紫陽花
ショートショートのホラー小説です。
午前中に降った雨は病院の中庭に咲く紫陽花をより一層鮮やかにしていた。
太陽の下では元気をなくし、雨の中でしっとりと映えるこの花が僕は好きで、診察の後はいつもここに来る。
僕は今年からこの病院に通院している。
春あたりから、妙に体が軽くなったような感じで、自由に動ける時間も以前に別の病院に長期入院していた頃とは比べものにならなかった。
僕は、両親と担当のお医者さんに説明を受けて、自分の病状が悪化し続けていることを知っている。
そして一つの選択をすることになった。
あくまでも副作用の強い薬の投与や、手術を繰り返して、病気に闘いを挑むか。
それとも残りの時間を静かに、ゆっくりと余裕を持って暮らしていくか――。
僕は後者を選んだだけのことである。
それまでの闘病生活からは考えられない穏やかな一日一日の時間の経過に、僕は心のどこかが麻痺しているのを自覚していた。
そんな僕が診察後、中庭に来る理由は紫陽花の他にもある。
紫陽花が咲き乱れている側のベンチにいつも座っている女性……真潟多恵さん。
僕は多恵さんのことを長期入院している患者であるということぐらいしか、よく知らない。
多恵さんは年齢を判別しがたい物腰の、不思議な女性だ。
二十歳半ばと言われればそう見えるし、まだ十代だ言われればそうなのだろう、と納得できてしまう。髪を三つ編みに結わえてあるところが、アンバランスと言えばアンバランスだが僕にとってはそれも魅力だ。
僕らはいつものように中庭で他愛もない話題で談笑していた。
「――でも、ほんとに紫陽花がいっぱい咲いてて、ここはいい感じですよね。どこかの大きな公園にいるみたいで」
会話を途切れさせたくない僕は当たり障りのないことを言ったつもりだった。しかし、紫陽花のことを話した直後、多恵さんの顔が微妙に変化したのを僕は見逃さなかった。
「どうかしたんですか?」
何かいけないことでも言ったかと戸惑う僕に、彼女は力無く笑って首を振る。
「いえ、その紫陽花がもうじき枯れると思うと、少し残念で……ほら、咲き始めから、どんどん色が変わっていくでしょう? 最初は淡い紫色だったのに今はほら、もう薄紅色に染まってしまって……。これから先は暑くなっていくばっかりだし」
「?」
どういうことだろう。紫陽花の色はまだ空色に近い薄い水色で、赤っぽい色をした紫陽花などは一つもない。それにまだ今は5月半ば。いくらなんでも、ちょっと気が早すぎるんじゃ?
でも、わき上がった疑問を、僕は心の中でうち消した。時折、多恵さんは目の前の現実から、なんていうかこう、ズレた発言をすることがあるからだ。
そんなの、いちいち気にしていられない。
数日後、僕はまた多恵さんと中庭で話をしていた。
その時、目の前に元気な六、七歳ぐらいの女の子が、おそらく母親であろう女性と手を繋いで、キャッキャと元気な笑い声を上げながらやってくる。
中庭に良く来るその女の子の名前は有紀。
ここに入院している患者で、僕と多恵さんの共通の顔見知りだった。
「あ! おねーさん、おにーさん。こんにちは」
元気な声だ。
なんだかこっちもその声に元気をもらってるみたいに、明るい気分になる。
「や、有紀ちゃん、こんにちは」
僕は有紀ちゃんに向かって微笑み、手を振った。
――ふと、多恵さんの方を見ると、今までに見たこともない、悲しそうな顔で有紀ちゃんを見た後、俯いてしまった。
その様子を不思議に思ったのか、有紀ちゃんがトコトコと多恵さんの目の前まで歩み寄って、顔を伏せている多恵さんの顔を覗き込むようにして「おねーさん、どうかしたの?気分が悪いの?」
と、素朴な疑問を口にする。
突如、多恵さんは立ち上がり、有紀や僕から背を向けてその場を去ろうとする。
「多恵さん、どうかしたんですか?」
いきなりの事に僕は戸惑い。そう呼びかけてみるのが精一杯だった。
「すみません。なんでもないんです。なんでも」
そう言い残し、走り去っていった。
多恵さんは泣いていた。
次の日から、多恵さんは中庭に来なくなった。
それから約二ヶ月後、入院していた幼い女の子が亡くなったことを、僕は知った。
その子の名前は宮下有紀。
中庭の、あの元気な少女だ。
世の中のしがらみから全て抜けだし、逸脱したと思っていた僕の麻痺した心に、冷たい何かが形作られていくのにそう時間はかからなかった。
昼下がり、フラフラと中庭に足を運んだ僕は久しく見ていなかった多恵さんの姿を見つけた。
多恵さんはいつも座っていたベンチから立ち上がり、薄紅色に染まった紫陽花の花をいたわるように指先で撫でていた。
そんな多恵さんの姿がひどく切なく思え同時に不気味にも思った。
僕は腹の底から、ゆっくりと沸き上がるような感情を感じ始めていた。
恐怖だ。
多恵さんは僕に気がついたようで、振り返った。
僕は自分を見つめる彼女の顔が、あの時、有紀を見た時と同じ表情に思えてならなかった。