第六話 読む悪魔と生きる悪魔
部屋の中に、ほんの僅かだが異質な匂いが混じった。
悪魔の瘴気だ。
マロティの隣で添い寝をしていたネルフィリアは、眠る娘の規則正しい呼吸を聞きながら、そっと眉を動かした。
娘を起こさぬよう、背中から伸びた触手が静かに布団を持ち上げる。
ベッドから床へ降りる動作には、一切の迷いも音もなかった。
扉に手をかける前、ネルフィリアは一度だけ振り返る。
安らかな寝顔。
無防備な喉元。
小さな手。
守るべきものを視界に刻み込み、扉を開けた。
ネルフィリアは基本的には無害な悪魔だ。
それは生来の性質ではない。
「子を育てる」という執着が、そうさせているだけだ。
悪魔とは本来、人に仇なす存在。
人ならざるもの。
この瘴気を漂わせている者は――
マロティにとって、害にしかならない。
判断は一瞬だった。
固い木材が砕けるような音と共に、頭部の角が歪み、伸びる。
指先からは黒曜石のような鋭利な爪。
背中の触手は倍に、さらに倍へと伸び、闇の中で蠢いた。
母である前に、悪魔としての姿。
その闇の奥から、声がした。
「あらあら」
柔らかく、楽しげな声。
「そんなに怖い顔して、どうしたのネル?」
闇がほどけるようにして、ひとりの女が姿を現す。
月明かりを必要としないほど整った輪郭。
人の理想をなぞったような、絶世の美女。
ネルフィリアは一瞬で理解した。
「……ティティ」
戦闘形態を解くことなく、名を呼ぶ。
「ティティアンティール。何しに来たの?
確か、どこかで引きこもっていたんじゃなかった?」
「ええ、そうよ」
女は肩をすくめる。
「私のために物語を集めてくれる国で、毎日書庫にこもってる」
楽しげに微笑みながら、続ける。
「でもね。その国の騎士様が、山で珍しい母娘に会ったらしいの」
ネルフィリアの脳裏に、先日出会った騎士の姿がよぎる。
警戒と困惑が入り混じった視線。
「……そう」
低く息を吐く。
「貴女が滞在している国だったのね。
安心して。テリトリーを荒らす気はないわ」
触手が、わずかに揺れる。
「知ってるでしょ?
私はただ、我が子と穏やかに暮らしたいだけなの」
「ええ、知ってるわ」
ティティアンティールは頷いた。
「私も別に、それを咎めに来たわけじゃないの」
一歩、距離を詰める。
「……知ってるでしょう?
私の執着を」
ネルフィリアの目が細まる。
「感情を……結末を理解したい」
確かめるように。
「そう、そうなのね?」
「ええ」
即答だった。
「初めて子に受け入れられた、哀れな母悪魔と悪魔を母と慕う娘の物語」
その瞳は、欲に輝いている。
「私はそれを読みたい。観測したいの」
ネルフィリアは、短く笑った。
「……貴女は、ただ読むだけでは済まないでしょう?」
声音に、僅かな怒りが混じる。
「現にこうして、局面を動かそうとしている」
触手が、ゆっくりと女を囲む。
「それはもう、読み手でも観測者でもないわ」
ティティアンティールは、困ったように首を傾げた。
「でも、物語って」
微笑む。
「誰かが頁をめくらなければ、進まないでしょう?」
その言葉が、夜の中に沈んだ。
そして、続ける。
「それにね。私はただ、提案に来ただけ」
軽い口調とは裏腹に、その声は核心を突く。
「こんな山奥で隠遁していては、貴女の愛し子に
人間の友達も、番いになる人間の雄もできないでしょう?」
ネルフィリアの触手が、ぴくりと震えた。
「既に、あの騎士によって王には知られているわ。
貴女の存在――侯爵級悪魔が、ここにいること」
間。
「王都に来なさい」
空気が、張り詰める。
「来なさい……?」
ネルフィリアの声が低くなる。
「ティティ。貴女が?
たかが伯爵級如きが、この私に命令するの?」
ミチミチと、肉が裂ける音。
ネルフィリアの口が大きく裂け、角が捩じれ、枝分かれしながら太く長く伸びていく。
人に化けることのできない彼女が、膨大な魔力で無理やり人に近づけていた姿が崩れ、
本来の――悪魔の姿へと近づいていく。
「……なるほど」
ティティアンティールは、感心したように呟いた。
「そうやって魔力の大半を使って、悪魔の理を捻じ曲げていたのね」
「下級悪魔でもできる変化に、侯爵級の貴女が魔力の大半を費やすなんて」
微笑みが、ほんの少しだけ冷える。
「神の呪いは、本当に忌々しいわ」
そして、肩をすくめた。
「でも、命令に聞こえたのなら謝るわ。これは提案」
「同時に――王国からの正式な誘いでもあるの」
人に積極的に害をなさない悪魔。
人の倫理と社会性を理解し、友好的ですらある存在。
それは、王国にとって“使える”存在だった。
「上級悪魔が二人、王都にいる」
「それは、とても……そう、とてもメリットのあることなの」
ネルフィリアは、沈黙した。
敵国が侵攻すれば、マロティを守るために力を振るう。
ティティアンティールは、恐怖と絶望を観測し、最後にだけ介入する。
同じ悪魔。
だが、守るものが違う。
「利用する気ね。でもそううまくいくかしら?
上級悪魔の私たちが居ればすぐに消えてしまうとはいえ最下級の悪魔が現世で大量に発生してしまうわよ。」
「でしょうね。でも王都は私の糸が張り巡らせてあるわ。 執着も得ていないような悪魔程度簡単に消せるわよ?」
ティティアンティールもネルフィリアも存在しているだけでその身体から溢れる瘴気により悪魔を生み出してしまう。 ネルフィリアはマロティに害が及ばないよう発生するたびに周囲の悪魔をこっそりと駆除していた。
「……貴女の処理能力を、超えなければいいけど」
「ふふ」
「私は早く伝えたかっただけよ」
「数日後には、あの騎士が来るわ。王都への招待を告げに」
「それじゃあ――次は、王都で」
人の姿に走る罅。
糸がほどけ、解れ、崩れ落ちる。
現れたのは、巨大な蜘蛛。
前腕の四本の手で印を結び、悪魔の言葉で呪文を唱えると、
その姿は夜に溶けるように掻き消えた。
残されたのは、静寂と――
選択を迫られた母悪魔だけだった。




