原因不明の頭痛を抱えていた。

 もうすぐ一周忌を迎えようとしていたある日、彼女のもとを、マリーと舞依という二人の幼い少女を引き連れた、一人の青年が訪れる。

 彼の名は青木衛。彼は、祖父・廉太郎が『本当の孫』のように大切にしていた青年であった。


 祖父の思い出話や、ささやかな食事会を経て、交流を深める両者。その過程で、明日香もまた、衛のことを『本当の兄』のように慕うようになっていく。

 しかしその途中、彼女は酷い頭痛に襲われ、意識を失ってしまった。

 意識を取り戻した明日香は、自身が抱える原因不明の頭痛に、思わず弱音を吐いてしまう。

 そんな彼女に、衛は告げた──その病が何なのか、自分は知っている。廉太郎もまた、その病におかされていたのだ──と。


 翌日の夜、道場で待つ彼女のもとを、再び衛が訪れた。明日香と廉太郎がおかされている病の真実を伝えるために。


 そこで、衛は告げた。

 

 廉太郎が、『退魔師』という仕事を生業としていたことを。

 自分もまた、退魔師であることを。

 この世には、妖怪や悪霊といった超常的な存在が蔓延(はびこ)っていることを。

 それらを退治するのが、退魔師であることを。

 そして──廉太郎が抱えていた病と、明日香が抱えていた病は、どちらも『つどいむしゃ』という妖怪が原因であることを。

「……つどい、むしゃ?」

「そうだ」

「……それって、その……どんな、妖怪なんですか……?」

 明日香が、衛に問う。つどいむしゃ──名前を聞いただけでは、全くイメージが出来ない。どんな妖怪なのか。どんな姿なのか。どんなことをしでかす妖怪なのか──明日香には全く想像できなかった。


 そんな明日香の反応を見て、衛が一度頷く。そして、彼女の反応を予測していたのか、すぐに解答を始めた。

「『つどいむしゃ』ってのは、『武者が集う』って言葉を、そのまま当てはめた名前なんだ」

 そう言いながら、衛は右手の人差し指を立てる。そしてその指で、『集』『武』『者』という字を宙になぞってみせた。

「『むしゃがつどう』……?むしゃって、武士のことですか?」

「そうだ。武者が集った妖怪──戦国時代に、戦で討ち死にしながらも、この世に未練を残した武士達の霊が集まり、一体の妖怪となった存在。それが、つどいむしゃだ」

 そこで衛は、右手を下ろす。そして、つどいむしゃについての更に詳しい解説に移った。


「つどいむしゃは、他の霊魂を吸収して、その霊が生前に身に付けた技を、自分のものにする力を持っていた。それに付け加えて、生きた人間への憑依能力も持ってやがったんだ」

「憑依……能力?」

「ああ。『取り憑いて乗っ取る』能力さ。この能力で、人間の身体を乗っ取り、その肉体の持ち主の魂を吸収して、また強くなる。そして、奪った肉体を使って、散々悪さを働いたらしい」

「『悪さ』……?」

「ああ。屈強そうな男を取っ捕まえて、無理やり勝負を申し込んで、セコい真似をしていたぶるように殺してたんだとよ。しかも、それに飽きたら次は女子供を虐殺して回ったらしい。そうやって、いくつもの村や町を潰したそうだ」

「っ……酷い……」

 明日香はそう呟き、顔を歪めた。その表情からは、つどいむしゃに対しての怒りと嫌悪感が滲み出ていた。衛の解説を聞き、つどいむしゃが悪行を働く光景を想像してしまったのである。男達を罠に嵌め、女子供を追い回した末に惨たらしく殺害する光景を。血と屍が散乱する、悲惨な光景を。


「……ああ、そうだな──」

 衛もまた、そんな光景を想像したらしく、一瞬だけ眉根を寄せていた。

 しかし、すぐに元の仏頂面に戻り、話の続きへと移った。

「……だけど、つどいむしゃの悪行は、長くは続かなかった」

「え……?どうしてですか?」

「実はな。当時の退魔師の中に、この事件が妖怪の仕業であるということを突き止めた人物がいたんだ。真相を掴んだその退魔師は、事態を収集するために、つどいむしゃの討伐に向かった。──そして、三日三晩続く死闘の末に、戦場となった山中にある巨岩に、つどいむしゃを厳重に封印したんだ」

