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聖女じゃないです。清掃員の清城です。  作者: 荒瀬 維人


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第20話 聖女の資格

 自分がいないだけで回らない仕組みは、奇跡じゃなく欠陥だ。


 療養所の部屋は、雨上がりの湿った匂いで満ちていた。


 誠司は寝台の上で半身を起こし、窓際に干された布の影をぼんやり見ていた。身体の重さは昨日より少しましだが、深く息を吸うと胸の奥が鈍く痛む。瘴気そのものは引いても、吸い込みすぎた痕は簡単には消えないらしい。


 暇だろうと思っていた療養は、実際には暇どころではなかった。


 現場へ行けない。


 それだけで頭の中に、未回収の汚泥や開ききっていない排水口や、濡れた布を放置したままの洗い場が次々浮かぶ。眠っても夢に出る。起きれば、今度は実際の報告が届く。


 しかもその内容は、だいたい夢より悪い。


 昼前、扉が二度叩かれた。


「入ります」


 リュシエンヌの声とともに、紙の束を抱えた彼女が部屋へ入ってくる。後ろからガロも続き、濡れた靴のまま遠慮なく壁際へ立った。


「持ってきました」


「嫌な予感しかしない言い方ですね」


「半分は外れです」


 そう言って机へ積み上げられたのは、記録板、走り書きの羊皮紙、薬剤袋の裏、封筒の端。見覚えのありすぎる紙の群れだった。


 誠司は片手で額を押さえる。


「……捨てたと思ってたんですが」


「捨てていませんでした」


 リュシエンヌが即答する。


「むしろ、あちこちに挟んでありました。規則性はありませんが、内容はあります」


「規則性がないのが一番困るんだよな」


 ガロが鼻で笑った。


 誠司は紙束を引き寄せる。そこには自分の字で、ぶっきらぼうな指示が散らばっていた。


『先に出口』『濡れ布は別』『臭いが消えても三日換気』『寝床と洗い場を近づけるな』『井戸は上流側から並ばせる』


 一枚ずつならただのメモだ。


 だが束になると、それは現場の失敗と改善の履歴だった。


「昨日と今日で、再汚染が七件」


 リュシエンヌが淡々と告げる。


「重症者は出ていませんが、このままでは数日で戻ります」


 誠司は息を吐いた。


 予想より少しましで、予想通りに悪い。


「原因は」


「大半は手順抜けだ」


 答えたのはガロだった。


「掻き出した泥の置き場が決まってねえ。濡れもんと乾きもんを一緒に積む。臭いが薄くなった時点で換気をやめる。人を奥まで入れすぎる。どれも見りゃわかる。でも、見りゃわかるのはおまえだけだった」


