祖父の現影 二十
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その日は、朝から土砂降りの大雨が降り注いでいた。
しばらく大粒の雨が激しく地上を叩き、それから少しの間、まばらな雨が天から落ちる。
それからまたしばらくすると、休憩を止めた雨雲は、また地上に激流の如きシャワーを浴びせ掛ける。
その最中、時折雷鳴が轟くこともあった。
昨日から空には暗雲が立ち込めていたが、まさかここまで酷い天気になるとは、明日香も想像がつかなかった。
その天気が───土砂降りの雨が───眩い雷が───明日香の暗い気持ちを、更にもやもやとしたものにしていた。
その日、明日香はいつものように学校に登校した。
体調に関しては、特に異常は見られなかった。
頭痛は朝から全く感じず、当然、熱や吐き気等の症状も見られない。
大事をとって休んでおくべきかとも考えたが、結局登校した。
特に身体に異常もないのに休んでしまうのは、ズル休みなのではないかという気がしたからである。
クラスの友人達は、昨日倒れた明日香の体調を真っ先に心配した。
心優しき友人達に対し、明日香は作り笑いを浮かべ、もう大丈夫だという嘘を伝えた。
それを信じ、胸を撫で下ろす者もいたが───千恵は、まだ不安そうな表情をしていた。
そんな彼女の表情を見て、明日香は己の胸がちくちくするように感じた。
───結局その日は、特に何も異常なく学校生活を過ごすことが出来た。
授業を受ける。
食事をとる。
掃除を行う。
友人たちと談笑する。
そんな当たり前の日常的な光景が、今の明日香には、とても尊いもののように感じられた。
それが終わると、明日香は寄り道せずに帰宅。
そしてすぐに、夕食の準備をした。
昨日、衛と一緒に作った分が、まだ残っていたのである。
それを温め終えると、明日香はそれらを、一人でもそもそと食べた。
やはり一人で食べる食事は、どこか味気ないものであった。
昨日の衛達との賑やかな食事が、とても恋しいものに感じられた。
食事が終わると、明日香は食器を洗って片付けた。
次に明日香は道着に着替えた。
そして───まだ雨の降りしきる中、傘を差し、道場へと向かった。
稽古をする訳ではない。
明日の八時、道場で全てを話す───昨日、衛が帰り際にそう指定したためである。
それが第一の理由であったが、実はもう一つ理由があった。
精神を───心を落ち着けようと思ったのである。
道場内の澄み切った空気。
それが醸し出す、どこか神聖な雰囲気。
幼い頃に初めて道着に身を包んで、道場に足を踏み入れたその時。
道場の空気と雰囲気に触れた瞬間、自身の心が引き締まり、静かなものになるように感じたことを、明日香ははっきりと覚えている。
その経験から明日香は、何かに悩んだり、落ち込んだりした時は、道着に着替えて道場で精神統一を行うよう心掛けていた。
道場内で精神統一を行えば、きっと今の心を落ち着かせることが出来るはずだ───明日香はそう思っていた。
だから明日香は、心を落ち着かせるべく、道着に着替え、約束の時間よりも早く道場へと向かったのである。
数分と経たぬうちに、屋敷の離れにある道場へと辿り着いた。
戸を開け、中に入る。
そして戸を閉め、出入り口の近くにある電気のスイッチを押す。
雨雲によって暗い闇が満ちた道場が、その瞬間、明かりに照らし出された。
年季は入っているが、丁寧に手入れが施された道場。
祖父が亡くなってからも、怠ることなく明日香が磨き続けた道場。
その空気と雰囲気に触れ───明日香の心が、僅かに引き締まった。
───神棚に礼をする。
道場を、もう一度見渡す。
そして、深呼吸をし───磨き抜かれた床に正座した。
「・・・・・」
静かに目を閉じ、黙想する。
聞こえてくるのは、激しい雨音。
地面を激しく打ち付ける、土砂降りの雨。
しかし、道場の壁に遮断されており、音の大きさは僅かに軽減されている。
それ以外は、何も聞こえてこない。
そんな中で、明日香は己の心を無にしようと努めた。
自身の心を掻き乱す疑問と不安を取り除き、平常心を取り戻そうと心掛けた。
しかし───
「・・・・・」
───どれほど時間が過ぎても、明日香の心は落ち着きを取り戻すことはなかった。
それどころか、時間が経つにつれて、明日香の心は、激しく掻き乱されていった。
明日香の心の中で暴れる不安。
その正体は、青木衛がこれから打ち明けようとしている『自身の病気』だけではない。
確かにそれも不安なものであるが、今の明日香には、もう一つ、不安になっているものが存在した。
それは───今日の夢の内容であった。
今日見た夢。
その内容は、昨日、衛達が来た時、自分が倒れた時に見た夢と同じものであった。
しかし、全く同じという訳ではない。
今日見た夢の光景は、昨日の夢の時よりも、霧が薄かった。
だから、ぼやけて曖昧であった両者の闘う姿が、ややはっきりと見えるようになっていた。
あの時、夢の中で立ち合っていた、二人の男。
その内の一人───刀を扱っていた男。
(・・・あれは・・・おじいちゃん・・・?)