「……!……何だ、良かった……」

 明日香はそう呟き、ほっと胸を撫で下ろした。

 そして──その後僅かに、心の中で苦笑した。先ほどまで、妖怪の存在を疑わしく思っていたはずの自分が、妖怪のことで一喜一憂している。そんな現在の自分の姿が、おかしく感じられたのである。


 ──が。

「……ああ。そこで話が終わったら、本当に良かったんだけどな」

「……え?」

 衛の意味深な発言に、明日香が眉をひそめる。

 そして、悟った。つどいむしゃの怪談には、続きがあるのだ───と。


「……まさか」

「……ああ」

 衛は、目付きを更に鋭くしながら言った。

「……つどいむしゃの封印が解け、甦ったんだ。しかも、この現代にな」

「……!」

 衛が語った、事実を伝える言葉。それを耳にし、明日香は両目を見開いた。


「そ、そんな……!?厳重に封じ込めたんじゃ……!?」

「……そうだ。厳重に封じ込めた。そう伝えられてるはずだった」

 衛は両目を閉じ、唸るような低い声で呟く。

「一体何が原因で甦ったのか、それは分からねえ。何者かが封印を解いたのか、それともつどいむしゃが自力で内側から封印を破ったのか……。ただ一つ言えるのは、奴は現代に甦り、また戦国時代の時のように悪さをしようとしてたってことだけだ」

「悪さを……」

 明日香はそう呟き、俯いた。

 そして──思い出していた。先ほど、衛が語ったときに思い浮かべた、地獄の如き光景を。


「まさか、また虐殺をしようと……」

「ああ。しかも今回は、それに付け加えて、退魔師への復讐も目的にしてる」

「え?」

 衛の言葉に、思わず明日香は顔を上げる。

「退魔師への……『復讐』……?」

「そうだ。戦国時代、奴を封印したのは退魔師だ。退魔師という存在に対してとてつもない憎しみを抱いてる。……けど、奴を封じた退魔師は、もうこの世にはいない。だから奴は、退魔師を生業としてる全ての人間に、復讐をしようとしたのさ」

 衛はそう言うと、眉をひそめた。


「奴が考えた復讐の案はこうだ。まず、一人の退魔師に取り憑く。そして、その退魔師の体を乗っ取り、他の退魔師や、無関係な人間達を殺戮し、見せ付ける。そうすることで、乗っ取った退魔師の心を責め抜き、地獄のような苦しみを与えようとしたのさ」

「……」

「奴は捜した。自分が最初に復讐するべき相手に相応しい退魔師を。自分に乗っ取られ、人々が殺される光景を見せられ、悶え苦しむことになる退魔師を。捜して捜して捜し続け──そして遂に、ある一人の退魔師を見出だし、体を乗っ取ることにしたんだ」

「……!まさか……!?」

 明日香が小さく叫んだ。そして同時に、背筋が凍り付くような感覚が、彼女を襲った。

「その、相手って……まさか……!?」

「ああ。君の予想通りだ」

 衛は頷き、答えた。


「つどいむしゃが選んだのは、東條廉太郎。君のおじいちゃんに取り憑き、乗っ取ろうと企てたんだ」

「っ……!」

 その刹那──明日香の凍りついた背筋を、戦慄が駆け巡った。

 

「そんな……どうして、おじいちゃんが……!」

「東條先生は、心が真っ直ぐで、優しい退魔師だった。そんな人物が体を奪われて、無理やり人を殺させられ……そして、悶え苦しむ。そんな様が、つどいむしゃは見たかったのさ。その上彼は、凄まじいほどの剣術の腕前を持っていた。彼の霊魂を吸収すれば、つどいむしゃはもっと強くなることが出来る。取り憑く対象として、東條先生はうってつけだったんだ」

