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魔拳、狂ひて  作者: 武田道志郎
第十話『祖父の現影』
146/310

祖父の現影 二十

16

 その日は、朝から土砂降りの大雨が降り注いでいた。

 しばらく大粒の雨が激しく地上を叩き、それから少しの間、まばらな雨が天から落ちる。

 それからまたしばらくすると、休憩を止めた雨雲は、また地上に激流の如きシャワーを浴びせ掛ける。

 その最中、時折雷鳴が轟くこともあった。

 昨日から空には暗雲が立ち込めていたが、まさかここまで酷い天気になるとは、明日香も想像がつかなかった。

 その天気が───土砂降りの雨が───眩い雷が───明日香の暗い気持ちを、更にもやもやとしたものにしていた。


 その日、明日香はいつものように学校に登校した。

 体調に関しては、特に異常は見られなかった。

 頭痛は朝から全く感じず、当然、熱や吐き気等の症状も見られない。

 大事をとって休んでおくべきかとも考えたが、結局登校した。

 特に身体に異常もないのに休んでしまうのは、ズル休みなのではないかという気がしたからである。

 クラスの友人達は、昨日倒れた明日香の体調を真っ先に心配した。

 心優しき友人達に対し、明日香は作り笑いを浮かべ、もう大丈夫だという嘘を伝えた。

 それを信じ、胸を撫で下ろす者もいたが───千恵は、まだ不安そうな表情をしていた。

 そんな彼女の表情を見て、明日香は己の胸がちくちくするように感じた。


 ───結局その日は、特に何も異常なく学校生活を過ごすことが出来た。

 授業を受ける。

 食事をとる。

 掃除を行う。

 友人たちと談笑する。

 そんな当たり前の日常的な光景が、今の明日香には、とても尊いもののように感じられた。


 それが終わると、明日香は寄り道せずに帰宅。

 そしてすぐに、夕食の準備をした。

 昨日、衛と一緒に作った分が、まだ残っていたのである。

 それを温め終えると、明日香はそれらを、一人でもそもそと食べた。

 やはり一人で食べる食事は、どこか味気ないものであった。

 昨日の衛達との賑やかな食事が、とても恋しいものに感じられた。


 食事が終わると、明日香は食器を洗って片付けた。

 次に明日香は道着に着替えた。

 そして───まだ雨の降りしきる中、傘を差し、道場へと向かった。

 稽古をする訳ではない。

 明日の八時、道場で全てを話す───昨日、衛が帰り際にそう指定したためである。

 それが第一の理由であったが、実はもう一つ理由があった。

 精神を───心を落ち着けようと思ったのである。

 道場内の澄み切った空気。

 それが醸し出す、どこか神聖な雰囲気。

 幼い頃に初めて道着に身を包んで、道場に足を踏み入れたその時。

 道場の空気と雰囲気に触れた瞬間、自身の心が引き締まり、静かなものになるように感じたことを、明日香ははっきりと覚えている。

 その経験から明日香は、何かに悩んだり、落ち込んだりした時は、道着に着替えて道場で精神統一を行うよう心掛けていた。

 道場内で精神統一を行えば、きっと今の心を落ち着かせることが出来るはずだ───明日香はそう思っていた。

 だから明日香は、心を落ち着かせるべく、道着に着替え、約束の時間よりも早く道場へと向かったのである。


 数分と経たぬうちに、屋敷の離れにある道場へと辿り着いた。

 戸を開け、中に入る。

 そして戸を閉め、出入り口の近くにある電気のスイッチを押す。

 雨雲によって暗い闇が満ちた道場が、その瞬間、明かりに照らし出された。

 年季は入っているが、丁寧に手入れが施された道場。

 祖父が亡くなってからも、怠ることなく明日香が磨き続けた道場。

 その空気と雰囲気に触れ───明日香の心が、僅かに引き締まった。


 ───神棚に礼をする。

 道場を、もう一度見渡す。

 そして、深呼吸をし───磨き抜かれた床に正座した。


「・・・・・」

 静かに目を閉じ、黙想する。

 聞こえてくるのは、激しい雨音。

 地面を激しく打ち付ける、土砂降りの雨。

 しかし、道場の壁に遮断されており、音の大きさは僅かに軽減されている。

 それ以外は、何も聞こえてこない。

 そんな中で、明日香は己の心を無にしようと努めた。

 自身の心を掻き乱す疑問と不安を取り除き、平常心を取り戻そうと心掛けた。


 しかし───

「・・・・・」

 ───どれほど時間が過ぎても、明日香の心は落ち着きを取り戻すことはなかった。

 それどころか、時間が経つにつれて、明日香の心は、激しく掻き乱されていった。


