第8話:宰相閣下の後ろ盾
私と沈の間に、不本意ながらもうつくしいとは言えない協力関係が結ばれた翌朝、彼は再び私の元を訪れた。いつもと変わらぬ硬い表情。だが、その瞳の奥には、どこか安堵の色が浮かんでいるように見えた。
「凛殿、朗報です」
彼はそう切り出すと、一枚の羊皮紙を私に見せた。それは、宮廷の書庫への自由な立ち入りを許可するという、特別な印が押された許可証だった。通常では、私のような人質の王女はおろか、一介の官吏である彼ですら、決して手に入れられない代物だ。
「一体、これをどうやって? 一晩で、このようなものを手配できるとは、あなたもなかなか有能なのですね」
「私一人の力ではありません。事の重大さを鑑み、昨夜のうちに、私が信頼する唯一の上司に、事態の全てを報告いたしました」
私のわずかな賞賛の言葉にも、彼は表情を崩さない。
「唯一の、ですか。あなたが、その規則とやらを曲げてまで信頼を置くとは、よほどの方と見えますが」
私の問いに、沈は少し誇らしげに、しかし声を潜めて答えた。
「ええ。」
彼が口にした名は、この蒼龍帝国において、皇帝に次ぐ権力を持つと言われる人物。
「帝国宰相、季 浩然閣下です」
宰相・季 浩然。若くして宰相の地位に就いた稀代の切れ者で、穏健派として知られる。西方の出身であり、その一族は古くは地相を読んでいたという。私も名前だけは聞いたことがあった。
「なぜ、宰相閣下が私の報告を信じてくださったか、不思議に思いますか? 閣下は、私がまだ何者でもなかった頃から、私という人間の本質を見抜いてくださっていた、唯一の方なのです」
彼の口調に、わずかな熱がこもる。
「私が科挙を首席で合格した際の最終試験官が、若き日の閣下でした。私の答案に見たのは、知識ではなく、そこに宿る『法の下の正義』という意志だと、後にお言葉をいただいた。以来、閣下は私の非公式な後ろ盾となり、宮中の派閥争いから私を守り、自由に動ける立場を与えてくださっているのです」
だからこそ、彼は今回の「法を超えた」異常事態を、他の誰にも相談せず、真っ先に宰相の元へ持ち込んだのだ。
「昨夜、私が宰相府へ参上し、凛殿が発見した瘴気入りの魔石を献上すると、閣下はしばし無言で、そのうつくしくない靄を眺めておられましたが……」
沈は、その時の様子を思い出すように、一度目を伏せた。
「『ほう、翠明の姫か。かの国の術は、古の調和の理を最も色濃く残していると聞く。その術の使い手が言うのなら、ただの庭師の怠慢ではあるまいな』。
そう仰ってから、
『……なるほど。これが、後宮の秩序を乱すものの正体か』と、一言だけ。そして、こう続けられました。
『沈、よくぞ私の元へ直接持ってきてくれた。もしこれが、軍部の趙大将軍のような急進派の耳に入れば、格好の口実を与えかねん。後宮に不穏の兆しあり、と。治安維持を名目に、己の兵を宮中に入れるためのな。事が大きくなる前に、穏便に、そして迅速に解決せねばなるまい』と」
趙大将軍。帝国の武の象徴であり、周辺諸国への強硬姿勢を隠さない、軍閥の領袖。宰相とは、政治的に対立する立場にあると聞く。
「閣下は、私の報告を極めて真摯に受け止め、この件の極秘裏の調査を、全面的に支援すると約束してくださいました。この許可証は、その証です」
沈は自信に満ちた表情で語る。彼の言葉通り、これは大きな前進に違いない。これで、私の研究も格段にはかどるだろう。
一介の官僚である沈の報告を、国の宰相がここまで全面的に信頼し、支援する。それは、彼の能力と人望が、それだけ厚いということなのだろう。
「(対応が早いですね。あまりに、うつくしすぎるほどに。さすがは、有能な宰相閣下、というところですか。いえ、そんなことより今は、調査に集中すべきですね)」
私は頭を振り、小さな疑念を思考の隅に追いやった。
目の前には、帝国の闇へと続く扉が開かれようとしている。今はただ、その先に待つ真実に向かって、進むしかないのだから。