「そんな……そんな……理由で……」

 明日香は、思わず右手を握りしめていた。怒りと悲しみを、抑えかねていた。

 退魔師で、剣術の達人──つどいむしゃは、たったそれだけの理由で、祖父を利用し、なおかつ苦しめようと企んだのである。故に明日香は、つどいむしゃが許せなかった。


 そんな彼女の様子を見ても、衛は仏頂面のまま、その後のことを語り続けた。

「東條先生に取り憑いたつどいむしゃは、彼の体に苦痛を与えたり、悪夢や幻覚を見せた」

「……?『苦痛』と……『悪夢』……?」

 その時、衛の語った内容に、明日香は引っ掛かるものを覚えた。

「そうだ。つどいむしゃはそれを繰り返して、心を不安定にすることで、人間の体を乗っ取るんだ。東條先生に取り憑いた時も、奴はその手口を使ったんだ」

「…………」

 衛の補足を聞き、明日香の頭の中の『引っ掛かり』が、ますます大きなものになっていく。

 ──『苦痛』、そして『悪夢』。苦痛とは、頭痛もその『苦痛』の一種に入るのであろうか。もし、入るのだとしたら──明日香は、そんなことを考えていた。


 しかし、衛は彼女の様子に気付いていないようであった。あるいは、気付いているのかもしれないが──それでも衛は、話を続けていた。

「さっきも言ったように、その症状が出始めた頃、東條先生本人は、何かの病気に懸かっているんだと思っていたらしい。だけど、病院に行っても、詳しい病気は分からなかった。そこで初めて、昔古い文献で読んだつどいむしゃのことを思い出したそうだ」

「…………」

 自分と同じだ───明日香はそう思った。祖父もまた、自分と同じ痛みと、恐れを抱いたのだ。

 ではやはり、自分が今悩んでいるあの頭痛は──

「…………っ」

 そんなことを考えていると、明日香の頭を、あの頭痛がまた襲った。まるで、明日香が今考えていることを、頭痛の原因(もと)となる『何か』が、肯定しているかのように。


「……でも、その時既に、東條先生の心は、つどいむしゃによって大きく蝕まれていた。普通の人間ならば、もう完全に乗っ取られてもおかしくない状態だった。……けど、東條先生も、妖怪との死闘を何度も潜り抜けた方だ。持ち前の強い精神力で、つどいむしゃの責め苦に耐え続けていた。……でも、やがて限界が来た。このままでは、つどいむしゃに体を完全に乗っ取られてしまう──そんなところまで来てしまっていたんだ」

「ぅ……」

 明日香が呻く。徐々に、痛みが激しさを増していた。痛みと共に、吐き気も生じている。

 しかし、それでも話を聞き続けた。祖父が死に至るまでの間に、何が起こったのか。そしてこれから、自分はどうなってしまうのかが、気になったから。

 だから、明日香は不調を堪え、話を聞き続けようとした。──まだいける。まだ我慢できる。自身にそう言い聞かせた、まさにその時であった。


「──だから、俺が始末した」


 ──道場内に、静寂が訪れた。

 衛が発した一言。その一言によるものであった。

 閉め切った道場の外からは激しく地面を打つ雨の音が聞こえてきた。どうやら、先ほどよりも雨足が強まったらしい。そんなことにも気付かないほど、明日香は今まで、熱心に話を聞いていた。

