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モブの私が公爵令息様の恋路を邪魔しないため婚活を始めたら、なぜか本人と婚姻することになってました

作者: みゅー
掲載日:2026/06/11

 ユリウス・クレイヴェル公爵令息が、エレノア・リュシェル侯爵令嬢の手を取ると、二人は一瞬だけ見つめ合う。


 リーナ・ヴィルチェ男爵令嬢は息を呑んだ。その瞬間、忘れていた記憶が蘇ったからだ。


 私はこの場面を知っている。これは前世で読んだ小説の中で、二人が出会う場面だ。


 淡い金の髪に、澄んだ青い瞳。小説の主人公という言葉が、これほど似合う方もいないだろう。エレノアは驚いたようにユリウスを見上げ、それから頬を染めて微笑む。


 リーナは少し離れた場所に控えていた。舞踏会の広間には着飾った人々が集まり、音楽が流れている。シャンデリアの光が、宝石や絹のドレスに反射していた。


 エレノアは、前世で読んだ小説の主人公。


 小説の中のリーナは、ユリウスに執着し、エレノアに嫌がらせをして、最後には公爵家から追い出される。


 けれど、思い出したところで、私は少し戸惑うだけだった。


 私がエレノア様に嫌がらせをする理由がない。


 ユリウス様はたしかに美しい方だ。銀の髪に、淡い灰色の瞳。すらりとした立ち姿も、落ち着いた声も、令嬢たちがあこがれる理由はよくわかる。


 けれど私にとっては、幼いころから見てきた『お坊ちゃま』だった。苦手な野菜を私の皿に移そうとして奥様に叱られていたことも、木登りに失敗して枝に引っかかっていたことも、風邪をひいた私の部屋に見舞いに来て、水差しを倒して奥様に怒られていたことも知っている。


 そんな方をめぐって、エレノア様に嫉妬する自分が、どうにも想像できなかった。


「リーナ」


 名を呼ばれて、私は顔を上げる。ユリウスがこちらを見ていた。エレノアの手はもう離している。けれど、近くにいる令嬢たちは、まだ二人の様子を気にしているようだった。


「はい、お坊ちゃま」


 返事をした瞬間、ユリウスの眉間にわずかに皺が寄った。


「その呼び方はやめろと言っている」


「失礼いたしました、クレイヴェル公爵令息様」


「それも気に入らない」


 では、どうお呼びすればいいのだろう。そう思ったけれど、口には出さない。私はこの家の侍女で、ユリウス様は公爵家の跡取りだ。幼いころから知っているとはいえ、立場はちがう。


 隣で、エレノアが小さく笑った。


「ずいぶん親しいのですね」


 やわらかな声だった。けれど、その一言で近くにいた令嬢たちの視線が私に向く。


 私はすぐに一礼した。


「幼いころより、お仕えしておりますので」


 それ以上の意味はない。そう伝わるように、静かに答えたつもりだった。


 エレノアは微笑んだまま、私を見る。


「ユリウス様を昔からご存じだなんて、うらやましいですわ」


「いえ、そのようなことは」


「私も、これから少しずつユリウス様のことを知っていけたら嬉しいです」


「リーナ」


 小さく名を呼ばれて、私ははっと顔を上げた。


 ユリウスがこちらを見ている。エレノアの手はもう離していたが、まだ私の反応を探るような目をしていた。


「どうかしたのか」


「いえ、なにも」


「顔色が変わった」


「少し驚いただけです」


 そう答えると、ユリウスはわずかに眉を寄せた。


「もしかして、嫉妬しているのか?」


 はぁ?


 思わず声に出しそうになったが、さすがにこらえた。


 どうして、そこでそうなるのだろう。私はエレノア様に嫉妬する理由がない。


「それはありません」


 きっぱり答えたつもりだった。


 けれどユリウスは、なぜか納得していないような顔をする。少しの間だけリーナを見て、それからエレノアへ向き直った。


「よろしければ、一曲踊っていただけますか」


 エレノアの頬が、さらに赤く染まる。


「はい。喜んで」


 ユリウスはエレノアの手を取り、広間の中央へ進んでいった。


 音楽がゆるやかに変わる。二人が向かい合うと、周囲の視線が自然と集まった。エレノアは少し緊張したようにまぶたを伏せ、ユリウスはその手を取って、静かに一歩を踏み出す。


 二人の動きに合わせて、ドレスの裾がふわりと揺れた。


「まあ、お似合いだこと」


「エレノア様、可愛らしいわ」


「ユリウス様が令嬢をお誘いになるなんて、珍しいわね」


 近くの令嬢たちが、声を潜めて囁く。


 リーナは後ろに控えたまま、踊る二人を見つめていた。


 物語は、きっとこのまま進んでいく。


 ユリウスとエレノアは出会い、少しずつ互いを知り、やがて惹かれ合う。


 なら、私はどうすればいいのだろう。


 このままユリウス様のそばにいるのは、まずい。


 小説の中のリーナは、そこに余計な感情を持ち込んで失敗した。けれど、今の私にそんな感情はない。ないからこそ、近くに居続ける理由もない。


 結婚しよう。


 穏やかな相手を見つけて嫁げば、公爵家を円満に離れられる。侍女として働く毎日も嫌いではなかったけれど、追い出されるくらいなら、別の人生を選んだほうがずっといい。


 悪くない。むしろ、とても現実的な選択に思えた。


 舞踏会を終えて公爵家へ戻ると、リーナはヴァイオレット・クレイヴェル公爵夫人の着替えを手伝った。ほかの侍女たちが下がり、二人きりになったところで、結婚相手を探したいと申し出た。


