表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔拳、狂ひて  作者: 武田道志郎
第九話『のっぺらぼうのおでん屋』
122/310

のっぺらぼうのおでん屋 一

 肌寒い夜であった。

 春も終わりに差し掛かっているというのに、まるで秋の夜のような寒さであった。

 夜が深まると共に、空気はますます冷ややかなものになっていく。

 そして丑三つ時になる頃には、冬を思わせるような気温となっていた。


 東京都内、とある公園の近くの道端。

 そこに、一つの屋台が構えてあった。

 屋台からは、空腹を促す良い香りと共に、温かい蒸気が立ち上っている。

 道の周りに備え付けてある電灯の灯りは薄暗く、心もとない。

 しかし、逆にその屋台の灯りは、見た者の心に安心感を与えるほどに輝いていた。

 薄暗い情景の中に浮かぶその屋台は、まるで温かい家庭を思わせるような雰囲気を漂わせていた。


 その屋台に歩み寄る人影が一つ。

 青年であった。

 背は、それほど高くはない。

 小柄である。

 一六五センチか、それよりもやや低いくらいである。

 しかし、よく鍛えられた体であった。

 黒いジャケットに覆われた彼の体は、多過ぎず少な過ぎない、しっかりとした筋肉のシルエットを形作っていた。


 しかし、何よりも特徴的なのは、彼の人相であった。

 表情からは愛想のようなものが感じられず、目付きが妙に悪い。

 いわゆる悪人面である。

 こんな顔で睨み付けられたら、子供ならばその場で号泣してしまう───そんな目付きであった。


 しかし、そんな表情とは裏腹に───彼の瞳の中からは、高揚感のようなものが感じられた。

 まるで、これから自身が体験する出来事に対して、楽しみを感じているようであった。


「・・・・・」

 青年が、屋台の前で立ち止まる。

「・・・・・」

 そして、無言のままのれんを見つめる。

 赤いのれんには、平仮名で三文字───『おでん』とだけ書き記されていた。

「・・・・・よし」

 意を決したように頷き、小さな声で呟く。

 そして───ゆっくりと、のれんをくぐった。


「ごめんください」

「はい、いらっしゃい!」

 のれんの先には、誰も座っていない四つの客席。

 そしてその奥の厨房には、背を向けて作業をしている店主らしき人物の姿があった。


「どうしたんです?そんなに慌て───」

 店主が、ゆっくりと振り替える。

 三十代半ばほどの、にこやかな笑みを浮かべた人懐っこそうな顔。

 その顔が───青年の悪人面を見た途端、固まった。

「───てる・・・訳・・・ではない・・・みたいですね・・・」

「ええ。すごく落ち着いてます」

 店主が口にした言葉を大して気にせず、青年はそう答えた。

 その言葉通り、青年は非常に冷静な様子であった。

 しかしその様子は、店主が期待した様子とはいささか違うものであった。


 この屋台ののれんをくぐる客は皆、とある事情から、恐怖や動揺によって顔をひきつらせている。

 今日訪れる客───即ち、この青年に対しても、そのような様子を期待していたのである。

 店主の表情が固くなったのは、青年の悪人面を見たことで、一瞬緊張してしまったためだけではなく、そのような理由もあったのである。


「・・・あ。それじゃあ、何にいたしましょう?」

 店主は気を取り直し、席に座った青年に注文を訊ねる。

「ん・・・それじゃあ───」

 促された青年は、台に置かれたメニューを眺めた。


 具材の種類が豊富であった。

 二十種類はある。

 玉子や大根、厚揚げといった主流な具材はもちろん、ロールキャベツやウインナーソーセージ等の、洋風な具材もある。


 しかし、それらの豊富な具材を前にしても、青年の決断は迷いがなく、迅速であった。

 メニューを見始めて、五秒ほどであった。

「・・・よし。じゃあ、まずは大根と厚揚げ。それと、玉子をお願いします」

「はい、ありがとうございます!」

 店主が、笑顔で会釈する。

 そして、青年の席に水とおしぼりを準備し始めた。


 店主の仕事を、青年は座ったままじっと見つめていた。

 そして、不意にぽつりと呟く。

「マジで蕎麦じゃねえんだな・・・」

「え?」

「ああ、いえ。独り言です。お気になさらずに」

 顔を上げる主人に対し、青年はそう告げる。

 主人は不思議そうな顔をしていたが、すぐにまた微笑を浮かべた。

 そして、取り皿と箸を手に取った。


 皿に具材を乗せながら、店主は訊ねる。

「お客さんは、お仕事の帰りなんですか?」

「いいえ。実は、仕事はこれからなんですよ。その前に、ここで少し腹ごしらえをして行こうと思いましてね。もし仕事がなかったら、ここで一杯ひっかけて帰ることが出来たんですがね・・・」