 が──今衛が放った一言は、そんな明日香の心を、凍てつくほどに冷ましたのであった。


「…………」

 明日香は、しばらくの間沈黙し続けていた。

 ──衛は今、何と言ったのか。良く分からなかったので、もう一度聞いてみよう。

 そう思い、明日香はおずおずと、口を開いた。


「…………あ。…………その、青木さん」

「…………」

「い、今……えっと……何て……言ったんですか……?」


「俺が始末した」


「…………」

 衛の言葉に、またしても明日香は沈黙する。

 ──始末した。衛は確かに、そう言った。

 その言葉──『始末』の意味が、その時の明日香には分らなかった。否、本当は解ってはいたが、その意味を認めたくなかった。

 だから、明日香はもう一度尋ねることにした。

「…………あ、あの……『始末』って……?」


「そのままの意味さ。俺が『殺した』」


「…………」

 ──冗談だと思った。

 ──あるいは、聞き間違いだと思った。

 そんなことがあるはずがない。あっていいはずがない──と。


 だから明日香は、しつこく聞いた。

「じ、冗談……ですよ……ね……?」

「…………」

「は、はは……青木さん、やめてくださいよ……。あたし、結構、真剣に話を聞いてたんですよ……?なのに、いきなり、冗談なんて──」

 明日香は作り笑いを浮かべながら、言葉を絞り出した。──その声は、震えていた。寒気と、戦慄や悲しみ──そういったもののせいで、確かに震えていた。

 ──嘘だ。冗談だ。笑えない冗談を言って、からかってるだけだ。そうであってほしい。いや、絶対にそうだ

 そんな言葉が、いくつも心の中に浮かび上がっていく。


 しかし、そんな言葉の数々は──

「冗談なんかじゃねえ。俺だって真剣に話してるよ」

 衛の酷く冷たい声によって、粉々に打ち砕かれた。

「俺が、東條先生を殺した」

「…………。…………そん…………な…………」

 衛の言葉を聞き──明日香の顔から、作り笑いが崩れ落ちていく。ぼろぼろ、ぼろぼろと。完成したパズルをひっくり返したように、その表情が崩れていく。

 明日香の両目が、徐々に見開かれていく。肌からも、ゆっくりと血の気が引いていく。その表面には、冷たい汗の粒が浮いている。体の震えも、だんだん大きくなっていく。

 そして、表情から笑みが消え失せ──最後に残ったのは、絶望であった。自身の予感。今日、衛がここを訪れる前に、明日香が予想した『真実』。それは、衛が今語った内容と、一致していた。──事実であってほしくない予感が、的中してしまった。その絶望に、明日香は押しつぶされそうになっていた。


「どうして……おじいちゃんを……殺したの……?」

 震える声で、明日香は尋ねる。

 衛は、明日香と目を合わせることもなく、そっぽを向く。

「それが、退魔師の仕事だからだ」

 そして、頭を軽く掻きながら、感情のこもっていない声で答えた。

「東條先生は凄腕の剣術使いだ。そんな人の魂が吸収されてしまったら、ただでさえ強い力を持つつどいむしゃが、ますます強くなってしまう。そうなっちまったら、後々面倒だからな。すぐに始末させてもらったのさ」

「そん……な……」


 衛の冷たい言葉に、明日香はまた、震える声をもらす。頭痛と吐き気が酷く、今にも倒れそうな状態であったが、それでも、尋ねずにはいられなかった。

「助けることは……出来なかったんですか…………?」

「『助ける』?何でだよ。もう手の施しようがなかったんだ。だったら、そんな必要ねえだろ」

「そんな……酷い……!」

 衛の答え。それを聞いた明日香は不意に、カッと熱くなるものが内側からこみあげて来る感覚を味わった。


「おじいちゃんは……青木さんのこと……『本当の孫』みたいに、思って……青木さんだって……家族だと…………思ってたんでしょう……?……それなのに、どうして……どうして、そんな……!?」

「……ああ。俺だって、そう思ってたよ」

 それに対し、衛はまた、明日香に顔を向ける。感情のまったく読み取れない仏頂面を。そして──答えた。

「……でもな。妖怪になっちまったら、話は別だ。つどいむしゃは邪悪な妖怪だ。人間に害を与える、危険な妖怪だ。そうなっちまったら、家族でもなんでもねえ。ただの獲物だ。家族だの何だの……そんな情け、邪魔なだけだ」

「そんな……そんな……ことって……!」

 明日香が、声をこぼす。そうしながら、自身の心が、今にも爆発しそうになっているのを感じていた。衛に対する怒りが、憎しみが。そして、真実を知った悲しみが、彼女の心の中に渦巻いていた。それらの感情が涙へと変わり、見開いた両目から、ぼろぼろと零れ落ちる。


「嘘……違う……!」

 ──明日香が、泣きながら立ち上がる。頭痛と吐き気を堪えながら、ゆっくりと立ち上がる。

 そして、それと同じくらいゆっくりと後ずさった。衛から──目の前で正座している『祖父の仇』から、少しでも離れたかった。

 しかし──それでも彼女は、衛を信じたかった。祖父が、本当の孫のように想っていた人物を。そして──自身も、本当の兄のように慕おうとしていた青年を。そのために明日香は、衛が告げた残酷な真実を、必死に否定しようとした。