 ヴァイオレットは、紅茶のカップを口元へ運びかけたまま動きを止めた。先ほどまで舞踏会に出席していたというのに、少しも疲れた様子を見せない。淡い紫のドレスをまとい、ゆったりと椅子に腰かけている姿は、今日の広間で見たどの令嬢よりも美しかった。


「リーナ。いま、なんと言ったの?」


 声は穏やかだった。けれど、その目はまっすぐリーナを見つめている。


「結婚相手を探したいと思っております」


 その答えを聞いた瞬間、ヴァイオレットの目元から、先ほどまでの笑みが消えた。


「どうして急に?」


「私もそろそろ、身の振り方を考える年頃ですので」


 ヴァイオレットはカップをソーサーへ戻した。その音はとても小さかったのに、部屋の空気が少し変わった気がした。


「この屋敷で嫌なことでもあった?」


「いいえ。奥様にはいつもよくしていただいております」


「では、ユリウスとなにかあったの?」


 どうしてそこで、お坊ちゃまの名前が出るのだろう。


「お坊ちゃまとはなにもございません」


 そう答えると、ヴァイオレットは扇を広げ、口元を隠した。


「その呼び方を聞くたびに、あの子が少し不憫になるわね」


「どうしてでしょうか」


 リーナが首をかしげると、ヴァイオレットは扇で口元を隠したまま、楽しそうに微笑んだ。リーナにはよくわからないが、ヴァイオレットは時々、リーナとユリウスのやり取りを見て、そんな顔をすることがあった。


「いいえ。こちらの話よ」


「ですが、本当に結婚相手を探したいのです。このまま奥様のもとで働けることはありがたいのですが、私もいつかは嫁ぐことになりますし」


「あなたを適当な相手に嫁がせるつもりはないわ」


「高望みはいたしません。穏やかな方で、私が侍女として働いていたことを気にしない方なら」


「ずいぶん現実的ね」


「貧乏男爵家の娘ですので」


「そういうところ、あなたのお母様にそっくりだわ」


 ヴァイオレットは少しだけ懐かしそうに微笑んだ。


 亡くなった母のことはほとんど覚えていない。けれど、そう言われると、自分の中にも母に似たところがあるのかもしれないと思えた。


「わかったわ。夜会に出られるよう手配しましょう」


「ありがとうございます」


「ただし、私の目にかなう相手でなければ許しません」


「奥様」


「当然でしょう。あなたは私の大切な子ですもの。変な男に渡すくらいなら、この屋敷に置いておくほうがいいわ」


 ヴァイオレットはにこりと笑った。


 冗談なのか、本気なのかわからない。けれど、そう言ってくれることは嬉しかった。


 結婚相手を探す許可はいただけた。これで、公爵家を円満に離れる道ができる。


 翌日、さっそくヴァイオレットのはからいで、リーナのもとに大きな夜会の招待状が届いた。


 リーナはそれを見つめる。さすがヴァイオレット様、こんなにすぐに招待状を手配できてしまうなんて、私の名だけでは、こんな夜会に参加することなどできない。そう思いながら、その招待状を開いた。


 夜会当日、会場にはすでに多くの貴族が集まっていた。広間には音楽が流れ、あちらこちらで挨拶を交わす声が聞こえる。先日の舞踏会ほど堅苦しくはないが、それでも慣れない場であることに変わりはない。


