2話 森にすむ母は人を拒まない
肉の焼ける香ばしい匂いに、マロティは目を覚ました。
跳ね起きるようにベッドを降り、サンダルを引っかけると、小屋の奥――朝食を作っているであろうネルフィリアのもとへ駆けていく。
「おかあさん、おはよう。いい匂い……お肉?」
「もうすぐできるわよ。昨日ね、ちょうど美味しそうな鹿がいたの」
くるりと振り向いたネルフィリアは、悪魔とは思えないほど柔らかな笑顔を浮かべていた。
「顔を洗ってきなさい。すぐ食べられるわ」
「お母さん、また一人で狩りに行ったの? 夜の森は暗くて危ないよ」
「ふふ。おかあさんは強いのよ。魔術も、たくさん使えるでしょう?」
「うん。すごいよ」
「……でもね」
ネルフィリアは一瞬だけ目を細める。
「おかあさんにも、できないことはたくさんあるの」
薄く切った魔獣の肉を皿に盛り、テーブルへ並べると、再びマロティに顔を洗うよう促した。
身支度を整え、若草色のワンピースに着替えたマロティは、食卓につく。
人に恐れられる姿である以上、ネルフィリアは市場に出ることができない。
食料は森の恵みと狩りに頼るほかなかった。冬になれば、その選択肢はさらに狭まる。
「……そろそろ野菜も少なくなってきたわね」
保存のきく芋類と、長い年月の知識で維持された温室。
それでも限界はある。
「ねえ、おかあさん。このお肉、売って野菜と交換できないかな?」
「それができたらいいのだけれど……お母さんは、この姿だから」
「怖くないのにね」
「ありがとう。でも――」
ネルフィリアは微笑んで話題を切り替えた。
「食べ終わったらお勉強しましょう。今日は何にする?」
数千年を生きる大悪魔は、失われた古代魔術から貴族の礼法まで、あらゆる知識を持っていた。
それを少しずつ、マロティに教えている。
まだ六歳ほどの少女だが、知識だけなら見習い魔術師に劣らない。
使えるのは自身の魔力をほとんど消費しない印章魔術のみだが――その内容は、人間の魔術体系から逸脱した秘術ばかりだった。
「おかあさん、今日は沢に行こうよ。キラキラした石がたくさんあるところ」
「ええ、いいわ。でも、絶対に私のそばを離れないこと。魔獣も多いからね」
「うん!」
枯れ枝を踏み折りながら歩いた先、沢の周囲には水晶のような魔晶石が無数に生えていた。
本来、魔力溜まりでしか生じないはずの結晶。
ここにこれほど集まっている理由を、マロティは知らない。
――この地に、大悪魔が棲んでいるからだ。
掘り進めれば、禍々しい色の魔瘴石が出るだろう。
「わあ……前より増えてる!」
「そうね。でも川には近づかないで。水は冷たいし、流れも強いから」
そのときネルフィリアの耳が、遠くの音を捉えた。
剣戟。
魔獣の咆哮。
人の声。
騎士たちだ。
本当なら、すぐに離れるべきだと分かっている。
だが――マロティの楽しそうな背を見て、ネルフィリアは動かなかった。
「おかあさん、見て! こんなに大きいの!」
両手で抱えられる、ぎりぎりの魔晶石を持ち上げてくる。
「すごいわね……」
ネルフィリアはしゃがみ込み、優しく頭を撫でた。
「本当に、よく育っているわ」
その言葉に、別の意味が含まれていることを――
まだ、誰も知らない。




