ハイパーターボアクセルババア 十七
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ハイパーターボアクセルババア───馬場タエは、光に満たされた空間の中をさ迷っていた。
どれくらいの時間、自分がこの光の空間にいるのか───それは分からない。
何時間か。
何日か。
何ヵ月か。
はたまた何年か。
それは、全く分からかった。
何故自分がここにいるのか。
どうやってここに来たのか。
それも覚えていない。
彼女が覚えているのは、家族と一緒に車に乗っていた、その途中までの記憶である。
あの日、馬場家の四人は、旅行に出掛けた。
悟の五歳の誕生日───それを祝う為の旅行であった。
悟が行きたがっていた場所は、馬場家の住居よりも遠くにあった。
日が昇る前に出発しなければ、その日の内に帰って来ることが出来ないほどに。
その為、息子の潤平は、日が昇る前の午前二時に出発することを決めたのである。
当然、時刻は深夜。
年老いたタエとまだ幼い悟は、乗車してすぐに眠りに落ちてしまった。
タエが目を覚ましたのは、およそ一時間後であった。
その時車は、闇に包まれた高速道路を走っていた。
タエが座っていたのは、後部座席の左側。
右側に設置されたチャイルドシートには、悟の姿があった。
安らかにすやすやと眠っている、悟の寝顔。
それを見て、思わずタエの顔にも、微笑みが浮かんだ。
そして───記憶は、そこで途切れた。
確か、爆音と衝撃を感じた気がする。
それらが何を意味しているのか、それ以上詳しいことは、タエには分からなかった。
気が付くと、タエはこの白い光の空間にいた。
暖かい光に満ちた空間。
その中を、タエは宛もなくさ迷っていた。
しかし───歩けども歩けども、目の前に広がるのは光ばかり。
何の変化もなく、人も建物も景色も現れることはなかった。
しかし───たった一人、タエの目の前に現れる者がいた。
悟である。
時折、この光の空間の中に、悟が現れることがあったのである。
その時、悟は必ず走っていた。
こちらに背を向け、手足を必死に動かし、走っていた。
そして、悟は走りながらこちらを振り返り、言うのである。
おばあちゃん、かけっこしよう───と。
当然、タエはそのお願いを快く受け入れた。
朝飯前であった。
タエの足腰は、年齢の割にはしっかりとしており、いつもわんぱくな悟とかけっこをして遊んでいた為である。
そして───タエはいつものように、悟とかけっこをし始めた。
タエも悟も、笑いながら走った。
楽しかった。
気持ちが良かった。
孫とのささやかな触れ合いが、タエの心に平穏をもたらした。
しかし───かけっこを始めてからしばらくすると、悟は淡い光を体から滲ませ始めた。
それが、悟がこの空間から去る際の合図代わりの現象であった。
それを目にする度に、タエの心は寂しさで満たされた。
また一人でこの空間をたださ迷うのかと、孤独の色に染まった。
次にまた悟が現れるまで、タエは孤独に耐え続けた。
何度も何度も、そんなことが繰り返し起こった。
やがてタエは、悟がこの空間に現れるのを心待ちにするようになった。
誰もいない空間をただ一人でさ迷うことで、じわじわと形を作り上げていた不安の感情。
悟とかけっこをしている間だけは、その感情を忘れることが出来たのである。
しかし───ある時タエは、信じられない事態に直面するようになった。
それは、タエが悟とかけっこをしている間に起こるようになった。
いつものように、笑いながらかけっこをする二人。
両者の位置が並ぶ。
タエが、愛する孫に笑い掛ける。
悟も、愛する祖母に笑い掛け───
次の瞬間、強烈な映像と音が、タエの全身を叩き付けた。
───ブレーキの音。
───傾くトレーラー。
───潤平の怒号。
───芳美の悲鳴。
───こちらに近付く車の天上。
───目覚める悟。
───押し潰されるその顔。
───飛び出す目玉。
───己の腹から喉を通る声。
───その声が口から飛び出す前に、自身の肉体に伝わる凄まじい苦痛。
───そして───そして───
そしてタエは、思い切り悲鳴を上げていた。
気が付くと───辺りは、高速道路へと姿を変えていた。
光の空間ではなく、闇に包まれたハイウェイを、タエは全力疾走していた。
頭が痛い。
おびただしいほどの血が、頭から溢れていた。
そして───悟が先程まで走っていた場所を見た。
そこに、悟の姿はなかった。
代わりに走っていたのは、車であった。
軽トラックであったり、派手な形の車であったりしたこともあった。
しかし、タエにとって、車種や形などどうでもよかった。
タエが一番気になったのは、『何故隣を走っていたはずの悟の姿が消え、代わりに車が走っているのか』という点であった。
───何だいこの車は!?