 リーナは軽く息を整え、近くを通りかかった給仕からグラスを受け取ろうとした。


 その瞬間、近くの令嬢のドレスの裾が視界の端で揺れた。避けようとして一歩下がる。けれど、その拍子に手元がわずかに傾いた。


 グラスの中身がこぼれそうになる。


「あっ」


 声を上げたときには、横から伸びた手がリーナの手首をそっと支えていた。


 水面が揺れただけで、飲み物はこぼれずに済んだ。


「失礼。驚かせてしまったかな」


 穏やかな声だった。


 リーナが顔を上げると、落ち着いた雰囲気の青年がこちらを見ていた。淡い茶色の髪に、やわらかな目元。派手さはないが、立ち姿に品がある。


 リーナははっとして、すぐに礼を取った。


「ありがとうございます。助かりました」


「怪我は?」


「ございません」


 答えながら、リーナは相手の顔を見て、少しだけ目を見開いた。


「あ……セドリック子爵様?」


 青年は意外そうに眉を上げた。


「私のことをご存じなのですか?」


「はい。セドリック・オルテス子爵様でいらっしゃいますよね」


「それは光栄です」


 セドリックは楽しそうに微笑んだ。もちろん、知っている。それは貴族として当然のことだったが、セドリックは本当に嬉しそうに言った。


「名前を覚えてもらっているなんてね。私もヴィルチェ嬢にお会いできて嬉しい」


 その優しい笑顔に、リーナは胸の奥が温かくなる。強引に踏み込んでくる感じはない。助け方も、話し方も穏やかだ。


 結婚相手を探すなら、こういう方がいいのかもしれない。


「リーナ」


 聞き慣れた声がした。まさか……、リーナは振り返った。


 ユリウスが、こちらへ歩いてくるのが見えた。


 ユリウス様も夜会に? 夜会にふさわしい装いをしたユリウスは、広間の中でもよく目立っていた。淡い灰色の瞳は、まっすぐリーナへ向けられている。


 それにしてもどうして今、こちらへ来るのだろう。私のことより挨拶回りが先ではないのか。リーナは少し心配になった。


「お坊ちゃま」


 反射的にそう呼ぶと、ユリウスの眉間にわずかに皺が寄った。


「その呼び方はやめろと言ったはずだ」


「失礼いたしました」


 セドリックの目が、ほんの少しだけ丸くなった。


 初対面の相手の前で、公爵令息をお坊ちゃまと呼ぶのは、さすがに妙だったかもしれない。


 ユリウスはセドリックへ視線を移した。


「彼は? 紹介してくれないのか?」


「あ、はい。こちらはセドリック・オルテス子爵様です。先ほど、飲み物をこぼしそうになったところを助けていただきました」


 それから、リーナはセドリックへ向き直った。


「セドリック様。こちらはユリウス・クレイヴェル公爵令息様です。私は奥様付きの侍女として、クレイヴェル公爵家にお仕えしております」


 セドリックは丁寧に一礼した。


「お初にお目にかかります。セドリック・オルテスと申します」


「よろしく」


 ユリウスは礼儀正しく手を差し出した。


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 セドリックもそれに応じる。握手は短かった。セドリックは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに何事もなかったように手を引いた。


 ユリウスはセドリックからリーナへ視線を戻す。


「リーナ、君も夜会に来ているとは知らなかった」


「はい。奥様が手配してくださいました」


「そうか、母上が」


 ユリウスは静かにそう言うと、微笑んだ。その微笑みに違和感を覚えたリーナは首をかしげる。なにかおかしなことを言っただろうか。


 そのとき、近くにいた令嬢がユリウスへ声をかけた。


「ユリウス様、ごきげんよう。いらしていたのですね」


 ユリウスはそれに気さくに応え、しっかり返事を返す。それをきっかけに、別の者たちもユリウスへ挨拶をしに近づいてくると、あっという間に、ユリウスの周囲に人の輪ができた。


 リーナはセドリックとともに、少しだけ人の輪から離れた。


 令嬢たちに囲まれるユリウスは、やはり目立つ。


 リーナにはわからないことがあった。小説の中のリーナは、なぜあれほど多くの令嬢に囲まれる人を追いかけたのか。あの美しいエレノアに嫌がらせまでして、なにがしたかったのか。到底勝てるとは思えない。


「クレイヴェル公爵令息は、ヴィルチェ嬢のことをずいぶん気にかけていらっしゃるようですね」


 セドリックにそう言われ、我に返るとリーナはすぐに首を振った。


「ありえません。そんなのまったくないです」


「お気に入りでは?」


 なぜそんな考えが? お坊ちゃまと呼んだから? リーナは苦笑した。


「違いますよ」


 セドリックは少し悲しげに答える。


「私にはそうは見えません」


「違います。お坊ちゃまにとって私は、昔から屋敷にいる侍女の一人です。お坊ちゃまは、お坊ちゃまです」


 リーナがきっぱり答えると、セドリックは少しだけ黙った。


 それから、静かにうなずく。


「そうですか」


「はい」


「では、私からはなにも」


「なにか?」


「いいえ」


 よくわからない言い方だった。セドリックは微笑むと気を取り直したように言った。


「よろしければ、一曲お相手いただけますか」


 差し出された手を見つめる。


 無理に引き寄せようとする感じはない。断っても構わないと思わせる距離で、ただ静かに待っている。


 結婚相手を探すために、この夜会へ来たのだ。だったら、いつまでも遠くから眺めているだけではいけない。


「はい。よろしくお願いいたします」


 リーナはセドリックの手を取った。


 広間の中央へ向かう途中、ふと視線を感じて振り返る。ユリウスと目が合い、リーナは微笑み返した。


「ヴィルチェ嬢?」


「はい。すみません。ぼんやりしてしまって」


「いいえ、私も少し緊張しています」


「そうなんですか? 私もです」


 二人は見つめ合うとくすくすと笑い、音楽の中へ進んだ。


 セドリックは、慣れないリーナの歩幅に合わせ、最後まで自然にリードしてくれた。おかげで、リーナは大きな失敗をすることなく踊り終えることができた。


「ありがとうございます。とても楽しかったです」


 リーナが礼を言うと、セドリックは穏やかに微笑んだ。


「こちらこそ、楽しいひとときでした。のどが渇いたのではありませんか? シャンパンをお持ちします」


 セドリックが席を外すと、リーナは少し離れた場所にいるエレノアが、数人の令嬢たちとこちらを見てくすくす笑っていることに気づいた。


 思わず、自分のドレスを見下ろす。


 確かに、大きな夜会には不釣り合いなドレスかもしれない。そう思い顔を上げた瞬間、ユリウスと目が合う。リーナは少しバツが悪くなり、目をそらした。


「リーナ」


 声をかけられ、リーナはその声の方を見る。そこにはユリウスが立っていた。


「えっと、どうされたの?」


「いや、今日の君はとても素敵だ。そのドレスも似合っている」


 急になに? もしかして、私が笑われていたのを見ていたの? 恥ずかしい。リーナは目を伏せた。


「え……でも、このドレス、場違いですから」


「そんなことはない。そもそも君自身が美しいんだ。ドレスなんて関係ない。自信を持つんだ」


 そこでユリウスは声をかけられ、リーナに微笑むと立ち去っていった。


 もしかして、慰めるためにわざわざ声をかけてくれたのだろうか。忙しいのに。


 なんだかユリウス様らしい。そう思いながらリーナが待っていると、やがてセドリックがシャンパンを手に戻ってきた。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