 最後の一言が、妙に重かった。


 誠司は紙束から目を上げられなかった。


「俺は、現場で説明してたつもりでした」


「していました」


 リュシエンヌが言う。


「ですが、あなたは説明しながら自分で直してしまうんです。私たちは理解する前に、“片づいた結果”だけを見ることが多かった」


 反論できなかった。


 たしかに、急いでいた。急がなければ悪化する現場ばかりだった。人手も足りず、悠長に教えている余裕などないと思っていた。


 だから自分で先にやる。


 先に片づける。


 先に汚れへ触る。


 その結果、自分が倒れたら止まる。


 それはたしかに、欠陥だった。


「神殿は今日も、“儀式の浄化が王都を守っている”と触れ回っています」


 リュシエンヌの声は静かだが、温度は低い。


「けれど現場では違う。守っているのは、毎日の確認と搬出と隔離です。なのに、それを再現できる形で残せていない」


「だから、まとめることにした」


 ガロが椅子も使わず、壁に寄りかかったまま続けた。


「井戸なら井戸、洗い場なら洗い場で、最初にどこを見るか、何を分けるか、何人まで奥へ入れていいか。そういうのを紙にする。神殿嬢が分類して、俺が現場の言葉に直す」


 誠司はようやく顔を上げた。


「もう、始めてるんですか」


「始めないと間に合わねえ」


「あなたが寝ている間にも、街は汚れますから」


 容赦のない言い方だった。


 でも、その通りだ。


 誠司は少しだけ笑う。


「厳しいですね、二人とも」


「今さらです」


「倒れたやつにはちょうどいい」


 そう返されて、逆に肩の力が抜けた。


 しばらく三人で紙を仕分ける。


 内容の重複、場所ごとの差、応用できる共通項。誠司が口にすると、リュシエンヌが書き留め、ガロが「それじゃ現場で通じねえ」と言い換える。


『換気を徹底』は、『臭いが消えても窓を閉めるな』になる。


『汚染物の二次接触防止』は、『汚れた手で子どもに触るな』になる。


 その変換を見ているうちに、誠司は妙な敗北感と安堵を同時に覚えた。


 自分一人では、ここまで言葉を落とせなかった。


 神殿の理屈と、現場の理屈。


 その両方が噛み合って、ようやく誰にでも使えるものになる。


「今朝、神殿でこんな言葉を聞きました」


 不意に、リュシエンヌが手を止めた。


「“聖女の資格とは、人々を安心させる姿であること”と」


 誠司は眉を寄せる。


「またずいぶん便利な定義ですね」


「ええ。便利です。汚れが残っていても、安心して見えるなら構わない、と言い換えられますから」


 彼女の声には珍しく、はっきりと棘があった。


「私はずっと、その考えの中にいました。整った祭壇、正しい祈り、誰も不安にさせない微笑み。それが救いの条件だと教わってきた」


 そこで一度言葉を切り、机上の汚れた紙束へ視線を落とす。


「でも今は違うと思います。救う資格があるかどうかは、綺麗に見えることではなく、汚れが戻らない形を残せるかどうかです」


 誠司は返事をしなかった。


 できなかった、という方が近い。


 自分は聖女ではない。そんなものになる気もない。けれど誰かが勝手に、資格だの象徴だのを語る場所の外側で、自分もまた別の思い込みに囚われていたのかもしれない。


 一番汚れる役を引き受けることが、いちばん誠実だと。


 誰より早く消耗することが、いちばん役に立つことだと。


 けれどそれは、残る側の理屈ではない。倒れた瞬間に途切れる働き方は、守るための形になっていない。


「これ……俺がいなくても、回りますね」


 ぽつりと漏らすと、ガロが即座に言った。


「最初からそうしろって話だ」


 だがリュシエンヌは、少しだけ表情をやわらげた。


「正確には、あなた“だけ”で回さない、です」


 誠司はその言葉を反芻する。


 いなくても回る。


 それは自分の価値が薄まることだと、どこかで思っていたのかもしれない。役に立つには、誰より先に汚れへ手を突っ込まなければならない。自分で触れなければ、間に合わない。


 そう思い続けていた。


 けれど実際には、その考え方こそが街を危うくしていた。


 一人の働き手が倒れただけで崩れる現場は、守れていないのと同じだ。


 誠司は寝台脇の水杯を取り、一口だけ飲んだ。喉の奥にまだ痛みはある。だが頭の中は、久しぶりに少し澄んでいた。


「やります」


 短く言うと、ガロが眉をひそめる。


「寝ろって意味で来たんだが」


「現場には行きません。文書化です」


「それなら賛成です」


 リュシエンヌが即答した。


「あなたは口述してください。私が整理します。ガロさんが実地で使える形に直す。今日から役割を分けます」


 役割。


 その言葉は、思ったより胸に落ちた。


 自分が全部背負うのではなく、背負える形に分ける。


 それは逃げではなく、次へ渡すための仕事だ。


 誠司は机上の紙束の一番上を取り、指で叩いた。


「まず、共通手順から。現場に入る前の確認、出口の確保、汚れの種類分け、換気、子どもと病人の導線分離。場所ごとの差はそのあとで」


「はい」


「おう」


 二人の返事は短いが、前よりずっと頼もしく聞こえた。


 窓の外では、雨雲の切れ間から薄い陽が差し始めていた。


 街はまだ不安定だ。神殿は相変わらず手柄を飾り、王都の構造は少しもやさしくない。自分の身体だって、明日すぐ元に戻るわけではない。


 それでも、前とは一つ違う。


 次は一人で立たない。


 立ち上がるなら、回る仕組みごと立ち上がる。


 誠司は新しい紙を引き寄せた。


 その一行目に書くべき言葉は、もう決まっている。


『一人でやるな』


 短くて、不格好で、けれど二度と欠けてはいけない一文だった。


 たぶんそれが、どんな祈りより先に必要な、現場を守る資格だった。

最後までありがとうございました!


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