───アタシの孫は!?
───悟は何処に行ったってんだい!?
当然、タエは激しく動揺した。
そして同時に───タエの内側から、凄まじい勢いで負の感情が吹き出した。
畏れ。
哀しみ。
憎悪。
それらが、タエの全身を包み込んでいった。
そして錯乱状態になったタエは、孫に代わって隣を走る車に、それらの感情をぶつけた。
───あんた、悟を知らないかい!?
───まさか、あんたが悟をどこかにやったのかい!?
───悟をどこにやったんだい!?
───返せ、返せ!
───アタシの孫を、アタシに返せ!!
───返せ返せ返せ返せ返せ返せ!!
『悟を、返せえええええええええええええええっ!!』
そして───そして───
気が付くと、タエはふたたび、光の空間の中に戻っているのである。
そんなことが、これまでに四回あった。
おそろしい体験であった。
孫がいなくなり、一人ぼっちになってしまう、二度と味わいたくない夢であった。
そう感じる度に───タエの心に、疑問が浮かんだ。
あれは───本当に夢なのか?
あの映像体験がもたらす感覚───あの現実味は、決して夢で味わえるようなものではない。
では、あの体験は一体何だったのであろうか───タエは、そう考えるようになっていた。
しかし───タエの胸には、一つの想いがあった。
孫の悟を、誰にも渡しはしない───その想いであった。
あの体験が夢であろうと現実であろうと、それだけは変わらない。
そして、タエがその想いを抱き続ける理由───それは、悟がいなくなったら、自分が一人ぼっちになってしまうからではない。
自分が、悟の祖母だから───それだけであった。
そして、今───タエの前に、また悟の姿が現れた。
前を走っている悟は、いつものように振り返り、笑顔で語り掛ける。
おばあちゃん、かけっこしよう───と。
タエもまた、笑顔で答える。
ああ、良いよ───と。
タエが走り始める。
悟との距離が、徐々に縮まり始める。
両者の身体が並んだ。
汗が額を伝う。
辛くはない。
キツいとは思わない。
気持ちいい。
楽しい。
孫とのかけっこは、本当に堪らない。
やがて───タエが悟を追い抜いた。
おばあちゃん、待って───きゃらきゃらという笑い声と共に、背後から悟が声を掛ける。
そら、今度は悟がおばあちゃんを追い掛ける番だよ───タエはそう言い、後ろを振り返ろうとした───
その時であった。
『!?』
タエは全身で、背後から迫る凄まじい気配を感じ取っていた。
このような体験は初めてのことである。
あの映像と音が迫る感覚とはまるで違う。
例えるならば、寒気と熱気が混ざり合ったような風。
タエは疾走の勢いを殺すことなく、ゆっくりと首を動かす。
そして、背後を見た。
そこには───
『・・・な゛!?』
孫の姿はなかった。
代わりに、黒いスポーツカーがタエの後ろを追い掛けていた。
それだけではない。
走行しているスポーツカーの屋根の上に、一人の男が立っていた。
ハイウェイの風に黒いジャケットをたなびかせ、腕を組み仁王立ちしていた。
そして、タエを凄まじい形相で睨み付けていたのである。
『ナ・・・!?なんダいアんダは・・・!?』
動揺するタエは、思わずそう呟いていた。
それに対し───
「青木衛───!!」
仁王立ちの男は───
「魔拳、参上!!」
腹の底から怒号を放ち、名乗りを上げていた。
同時に、寒気と熱気の風が、再びタエの全身を強く打っていた。
その時ようやく、タエは理解した。
この風の正体は、この青年が発していた気迫であったのだ───と。
青年は続けて、タエに向かって声を掛ける。
「よォ婆さん───!!」
そこで青年は、思いきり息を吸い込む。
肺の中いっぱいに酸素を取り込み───そして、先程の名乗りよりも大きなボリュームで、タエに怒号を放った。
「俺とかけっこしようぜ!!」
次の投稿日は未定です。
【追記】
次は、木曜日の午前0時に投稿する予定です。
※次回から、投稿時間が午前10時から午前0時に変わります。ご注意下さい。