 リーナはグラスを受け取ると、セドリックと楽しい時間を過ごした。こうして、リーナは無事に夜会を終えることができた。


 それから、セドリックからの誘いを何度か受けるうちに、リーナは彼と過ごす時間にも少しずつ慣れていった。


 並んで歩き、他愛ない話をして、次に会う約束を重ねていく。最初は結婚相手を探すためだと思っていた時間も、いつの間にか、そこまで身構えずに過ごせるものになっていた。


 この方となら、静かに暮らしていけるのかもしれない。


 そんなふうに思い始めたころ、リーナは同じ屋敷で侍女として働くマリサから、妙な話を聞かされた。


 マリサは普段、余計な噂話を持ち込むような人ではない。だから仕事の合間に声を潜めて呼び止められたとき、リーナは少しだけ身構えた。


「リーナ、最近の噂、聞いている?」


「噂?」


「あなたのことよ」


 リーナは首をかしげた。セドリックと何度か会っていることだろうか。結婚相手を探し始めた以上、多少の話が出ることは仕方ないと思っていた。


 けれど、マリサは困ったように眉を寄せる。


「ただのお相手探しならいいの。でも、そういう言い方じゃないのよ。あなたが男漁りをしているとか、夜な夜なあなたのところへ殿方が出入りしているとか……そんなふうに言われているみたい」


「夜な夜な……?」


 リーナは言葉を失った。


 そんな事実はない。セドリックとは人目のある場所で会っているだけだし、屋敷へ誰かを呼んだことなど一度もない。


「ありえないわ」


「私も信じていないわ。だから、あなたに知らせておこうと思ったの。誰が広めているのかまではわからないけれど、かなり悪意のある言い方だったから」


「ありがとう、マリサ」


 リーナは小さくうなずいた。


 誰がそんな噂を流しているのだろう。


 セドリックと会っていることを面白く思わない令嬢がいるのかもしれない。貧乏男爵家の娘で、侍女として公爵家に仕えている自分が結婚相手を探していることを、よく思わない者がいるのかもしれない。


