のっぺらぼうのおでん屋 一
肌寒い夜であった。
春も終わりに差し掛かっているというのに、まるで秋の夜のような寒さであった。
夜が深まると共に、空気はますます冷ややかなものになっていく。
そして丑三つ時になる頃には、冬を思わせるような気温となっていた。
東京都内、とある公園の近くの道端。
そこに、一つの屋台が構えてあった。
屋台からは、空腹を促す良い香りと共に、温かい蒸気が立ち上っている。
道の周りに備え付けてある電灯の灯りは薄暗く、心もとない。
しかし、逆にその屋台の灯りは、見た者の心に安心感を与えるほどに輝いていた。
薄暗い情景の中に浮かぶその屋台は、まるで温かい家庭を思わせるような雰囲気を漂わせていた。
その屋台に歩み寄る人影が一つ。
青年であった。
背は、それほど高くはない。
小柄である。
一六五センチか、それよりもやや低いくらいである。
しかし、よく鍛えられた体であった。
黒いジャケットに覆われた彼の体は、多過ぎず少な過ぎない、しっかりとした筋肉のシルエットを形作っていた。
しかし、何よりも特徴的なのは、彼の人相であった。
表情からは愛想のようなものが感じられず、目付きが妙に悪い。
いわゆる悪人面である。
こんな顔で睨み付けられたら、子供ならばその場で号泣してしまう───そんな目付きであった。
しかし、そんな表情とは裏腹に───彼の瞳の中からは、高揚感のようなものが感じられた。
まるで、これから自身が体験する出来事に対して、楽しみを感じているようであった。
「・・・・・」
青年が、屋台の前で立ち止まる。
「・・・・・」
そして、無言のままのれんを見つめる。
赤いのれんには、平仮名で三文字───『おでん』とだけ書き記されていた。
「・・・・・よし」
意を決したように頷き、小さな声で呟く。
そして───ゆっくりと、のれんをくぐった。
「ごめんください」
「はい、いらっしゃい!」
のれんの先には、誰も座っていない四つの客席。
そしてその奥の厨房には、背を向けて作業をしている店主らしき人物の姿があった。
「どうしたんです?そんなに慌て───」
店主が、ゆっくりと振り替える。
三十代半ばほどの、にこやかな笑みを浮かべた人懐っこそうな顔。
その顔が───青年の悪人面を見た途端、固まった。
「───てる・・・訳・・・ではない・・・みたいですね・・・」
「ええ。すごく落ち着いてます」
店主が口にした言葉を大して気にせず、青年はそう答えた。
その言葉通り、青年は非常に冷静な様子であった。
しかしその様子は、店主が期待した様子とはいささか違うものであった。
この屋台ののれんをくぐる客は皆、とある事情から、恐怖や動揺によって顔をひきつらせている。
今日訪れる客───即ち、この青年に対しても、そのような様子を期待していたのである。
店主の表情が固くなったのは、青年の悪人面を見たことで、一瞬緊張してしまったためだけではなく、そのような理由もあったのである。
「・・・あ。それじゃあ、何にいたしましょう?」
店主は気を取り直し、席に座った青年に注文を訊ねる。
「ん・・・それじゃあ───」
促された青年は、台に置かれたメニューを眺めた。
具材の種類が豊富であった。
二十種類はある。
玉子や大根、厚揚げといった主流な具材はもちろん、ロールキャベツやウインナーソーセージ等の、洋風な具材もある。
しかし、それらの豊富な具材を前にしても、青年の決断は迷いがなく、迅速であった。
メニューを見始めて、五秒ほどであった。
「・・・よし。じゃあ、まずは大根と厚揚げ。それと、玉子をお願いします」
「はい、ありがとうございます!」
店主が、笑顔で会釈する。
そして、青年の席に水とおしぼりを準備し始めた。
店主の仕事を、青年は座ったままじっと見つめていた。
そして、不意にぽつりと呟く。
「マジで蕎麦じゃねえんだな・・・」
「え?」
「ああ、いえ。独り言です。お気になさらずに」
顔を上げる主人に対し、青年はそう告げる。
主人は不思議そうな顔をしていたが、すぐにまた微笑を浮かべた。
そして、取り皿と箸を手に取った。
皿に具材を乗せながら、店主は訊ねる。
「お客さんは、お仕事の帰りなんですか?」
「いいえ。実は、仕事はこれからなんですよ。その前に、ここで少し腹ごしらえをして行こうと思いましてね。もし仕事がなかったら、ここで一杯ひっかけて帰ることが出来たんですがね・・・」