 明日香の心の中で暴れる不安。

 その正体は、青木衛がこれから打ち明けようとしている『自身の病気』だけではない。

 確かにそれも不安なものであるが、今の明日香には、もう一つ、不安になっているものが存在した。

 それは───今日の夢の内容であった。


 今日見た夢。

 その内容は、昨日、衛達が来た時、自分が倒れた時に見た夢と同じものであった。

 しかし、全く同じという訳ではない。

 今日見た夢の光景は、昨日の夢の時よりも、霧が薄かった。

 だから、ぼやけて曖昧であった両者の闘う姿が、ややはっきりと見えるようになっていた。


 あの時、夢の中で立ち合っていた、二人の男。

 その内の一人───刀を扱っていた男。

(・・・あれは・・・おじいちゃん・・・?)

 明日香が、心の中で呟く。

 あの時の刀の男───あれはおそらく、祖父・廉太郎であろう。

 霧が薄れていたとはいえ、顔や姿がはっきりと見えた訳ではない。

 しかし、背丈、動き、掛け声───そのどれもが、廉太郎のそれと似通ったものであった。

 だからあれは、己の祖父なのでは───明日香は、そう思った。


 だが、もしその通りなのだとすれば───

(・・・おじいちゃんが闘っていた、もう一人の男の人は・・・?)

 ───祖父が立ち合っていた相手は、一体誰だというのか。


 背丈は、祖父とあまり変わらない。

 肉体も、よく鍛えているような印象を感じた。

 しかし、何よりも特筆すべきは、その実力であった

 廉太郎と立ち合っていた男は、無手であった。

 剣術の達人に無手で挑むなど、正しく無謀。

 己を斬ってくれと言っているようなもの───正しく自殺行為という言葉が相応しい。

 しかし───無手の男は、挑んだのである。

 剣術の達人である廉太郎に対し、素手で。

 元々、廉太郎に対して無手で挑むつもりだったのか。

 あるいは、何らかの事情で武器を使うことが出来なかったのか───それは分からない。

 ただ一つ言えるのは、無手の男が、剣を持った相手との闘いで、何も武器を持たずに生き延びるほどの実力を持っている、ということだけである。

 そしておそらく、その人物こそが、祖父を殺めた真犯人なのではないだろうか───明日香は、そう思った。


(・・・なら、あの人は一体・・・?)

 明日香がそう思った瞬間───彼女の心が、一層激しく掻き乱されているように感じた。

 無手の男の正体について考えると、彼女に胸騒ぎが襲いかかった。

 テレビの画面に映る白黒のノイズのような何かが、その人物について考えぬように、覆い隠しているかのようであった。


「・・・・・」

 ───嫌な予感がした。

 明日香が考える、その人物の正体。

 それを予想した瞬間、明日香の心を胸騒ぎが襲うのである。

 ───それだけはない。

 ───そんなはずはない。

 ───そんな考えだけは、絶対に持ってはいけない。

 そうやって、自身の本能が、己の心を説得しているかのように。

 今日一日、夢のことを考える度、そんな胸騒ぎが明日香を襲っていたのである。


 しかし───それでも明日香は、考えずにはいられなかった。

 その男の正体を。

 真犯人の正体を。

(・・・違う。きっと、違う・・・)

 そして、『その予想』に至る度に、必死に明日香はかぶりを振り、自身の予想を否定するのである。

 何故なら、そんなことなどあってはならないのだから。

 そんなことなど、あってほしくないのだから。

(・・・違う。だって、あれはただの夢なんだ。現実に、あたしが見た光景じゃない。違う。きっと・・・違う・・・!)


 その時───戸の開く音がした。

「・・・!」

 反射的に、明日香は己の目を開いた。

 そして、音のした方向を見やる。

 そこには───

「・・・・・」

「・・・・・青木、さん・・・・・」

 両手に黒いグローブをはめた青木衛が、佇んでいた。

 右手に折り畳んだ傘を持っている。

 そして左の肩には、何かがぶら下がっている。

 縦に長いバッグであった。

 全長一〇〇センチほどはあるように思える。

 そのバッグを、肩に担いていた。


「・・・・・待たせたな」

 衛は一言、短くそう言った。

 その表情は、非常に険しいものであった。

「あ・・・い、いえ・・・」

 明日香は、ただそう返した。

 ただ、ただそれだけなのに───明日香の胸騒ぎは、ますます激しくなっていた。

 次の投稿日は未定です。

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