 けれど、考えても答えは出なかった。


 リーナにできるのは、根も葉もない噂に振り回されず、いつも通りに振る舞うことだけだった。


 そんな不安を抱えていたある日、一緒に出かけていたセドリックが一通の招待状を差し出した。


「ヴィルチェ嬢。よろしければ、次はこちらの舞踏会にご一緒していただけませんか」


「舞踏会ですか?」


 リーナは差し出された招待状を受け取ると見つめた。


 上質な紙に記された舞踏会の名を見て、思わず背筋が伸びる。以前出席した夜会よりも格式のある、大きな催しだった。


「ご一緒いただけるなら、そこであなたに大切なお話をしたいと思っています」


「大切なお話……」


 リーナはセドリックの真剣な眼差しを見つめ返す。


 何度か会ううちに少しずつ距離が縮まり、こうして改まって舞踏会に誘われたうえに、大切な話があると言われた。


 これは、もしかして。いよいよ、結婚の申し込み? もしそうなら奥様にも相談しなければ。


 そう思うと、リーナは招待状を持つ指に少しだけ力を込めた。


「私でよろしければ、ご一緒いたします」


 そう答えると、セドリックは安堵したようにうなずいた。


「ありがとうございます」


 リーナは招待状を胸元に引き寄せた。


 舞踏会の夜、支度を終えたリーナが玄関ホールへ向かうと、セドリックはすでに到着していた。


「ヴィルチェ嬢」


 セドリックは穏やかに一礼する。


「本日は、お招きに応じてくださりありがとうございます」


「こちらこそ、お迎えいただきありがとうございます」


 リーナが礼を返すと、セドリックは静かに手を差し出した。


「では、参りましょうか」


「はい」


 リーナはその手に自分の手を重ねた。


 会場の広間には、すでに多くの貴族が集まっていた。以前の夜会よりも格式が高いのだろう。装いも挨拶もどこか改まっていて、リーナは自然と背筋を伸ばす。


 だが、広間に足を踏み入れた瞬間、いくつかの視線がこちらへ向いた。好奇心。警戒。嘲るような気配。


 それらが混ざった視線に、リーナは小さく息を詰めた。


「大丈夫ですか」


 セドリックが声を落として尋ねる。


「はい。少し緊張しているだけです」


「無理はなさらないでください」


「ありがとうございます」


 リーナは微笑もうとした。


 そのとき、少し離れた場所にいた令嬢たちの声が耳に入った。


「本当にいらしたのね」


「オルテス子爵様も、よくお連れになったわ」


「噂を知らないのかしら」


 リーナは聞こえなかったふりをした。けれど、セドリックには届いていたのだろう。彼はわずかに眉を動かしたが、なにも言わず、リーナの歩みに合わせてくれた。


 しばらくして、令嬢たちの輪の中からエレノア・リュシェル侯爵令嬢が歩み出てきた。今日も小説の主人公らしく華やかで、周囲の目を自然と引きつけている。


 エレノアはリーナの前で足を止め、柔らかく微笑んだ。


「ごきげんよう、ヴィルチェ様」


「ごきげんよう、リュシェル侯爵令嬢」


 リーナは丁寧に礼を返した。エレノアはリーナの隣にいるセドリックへ視線を移す。


「今夜はオルテス子爵様とご一緒なのですね」


「はい。お誘いいただきましたので」


「まあ。噂など気になさらないのですね」


 リーナは一瞬、返事に詰まった。


「噂、ですか」


「ご存じないのですか? ヴィルチェ様が、ずいぶん熱心に殿方と親しくされていると」


 その声に、周囲がざわりと揺れた。エレノアの声は大きくない。けれど、近くにいる者たちに聞こえる程度には、はっきりしていた。


「そのような事実はございません」


 リーナはきっぱり言い返した。エレノアはそんなリーナを見て、口元に笑みを浮かべる。


「では、夜な夜な殿方が出入りしているという話も、嘘なのですか?」


「当然です」


 エレノアは困ったように目を伏せる。


「私も、信じたくはありませんでした。けれど、なにもなければそんな噂が流れるはずありませんもの」


「リュシェル侯爵令嬢」


 セドリックが静かに口を挟んだ。


「ヴィルチェ嬢は今夜、私が正式にお誘いした方です。失礼な憶測を口にされるのはお控えください」


 エレノアは一瞬だけ目を細めた。しかし、すぐに悲しげな表情を作る。


「失礼な憶測……。けれど、私はただ心配しているだけですわ。ヴィルチェ様が誤解されるような振る舞いをなさっているのなら、誰かが教えて差し上げなければと思って」


「ご心配には及びません」


 リーナは静かに答えた。


「私は誰にも恥じるようなことはしておりません」


「恥じるようなことはしていない……」


 エレノアは小さく繰り返した。その声には、妙な棘があった。


「では、私が見たものも、すべて見間違いだったのでしょうか」


「見たもの?」


「あなたが、私の大切なものを奪おうとしているところです」


 リーナは困惑した。意味がわからない。


「なにか誤解があるようです」


「誤解?」


 エレノアは微笑んだまま、一歩近づいた。


「本当に、そう思っていらっしゃるの?」


 その瞬間、エレノアが小さく息を呑んだ。周囲の令嬢たちが、はっとしたように声を上げる。


「エレノア様!」


 リーナが視線を落とすと、エレノアのドレスの裾が不自然に裂けていた。繊細な布地が引きつれ、足元にほどけた糸が落ちている。


 リーナは目を見開いた。


 触れていない。そもそも、エレノアとの間にはまだ距離があった。エレノアは裾を押さえ、震える声で言った。


「ヴィルチェ様……どうして、このようなことをなさるのですか」


「私はなにもしておりません」


「私とユリウス様の仲を邪魔したいからといって、こんな嫌がらせまで」


 え? ユリウス様? なぜ、ここでユリウス様の名前が出るの。


 周囲のざわめきが一気に大きくなる。


「やはり、噂は本当だったのかしら」


「殿方にだらしないだけではなく、リュシェル侯爵令嬢にまで嫌がらせを?」


「怖い方ね」


 違う。どれも違う。男漁りなどしていない。夜な夜な誰かを呼んでもいない。エレノアのドレスにも触れていない。


 それなのに、噂が先に広まっていたせいで、周囲は最初からリーナを疑うような目で見ていた。小説の中のリーナも、こんなふうに追い詰められたのだろうか。


 悪役として見られ、否定しても信じてもらえず、最後には公爵家から追い出される。胸の奥が冷えていく。


「リーナ」


 その声が響いた瞬間、広間のざわめきがわずかに静まった。人垣が割れ、ユリウスがこちらへ歩いてくる。リーナは顔を上げた。


「ユリウス様……」


 ユリウスはリーナの前まで来ると、まず彼女の顔を確かめるように見た。


「怪我は」


「ありません。ですが」


「ならいい」


 よくない。そう言いたかったが、ユリウスはすでにエレノアへ視線を向けていた。もしかして、ユリウス様はエレノア様をかばいに来たの? だとしたら、ここで私がどんな言い訳をしても、誰もなにも信じてくれなくなる。


 リーナは絶望的な気持ちになった。


 ユリウスは穏やかな声でエレノア様に問いかける。


「リュシェル侯爵令嬢。今の話を、もう一度聞かせてもらえるか」


 エレノアは瞳を潤ませ、ユリウスを見上げた。


「はい。ヴィルチェ様が、私のドレスを裂いたのです。私とユリウス様の仲を邪魔したかったのでしょう」


「私と君の仲?」


 ユリウスの声が冷えた。


「はい。私たちの仲を嫉妬したんですわ」


「私と君の仲を?」


 エレノアは頷く。ユリウスは大きくため息をつくと、静かに周囲を見回した。


「まず、私とリュシェル侯爵令嬢とはそんな仲ではない」


 広間が静まり返り、エレノアの顔色が変わる。


「ユリウス様……?」


「それから、勘違いしているようだが、リーナ・ヴィルチェ嬢のもとへ夜な夜な足繁く通っている男とは、私のことだ」


 リーナは小さく息を止めた。


 ユリウスがその噂を知っていたことにも驚いた。けれど、それ以上に、なぜユリウスが自分のもとへ通っていることになっているのかわからなかった。


 そもそも、そんな事実はない。


 もしかして、ユリウス様は私をかばおうとしている?


 そう思った瞬間、胸がざわついた。これでは、今度はユリウス様にまで変な噂が立ってしまう。


 どうにか止めなければ。そう考えたとき、ユリウスはさらに予想外のことを言い放った。


「彼女は、私の婚約者だからな」


 広間が凍りついた。リーナも固まった。


 セドリックだけが、なぜか穏やかに微笑んでうなずいている。


 リーナは困惑した。一体これはどういうことなの。なにが起きているの?


