其の弐
吉原の往来を行き交う人並みに紛れ、奇妙な二人連れが歩いていた。
前方を歩く男は吉原に大店を構える「請之屋」の客引きで、近次郎と言う。
つんっと釣り上がった両の目端を更に吊り上げて、
後ろを歩む男に何やら熱弁を振るっている。
しゅっと筋の入った鼻筋は立派であるが…
その下に位置する口がいけない、大きすぎるのだ。
男の顔はまるで狐のそれだった。
その後ろについて歩くのが先程まで大声で捲し立てられていた侍である。
三十を過ぎたばかりであろうか。少し歳をくっている様だが、
切れ長の目といい、整った顔立ちといい、しゃんと立っていれば随分な色男である。
が、その表情が全てを台無しにしていた。
まるで両の親がいっぺんに亡くしてしまったような悲しげな表情。
その眉間に刻まれた皺など、楊枝でも挟んだら落ちないに違いない。
「もうそろそろでうちの見世が見えるよ」
近次郎がそう言うと、侍はまたぐっと眉間に皺を寄せて表情を情けないものに変えた。
「…悩み相談を遊女にするわけにいかんだろう」
明らかに乗り気ではない侍の低い声を、近次郎はへへっと鼻で笑い飛ばした。
「うちは女を買って抱くだけの見世じゃぁねぇのよ」
近次郎はにやりと口を歪めて笑った。
(狐に似てはいると思ったが・・・)
まるで狐そのままの近次郎の笑顔に、侍はぞっとした。
太陽が傾きはじめ、徐々に夕闇が吉原一帯を覆う。
どの見世でも灯りをつけようか迷う時刻、
自然と後を行く侍の足元がおぼつかなくなるが…
それでも近次郎はひょいひょいと軽快な足取りで先を行く。
近次郎が言った通り、請之屋という見世は大通りに無いようで、
先程から店と店の間をすり抜けて、裏へ裏へと細い通用路を入っていく。
侍は、少し不安になる。
まさかこんな人気の無いような裏路地に連れ込んで、身包み剥がす気なのだろうか。
とは考えても、己は侍である。
帯刀している己を、そう容易には襲うとは思えない。
身なりも吉原には不釣り合いなほど流行遅れの代物で、
今時浅黄裏なんぞ着ている者は己くらいである。
――そんな儂が遊廓に行くとは…
端から見れば何とも滑稽な図なんだろう。
侍の眉間の皺は、今や箸でも挟めるくらいに深くなった。
そうこう悶々と悩むうちに近次郎の歩みがぴたと止まる。
侍の方に振り返り、大きな口を更に大きく開けて侍に笑いかけた。
「ここがうちの見世、請乃屋だ!」
「…成る程、これは…」
「へへん、凄ぇだろうが」
大見得を切るかのように手を広げた近次郎は、
侍の一言で満足したように目を細め、鼻を擦った。
ここに行き着くまでの道程で近次郎が散々自慢していた見世――…請乃屋。
繊細な細い格子造りである全体的な印象とは裏腹に、表に掛けてある刻書看板の力強さといったら。横にして六尺(約1.8m)ほどはあろうかという大振りの漆塗りの看板は、思わず侍が咽喉を鳴らすほど立派な物で…これだけに何十両という金額がかかっているのかと思うと、改めて吉原と現世の違いに眩暈すら覚える。
「おぅおぅ、お客様のお目見えでぇい」
近次郎が声を張り上げて見世の者を呼ぶのを、侍はただぼうっと見つめていた。
「ようこそおいで遊ばんした、お初に御目文字致しんす、内儀の芳野で御座いんす」
奥から落ち着いた物腰で顔を出した内儀――芳野は一見すると薹が立ってはいるものの、若い頃は遊女として働いていたのかと思わせるような美人だ。
だが、この吉野も近次郎と同じく…どことなく、狐を連想させるような切れ長の目であった。
そんな容姿とは間逆の柔らかな低い響きの挨拶に、侍は思わず頭を下げた。
「芳野かあさん、後は宜しく頼んますね」
そんな侍の様子もお構い無しに、近次郎はさっさと蒼い暖簾を潜って見世の外へと出て行ってしまう。
客引きだからと言って、たった一人連れてきただけで仕事を終える訳にいかないのだから仕方が無いのだけれど…侍は少し居心地悪そうに額をかいた。
「さて、お侍様は――ナニかお困りのようでいらっしゃいんすねぇ」
おあがりくんなまし、という言葉に促され、
侍はおずおずと見世の座敷に案内される。
だがどう考えても自分はこんな高級な見世で遊女を買えるような大金を持ち合わせていない。
「うちはお客様によってお値段を勉強させて頂いておりんす故、ご安心くんなまし」
そんな侍の心を読んだのか、芳野は目元を緩ませて侍を案内する。
(どうも、奇妙な見世だな…)
思えばそうだ、どう考えても奇妙である。
大層立派な構えの見世なのに大通りに無く。
吉原細見にも名前を連ねておらず。
どう見ても金の無い自分を誘い込んだ客引きの近次郎の言葉――。
(まさか、狐狸の類に騙されているんじゃ…)
「本来ならば初会は二人きりになどしないのでありんすが」
疑うような侍の視線も受け流し、
芳野は二階の階段を上った一番端の座敷まで侍を案内した。
「近次郎が連れてきたお客様は特別の御持て成しをするんでありんす」
「…特別、とは?」
わずかに引っかかる物言いに、驚いたような声が上がる。
「文字通り、特別の御持て成しでありんす、ふふ」
小さな笑い声を上げた吉野の足が、急にぴたりと止まる。
そこは丁度、長い長い廊下の真ん中あたりに位置する部屋であった。
閉じられた襖の隙間から、僅かばかり光が漏れている。
気付けばもう暮六ツ時だった。
廓の外から聞こえる吉原の通りの喧騒の中に、ケーン、と狐の鳴き声が響いた気がした。
――侍は気付かない。
漏れた光が照らす芳野の影が、まるで狐の姿形を映していることに。
「おゆら、お客様がおいでになりんしたよ。後は宜しくね」
芳野は指一本触っていないのに、襖がさっと開いた。
吉原の花魁が持つ座敷は中々に豪華だ。
ギヤマンの金魚蜂に、それを飾るためだけにあしらわれた、
細かい細工が美しい三本足の填め台。
金や銀などの金具が鮮やかな家具、空想の世界の動物を描いた掛け軸、
反りが見事な曲線を描く琴。
隣接した閨との境として置いてある屏風には、今にも飛び出してきそうな迫力の龍が二匹。
豪華絢爛という単語をそのまま現した座敷の奥に鎮座しているのは…
全ての家具道具に負けない位、なんとも美しいおゆらと呼ばれた遊女だった。
「ようこそ請乃屋へお越しくんなました。請乃屋が格子、おゆらでございんす」
おゆらは大層麗しい顔立ちであった。
円らな瞳と、紅で彩った小さくつむんだ唇が印象的。
着物は紅地の鯉と川の流れを大胆に刺繍したもので、
金色の帯がまた下品でなく、おゆらの美しさを一層際立たせていた。
だが、その部屋にはおゆら一人しか人はいなかった。
客である筈の侍が訪れたにも関らず、太鼓持ちも、羽織芸者も、禿すらも居ない。
「それでは、ごゆっくり」
ぱたん、と襖が閉められた。
おゆらの前には座布団がひとつ敷かれていて、
その一つにしたって金糸で刺繍がほどこされている。
貧乏性というか何というか、侍は躊躇しながらも花魁に進められるままに、
おずおずと腰を下ろした。