母を求める悪魔
――もう、終わりにしよう。
そう思った瞬間、少女の心は不思議なほど静かだった。
しがない貧乏貴族の娘。
母は幼い頃に亡くなり、父は再婚した。
後妻と少女は決して噛み合わず、やがて生まれた待望の跡継ぎに父の関心はすべて移った。
食卓で交わされる会話に、自分の名前はない。
視線も、言葉も、居場所もない。
――私は、いらない子。
涙を零しながら、少女はテーブルの上のナイフを手に取った。
震える手で首元に当て、力を込める。
その瞬間。
「……マァァァ……マァァァァ……」
赤子の泣き声が、確かに聞こえた。
幻聴だろうか。
首筋に走る痛みと熱、溢れる血。意識が遠のいていく中、それでもその声は、はっきりと“近く”から響いていた。
床に倒れ伏した少女の視界に、それは現れた。
――真っ白な、巨大な幼虫。
三十センチほどの大きさ。
ぬめりを帯びた体で、少女の血溜まりに身を浸し、嬉しそうに啜っている。
モゾモゾと動いたそれが、つるりとした頭部をこちらに向けた。
先端が花開くように割れ、内側にはびっしりと細かく鋭い牙が並んでいる。
口の奥から、昆虫の脚を組み合わせたような右手がズルリと伸び、少女の唇に触れた。
その感触に、魂が穢されるような嫌悪が走る。
――ああ、これが。
悪魔。
理解した瞬間、叫びたかった。
だが、身体はすでに死に向かっており、声は出なかった。
悪魔は這い上がり、少女の頬を登り、左目をじっと見下ろす。
そして、吸い付いた。
眼球が潰れ、視界が暗転する。
ズルズルと、眼孔から中へと侵入してくる感触。
脳を、内側から食い荒らされていく。
――やめて。
口は動かない。
手も、指も、唇も、動かない。
ぐじゅり、ぐじゅりと何かを食われるたび、
自分が削られていく感覚があった。
やがて理解する。
それは、記憶だった。
名前。
幼い頃の母の声。
一度だけ褒められた日のこと。
少女を少女たらしめていたすべてが、奪われていく。
「ああ……家族に認められなかったのね。悲しいね」
声がした。
それは、少女自身の唇から発せられていた。
「でもね、あんなのママじゃないよ。
私のママは、もっと優しかったもの」
少女の意志とは無関係に、言葉が紡がれる。
「ママはね、人間が好きなの。
だから……貴女の身体、頂戴」
脳に張り巡らされた“何か”が、全身へと広がっていく。
針金を内側から通されるような、耐え難い違和感と痛み。
「痛かったよね?ごめんね?」
悪魔は、甘えるような声で言った。
「でもね、その苦痛と絶望……とっても美味しそう。
こっちに来るのに力を使い切っちゃったから……食べちゃうね」
少女の魂は引きずり出され、
昆虫の脚でできた右手に掴まれ、そのまま悪魔の口内へ。
小さな牙が一斉に動き、
魂は粉々に砕かれ、永遠に続く苦痛へと変えられた。
血溜まりに倒れていた身体が、むくりと起き上がる。
口から這い出た細い右手が、裂けた首元へ白い糸を伸ばし、縫い留めていく。
「あはっ……これが人間の身体」
若草色のドレスを着た少女の姿で、悪魔は笑った。
「これなら……ママに愛してもらえる。
ママに育ててもらえる。
ママに、会える」
床に落ちていたナイフを拾い上げ、
階下で団欒を楽しむ家族のもとへ、軽やかな足取りで向かう。
――後日。
とある地方の貴族の屋敷で、家族と使用人全員が忽然と姿を消した。
そんな記事が、新聞を賑わせた。
「お嬢ちゃん、一人でお出かけかい?」
「ええ」
馬車に乗り込む少女は、にこにこと微笑む。
「ママに会いに行くの」
それが、
悪魔ミアンゾが“母”を求めて歩き出した、最初の日だった