 婚約者。


 誰が。


 誰の。


 リーナは次の瞬間、反射的に声を上げた。


「お待ちください、ユリウス様」


 ユリウスは彼女を見て、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。


「勝手に二人のことを発表してしまってすまない」


 謝るところは、そこなのだろうか。リーナの不安は、さらに増した。だが、誰よりも顔色を変えたのはエレノアだった。


「そんなはずありませんわ。ユリウス様があの女のところへ通うなんて、そんなこと絶対にありえません」


 震える声が、広間に響く。ユリウスは冷静に問い返す。


「なぜ、そう言い切れる」


「だって、事実じゃないもの。私が流した嘘だもの……」


 言い終えた瞬間、エレノアははっと口元を押さえた。


 広間が静まり返る。先ほどまでリーナへ向けられていた視線が、ゆっくりとエレノアへ移っていった。


「今、なんと言った」


 ユリウスの声は静かだった。エレノアは青ざめたまま、裂けたドレスの裾を押さえる。その手が、不自然に布の陰へ滑り込んだ。


 ユリウスの目が、そこで止まる。


「リュシェル侯爵令嬢。その手に持っているものを見せてもらえるか」


「な、なんのことですの?」


「今、隠したものだ」


 エレノアの指の間から、銀色のものがわずかにのぞいていた。ユリウスが一歩近づくと、エレノアは震える手を開く。


 小さな刃物が、そこにあった。


「その刃で、自分のドレスを裂いたのか」


「違いますわ……!」


「なら、なぜ隠した」


 エレノアは答えられなかった。先ほどまでリーナへ向けられていた疑いの視線は、すべてエレノアへ向けられていた。


「リュシェル侯爵令嬢」


 ユリウスの声は冷たかった。


「噂を流し、この場で私の大切な女性に濡れ衣を着せようとしたことについては、あとで正式に話をする。今は下がれ」


 エレノアは唇を震わせた。


「違いますわ。私は……私はただ」


「下がれ」


 短い一言だった。それ以上、誰も口を挟めなかった。エレノアは青ざめたまま周囲を見回したが、先ほどまでそばにいた令嬢たちも目を伏せるばかりだった。


 やがてエレノアは、付き添いの令嬢に支えられるようにして広間を出ていった。静まり返った広間に、少しずつざわめきが戻ってくる。


「では、ヴィルチェ様は本当に……」


「噂も、ドレスの件も、リュシェル侯爵令嬢が……」


「なんてことを」


 リーナはその声を聞きながら、ようやく息を吸った。


 助かった。


 そう思ったはずなのに、胸の奥は少しも軽くならなかった。噂は晴れた。ドレスの件も、エレノアが仕組んだことだと明らかになった。それでもリーナの心は、少しも軽くならなかった。