「それは残念でしたね。次にお見えになる時は、お仕事終わりにどうぞ。お待ちしていますよ」
青年の答えに、店主は笑いながらそう返した。
人相は悪いが、中身はいい人らしい───店主はそう思い、わずかに緊張と警戒を解いたようであった。
「・・・ささ、どうぞどうぞ。召し上がってください」
店主が皿を差し出す。
皿の上の具材がほかほかと湯気をたて、出汁が美味そうな匂いを漂わせていた。
「ありがとうございます」
青年は皿を受け取ると、おしぼりで、ゆっくりと手を拭く。
そして───
「・・・では、いただきます」
合掌し、丁寧に一礼。
店主とおでんへの感謝が、そのわずかな動作に大きく表れていた。
「・・・」
おでんを食べる前に、青年はまずコップの水を口にした。
口内を適度に濡らし、喉奥へと流し込んだ。
そして───初めて、箸を手に取った。
青年は最初に、大根に手をつけた。
輪切りにされた大きな大根を、縦に二等分にする。
大根は箸を拒絶することなく、すんなりと受け入れた。
中までよく熱が通っていた。
それから更に、横に切り分け、四等分にする。
そして、その内のひとかけらを口に入れた。
「・・・!」
青年が、わずかに目を見開く。
噛んだ瞬間、大根からじわりと汁が溢れ出る。
甘味と塩気の塩梅がほどよく、旨味が口全体に広がっていく。
───美味い。
そのまま青年は、切り分けた残りの大根を、一つずつ味わって食べた。
口の中でほろほろととろける大根は、実に美味であった。
「・・・」
大根を食べ終えると、次は厚揚げに取りかかった。
三角形の厚揚げを、端で二つに割る。
そして、今度は四等分せず、片方を口へと運んだ。
「・・・はふ・・・んぐ・・・」
ざらつきのある表面と、柔らかい中身の食感を楽しみながら咀嚼する。
ぽろぽろと崩れていく豆腐の感触が、なんとも心地よい。
十分に噛みほぐされたことを確かめ、ゆっくりと飲み込む。
その喉ごしを楽しみながら、切り分けたもう一つの厚揚げを箸で挟む。
そして、先程と同じように口に運び、食べた。
最初に食べた大根同様、厚揚げも、また美味かった。
そして───玉子に取りかかる。
まず青年は、厚揚げの時と同じように、玉子を二つに割った。
白身に包まれた、固い黄身。
その一部が、ぽとり、ぽとりと崩れ落ち、汁に浸される。
それを確認した後、青年は、玉子の片割れを口へと運んだ。
「はぐ・・・ん・・・」
ぷりぷりとした白身と、固さを保ちつつもしっとりとした黄身。
噛むごとにそれらが、自身の味を青年の味覚へと主張していく。
食感をじっくりと堪能した後、飲み込む。
その時点で、口内の水分は黄身によって奪われ、パサパサに渇いていた。
そこにコップの水を入れ、水気を補給する。
そして箸は、皿の上に残ったもう一つの片割れの玉子へ。
「あぐ───」
勢いよく口の中へと放り込む。
力強く噛みほぐし、ごくりと飲み込んだ。
今度は、コップの水には手を出さなかった。
その代わりに───青年は、あるものに視線を注いでいた。
おでんの汁である。
「・・・」
青年は無言のまま、箸の先を汁の中に浸す。
そして、おもむろにかき回した。
茶色い汁の中を、箸の先端がゆっくりと泳いでいく。
波が立ち、浮かんでいる玉子の黄身の欠片が、汁に溶けていく。
欠片が全て溶け切ったことを確かめ、青年は皿を手に取る。
そして───
「ずっ・・・ずず・・・」
ゆっくりと、汁を啜り始めた。
黄身の混ざった甘しょっぱい汁が口内を満たし、喉の奥へと滑り込んでいく。
腹の中から、全身がぽかぽかと温まっていく。
春の終わりとは思えぬ今宵の気温。
それが、全く気にならなくなっていく。
「ふう・・・」
汁を全て飲み干し、青年が息を吐く。
───美味い。
───美味い。
───美味い。
素直な感想が、腹と舌、そして心から沸き上がってくる。
「美味ぇ・・・・・」
無表情な青年の口から、思わずそんな言葉がこぼれていた。
「ははは、ありがとうございます。お代わりはいかがですか?」
気をよくしたのか、店主が笑いながら訊ねる。
「はい、いただきます」
それに対し、青年はそう速答した。
こんなに美味いおでん、三つ食べただけで満足するなんてもったいない。
もっとたくさんのおでんを食べなければ───青年はそう思い、次の注文内容をメニューから模索した。
次の投稿日は未定です。
【追記】
次は、金曜日の午前0時に投稿する予定です。