「それは残念でしたね。次にお見えになる時は、お仕事終わりにどうぞ。お待ちしていますよ」

 青年の答えに、店主は笑いながらそう返した。

 人相は悪いが、中身はいい人らしい───店主はそう思い、わずかに緊張と警戒を解いたようであった。


「・・・ささ、どうぞどうぞ。召し上がってください」

 店主が皿を差し出す。

 皿の上の具材がほかほかと湯気をたて、出汁が美味そうな匂いを漂わせていた。

「ありがとうございます」

 青年は皿を受け取ると、おしぼりで、ゆっくりと手を拭く。

 そして───

「・・・では、いただきます」

 合掌し、丁寧に一礼。

 店主とおでんへの感謝が、そのわずかな動作に大きく表れていた。


「・・・」

 おでんを食べる前に、青年はまずコップの水を口にした。

 口内を適度に濡らし、喉奥へと流し込んだ。

 そして───初めて、箸を手に取った。


 青年は最初に、大根に手をつけた。

 輪切りにされた大きな大根を、縦に二等分にする。

 大根は箸を拒絶することなく、すんなりと受け入れた。

 中までよく熱が通っていた。

 それから更に、横に切り分け、四等分にする。

 そして、その内のひとかけらを口に入れた。


「・・・!」

 青年が、わずかに目を見開く。

 噛んだ瞬間、大根からじわりと汁が溢れ出る。

 甘味と塩気の塩梅がほどよく、旨味が口全体に広がっていく。

 ───美味い。

 そのまま青年は、切り分けた残りの大根を、一つずつ味わって食べた。

 口の中でほろほろととろける大根は、実に美味であった。


「・・・」

 大根を食べ終えると、次は厚揚げに取りかかった。

 三角形の厚揚げを、端で二つに割る。

 そして、今度は四等分せず、片方を口へと運んだ。


「・・・はふ・・・んぐ・・・」

 ざらつきのある表面と、柔らかい中身の食感を楽しみながら咀嚼する。

 ぽろぽろと崩れていく豆腐の感触が、なんとも心地よい。

 十分に噛みほぐされたことを確かめ、ゆっくりと飲み込む。

 その喉ごしを楽しみながら、切り分けたもう一つの厚揚げを箸で挟む。

 そして、先程と同じように口に運び、食べた。

 最初に食べた大根同様、厚揚げも、また美味かった。


 そして───玉子に取りかかる。

 まず青年は、厚揚げの時と同じように、玉子を二つに割った。

 白身に包まれた、固い黄身。

 その一部が、ぽとり、ぽとりと崩れ落ち、汁に浸される。

 それを確認した後、青年は、玉子の片割れを口へと運んだ。


「はぐ・・・ん・・・」

 ぷりぷりとした白身と、固さを保ちつつもしっとりとした黄身。

 噛むごとにそれらが、自身の味を青年の味覚へと主張していく。

 食感をじっくりと堪能した後、飲み込む。

 その時点で、口内の水分は黄身によって奪われ、パサパサに渇いていた。

 そこにコップの水を入れ、水気を補給する。

 そして箸は、皿の上に残ったもう一つの片割れの玉子へ。

「あぐ───」

 勢いよく口の中へと放り込む。

 力強く噛みほぐし、ごくりと飲み込んだ。


 今度は、コップの水には手を出さなかった。

 その代わりに───青年は、あるものに視線を注いでいた。

 おでんの汁である。

「・・・」

 青年は無言のまま、箸の先を汁の中に浸す。

 そして、おもむろにかき回した。

 茶色い汁の中を、箸の先端がゆっくりと泳いでいく。

 波が立ち、浮かんでいる玉子の黄身の欠片が、汁に溶けていく。

 欠片が全て溶け切ったことを確かめ、青年は皿を手に取る。


 そして───

「ずっ・・・ずず・・・」

 ゆっくりと、汁を啜り始めた。

 黄身の混ざった甘しょっぱい汁が口内を満たし、喉の奥へと滑り込んでいく。

 腹の中から、全身がぽかぽかと温まっていく。

 春の終わりとは思えぬ今宵の気温。

 それが、全く気にならなくなっていく。


「ふう・・・」

 汁を全て飲み干し、青年が息を吐く。

 ───美味い。

 ───美味い。

 ───美味い。

 素直な感想が、腹と舌、そして心から沸き上がってくる。

「美味ぇ・・・・・」

 無表情な青年の口から、思わずそんな言葉がこぼれていた。


「ははは、ありがとうございます。お代わりはいかがですか?」

 気をよくしたのか、店主が笑いながら訊ねる。

「はい、いただきます」

 それに対し、青年はそう速答した。

 こんなに美味いおでん、三つ食べただけで満足するなんてもったいない。

 もっとたくさんのおでんを食べなければ───青年はそう思い、次の注文内容をメニューから模索した。

 次の投稿日は未定です。


【追記】

 次は、金曜日の午前0時に投稿する予定です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