明日香が、心の中で呟く。
あの時の刀の男───あれはおそらく、祖父・廉太郎であろう。
霧が薄れていたとはいえ、顔や姿がはっきりと見えた訳ではない。
しかし、背丈、動き、掛け声───そのどれもが、廉太郎のそれと似通ったものであった。
だからあれは、己の祖父なのでは───明日香は、そう思った。
だが、もしその通りなのだとすれば───
(・・・おじいちゃんが闘っていた、もう一人の男の人は・・・?)
───祖父が立ち合っていた相手は、一体誰だというのか。
背丈は、祖父とあまり変わらない。
肉体も、よく鍛えているような印象を感じた。
しかし、何よりも特筆すべきは、その実力であった
廉太郎と立ち合っていた男は、無手であった。
剣術の達人に無手で挑むなど、正しく無謀。
己を斬ってくれと言っているようなもの───正しく自殺行為という言葉が相応しい。
しかし───無手の男は、挑んだのである。
剣術の達人である廉太郎に対し、素手で。
元々、廉太郎に対して無手で挑むつもりだったのか。
あるいは、何らかの事情で武器を使うことが出来なかったのか───それは分からない。
ただ一つ言えるのは、無手の男が、剣を持った相手との闘いで、何も武器を持たずに生き延びるほどの実力を持っている、ということだけである。
そしておそらく、その人物こそが、祖父を殺めた真犯人なのではないだろうか───明日香は、そう思った。
(・・・なら、あの人は一体・・・?)
明日香がそう思った瞬間───彼女の心が、一層激しく掻き乱されているように感じた。
無手の男の正体について考えると、彼女に胸騒ぎが襲いかかった。
テレビの画面に映る白黒のノイズのような何かが、その人物について考えぬように、覆い隠しているかのようであった。
「・・・・・」
───嫌な予感がした。
明日香が考える、その人物の正体。
それを予想した瞬間、明日香の心を胸騒ぎが襲うのである。
───それだけはない。
───そんなはずはない。
───そんな考えだけは、絶対に持ってはいけない。
そうやって、自身の本能が、己の心を説得しているかのように。
今日一日、夢のことを考える度、そんな胸騒ぎが明日香を襲っていたのである。
しかし───それでも明日香は、考えずにはいられなかった。
その男の正体を。
真犯人の正体を。
(・・・違う。きっと、違う・・・)
そして、『その予想』に至る度に、必死に明日香はかぶりを振り、自身の予想を否定するのである。
何故なら、そんなことなどあってはならないのだから。
そんなことなど、あってほしくないのだから。
(・・・違う。だって、あれはただの夢なんだ。現実に、あたしが見た光景じゃない。違う。きっと・・・違う・・・!)
その時───戸の開く音がした。
「・・・!」
反射的に、明日香は己の目を開いた。
そして、音のした方向を見やる。
そこには───
「・・・・・」
「・・・・・青木、さん・・・・・」
両手に黒いグローブをはめた青木衛が、佇んでいた。
右手に折り畳んだ傘を持っている。
そして左の肩には、何かがぶら下がっている。
縦に長いバッグであった。
全長一〇〇センチほどはあるように思える。
そのバッグを、肩に担いていた。
「・・・・・待たせたな」
衛は一言、短くそう言った。
その表情は、非常に険しいものであった。
「あ・・・い、いえ・・・」
明日香は、ただそう返した。
ただ、ただそれだけなのに───明日香の胸騒ぎは、ますます激しくなっていた。
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