 なぜなら今、自分はユリウスの婚約者として、広間中に知られてしまったからだ。この誤解を解かなければならないことを思うと、気が重かった。


 リーナは、はっとする。まずはセドリック様に説明し、誤解を解かなければ! 慌ててセドリックのほうへ向き直った。


「セドリック様、これは誤解なんです」


 けれど、その言葉にかぶせるように、ユリウスがにっこりと微笑んだ。


「そういうことなので。ここまでリーナのエスコートをありがとう、オルテス子爵」


 言いながら、ユリウスはごく自然な仕草でリーナの腰に手を回した。リーナはぎょっとしてユリウスを見上げる。


「ユリウス様!?」


「なにかな」


「なにかな、ではありません」


 慌てるリーナとは対照的に、セドリックは苦笑した。


「そういうことではないかと思っておりました。婚約、おめでとうございます」


「ありがとう」


 えっ、なぜ? 呆気にとられるリーナを無視し、ユリウスは満足げに微笑み、セドリックへ手を差し出す。セドリックもそれに応じた。


 二人は短く握手を交わす。


 どうして、セドリック様まで納得しているのだろう。リーナだけが状況を理解できないまま、ユリウスに促されて歩き始めることになった。


「ユリウス様、こんなことをして、あとで大変なことになりますよ」


「ならない」


「なります。婚約者だなんて、皆様の前で言ってしまったんですよ」


「そうだな」


「そうだな、ではなく」


 ユリウスは余裕の笑みを浮かべたまま、周囲の貴族たちへ挨拶をして回った。リーナはその隣で、笑顔を作るしかなかった。


「このたびはおめでとうございます」


「お似合いですわ」


「まさか、クレイヴェル公爵令息様の婚約者でいらしたなんて」


 祝福の言葉が増えるたびに、リーナの不安は大きくなっていく。これは誤解なのに。ユリウス様が私をかばうためについた嘘なのに。


 こんなに多くの人に知られてしまったら、あとで訂正するのがどれほど大変になるのだろう。そう考えるだけで、リーナはめまいがしそうだった。


 屋敷へ戻るなり、リーナはユリウスへ詰め寄った。


「ユリウス様。説明してください」


「なにを?」


「婚約のことです」


 ユリウスは上着を脱ぎながら、どこか機嫌よく答える。


「君は婚約相手を探していたんだろう」


「それは、そうですけれど」


「なら、私でいいじゃないか」


「よくありません」


「なぜ?」


 ユリウスの声が、少しだけ低くなった。


「君は婚約相手を探していた。私は君と婚約したい。なにが問題なんだ」


「問題しかありません。私は、エレノア様とユリウス様とのあいだを裂かないようにと思って……」


 そこまで言って、リーナは言葉を切った。ユリウスは嬉しそうに微笑む。


「やっぱり、君は嫉妬してくれていたんだね?」


「違います!」


 もう、いい。どれだけ説明しても、ユリウス様には伝わらない。


「……もうそれでいいです」


 リーナが背を向けようとした瞬間、後ろから腕が伸びてきた。


 ユリウスが、リーナを背後から抱きしめる。


「よくない」


「ユリウス様」


「君が婚姻する気になってくれてよかった。私は君が一生独身を貫くつもりなのかと思っていた」


 確かに、今回のことがなければそうなったかもしれない。そのときユリウスが囁く。


「好きだ、リーナ。愛してる」


 胸の奥が大きく跳ね、騒がしくなる。耳元で落とされた声に、リーナは動けなくなった。


「結婚式はなるべく早く挙げよう」


 リーナは赤くなる耳を押さえながら訴える。


「待ってください。話が飛びすぎています。私、ついていけません」


「飛んでなどいない。私はずっと、この話をしたかった」


 ユリウスの腕に力がこもる。


「君が私を『お坊ちゃま』としか見ないから、ずっと待っていた」


「……え?」


 リーナが振り返ろうとすると、ユリウスはその頬にそっと触れた。


「ようやく、君が結婚を考えてくれた」


 近づいてくる灰色の瞳に、リーナは息を呑む。


「愛してる。大切にする」


 そう言って、ユリウスはリーナに口づけた。




■■■





ユリウス視点 


 リーナが結婚相手を探したいと言い出した。


 母上からそう聞かされたとき、最初は意味がわからなかった。


「誰が?」


「リーナよ」


「なぜ」


「それを私に聞くの?」


 母上は扇で口元を隠しながら、楽しそうにこちらを見ていた。けれど、私は少しも楽しくなかった。


 リーナが結婚相手を探す。その言葉だけが頭の中で何度も繰り返される。


 彼女は昔から、私のことを『お坊ちゃま』と呼ぶ。何度やめろと言っても、いまだにその呼び方が抜けない。子供のころからそばにいた。だからこそ、彼女にとって私は、恋の相手ではなく、手のかかる公爵家の息子なのだろう。


 それでも、いつかは気づいてくれるのではないかと思っていた。だが、リーナは私ではなく、結婚相手を探すと言い出した。


「母上。なぜ止めなかったのですか」


「止めたら、あの子は理由もわからないまま困るでしょう」


「だからといって、夜会に出す必要は」


「あら。焦るなら、自分でどうにかしなさい」


 母上はそう言って、涼しい顔で紅茶を飲んだ。


 その日の夜会に、リーナが出席すると知った私は、用もないのに会場へ向かった。自分でも大人げないとは思ったが、放っておけるはずがなかった。


 会場でリーナを見つけたとき、彼女のそばにはすでに男がいた。


 セドリック・オルテス子爵。


 穏やかで、礼儀正しく、余計なことをしない男だ。リーナが好みそうな距離感で、彼女の手首を支えていた。


 面白いはずがない。


 リーナは私に気づくと、いつものように「お坊ちゃま」と呼んだ。人前でそう呼ばれることにも腹が立つが、それ以上に、その呼び方に少しもためらいがないことが腹立たしかった。


 私はもう、彼女にとって子供ではない。そう思っているのは、どうやら私だけらしい。


 オルテス子爵と握手を交わしたとき、思わず手に力がこもった。彼は一瞬だけ動きを止めたが、すぐに何事もなかったように微笑んだ。


 気づいたのだろう。私がリーナをどう見ているのか。


 その後、リーナは彼と踊った。私は令嬢たちに囲まれながら、何度もそちらへ視線を向けてしまった。


 彼女は不慣れながらも楽しそうだった。オルテス子爵は無理に近づかず、リーナが安心できるように合わせている。だから、なおさら腹が立った。


 強引で、不作法で、リーナを困らせる男ならよかった。そうすればすぐに引き離せた。だが、彼はリーナを丁寧に扱っていた。リーナも、警戒を解いているように見えた。


 その後、リーナとオルテス子爵が何度か会っていると聞いた。気分は最悪だった。しかもリーナは、彼との時間に少しずつ慣れているらしい。母上は「あなたがのんびりしているからよ」と言った。返す言葉もなかった。