「違う……!違う……!そんなの……嘘だ!」


 しかし──

「嘘じゃねえ。本当だ」

 衛は立ち上がり、明日香の信じたいという気持ちを、打ち砕いた。

 そして、ゆっくりと後ずさる明日香に、歩み寄った。

「嘘だ……嘘だ……!」

「嘘じゃねえ」

「違う……!嘘だ!」

「嘘じゃねえ!!」

 不意に、衛が一喝した。

 その声に、明日香が震える。そして、後ずさる速度を速めた。

 しかし、衛も、歩み寄る速度を速めた。そして、明日香との距離を縮めた。


「聞いてくれ、明日香ちゃん」

「い、嫌……聞きたくない…………!」

「駄目だ。良く聞け、明日香ちゃん」

「嫌だ……!聞きたくない!もう何も聞きたくないっ!!」

「聞くんだッ!!」

「嫌……!嫌ぁっ!!」


 そして遂に──衛が、明日香に追いついた。明日香の両肩を、逃げられないようにがっしりと掴む。

「聞くんだ、明日香ちゃん!!君は知らなきゃならない!!君のおじいちゃんの死の真実を!!君のおじいちゃんを殺した、憎い仇を!!」

「嫌っ、嫌だ!!聞きたくない!!手を放して!!嫌ぁっ!!」

 泣き叫ぶ明日香を、衛が怒鳴りつける。

 明日香は、そんな衛から逃れようと、泣きながらもがいた。しかし、衛の両手は、明日香の肩を掴んだまま離れた。

 それでも明日香は、衛から逃れようとした。もがいてもがいて、もがき続けた。


 何度も何度ももがき続け──不意に、衛と目があった。

 衛の表情は、先ほどのような仏頂面ではなかった。眉が寄り、皺が刻まれ、顔が歪んでいる。その表情には──そして、その瞳には──確かに、感情があった。

 その顔を見て、明日香は一瞬、心臓が止まりそうになった。同時に、逃れようともがく体が、止まっていた。

「一年前のあの日、君のおじいちゃんを殺したのは──!」

「い、嫌……!」

「東條廉太郎先生を、この道場で殺した犯人は──!」

「嫌……!嫌!!」


「他の誰でもねえ!!この俺だ!!」


「嫌ぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──!!」


 衛が告げた、悲しき真実を伝える、最後の一言。

 その一言が、明日香の心にとどめを刺した。心の中で渦を巻いて暴れ狂う感情は、涙だけではなく悲鳴へと変わり、彼女の喉を通って、口から迸った。


 ──その時であった。


「ああああああああああああああ──!!」

 もがくことを止めていた明日香の体が、一瞬動いた。あれほど動いても離れなかった衛の手が、その一瞬のもがきによって、弾き飛ばされていた。


「ああああああああああああああああああ──!!」

 明日香は叫びながら、三歩後ずさった。そこで立ち止まり、両手で頭を抱えた。


 次の瞬間───明日香の叫び声に───変化が生じた。


「あああああああああああああ『あああああああああああああああああああ──!!』」

 明日香の声に──『誰かの声』が、重なった。明日香と共に叫ぶように、何者かの声が重なった。


 その声は、男性の低い声であった。衛の声ではない。衛は、もとの仏頂面に戻っている。そして、その場に佇んだまま、叫ぶ明日香を見つめていた。

 しかし、この場には、衛以外の男性はいない。いるのは、明日香一人。衛と明日香、男一人と女一人。それだけである。

 だが、今もその声は、明日香と共に叫び続けている。一体誰が、この叫び声を発しているのか。誰の口から、その叫び声が放たれているのか。


 ──明日香であった。


 その声は、明日香の口から放たれていた。明日香の声──『本来の明日香の声』と共に、『男』の声が、重なるように放たれていたのである。


 ──その時。


「『ああああああああああああああああああああああああ『あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──!!』』」

 ──また一人。明日香の声に、また別の男の叫び声が重なった。高い男の声で合った。明日香と、二人の男──三人分の声が、彼女の口から放たれていた。


「『『あああああああああああああああああああああああ『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──!!』』』」

 ──また一人、声が重なる。しわがれた男の声が。やはりそれは、明日香の口から放たれていた。


「『『『あああああああああああああああああああああああ『あああああああああああああああああああああああああああああああああ『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──!!』』』』』」

 ──また一人。

 ──また一人。

 別の声が、明日香の声に重なる。

 ──もう一人。

 ──また一人。

 ──更に一人。

 声が、重なる。


「『『『『『『あああああああああああああああああああああああああ『あああああ『ああああああ『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──!!』』』』』』』』』」

 重なる。

 重なる。

 重なる、重なる、重なる。

 重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる重なる──。


 そうやって、幾人もの男の声が明日香の声に重なり、彼女の口から放たれていく。

 もはや、何人の叫び声が重なっているのか解らなかった。少なくとも、数十人は優に超えていた。

 それでもなお、明日香の声に、一人、また一人と、叫び声は重なり続けた。増えて重なった叫び声は、さながら合戦の際に上がる『(とき)の声』のようであった。


 ──その時。


「『『『『『『『『『『『『ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』』』』』』』』』』』』」


 叫び声が──止んだ。

 そして──


「『『『…………………………』』』」


 ──『それ』が。

 否──『それら』が、甦った。

 次の投稿日は未定です。

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