 そのあとで、リーナがオルテス子爵に格式ある舞踏会へ誘われたと知った。


 オルテス子爵が本気でリーナを望むなら、どうする。リーナがそれを受け入れたら、どうする。考えただけで、平静ではいられなかった。


 だが、リーナが私に相談してくることはなかった。当然だ。彼女は私を、いまだに『お坊ちゃま』だと思っている。婚約相手を探す話を、私にするはずがない。


 舞踏会当日、会場に着くと、すぐにリーナを探した。


 彼女はオルテス子爵とともに広間へ入ってきた。少し緊張した顔をしていたが、彼の隣で大きく乱れることはなかった。その様子を見て、胸の奥に重いものが沈む。


 けれど、私が動くより先に、リュシェル侯爵令嬢が動いた。


 彼女はリーナに近づき、噂を持ち出した。リーナが男漁りをしている。夜な夜な男が出入りしている。


 そんなくだらない噂は、すでに私の耳にも入っていた。だが、くだらない噂ほど広まりやすい。誰かが意図的に流していることは明らかだった。


 そして、あの場でリュシェル侯爵令嬢はそれを利用した。自分のドレスを裂き、リーナがやったのだと訴えた。


 リーナの顔から血の気が引いていくのが見えた。違う、と彼女は言った。だが、周囲の視線は最初からリーナを疑っていた。


 噂が先に広まっていたせいだ。彼女は、否定しても信じてもらえない場所に立たされていた。


 その瞬間、私は我慢をやめた。


「リーナ」


 名を呼ぶと、人垣が割れた。リーナがこちらを見る。泣いてはいない。けれど、今にも折れてしまいそうな顔をしていた。


「ユリウス様……」


 私は彼女の前まで行き、まず顔を確かめた。


「怪我は」


「ありません。ですが」


「ならいい」


 本当はよくない。だが、彼女が怪我をしていないなら、まずはそれでいい。


 私はリュシェル侯爵令嬢へ視線を向けた。


「リュシェル侯爵令嬢。今の話を、もう一度聞かせてもらえるか」


 彼女は瞳を潤ませ、私を見上げた。


「はい。ヴィルチェ様が、私のドレスを裂いたのです。私とユリウス様の仲を邪魔したかったのでしょう」


「私と君の仲?」


 声が冷えるのが、自分でもわかった。


「はい。私たちの仲を嫉妬したんですわ」


「私と君の仲を?」


 彼女は頷いた。


 私は大きく息を吐き、静かに周囲を見回した。


「まず、私とリュシェル侯爵令嬢とはそんな仲ではない」


 広間が静まり返った。リュシェル侯爵令嬢の顔色が変わる。


「ユリウス様……?」


「それから、勘違いしているようだが、リーナ・ヴィルチェ嬢のもとへ夜な夜な足繁く通っている男とは、私のことだ」


 隣でリーナが息を止める気配がした。


 きっと、私が彼女をかばうために嘘をついたと思っているのだろう。事実、夜な夜な通っているわけではない。


 だが、彼女を守るためだと言えば、リーナはまた勘違いする。きっと私を『お坊ちゃま』の枠へ戻してしまう。


 だから、守るだけでは足りなかった。逃げ道をふさぐ必要があった。


「彼女は、私の婚約者だからな」


 そう告げた瞬間、広間が凍りついた。リーナも固まっていた。予想通りだった。


 だが、あれだけ大勢の前で言えば、彼女も簡単にはなかったことにできない。私も、もう引くつもりはなかった。


 リュシェル侯爵令嬢は、自分で流した噂だと口を滑らせた。さらに、ドレスを裂くために使った刃も隠しきれなかった。それで十分だった。


 私は彼女を追い詰め、広間から下がらせた。あとは正式な場で話をすればいい。


 そして、リーナへ向き直る。やり方が強引だったことはわかっている。だが、あの場で婚約者だと告げた以上、彼女はもう簡単には逃げられない。


 リーナを守るためだった。けれど、それだけではない。私はずっと、彼女を誰にも渡したくなかった。


 その後は、オルテス子爵に礼を告げ、リーナを連れて広間を回った。彼女が誤解を解く機会を探していることには気づいていたが、与えるつもりはなかった。


 屋敷に戻ってから、リーナには当然のように説明を求められた。


 彼女は最後まで納得していない顔をしていたが、私は引かなかった。君は婚約相手を探していた。私は君と婚約したい。それなら、なにもおかしくないだろうと、半ば強引に押し切った。我ながら、ひどいやり方だったと思う。


 それでも、リーナは最後には折れてくれた。


 それから数日が経ち正式に婚約を発表する日、彼女は私の隣に立っていた。あれほど強引な始まりだったにもかかわらず、今はどこか照れたように、幸せそうに微笑んでいる。その顔を見た瞬間、胸の奥にあった不安がようやくほどけた。


 しばらくして、セドリック・オルテス子爵が私のもとへ歩み寄ってきた。


「婚約、おめでとうございます」


「ありがとう」


 そう返すと、オルテス子爵は少しだけ苦笑した。


「正直に申し上げると、私はお二人に少々やきもきしておりました。大きなお世話かもしれませんが、あの舞踏会で、ヴィルチェ嬢にあなたのことをお話ししようと思っていたのです」


「私のことを?」


「はい。ですが、私の取り越し苦労だったようです」


 オルテス子爵は穏やかに一礼した。


「君には、最初から気づかれていたらしいな」


「握手を交わしたときに、少しだけ」


 そう言われて、夜会で彼の手を握ったときのことを思い出した。あのとき、私は思わず手に力を込めた。彼は一瞬だけ動きを止めたが、なにも言わなかった。


「余計なことをしないでくれて助かった」


「邪魔をするつもりはございませんでしたから」


 オルテス子爵は、もう一度リーナへ視線を向けた。


「ヴィルチェ嬢がお幸せそうで、なによりです」


 その言葉に、私は自然とリーナを見た。彼女は私の視線に気づいたのか、こちらを振り返る。


「ユリウス様?」


「いや。君が笑っていると思って」


「……笑ってはいけませんでしたか?」


「まさか」


 そんなはずがない。私はずっと、この顔を自分の隣で見たかった。


 リーナはまだ、私がどれほど長く彼女を想っていたのかを知らない。どれほど焦がれて、どれほど待って、どれほど遠回りしたのかも、きっとわかっていない。だが、それでいい。これから、いくらでも伝えられる。


「逃げようとしても、もう遅いからな」


 リーナは一瞬目を丸くし、それから困ったように私を見上げた。


「……逃げません」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。


「なら、よかった」


 もう、『お坊ちゃま』と呼ばれるだけの距離には戻らない。これからは、彼女の隣に立つ男として、リーナを愛していく。



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